メッセージ。 - にゃー
# にゃー
人はなぜカメラが欲しくなるのか。いや、もっと正確に言うと「ぼくはなぜカメラやレンズが欲しくなるのか」。このシンプルな問いへの答えを整理したいので書いてみる。
「カメラがほしい」。ある程度のカメラ好き、あるいはある種のカメラ好きであれば、飢えた獣のように日々新しい機材を求めてネットやフィールドをさまようこの気持ちが理解できるだろう。人はなぜカメラやレンズが欲しくなるのか。
いろんな意見があるだろうけど、「もっといい写真が撮りたい」「撮れた写真が満足いかない」というところに原点があるように思う。高いカメラを買うと、ちょっとだけいい写真が撮れる。でも、「すごくいい写真」というのはほとんど撮れない。せっかく高いカメラを買ってもいい写真が撮れないのはなぜだろう?そこを起点に、人々は「レンズが悪かったんじゃないか?」「あっちのカメラだとどう撮れるんだろう?」と深みにはまっていく。
いい写真に必要なものは、たくさんある。被写体、被写体との関係性、光、タイミング、撮り手の感性、状況、技術、レンズ、三脚、カメラなど。こういった要素のうち、ある程度がそろったらいい写真が撮れる(はず)。しかし、たとえいい写真が撮れたとしても撮る人間の側が「もっといい写真が撮りたい」とゴールを遠くに持ち続ければ、結局のところはいつまでたっても乾きを癒せずさまようことになる。
どこまでのものを目指すのか、どのレベルまで到達すれば満足できるのか。そういった目標や要件の定義をすればよいのだろうが、あえてそれをしないで楽しむのがアマチュアの醍醐味でもある。趣味でやっているのだから愉しめばよいのだ。ゴールにたどりつくことが目的ではなく、そこを目指す過程を楽しむことが趣味の大きな目的の一つだと思う。
ちょっと話が脱線した。なぜぼくはカメラやレンズが欲しくなるのか。そういったいろんな要素の中に、たしかにカメラやレンズといった機材も含まれる。カメラやレンズが変われば撮れる写真も変わる。だからいろいろ試してみたくなる。ただ、難しいのは「これで解決だ」という唯一無二の解があるわけではないのに、人がそれを求めてしまいがちだということだ。
たとえばフルサイズが良いのか、APS-Cやマイクロフォーサーズ、もっといえばコンデジやスマホでも問題ないのか等。冷静な答えは「あなたの目的や状況による」となる。一般的に、フルサイズのほうがダイナミックレンジが広く、高感度耐性が高く、高解像度の写真が撮れる。しかし同じフルサイズでも機種によって得手不得手があるし、センサーサイズにかかわらず「あのカメラにできることがこのカメラにはできない」といった状況がよく起こる。要はたくさんのパラメータがあって、「どっちが良いか」は一言でいえない。「良さ」の指標を一次元の値にまで落とし込めない。どっちが強いとかどっちが弱いとか比べたくなるのが人情ではあるが、事態は単純ではない。
だからあのカメラにもこのレンズにもいいところがある。あれもこれも欲しくなる。あんな条件だったらこの組み合わせ、このシチュエーションならこの機材が必要だと、目的に応じて必要なセットをそろえてしまうのがいいのかもしれない。お金や時間や保管スペースが有り余るほどあるのなら。
だけど現実的にはお金も保管スペースも有限だし、どんなに機材を持っていたって一度にシャッターを切れるカメラはせいぜい一台だ、少なくとも現代の一般人が手にできるコモディティ化されたテクノロジーでは。たくさんの機材を持ち運ぶのはつかれるから現実的ではないし、だれだって重いものを持ち運びたくない。取捨選択が必要になる。じゃあどれにするか。あるいは「どれとどれにするか」。
