メッセージ。 - ぼくらがここにいる理由
# ぼくらがここにいる理由
「サブカルチャーとは何か?」で書いたことは、この間のWiki小話/Vol.6で感じたことの延長線上で考えたことでもある、というお話。Wiki小話/Vol.6でぼくは、「尖ったWikiはどこにいる」というタイトルで話した。趣旨は、「Wiki開発者は楽しんで作っている。その楽しみのエネルギーこそが『尖った』ものを作るものじゃないか」というものだった。
日本のWiki屋さんの中には、個人的な楽しみでそれを作っている人が多い。裏を返せば、便利な機能とか、ユーザーの利便性を高める機能とかを地道に作りこんでいる人はけっこう少ないということだ。一方で海外を見ると、多機能であることや高度なアプリケーションの互換性を重要視する一派がいるらしい(詳しくは塚本さんの発表資料などを参照してください)。なんでかなぁと思ったわけですよね。
ぼくは日本のWikiの状況を「悪く言えばユーザー不在だ」とも言った。この言葉に同意してくれた人もいたみたいだけど、ぼく自身はこれはリップサービスというか、「そういう面もあるよね」ぐらいの感覚で、真剣に悩んだりしていない。以前、「Wikiが流行らない理由」という話題で盛り上がったときのように、流行っていないことをけっこう楽しんでいたりもする。でも、なんでだと。
Wiki小話/Vol.6の感想で書いたように、なんとなくWikiって、漫画やアニメの状況とイメージがかぶるところがある。ちゃんとした界隈からは放っておかれているという感じ。そして中にいる人たちも、放っておかれていることを心地良く感じている気がする。漫画/アニメもWikiも、必要以上に多くのユーザーを欲しがっていない。好きな人はどうぞみたいな。
それで、中の人たちは「うおー。萌えー」とかいって楽しんでるんだけど、外にいる人たちからは「ナンダアイツラ」みたいな感じで蔑まれてたりして。そういうところが、日本的なのかなという気がする。ハイカルチャーとは対置され、地位が低いと見なされているけど、純粋に自分たちの好きなものを作ることが許される場がそこにあると。
無意識のうちにぼくらは、「ハイカルチャーに分け入って、社会的に認められてしまうと窮屈だ」と感じている。建前の世界では遊べないことを何となく察知している。オタク文化と恋愛資本主義の対立なんかも、同じ構図なんじゃないかなぁ。創造的な遊びは、やっぱりサブの文化の中にいないと味わえない。恋愛というのはなにやらうらやましく感じるけど、そこに創造の楽しみは感じられない。だからぼくらはここにいる。
日本のWiki屋さんの中には、個人的な楽しみでそれを作っている人が多い。裏を返せば、便利な機能とか、ユーザーの利便性を高める機能とかを地道に作りこんでいる人はけっこう少ないということだ。一方で海外を見ると、多機能であることや高度なアプリケーションの互換性を重要視する一派がいるらしい(詳しくは塚本さんの発表資料などを参照してください)。なんでかなぁと思ったわけですよね。
ぼくは日本のWikiの状況を「悪く言えばユーザー不在だ」とも言った。この言葉に同意してくれた人もいたみたいだけど、ぼく自身はこれはリップサービスというか、「そういう面もあるよね」ぐらいの感覚で、真剣に悩んだりしていない。以前、「Wikiが流行らない理由」という話題で盛り上がったときのように、流行っていないことをけっこう楽しんでいたりもする。でも、なんでだと。
Wiki小話/Vol.6の感想で書いたように、なんとなくWikiって、漫画やアニメの状況とイメージがかぶるところがある。ちゃんとした界隈からは放っておかれているという感じ。そして中にいる人たちも、放っておかれていることを心地良く感じている気がする。漫画/アニメもWikiも、必要以上に多くのユーザーを欲しがっていない。好きな人はどうぞみたいな。
それで、中の人たちは「うおー。萌えー」とかいって楽しんでるんだけど、外にいる人たちからは「ナンダアイツラ」みたいな感じで蔑まれてたりして。そういうところが、日本的なのかなという気がする。ハイカルチャーとは対置され、地位が低いと見なされているけど、純粋に自分たちの好きなものを作ることが許される場がそこにあると。
無意識のうちにぼくらは、「ハイカルチャーに分け入って、社会的に認められてしまうと窮屈だ」と感じている。建前の世界では遊べないことを何となく察知している。オタク文化と恋愛資本主義の対立なんかも、同じ構図なんじゃないかなぁ。創造的な遊びは、やっぱりサブの文化の中にいないと味わえない。恋愛というのはなにやらうらやましく感じるけど、そこに創造の楽しみは感じられない。だからぼくらはここにいる。
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