メッセージ。 - 正直なところ、海外製...

# 正直なところ、海外製...

正直なところ、海外製ソフトウェアに関する日本のユーザーコミュニティ(ML等)の出来はあまり良い出来であるとは言えない状況にあり、ふじさわさんの仰る通り「怖い人」が結構います。ここ数年余りで急成長したLinuxが火種になって成長したオープンソースソフトウェアのコミュニティはどちらかといえばその風潮は弱い(比較論であって、それそのものが弱いわけではない)です。古参の参加者は滞在してる時間の長さを「地位」のように感じ、またある程度その内部で経験を積んだ人は参加者(いわゆる某所で言うところのコテハン的な人)の地位の順序もわかるのですが、まったくの新人にはそれがわかりません。これは日本人特有…という程でもないかもしれませんが非常にありがちな「暗黙の了解」と言えるんじゃないかなと思います。非常に新しい人が入りにくい、そんな状況が国内のコミュニティには強いと思います。「知ってる俺は偉い、知らない奴は黙ってろ」「長く居る俺は偉い、新人はへつらえ」というような風潮ですかね。あからさまでないにしても、そういった雰囲気を作り出しているというのはありがちです。

ディストリの流行り廃り、またその物の流動性は、良い意味で捉えれば常に変化があって飽きないし改良が重ねられている点を見れば良い事だとは思うのですが、一般的なもの(例えばWindows)を考えると進歩のペースは数年単位で日々流動はしてません。脆弱性の修正に関しても頻繁とも言い難い状態なのですが、ソフトウェアに対して熱心じゃない人にとってはそれがベストである…とも言えるのかもしれません。常に動き流れがあってはそれに着いていけるだけの時間あるいは興味がないというのではあっと言う間においてけぼり。もちろん一つの側面を一つの観点で見ただけの意見で、流動性に乏しいとか対応が鈍いという点を擁護するものではありません。
専門家やマニア、あるいはPCをとことん使い尽したいような人には有難い世界なのかもしれませんが、余暇にちょっと使うとか、仕事の道具(高級なペンと紙程度の感覚)としか見てない人には単に面倒事が多いだけ…というのは至極もっともな事かと思われます。

まあ、Linuxの中にも現状ある程度の「定型的な形」と「定型的な運用方法」を提供しているディストリもあります。RHELとかCentOSとかがそれなのですが、前者は個人とはほぼ無縁に近いですし、後者は今のところマニア受けはしていますがマニアでない人の内の認知度はあまり高くありません。それこそヒドい作りで有名なLindows(現:Linspire)の方が有名というあたりメディアの質の悪さも垣間見れます。

道具を非常に上手く使える人というのは道具についてよく知っている(慣れている)人というのはあたりまえなのですが、その慣れたり知ったりするきっかけの多さ 即ち一般性や普及度の点で遥かに勝るのがWindowsで、デファクトスタンダード…事実上の標準と言われるとおり善し悪しは全く別問題としてWindowsの流儀が世界の流儀になってます。その流儀に反する物は基本的には反社会性の塊なわけです。それがどれだけ良かろうと悪かろうと、その内容に関わらず「覚える(知る)=わざわざやらなきゃいけない」という事で、そもそも個人があえてLinuxを導入する事そのものが「好きではない人間には向かない」とも言えます。興味のない人にとっては「Windowsが好き、Linuxが嫌い」なんて事も全くなく、実際は「Windowsの事だって"あえて"覚えたくはない」わけです。Windowsで手一杯。「とりあえずWindowsで出来るのだからそれでよし」というのが普通かと思います。興味を持たない人にいかに興味を持たせるか…というのは正直今のオープソース界では難しすぎる問題です。彼等は技術力で自身をアピールしますが、興味のない人にとってはそれは何の価値もないのと同然。今後、何物に勝るような素晴しいOSが世に現われたとしても「今とりあえず使えてる」に勝るものなし。むしろ「今とりあえず使えてるWindowsが、今後どれだけマトモになってくれるか」という事の方が大事なわけです。それ故世間もWindowsに注目します。あれだけ悪かったWindows98が2000になって「落ちなくなっただけ(一般の人はそれ以外の部分にはあまり興味がない様子)」でかつての9x系列ユーザーやNTユーザーは大喜びです。「ああゲームの最中に青くならなくなった」「仕事のデータが飛ばなくなった」。Unix界隈はそんな次元で物事を語る事は非常に少ないのですが…世間というのはどうも我慢が強いのか、そうまでしてWindowsを使い続けます。理由は前述の通り「とりあえず使えるから」。オープンソース界に多く見られる「良い物は黙っていても普及する」という理屈は実際には全くもって的外れで、OS界の普及の理由は「椅子取りゲーム」と一緒。先に座ったものが勝って、そうでないものは脱落します。OSというのは最も基本的かつ「使う上では案外どうでもいい」のに「あれやこれやと厄介な問題の温床になる」というもので、そんなものが世の中に「何種類も氾濫して、どれも平等な地位があっては困る」んです。OSそれぞれ流儀やコンセプトが違っていて、その都度覚えなきゃいけない。我々は日本国民で日本の風土や風習 文化にはとりあえず馴染んでいますが、突然に全くの異文化である外国に裸一貫で放り出されたら困り果てます。OSを切り替えるというのはそれに近い。「あえてそれに臨む」というのは、それなりに根性のいる事でそれこそ「興味がないとやってられない」わけです。

Linuxが現状の地位で一般に普及するようになるのは、コミュニティの改善や品質改善でどうこうなる物ではないと個人的には考えます。ホビーユース オフィスユースにおけるOS市場はその土壌から「Windows一色」と言っても過言じゃないかと。どれだけ頑張った所で、MSが潰れるとかOSの開発をやめるとかでもしない限りLinuxに限らず他のOSが普及するチャンスや、さらには「新しいOSの種」が出来あがる土壌すらも皆無なんじゃないかなと。
2005-11-21 00:30:52 / 中野 / Comment: 0 / Trackback: 0

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