昨今ではフルサイズのミラーレスカメラが市場をにぎわせている。たしかにフルサイズであれば大きなボケが得られるし、高感度耐性も基本的には高く、解像感も高いので、素人でもきれいな写真が撮れる傾向にあるといってよいだろう。ただ、フルサイズカメラにも重大な欠点があって、「価格が高い」「大きい」「重い」といった問題がある。プロであればこれらの条件に目をつぶってでも「でもこの機材でないと(必要なものが)撮れない」という判断もあるが、プロでない人にとって、とくに「大きい」「重い」という部分は看過できない問題だとぼくは思う。
もちろん、人によっては「全然大丈夫」という人もいるだろう。撮りたい絵や被写体によっては、重くて大きい機材でなければ不可能という素人もいる。けれども、少なくともぼくにとってはフルサイズはちょっと重すぎる。いや、実際のところα7CやSigma
fpといった小型・軽量を標榜する機種なら問題ないのかもしれない。でも、フルサイズ対応のレンズは大きく重くなる傾向にあるでしょう?それも、軽くて小型のレンズを選べばいいって?うーん、たしかにぼくの目的とするスナップ用途ではそういった選択肢もありだといえる。ただ、その2機種はまだちょっと価格が高いし、ぼくにとってはファインダーが足りないんだよなー。ソニーは以前持っていた機種が壊れやすかったのでまた壊れやすかったら嫌だなと思うし。
そんなふうに、考え始めるといろいろなパラメータが持ち上がってきて一筋縄ではいかない。結局のところはいろいろ試してみて失敗してみるしかないのだろう。その過程も楽しいものだ。個人的には、いろいろ使ってみていま感じることとして、「小さいカメラだからこそ撮れるものがある」「レンズはお気に入りのものが見つかるとそれをつけっぱなしで8割以上のシーンは大丈夫」ということだ。
前者についてはGoPROのようなアクションカメラを考えると分かりやすい。小さく軽く頑丈なカメラであれば、ファインダーを見ないでノールックで撮ることが普通だし、ハンズフリーでの撮影や棒の先につけての撮影、高いところや低いところ、被写体の間近に近づけての撮影なんかも簡単にできるようになる。フルサイズのような大きいカメラだと取り回しが悪いのでどうしてもこういったことがしにくくなる。いろいろなアングルを試してみるというだけでも、小さいカメラのほうが気楽に片手で振り回せるし、そういった機動性が写真につながったりする。それに、カメラというのは持っていないと写真が撮れない。持ち歩きがおっくうな機材では、持ち運んで撮るという意欲をそいでしまう。
後者については、たとえば換算28〜50mmぐらいの明るい単焦点レンズがあれば日常スナップを撮るほとんどのシーンをカバーできる(何ミリを主に使うかという焦点域の問題については、撮り手の趣味や被写体によって変わってくる)。ズームレンズではなく単焦点を使いたい理由については、単焦点のほうが明るいので屋内や夜でも使いやすいし、シンプルで割り切って使えるので迷いなく楽しんで使えて、なおかつ撮れる絵も良い(さらに比較的軽くて小さくて安い)という理由から。ただ、好みの問題なのでズームレンズがいいという人ももちろんいて良い。
ぼくの場合、超広角や中望遠や超望遠といったレンズもたまに欲しくなるけど、たまにしか使わないのならレンタルでもいいはずなのだと最近思う。つねにカメラに取り付けて毎日のように持ち運ぶレンズと、たまにしか使わないレンズ、同じようにお金を払って買ってもコストパフォーマンスに大きな違いが出てくる。レンズというのは使ってもほとんど消耗するわけではないので、使えば使うほど費用対効果が高くなる。
あるいは広角や望遠はコンパクトデジカメでも問題ないのではないか。レンズ交換式カメラといっても、必ずレンズをとっかえひっかえ交換しなければいけないわけではない。
だから、どういった写真が撮りたいのか、どの焦点域を使いたいのか、どれくらいの大きさと重さの機材がほしいのかを試行錯誤で見つけることが、プロでない人にとっての機材選びの1つの方法論になるのではないかと思う。そして一度お気に入りの機材を見つけてしまえば、多少のブレはあってもそこを軸に次を考えることができる。
