メッセージ。 - 偽善と大風呂敷

# 偽善と大風呂敷

たしかにこういう考え方は偽善的です。
でも、ぼくは物心ついたときに、純粋な善ではなくなってしまった。
物心がつくというのはそういうことです。

そう考えると、アダムとイブが禁断の果実を食べて天界を追われたのも、純粋な善ではなくなったからと言えます。
逆に、物心のつかない存在こそが純粋な善なのだろうと思います。
つまり、自然や、意思の不在こそが、純粋な善であり神であるのかもしれません。
2006-03-04 00:32:37 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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