メッセージ。 - 高く見積もる人と低く見積もる人。理解と追体験。

# 高く見積もる人と低く見積もる人。理解と追体験。

ああ、つかれた。つかれているので、見たもの、聞いたものにそのまま反応し、感じたことを即座に書いてみます。まだ最後まで読んでいないのだけど、興味深かったので。

 
 他人に相談をして、
 
 「そんなのはこうやって解決しろよ」
 
 と言われたときにしばしば私は、
 
 「ええ〜、そんな誰でも思いつくようなまっとうで正当な解決法を提案するなんて、どういうこと? 残念ながらソレはもう思いついたし試したけど、どうしようもなかったんだよなあ」
 
 などと思ってしまいます。
 
 「それなのにそういう提案をするってことは、このひとはあたしをまれにみる馬鹿だと思っているんだな……そこまで自分を見下している人間と交流する意味ってなんだろう」
 
 と悲観的になってしまいます。

世の中には2種類の人間がいる。基本的に誰かのことを低く見積もる人と、高く見積もる人だ。

低く見積もる人は、何を聞いても自分の理解の範疇で考える。何かを相談されても、自分が正解を知っているつもりになっている。だからありきたりな正論をぶつ。相手が自分の思いも付かないことで悩んでいたり、自分と同じ悩みをかかえていたりするとは想像しない。しかしこれでは、いつまでたっても問題が解決しないし、成長しない。

もう一方の高く見積もる人は、自分の理解の範疇とほぼ同等か、その外を探そうとする。自分の理解と同等の範疇で探すときは、「そうだよね。そういうときもあるよね」という言葉が出る。理解の外を探すときには、「こうしてみたらはどう?」という言葉が出る。そこには共感があり、前へ踏み出す一歩がある。

解を探すには、自分の理解の範疇を飛び出して、相手の理解の範疇にシンクロを試みる必要があると思う。なぜなら理解とは、範疇を少し広げることだから。相手の範疇を広げることは、自分の範疇とシンクロさせることで可能になる。またそれは、自分の範疇を広げることにもなる。共感、肯定、問題共有などを伴う。言い換えれば追体験だ。

男女の間でこのような追体験を行うのは、そう難しいことではない。でも、それがうまくできない人を案外たくさん見かける。個人的には、そういう人は自分の親とちゃんとしゃべったことがないんじゃないかと思う。

たとえば男なら、自分の母親の悩みを聞いたり、今日の献立を考えるのを手伝ったりしているか? 女なら、たまにでも父親と一緒に出かけることがあるか? たったこれだけの違いだけで、モテるかモテないかに雲泥の差が出てくる。
2006-03-02 14:38:51 / ふじさわ / Comment: 1 / Trackback: 0

Comment

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続きを読んで思ったこと。

たいていの人は、自分がなにをすべきか知っている。
でも、そのとおりに行動できない。正解を知るのはそれほど難しくないが、自分を思いどおりに行動させるのは難しい。勇気というのはなかなか思い通りに出したりひっこめたりできない。

とくに女性は、その傾向が強いのかもしれない。何かをやりたいと思っても、周囲との関係に躊躇してくじけてしまうような。だから女性にとっては、答よりも勇気を出させてくれること、ぱっと目の前を明るくしてくれる意見にこそ価値を感じるのじゃないかな。女性とかに限ったことじゃないけど。
2006-03-02 15:11:01 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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