フラッグシップ機が一番使いやすい(高性能・高機能な)のだから、初心者こそフラッグシップ機を買うべきという意見もある。たしかにフラッグシップ機はAFも早いし高感度も強く、高解像度で写真が撮れる。ファインダーやモニターや操作性もいいから撮り手にいろいろなことを教えてくれるだろう。だから「初心者こそフラッグシップ機を買う」という考え方も一理ある。ただ、じゃあ初心者が大三元のレンズに手を出すべきか、ぼくには分からない。
ぼく自身、フラッグシップ機も大三元も持っていないから真実は分からないけれども、想像だけでいえば大三元はぼくには大きすぎるし重すぎる。スナップ写真しか撮らないので。お出かけの片手間にちょっとだけ写真を撮るレベルの人に、フラッグシップ機+大三元のF2.8通しレンズというのはきついのではないか。逆にいうと、「そこまでしないといい写真が撮れない」ということなんだろうか。
野鳥や星景やスポーツの試合を撮るならフルサイズや高くて重いレンズが必要になる。でもそうでない「普通の」用途であれば、普通のカメラでもある程度撮れるはず。「普通の用途」というのは、要するにスナップ写真だ。普通の人が写真を撮りたいと思ったとき、典型的には家族や友達や日々の暮らしを思い出として残したいケースが多いように思う。だからスナップ用途のカメラこそが典型的な素人には向いているし、カメラを探している人が何を撮りたいのかと、じゃあどのカメラとどのレンズが適しているのかのマッチングをしっかりサポートすることが、ユーザーとの長期の関係を築きファンを増やすうえで(カメラメーカーにとって)大事だと思う。
単焦点レンズでスナップ写真を何年も撮ってきて思うのは、「換算35mmと換算50mmという近い焦点距離のレンズでさえだいぶ違う」ということだ。自分にとって、換算35mmのレンズで撮ると撮れる写真はスナップ写真になりがちで、換算50mmのレンズで撮るとポートレート写真みたいに撮れる。何が違うかというと、スナップ写真は背景やその場の状況も含めて写真に写ったもので、ポートレート写真は被写体となる人物がアップで切り取られる(背景は捨てられがちになる)。
もちろん換算50mmのレンズでも被写体から離れて撮れば背景を含めることができるので、換算50mmでスナップ写真を撮る人もいるし、逆に換算35mmで被写体にぐっと寄って背景を切り取ることもできる。スナップ写真にもいろいろあるし、ポートレートにもいろいろある。だから「35mmだからスナップ写真にしか使えないレンズだ」とは言えない。どちらもある程度は他の用途にも使える。ただ、一般論として、基本的な相性としては35mmレンズのほうがスナップ写真に向いていると思う。
じゃあ、スナップ写真とは何なのか。何が他と違うのか。「スナップ写真は背景やその場の状況も含めて写真に写ったもの」と書いたが、主題となる被写体(多くのケースでは人物だが)だけではなく、その被写体が置かれた状況(多くのケースでは被写体の表情、住む場所や訪れた土地、着ているものや持ち物など)もある程度含めて記録に残すものがスナップ写真なのだと思う。そして、思い出を記録するうえで、被写体そのものだけでなく「そのときに置かれた場所や状況も写る」ということが重要な要素だ。カメラのレビューサイトである人が書いていたが、「何年も何十年も経ってから写真を見返すと、そのときに住んでいた家の様子や家族の様子、好きだったもの、愛用していたものが写っていて泣きそうになる」ということがある。
写真というのは何十年も経ってから味が出てくることがあり、その際に背景まである程度写っていることが重要な調味料として働く。背景を大きく切り取ってしまったりぼかしてしまったりすると、そのための調味料が効かないのだ。スナップ写真というのは、往々にして撮れた瞬間には凡庸に感じるものかもしれない。それは単なる記録であって、芸術品ではないし作品ですらない。誰にも「いい写真だね」と言ってもらえない写真も多いだろう。けれども、何十年か経ってから見返すと、心動かされる写真になっていることがある。
