メッセージ。 - 芋を海につけて食べる
# 芋を海につけて食べる
ある概念にいったん名前がついて、カテゴリ化が定着してしまうと、そのカテゴリを越える発想はそうめったに出てこない。
なんとなく考えているところが似ているように感じた。この人は「名前が付いてしまうと」という前提で考えているけど、さらに一歩進めることができると思う。つまり、名前を付けなくても、なんらかのアフォーダンスを一度そこから得てしまうと、人間はそれを覆す行動を取れなくなるんじゃないだろうか。
これをひとことで言えば、コロンブスの卵になる。机の上で卵を立てろと言われても、多くの人にとってはどうしたらよいか分からない。卵や机に固定したアフォーダンス(固定観念)を持ってしまっているし、「あまつさえ卵を割ったら?」と思い付いたとしても、「でもそんなのインチキだと言われたらどうしよう」と臆病になってしまう。
幸島の猿が芋を海水で洗って食べるようになったが、これが世界的に珍しい事件だったのも同じことだ。目の前に海と芋があったとしても、それを組み合わせて考えることは難しい。日本人は海老やイカを食べるけれど、海に面していない国の人にそれを食べさせるのは難しいだろう。何が言いたいのか。つまり、当たり前だと思っていることは、実は当たり前ではないということだ。
食べられるように見えるそれは、ある人にとっては食べられない。また、あなたが食べられないと思っているそれは、本当は食べられるのかもしれない。「食べられない」と思うから食べられないのであって、「食べられる」と思えば食べられる。そういう領域が、実はこの世界にはたくさんある。だけどその領域に踏み込むのは難しい。海に芋をつけて食べる、ただそれだけのことが、すごく難しい。
ぼくは知りたい。どうしたらそのとき、人はコロンブスになれるのかを。どうしたらそのとき、コロンブスの功績を素直に認めてあげられるかを。
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