メッセージ。 - 説得力とリアリティ、あと責任
# 説得力とリアリティ、あと責任
でも、「プログラミングは素晴らしい」じゃあ、話が終わっちゃわないかな?
「プログラミングは素晴らしい」ことを理解してほしいのなら、「プログラミングは素晴らしい」ことを説明するだけじゃあダメなように思う。どっちかというと「こんな風に素晴らしくてぼくはハッピーハッピーだよ」って言うか、「プログラミングは素晴らしい」なんておくびにも出さないかのほうがいいように思う。
たぶん、そんなまっすぐに勧められると、うさん臭く感じてしまう。それに、万人にとって素晴らしいものはない。自分にとってはもっと好きなものがあるかもしれないし、合わないかもしれない。誰かが何かを素晴らしいと感じるのは結構なことだけど、人は何かに対してつねに自分との関係性は?と考える。
ただ「素晴らしい」では、その関係性がつかめないんじゃないかな。たとえばぼくがある種の宗教をうさん臭く感じるのは、その宗教が、ぼくにとってそれが良いか悪いかを考えてくれてなさそうなところだ。「○○教は素晴らしい」と言われたら、引く。それが不特定多数に対して発せられているメッセージなら、余計に引く。
「○○は素晴らしい」ってことを理解してほしいなら、「素晴らしい」って言うよりも「ぼくは好きだ」と言うほうがいいと思うんだよね。それなら引かない。味の出た好々爺がたまに聞かれると盆栽のことをとうとうと語ったり、お婆さんが庭の草木をとても大事に育てていたり。そのほうが含蓄がある。ああ、言うまでもなくこの親父には盆栽って素晴らしいものなんだな、この奥さんにとって、庭の草木はとても大事な意味を持つんだろうなと思わせる。
それは自分にとっての素晴らしいものとは違うかもしれない。だけどそこには決定的なリアリティがある。爺さんや婆さんにとって、それは素晴らしいものなんだろうなと芯から理解できる。なんでそんなリアリティがあるかと言うと、爺さんも婆さんも、「自分はこれが好きだ」と全身で表現し、かけてきた時間や情熱の重みが伝わるからだ。
そこには、「あなたにとっても素晴らしい」なんてメッセージはカケラほども入れなくていい。そんなはずないから。あなたにとって素晴らしいかどうかは、あなたにしか決められない。「え? 素晴らしいかって? そりゃあぼくはこれが好きで素晴らしいと思うからやってるんだよ。でも素晴らしいかどうかは、ぼくには言えないなぁ」。そこにはちゃんと、責任感が感じられる。だから信じてみようかという気にもなる。
そういうところはあるんじゃないっすかね。
「プログラミングは素晴らしい」ことを理解してほしいのなら、「プログラミングは素晴らしい」ことを説明するだけじゃあダメなように思う。どっちかというと「こんな風に素晴らしくてぼくはハッピーハッピーだよ」って言うか、「プログラミングは素晴らしい」なんておくびにも出さないかのほうがいいように思う。
たぶん、そんなまっすぐに勧められると、うさん臭く感じてしまう。それに、万人にとって素晴らしいものはない。自分にとってはもっと好きなものがあるかもしれないし、合わないかもしれない。誰かが何かを素晴らしいと感じるのは結構なことだけど、人は何かに対してつねに自分との関係性は?と考える。
ただ「素晴らしい」では、その関係性がつかめないんじゃないかな。たとえばぼくがある種の宗教をうさん臭く感じるのは、その宗教が、ぼくにとってそれが良いか悪いかを考えてくれてなさそうなところだ。「○○教は素晴らしい」と言われたら、引く。それが不特定多数に対して発せられているメッセージなら、余計に引く。
「○○は素晴らしい」ってことを理解してほしいなら、「素晴らしい」って言うよりも「ぼくは好きだ」と言うほうがいいと思うんだよね。それなら引かない。味の出た好々爺がたまに聞かれると盆栽のことをとうとうと語ったり、お婆さんが庭の草木をとても大事に育てていたり。そのほうが含蓄がある。ああ、言うまでもなくこの親父には盆栽って素晴らしいものなんだな、この奥さんにとって、庭の草木はとても大事な意味を持つんだろうなと思わせる。
それは自分にとっての素晴らしいものとは違うかもしれない。だけどそこには決定的なリアリティがある。爺さんや婆さんにとって、それは素晴らしいものなんだろうなと芯から理解できる。なんでそんなリアリティがあるかと言うと、爺さんも婆さんも、「自分はこれが好きだ」と全身で表現し、かけてきた時間や情熱の重みが伝わるからだ。
そこには、「あなたにとっても素晴らしい」なんてメッセージはカケラほども入れなくていい。そんなはずないから。あなたにとって素晴らしいかどうかは、あなたにしか決められない。「え? 素晴らしいかって? そりゃあぼくはこれが好きで素晴らしいと思うからやってるんだよ。でも素晴らしいかどうかは、ぼくには言えないなぁ」。そこにはちゃんと、責任感が感じられる。だから信じてみようかという気にもなる。
そういうところはあるんじゃないっすかね。
Comment
# 情熱 上記の記事に関...
上記の記事に関連して、ふと思ったのは、書き方の心得として「読者のことを考えよう」というのがはびこって、居もしない想定読者にばかり振り回されて、「自分はこれが好きだ!」というパッションが薄れてしまって面白くない記事が増えているように感じました。
あと、自分自身のこととして、加齢とともに「自分はこれが好きだ!」と言える情熱がなかなかもてなくなってる自分に気づいたりして、かなしーなーとも。でもきっとそこにも何か、若い吼えすさぶ炎のような情熱ではない、ぽかぽかと春の日差しのようにあたためてくれるような熱があるんだろうとは思うんですが。
# 書くこと、伝えること
空中に向かって話しかけるのが虚しいのと同じように、誰も読まない文章を書くのは虚しい。相手がいて、その人に何かを伝えたいと思うからこそ、人は言葉をつむぐのでしょう。
人は、関心のない人に何かを伝えたいとは思いません。相手のことが好きだからこそ伝えたいことがあるし、相手によって伝えたい事柄も変わってくるでしょう。そして、伝えたい気持ちというのは、相手を思い浮かべるだけで自然に心に浮かぶものです。
一方、「想定読者」という考え方は、文章を書けなくさせる危険を持っています。普通に考えるとそれは、知らない人のことを指しているから。誰かを思い浮かべると自然に浮かぶ伝えたい気持ちが、「想定読者」に対しては浮かばないのです。だからそれは、とくに慣れないうち、強く意識しすぎてはいけない。
shinoさんもおっしゃってるように、伝えたい気持ちがあるのは、誰かや何かを「好きだ」ってことだと思います。そして、「好きだ」と感じられる気持ちは、生きる力の源でもあると思います。残念なことですが、加齢は生きる力を失わせるものなので、何かを強く「好きだ」と感じられなくなるのも仕方がないでしょう。
夏の日射しのようにただ照りつける情熱もあれば、春のようにおだやかな、秋のように切なくなるような、冬のようにしんとした情熱もあるとぼくは思います。個人的には、秋の夜風に吹かれるころ、誰かに何かを伝えたくなったりしますね。
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