なぜなら、そこには愛があるからだ。そこに写っている人や物や生活が、誰かの生きた証となっている。撮ったときには作品でも芸術品でもなかったただの写真に、美しい瞬間が封じ込められ、いつのまにかなにものにも代えがたい「いい写真」になる。多くの場合、普通の人にとって写真を撮る意味はそこにあると思う。
そう。写真を撮る意味。それがずっと、ぼくは分からずにいた。たいしたものが撮れているわけではないし、なんのために写真を撮るのかもはっきりしない。うまいわけでもないし、良い場所に行って綺麗な被写体を撮っているわけでも全然ない。「テーマを持って写真を撮るのが大事だよ」という人もいてなるほどと思うけど、テーマなんて考えたこともなかった。だから、ぼくの写真はとっ散らかっている。ただそのときどき目に映ったものが、なんとなく写真として残っていく。そんな無意味なものを、恥ずかしいような、悔しいような、諦めのような気持ちでそっと綴じている。悲しいことだけれども。
でもそんなのでもいいのかもしれない。だって、昔の写真を見返してみたら、案外いいんだよ。意味がないと感じている日々、無為に切られたシャッターのなかに、泣いたり笑ったりがんばったりした瞬間が残っていて、かつてそこに存在していたたくさんの命や時間や思い、願いや祈りが感じられる気がするから。
・・・なんの話だっけ?「ぼくはなぜカメラやレンズが欲しくなるのか」か。まぁそんな感じで。要するに「機材を求めるのはほどほどにしよう」と言いたい。自分自身に。軽くていつでも持ち運べるお気に入りのやつが1つあればいいじゃんと。一応、いまひとつお気に入りの機材が手元にあるので、それは古くてイマイチなところもあるけれども、かわいいやつだ。高級ではないし完璧でもない、型落ちの普及機だ。でもこいつで、いろんな写真を撮ることができた。いつも一緒につれていって、ほとんど壊れず、思ったときにシャッターを切らせてくれた。案外捨てたものでもないよね。
「カメラがほしい」。ある程度のカメラ好き、あるいはある種のカメラ好きであれば、飢えた獣のように日々新しい機材を求めてネットやフィールドをさまようこの気持ちが理解できるだろう。人はなぜカメラやレンズが欲しくなるのか。
いろんな意見があるだろうけど、「もっといい写真が撮りたい」「撮れた写真が満足いかない」というところに原点があるように思う。高いカメラを買うと、ちょっとだけいい写真が撮れる。でも、「すごくいい写真」というのはほとんど撮れない。せっかく高いカメラを買ってもいい写真が撮れないのはなぜだろう?そこを起点に、人々は「レンズが悪かったんじゃないか?」「あっちのカメラだとどう撮れるんだろう?」と深みにはまっていく。
いい写真に必要なものは、たくさんある。被写体、被写体との関係性、光、タイミング、撮り手の感性、状況、技術、レンズ、三脚、カメラなど。こういった要素のうち、ある程度がそろったらいい写真が撮れる(はず)。しかし、たとえいい写真が撮れたとしても撮る人間の側が「もっといい写真が撮りたい」とゴールを遠くに持ち続ければ、結局のところはいつまでたっても乾きを癒せずさまようことになる。
どこまでのものを目指すのか、どのレベルまで到達すれば満足できるのか。そういった目標や要件の定義をすればよいのだろうが、あえてそれをしないで楽しむのがアマチュアの醍醐味でもある。趣味でやっているのだから愉しめばよいのだ。ゴールにたどりつくことが目的ではなく、そこを目指す過程を楽しむことが趣味の大きな目的の一つだと思う。
ちょっと話が脱線した。なぜぼくはカメラやレンズが欲しくなるのか。そういったいろんな要素の中に、たしかにカメラやレンズといった機材も含まれる。カメラやレンズが変われば撮れる写真も変わる。だからいろいろ試してみたくなる。ただ、難しいのは「これで解決だ」という唯一無二の解があるわけではないのに、人がそれを求めてしまいがちだということだ。
