メッセージ。 - 情報システムの本質と、社会への適用

# 情報システムの本質と、社会への適用

2005年後半から2006年初頭にかけての事件と情報教育の関連に関するコメント

非常に質の高いコメント。正論だと感じた。
ただし、まだ煎じ詰めることができると思う。この文章では、情報技術をめぐる昨今の事件について、その原因を「情報処理と情報システムの原理に対する理解の欠如」として、問題を解決するために「国民全体の『情報水準』の底上げ」が必要であるとしている。

方向性としては同意だ。
でもぼくは、国民全体の「情報水準」は、期待したほど高められないように思う。情報システムの本質というものを理解するのはとても難しいことだからだ。言うまでもなく人間の能力にはバラツキがあり、思想や習慣もかなり違う。ものごとの本質を理解する力、あるいは何に価値を見出すかも人によってさまざまだ。

この文章に書かれている言葉、「情報システムは作った人と同程度にしか信用できない」、「重要な情報システムを維持する企業の責任者(CIO)は、(中略)その成果に対して応分の責任を取れる人材であるべきである」といった指摘は秀逸だと思う。しかし、いくら高度な教育を施したところで、この秀逸な指摘を肚の底から理解し、実践できる人材はなかなか育たないのではないだろうか。

人間には向き不向きというものがあり、情報システムというものだけにそれほどの教育コストを割けないだろうと考える。かりにこのような理解をできる人材がいたとしても、それを活かせる組織であるとは限らない。情報システムに起因した問題を起こりにくくするためには、情報システムに対する理解だけでなく、コミュニケーション能力や信頼関係、目的共有と執行能力をかなり高度に保つ必要がある。人間と組織の歩留まりをそこまで高めるのは不可能だ。

では結局どうすればいいか。何が問題で、どう解決すべきなのか。それはぼくにもよく分からないけど、少なくとも情報システムの構築・保守コストが、いま一般に考えられているよりもかなり高いことをまず明らかにして、それを社会が理解すべきだと思う。そして、
(1)情報システムに誤りが含まれていてもそのミスを回復できる(フィギュアスケート採点ミスなんかは、コーチや視聴者からの情報でミスを発見できるし、その時点で人手で再計算すればよい。あるいは複システム化と組み合わせるとか。というか、最初から人手でやったっていいんじゃない?)
(2)ミスを回復できない情報システムならば、十分たくさんの人間をミス回避のために投入する(東証の誤発注では、1つの業務に対して複数の部署を用意しておき、それらの発注内容が同期したときだけシステムにコマンドが投入されるとか)

といった仕組みを作るべきなんじゃないかと考える。また、
(3)必要のないところは情報システム化しない。あるいは、ユーザーができるだけ情報システムを使用しない(情報システムは梃子だ。それを使うことで効率化できる。しかし、効率化できるということは、効率的に損失を出せるということでもある。人間が十分気を付けて使えば、得るものもあるだろう。しかし気を付けるコストが割けないのなら、痛い目に合うこともあるだろう。不要なところでは情報システムを使わないこと。必要なところでは、十分気を付けられる人的コストをそこに割くこと)
も効果があるか。

などと愚行する。つらつらと書いてみたが、本当はこんな対策じゃ問題は解決できないかもしれない。もっとちゃんと、本質は何かを(みんなで)考え、(みんなで)理解する必要があると思う。この問題の本質を解明するためには、まだまだ知恵が必要であり、それにかけるコストは十分ペイしうる。今後も情報システムは使われるだろうから。
2006-03-07 18:00:11 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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