メッセージ。 - にゃー

# にゃー

知らないことについて無責任に書くことはできない。ついそう思って何も書けないでいるけど、結局のところ知っている人間なんていない。人間が知っていることがらなんてほとんどのケースでn=1だし、せいぜい頑張ってもn=10000とかn=10000000とかでしかない。

しかも数字が大きくなるほど、それは統計的なものでしかなくなってしまう。デジタル化される前に起こったいろいろなことは切り捨てられてしまう。すると結局のところ分かったつもりで分かっていないことだらけだということだ。

つまるところ、人間は何も知らないでものを書いているし、人間だけでなくほかの生き物も含めて、ぼくらは何も分からず生きている。生きるということがどういうことかすら分からず生きている。本当に生きているのかどうかすら分からず生きている。

そんな状況で、書くのをためらうことにどれほどの意味があるのか。それは生きるのをためらうようなものだ。生きるのを止めることはできない。止めるというか、「ちょっとタイム」みたいなことはできない。

ぼくらは進み続けている。歩き続けていると言ってもいい。ためらって書くことを止めているあいだも時間は進み続けて、立ち止まっている間も時空間は動いていて自分のいる位置を移動させている。

そんな状況で「書かない」という選択は何を意味するのか。意思を表明しないことも、ひとつの意思表明だ。でも、なぜ意思を表明したくないのか。間違いを怖れるから?誰かを傷つけたくないから?

どんな言葉も間違っているし、誰かを傷つけ得る。結局のところ、ぼくらは何も知らない。知っていると思っている人は、知っていると思っていると思っているだけだ。誰かを傷つけるということは、ある意味で誰かに何かを残すことだ。残された思いは呪いであり祈りであり、メッセージである。
2024-08-29 08:00:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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