たとえばフルサイズが良いのか、APS-Cやマイクロフォーサーズ、もっといえばコンデジやスマホでも問題ないのか等。冷静な答えは「あなたの目的や状況による」となる。一般的に、フルサイズのほうがダイナミックレンジが広く、高感度耐性が高く、高解像度の写真が撮れる。しかし同じフルサイズでも機種によって得手不得手があるし、センサーサイズにかかわらず「あのカメラにできることがこのカメラにはできない」といった状況がよく起こる。要はたくさんのパラメータがあって、「どっちが良いか」は一言でいえない。「良さ」の指標を一次元の値にまで落とし込めない。どっちが強いとかどっちが弱いとか比べたくなるのが人情ではあるが、事態は単純ではない。
だからあのカメラにもこのレンズにもいいところがある。あれもこれも欲しくなる。あんな条件だったらこの組み合わせ、このシチュエーションならこの機材が必要だと、目的に応じて必要なセットをそろえてしまうのがいいのかもしれない。お金や時間や保管スペースが有り余るほどあるのなら。
だけど現実的にはお金も保管スペースも有限だし、どんなに機材を持っていたって一度にシャッターを切れるカメラはせいぜい一台だ、少なくとも現代の一般人が手にできるコモディティ化されたテクノロジーでは。たくさんの機材を持ち運ぶのはつかれるから現実的ではないし、だれだって重いものを持ち運びたくない。取捨選択が必要になる。じゃあどれにするか。あるいは「どれとどれにするか」。
昨今ではフルサイズのミラーレスカメラが市場をにぎわせている。たしかにフルサイズであれば大きなボケが得られるし、高感度耐性も基本的には高く、解像感も高いので、素人でもきれいな写真が撮れる傾向にあるといってよいだろう。ただ、フルサイズカメラにも重大な欠点があって、「価格が高い」「大きい」「重い」といった問題がある。プロであればこれらの条件に目をつぶってでも「でもこの機材でないと(必要なものが)撮れない」という判断もあるが、プロでない人にとって、とくに「大きい」「重い」という部分は看過できない問題だとぼくは思う。
もちろん、人によっては「全然大丈夫」という人もいるだろう。撮りたい絵や被写体によっては、重くて大きい機材でなければ不可能という素人もいる。けれども、少なくともぼくにとってはフルサイズはちょっと重すぎる。いや、実際のところα7CやSigma
fpといった小型・軽量を標榜する機種なら問題ないのかもしれない。でも、フルサイズ対応のレンズは大きく重くなる傾向にあるでしょう?それも、軽くて小型のレンズを選べばいいって?うーん、たしかにぼくの目的とするスナップ用途ではそういった選択肢もありだといえる。ただ、その2機種はまだちょっと価格が高いし、ぼくにとってはファインダーが足りないんだよなー。ソニーは以前持っていた機種が壊れやすかったのでまた壊れやすかったら嫌だなと思うし。
そんなふうに、考え始めるといろいろなパラメータが持ち上がってきて一筋縄ではいかない。結局のところはいろいろ試してみて失敗してみるしかないのだろう。その過程も楽しいものだ。個人的には、いろいろ使ってみていま感じることとして、「小さいカメラだからこそ撮れるものがある」「レンズはお気に入りのものが見つかるとそれをつけっぱなしで8割以上のシーンは大丈夫」ということだ。
前者についてはGoPROのようなアクションカメラを考えると分かりやすい。小さく軽く頑丈なカメラであれば、ファインダーを見ないでノールックで撮ることが普通だし、ハンズフリーでの撮影や棒の先につけての撮影、高いところや低いところ、被写体の間近に近づけての撮影なんかも簡単にできるようになる。フルサイズのような大きいカメラだと取り回しが悪いのでどうしてもこういったことがしにくくなる。いろいろなアングルを試してみるというだけでも、小さいカメラのほうが気楽に片手で振り回せるし、そういった機動性が写真につながったりする。それに、カメラというのは持っていないと写真が撮れない。持ち歩きがおっくうな機材では、持ち運んで撮るという意欲をそいでしまう。
