メッセージ。 - 相対化されていく(社会的)価値

# 相対化されていく(社会的)価値

 
 「自分の本音を相手にぶつけるなどということは裸で街を歩いているような恥ずかしい行いだ」、ということになるらしい。むしろ、その場その場の空気に自分を順応させ、相手を楽しませたり場を盛り上げたりすることが能力の証明であり、かっこいいことなのだ、と彼は言い切った

これは興味深い洞察だなぁ。最近感じるのだけど、世の中のイベント事や習慣が、それそのものの意味をまったく欠いてしまっているような気がする。たとえばバレンタインデーのことを、「女の子が好きな男の子にチョコレートを渡して愛を告白できる日」だなんてとらえている人がいるだろうか? 小さな子供でさえ「歴史的にはそうである」みたいな認識をしているような気がする。

つまり、そういう事象を真正面から捉えることができなくなっているんだ。無理にそういうことをすると、嘘臭くなってしまう。結果として、バレンタインデーで言えばチョコレート以外の何かを付けて本気であることを表現するとかしなければならなくなる。よくあるあれだ。「ディズニーランドに一緒に行ったカップルは別れる」みたいな。最初は「仲の良い二人が一緒にディズニーランドに行って、より仲が深まる」というジンクスだったのが、時間がたつことで陳腐化し、逆の意味でとらえるほうが本当っぽく見える(あるいはどちらも無価値に感じられる)という。

こういうのは、習慣ごとに限らずいろんなところで起きているはずだ。結婚とか、仕事とか、家庭とか。クレヨンしんちゃんなんかが指摘しているのもまさしくその点で、社会的価値観というものの相対化が急速に進んでいるのだろう。ホリエモン事件もそういう文脈でとらえることができるし、たぶんほかのいろんなこともそうだ。で、問題はなぜそういうことが起きるのか、なにかすべきことはあるかだけど……。
2006-02-24 19:47:59 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

Comment

コメント投稿機能は無効化されています。

Trackback

TrackBack投稿機能は無効化されています。