メッセージ。 - トリックスターとヒステリー
# トリックスターとヒステリー
http://blog.tatsuru.com/archives/001538.php
うーん。すごく面白かったです。
話は変わるかもしれないけど、個人的にホリエモンの事件でもっとも極立った問題意識を感じたのは、仕事や職というものの有り様だった。あのように苛烈にホリエモンを批判するメディアは、ヒステリックに見えたし、社会的存在というものがそのようなヒステリックな行動を取ることにびっくりした。
マスメディアというものは、社会に真実を伝えることを至上命題とし、そのためにはつねに冷静で、偏見のないものの見方をしなければならないはずではなかったのか? メディアの持つ力は大きい。そして大きい力を持つがゆえ,慎重にその能力を行使しなければならないはずだ。それは社会から預かった能力・機能だからだ。
しかし、あのようにヒステリックな報道を見ていると、マスメディアというものがいかに、自らの内的な感情に突き動かされ、自らのために社会的機能を使用しているのか、と考えてしまう。
これはメディアだけの問題ではないのかもしれない。ホリエモンが逮捕された翌日、テレビを見ていたら「ホリエモン 独居房へ」という新聞記事が紹介されていた。東京拘置所の独居房には、現在スーフリ事件の容疑者がいて、その隣が空いているらしい。そのテレビ番組によると、東京地検の人間たちは「スーフリの隣にホリエモンを放りこめ」を合言葉に捜査を進めていたとかいないとか。
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200601/sha2006012401.html
これを聞いて、とても嫌な気分になった。「スーフリの隣に」なんて、なんともひどい生理的嫌悪感、残酷な衝動でことにあたるものではないか。スーフリという汚物の隣に容疑者を置いて汚す。そんな行動にカタルシスを覚えることに、正義はあるだろうか? 容疑者というのは罪人ではない。罪を犯したかどうか、まだはっきり分からない人間だ。そのような人に対して、たとえ自分が疑っているとはいえ、生理的嫌悪感をもってあたることが正しいんだろうか? 容疑が間違っていたらどうするのか? 社会から与えられた力・役割を、そのような動機で使うことは正しいんだろうか?
東京地検の人の合言葉はマスメディアを通して見聞きしたことなので、差し引いて考えなければいけないだろうと思う。だけど、それがもし事実であれば、嫌なことであるように感じる。マスメディアにしろ東京地検にしろ、与えられた役割は重要でその力も大きい。家にたとえるなら、地検やマスメディアは父で、そこに暮らす市民は子供か妻だ(えーと。父と妻のたとえはとりあえず。言葉のあやということで)。あのような気分屋で残酷な父を持った家は、どのような家庭であるだろうか? 父の疳積に触れないよう、おびえて暮らさなければいけないのか?
……たしかにこれは、地検やメディアに限らない。すべての社会的組織は、家庭における父の役割を果たすといえる。だからそこで働く人は、みなが気を付けなければいけないのだと思う。自分が、自分の職場において、そのようなカタルシスで対応していないかというのは考えてみなければならないだろう。いま一度、仕事や社会について考えなおさなければいけないなと思った。
内田樹の研究室: メディア・リテラシーとトリックスター
うーん。すごく面白かったです。
話は変わるかもしれないけど、個人的にホリエモンの事件でもっとも極立った問題意識を感じたのは、仕事や職というものの有り様だった。あのように苛烈にホリエモンを批判するメディアは、ヒステリックに見えたし、社会的存在というものがそのようなヒステリックな行動を取ることにびっくりした。
マスメディアというものは、社会に真実を伝えることを至上命題とし、そのためにはつねに冷静で、偏見のないものの見方をしなければならないはずではなかったのか? メディアの持つ力は大きい。そして大きい力を持つがゆえ,慎重にその能力を行使しなければならないはずだ。それは社会から預かった能力・機能だからだ。
しかし、あのようにヒステリックな報道を見ていると、マスメディアというものがいかに、自らの内的な感情に突き動かされ、自らのために社会的機能を使用しているのか、と考えてしまう。
これはメディアだけの問題ではないのかもしれない。ホリエモンが逮捕された翌日、テレビを見ていたら「ホリエモン 独居房へ」という新聞記事が紹介されていた。東京拘置所の独居房には、現在スーフリ事件の容疑者がいて、その隣が空いているらしい。そのテレビ番組によると、東京地検の人間たちは「スーフリの隣にホリエモンを放りこめ」を合言葉に捜査を進めていたとかいないとか。
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200601/sha2006012401.html
これを聞いて、とても嫌な気分になった。「スーフリの隣に」なんて、なんともひどい生理的嫌悪感、残酷な衝動でことにあたるものではないか。スーフリという汚物の隣に容疑者を置いて汚す。そんな行動にカタルシスを覚えることに、正義はあるだろうか? 容疑者というのは罪人ではない。罪を犯したかどうか、まだはっきり分からない人間だ。そのような人に対して、たとえ自分が疑っているとはいえ、生理的嫌悪感をもってあたることが正しいんだろうか? 容疑が間違っていたらどうするのか? 社会から与えられた力・役割を、そのような動機で使うことは正しいんだろうか?
東京地検の人の合言葉はマスメディアを通して見聞きしたことなので、差し引いて考えなければいけないだろうと思う。だけど、それがもし事実であれば、嫌なことであるように感じる。マスメディアにしろ東京地検にしろ、与えられた役割は重要でその力も大きい。家にたとえるなら、地検やマスメディアは父で、そこに暮らす市民は子供か妻だ(えーと。父と妻のたとえはとりあえず。言葉のあやということで)。あのような気分屋で残酷な父を持った家は、どのような家庭であるだろうか? 父の疳積に触れないよう、おびえて暮らさなければいけないのか?
……たしかにこれは、地検やメディアに限らない。すべての社会的組織は、家庭における父の役割を果たすといえる。だからそこで働く人は、みなが気を付けなければいけないのだと思う。自分が、自分の職場において、そのようなカタルシスで対応していないかというのは考えてみなければならないだろう。いま一度、仕事や社会について考えなおさなければいけないなと思った。
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