後者については、たとえば換算28〜50mmぐらいの明るい単焦点レンズがあれば日常スナップを撮るほとんどのシーンをカバーできる(何ミリを主に使うかという焦点域の問題については、撮り手の趣味や被写体によって変わってくる)。ズームレンズではなく単焦点を使いたい理由については、単焦点のほうが明るいので屋内や夜でも使いやすいし、シンプルで割り切って使えるので迷いなく楽しんで使えて、なおかつ撮れる絵も良い(さらに比較的軽くて小さくて安い)という理由から。ただ、好みの問題なのでズームレンズがいいという人ももちろんいて良い。
ぼくの場合、超広角や中望遠や超望遠といったレンズもたまに欲しくなるけど、たまにしか使わないのならレンタルでもいいはずなのだと最近思う。つねにカメラに取り付けて毎日のように持ち運ぶレンズと、たまにしか使わないレンズ、同じようにお金を払って買ってもコストパフォーマンスに大きな違いが出てくる。レンズというのは使ってもほとんど消耗するわけではないので、使えば使うほど費用対効果が高くなる。
あるいは広角や望遠はコンパクトデジカメでも問題ないのではないか。レンズ交換式カメラといっても、必ずレンズをとっかえひっかえ交換しなければいけないわけではない。
だから、どういった写真が撮りたいのか、どの焦点域を使いたいのか、どれくらいの大きさと重さの機材がほしいのかを試行錯誤で見つけることが、プロでない人にとっての機材選びの1つの方法論になるのではないかと思う。そして一度お気に入りの機材を見つけてしまえば、多少のブレはあってもそこを軸に次を考えることができる。
フラッグシップ機が一番使いやすい(高性能・高機能な)のだから、初心者こそフラッグシップ機を買うべきという意見もある。たしかにフラッグシップ機はAFも早いし高感度も強く、高解像度で写真が撮れる。ファインダーやモニターや操作性もいいから撮り手にいろいろなことを教えてくれるだろう。だから「初心者こそフラッグシップ機を買う」という考え方も一理ある。ただ、じゃあ初心者が大三元のレンズに手を出すべきか、ぼくには分からない。
ぼく自身、フラッグシップ機も大三元も持っていないから真実は分からないけれども、想像だけでいえば大三元はぼくには大きすぎるし重すぎる。スナップ写真しか撮らないので。お出かけの片手間にちょっとだけ写真を撮るレベルの人に、フラッグシップ機+大三元のF2.8通しレンズというのはきついのではないか。逆にいうと、「そこまでしないといい写真が撮れない」ということなんだろうか。
野鳥や星景やスポーツの試合を撮るならフルサイズや高くて重いレンズが必要になる。でもそうでない「普通の」用途であれば、普通のカメラでもある程度撮れるはず。「普通の用途」というのは、要するにスナップ写真だ。普通の人が写真を撮りたいと思ったとき、典型的には家族や友達や日々の暮らしを思い出として残したいケースが多いように思う。だからスナップ用途のカメラこそが典型的な素人には向いているし、カメラを探している人が何を撮りたいのかと、じゃあどのカメラとどのレンズが適しているのかのマッチングをしっかりサポートすることが、ユーザーとの長期の関係を築きファンを増やすうえで(カメラメーカーにとって)大事だと思う。
単焦点レンズでスナップ写真を何年も撮ってきて思うのは、「換算35mmと換算50mmという近い焦点距離のレンズでさえだいぶ違う」ということだ。自分にとって、換算35mmのレンズで撮ると撮れる写真はスナップ写真になりがちで、換算50mmのレンズで撮るとポートレート写真みたいに撮れる。何が違うかというと、スナップ写真は背景やその場の状況も含めて写真に写ったもので、ポートレート写真は被写体となる人物がアップで切り取られる(背景は捨てられがちになる)。
