メッセージ。 - 論理と善悪
# 論理と善悪
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_1c33.html
はげどうのところもあるけど、うーん。……まぁ、よい問題提起。
いまよりもう少し若かったころ、どうして過失が罪になるんだろうと考えたことがある。たとえば、手術中にミスをして人を死なせてしまったお医者さんがいた場合、それは罪になるんだろうか? 手を抜く人や技術が圧倒的に足りない人は論外としても、一生懸命頑患者さんのために張って失敗する人もいるだろう。そういう人たちを「人を殺した」といって同列に扱うのは合理的だろうか?
人間はミスをする。ミスをした人に対して「反省しろ」と刑を執行したとして、改善するだろうか? 反省とミスには、それほど大きな相関関係がないと思う。いいところ、まわりの人が他山の石として気を引き締めるぐらいではないか。どんなに頑張っても人間はミスをする。「ミスを100%なくそう」とするなら、人間を全部始末して機械にやらせるしかない。しかし、機械だけが住む国なんて、社会とは呼べない(ここでは社会の定義はおいておく)。
あるいはとてもとても悪いことを考えて、それを合法的に実行してしまう人がいる。たとえばヒットラーさんなんかはそうだろうし、帝国主義でほかの国の人を苦しめた人たちもそうだろう(「悪い」の定義はとりあえずおいておく)。そういう人たちは、合法であるからといって反省の必要がないのだろうか。後世の人がそれを見て「あれはいけないことだ」と思わなくてよいのだろうか。
結局のところ、法やシステムに善悪は判断できない。人殺しに使われたといって、包丁やピストルに罪がないのと同じだ。物理や機械や論理には、善悪がない。きっと人間の体にも善悪がない。それが存在するのは心の中だ。罪人の体を刑によって制限するということは、包丁やピストルを破棄する以上の効果がない。それでは足りないのだ。善悪という観点では。
もし、社会に善や悪という概念が必要ないならば、ただその者が成した行為の軽重において淡々と罪を決定することは合理的であると思う。しかしそれは、人間や社会から善や悪の概念を奪うものである。機械になれと言うようなものだと思う。
たけくまメモ: 宮崎勤の死刑判決に思う結局のところ、動機主義と司法の論理とは根本的に相容れないものがあるのではないか。人間の行為は裁けても、心の中までは、誰も裁けないのだ。であるならば、動機の詮索なんかは最初から止めて、ただその者が成した行為の軽重において淡々と罪を決定すればいいのではないだろうか。
はげどうのところもあるけど、うーん。……まぁ、よい問題提起。
いまよりもう少し若かったころ、どうして過失が罪になるんだろうと考えたことがある。たとえば、手術中にミスをして人を死なせてしまったお医者さんがいた場合、それは罪になるんだろうか? 手を抜く人や技術が圧倒的に足りない人は論外としても、一生懸命頑患者さんのために張って失敗する人もいるだろう。そういう人たちを「人を殺した」といって同列に扱うのは合理的だろうか?
人間はミスをする。ミスをした人に対して「反省しろ」と刑を執行したとして、改善するだろうか? 反省とミスには、それほど大きな相関関係がないと思う。いいところ、まわりの人が他山の石として気を引き締めるぐらいではないか。どんなに頑張っても人間はミスをする。「ミスを100%なくそう」とするなら、人間を全部始末して機械にやらせるしかない。しかし、機械だけが住む国なんて、社会とは呼べない(ここでは社会の定義はおいておく)。
あるいはとてもとても悪いことを考えて、それを合法的に実行してしまう人がいる。たとえばヒットラーさんなんかはそうだろうし、帝国主義でほかの国の人を苦しめた人たちもそうだろう(「悪い」の定義はとりあえずおいておく)。そういう人たちは、合法であるからといって反省の必要がないのだろうか。後世の人がそれを見て「あれはいけないことだ」と思わなくてよいのだろうか。
結局のところ、法やシステムに善悪は判断できない。人殺しに使われたといって、包丁やピストルに罪がないのと同じだ。物理や機械や論理には、善悪がない。きっと人間の体にも善悪がない。それが存在するのは心の中だ。罪人の体を刑によって制限するということは、包丁やピストルを破棄する以上の効果がない。それでは足りないのだ。善悪という観点では。
もし、社会に善や悪という概念が必要ないならば、ただその者が成した行為の軽重において淡々と罪を決定することは合理的であると思う。しかしそれは、人間や社会から善や悪の概念を奪うものである。機械になれと言うようなものだと思う。
Comment
Trackback