もちろん換算50mmのレンズでも被写体から離れて撮れば背景を含めることができるので、換算50mmでスナップ写真を撮る人もいるし、逆に換算35mmで被写体にぐっと寄って背景を切り取ることもできる。スナップ写真にもいろいろあるし、ポートレートにもいろいろある。だから「35mmだからスナップ写真にしか使えないレンズだ」とは言えない。どちらもある程度は他の用途にも使える。ただ、一般論として、基本的な相性としては35mmレンズのほうがスナップ写真に向いていると思う。
じゃあ、スナップ写真とは何なのか。何が他と違うのか。「スナップ写真は背景やその場の状況も含めて写真に写ったもの」と書いたが、主題となる被写体(多くのケースでは人物だが)だけではなく、その被写体が置かれた状況(多くのケースでは被写体の表情、住む場所や訪れた土地、着ているものや持ち物など)もある程度含めて記録に残すものがスナップ写真なのだと思う。そして、思い出を記録するうえで、被写体そのものだけでなく「そのときに置かれた場所や状況も写る」ということが重要な要素だ。カメラのレビューサイトである人が書いていたが、「何年も何十年も経ってから写真を見返すと、そのときに住んでいた家の様子や家族の様子、好きだったもの、愛用していたものが写っていて泣きそうになる」ということがある。
写真というのは何十年も経ってから味が出てくることがあり、その際に背景まである程度写っていることが重要な調味料として働く。背景を大きく切り取ってしまったりぼかしてしまったりすると、そのための調味料が効かないのだ。スナップ写真というのは、往々にして撮れた瞬間には凡庸に感じるものかもしれない。それは単なる記録であって、芸術品ではないし作品ですらない。誰にも「いい写真だね」と言ってもらえない写真も多いだろう。けれども、何十年か経ってから見返すと、心動かされる写真になっていることがある。
なぜなら、そこには愛があるからだ。そこに写っている人や物や生活が、誰かの生きた証となっている。撮ったときには作品でも芸術品でもなかったただの写真に、美しい瞬間が封じ込められ、いつのまにかなにものにも代えがたい「いい写真」になる。多くの場合、普通の人にとって写真を撮る意味はそこにあると思う。
そう。写真を撮る意味。それがずっと、ぼくは分からずにいた。たいしたものが撮れているわけではないし、なんのために写真を撮るのかもはっきりしない。うまいわけでもないし、良い場所に行って綺麗な被写体を撮っているわけでも全然ない。「テーマを持って写真を撮るのが大事だよ」という人もいてなるほどと思うけど、テーマなんて考えたこともなかった。だから、ぼくの写真はとっ散らかっている。ただそのときどき目に映ったものが、なんとなく写真として残っていく。そんな無意味なものを、恥ずかしいような、悔しいような、諦めのような気持ちでそっと綴じている。悲しいことだけれども。
でもそんなのでもいいのかもしれない。だって、昔の写真を見返してみたら、案外いいんだよ。意味がないと感じている日々、無為に切られたシャッターのなかに、泣いたり笑ったりがんばったりした瞬間が残っていて、かつてそこに存在していたたくさんの命や時間や思い、願いや祈りが感じられる気がするから。
・・・なんの話だっけ?「ぼくはなぜカメラやレンズが欲しくなるのか」か。まぁそんな感じで。要するに「機材を求めるのはほどほどにしよう」と言いたい。自分自身に。軽くていつでも持ち運べるお気に入りのやつが1つあればいいじゃんと。一応、いまひとつお気に入りの機材が手元にあるので、それは古くてイマイチなところもあるけれども、かわいいやつだ。高級ではないし完璧でもない、型落ちの普及機だ。でもこいつで、いろんな写真を撮ることができた。いつも一緒につれていって、ほとんど壊れず、思ったときにシャッターを切らせてくれた。案外捨てたものでもないよね。
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