メッセージ。 - diary

2025-06-02

# にゃー

生成AIは、たしかに有能な部下やパートナーを得た感覚に近いのだけど、どちらかというと欲しいのは有能な上司や経営層なんだよな…。
2025-06-02 08:00:32 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2025-05-28

# にゃー

「あなたのオーダーを実行しようとするとリスクがありますよ」と現場からアラートがあがったときに、「リスクなくやるのが現場の仕事だろう」と返してくるマネージャーがいると、本当に困ってしまう。

日本人は結果責任を要求する。でもリスクは厳然として存在するので、100%問題が起こらないようにするのは不可能だ。問題を回避するには、かなり安全マージンを取るしかなくなってしまう。でもそういうマネージャーは、安全マージンすら許さず、問題が起こるのも許さない。どうすればいいのか。

そうして現場はやる気を失って何もしなくなる。現場だけでなく、マネージャー自身も上のマネージャーから同じような無茶を言われているんだろう。そうやって会社全体が硬直して何の成果も出せなくなる。
2025-05-28 08:02:44 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2025-05-25

# にゃー

最近転職活動をしている。で、ありがたいことにいくつか面接の時間をいただいたりしているのだけれども、相変わらず自分はダメだなぁと痛感する。自己分析ができていないし、お相手の分析もできていない。自分が何ができて、何ができないか、お相手が何を求めていて、自分は何に貢献できそうなのか。そういったことが、ぼくには何も分かっていない。本当は、面接の最中にそういうことに気付くべきなのだ。でも、できなくて、面接が終わってから気付く。「ああ、ああ言えばよかったんだ」って。

今回は、そういったケースの一つ、「将来のキャリアプランをどう考えていますか?」に対する答らしいものを書いてみる。まず、いまから書くことは与えられたお題に対する「正答」ではまったくない。これは正答なんかではなく、ぼくが自分自身で思っていることで、企業の求めていることとは無関係である。ぼく自身は、誰かと話しているとき、お相手の求めるものを探ってしまいがちな人間だ。共感力が高かったり、コミュニケーションの癖でお相手に同調しがちなので、そうなってしまうんだと思う。嘘はつかないようにしている。でも、結果的に表現が完結しなくて、あるいは曖昧で分かりにくくなったりして、嘘っぽく聞こえてしまうときがあるんだと思う。そこは反省点だけど…、おっと話がそれている。

本題は、「将来のキャリアプランをどう考えていますか?」に対する答らしいもの、だ。ぼくは自分のキャリアプランをどう考えているか?これを聞かれたら、だいたいこんな感じで答えてしまっている。「基本的にノープランな人間なので、正直なところとくにないです。でも、人の役に立つもの、世の中に求められるものを作っていきたいです」。まぁ、見る人が見れば最悪の回答だろう。それは認める。教科書や参考書を何も見ていない人間が、客観性もなく妄想を垂れ流している。分かっている。ぼくはばかだ。でもまぁ、自分がばかであること自体はそんなに気にしていないので、とりあえずほうっておいてほしい。

本題に戻る。直近の面接でもそう答えたのだけど、後で気がついた。それは最近考えていることで、ぼくは仕事を面白くしたい。仕事を面白くする仕事をしたい。だって、いままでのキャリアで、仕事がしんどいことが多くて、面白かった経験があまりないんだもの(全然ないわけではない)。だから、これからは仕事を面白くしたい。自分自身が面白いだけではなく、周りの人にも仕事を面白く感じてほしい。お客さんにも仕事を面白く感じてほしい。ぼくがこれからやりたいことは何だ?って聞かれたら、そういうことなんじゃないかなって思う。

何を夢みたいなことを言うんだ、ってのが、お相手の人の感想だろう。分かる。「具体的にお前は何ができるんだ。やりたいだけじゃなく、やれそうな根拠を示せ」と普通は考えるだろう。おっしゃるとおり。そしてぼくは、とくに何も示せない。ユーザーさんの問題を解決して心から感謝されたこと、業界にいる末端の一員としてエンドユーザーの幸福に少しでも貢献してきたつもりなこと、障害を起こしてしまったのにそれを直したら「障害を直してくれてありがとう」とまで言ってくれるユーザーさんがいること、技術領域を理解できなくて長らく困っていたエンジニアがついに理解できて目を輝かせた瞬間、そういったものがぼくにとっての宝物だ。そういったものが、ぼくにとっては仕事が面白いかどうかのポイントになる気がする。

でもまぁ、そんなものはぼくにとっての価値であって、お相手の人には興味がないことも多いのだろう。ぼく自身としては、客観的に見てもこれらのポイントにある程度価値があるんじゃないかなぁと思うのだけど、それにしたってフワフワしてしまって夢みたいな話だという点には同意する。だって結局、このへんって気持ちの問題とか心の問題だろうから。気持ちや心なんてものは計測できないし、働きかけができないし、それをやること自体が黒魔術みたいに禁忌な感じがする。だからぼく自身も、そういうのを口にするのは憚られる。

それで結局、「あなたは何ができるの?何がしたいの?」という質問に返ってくる。「言葉にしえないもの」なのかもしれない。何がしたい?という思いもまた、気持ちについての問いなんだろうけど、気持ちについての答えを返せば曖昧になりすぎる。そういうことをいろいろ丸めて「チームビルディングがしたいです」といったことを言えばいいのかなぁ。ただ、それが実際にできるのかは「実績」がないからよく分からない。ここ数年でぼくがやってきたことは広義には「チームビルディング」と呼べるものだろうけど、再現性があるかどうかや技術として確立できるのかなど、確かなことは言いにくい。その分野の学位を持っているわけではないというか、その「分野」や「学位」が存在するのかどうかもよく分からない。それに「チームビルディング」という言葉は人にとっても意味が違うだろうし、それ専業の仕事やポジションがあるのかもよく分からない。

まぁそういった感じで、結論は出ていない。こんなだからうまくいっていないんだろうというのは自分でも理解している。でもまぁ、とにかく一歩ずつでも進むしかないから、こうやって分かったことを少しでも文章に落としてみている。
2025-05-25 10:40:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2025-05-24

# にゃー

「○○できますか?」という質問をたまに受けるけど、これは哲学的な問いだなと思う。

できるかどうか、どうやったら分かるんだろうか。正直なところ、ぼくにはよく分からない。

「自分は何も分からない人間なんだな」と嫌になる。

でもとにかく答えないといけない。できるかできないかも分からない人間だと思われたくないから。できるかどうか分からないと答えたら、怒られそうだから。

それでどうするか。もう仕方がないから「やってみる」。やってみてできたら「できる」と答えるし、できなかったら「できない」と答えよう。

でも、今できなかったとしても、もう少し頑張ればできるかもしれない。また、今できたとしても、そのうちできなくなるかもしれない。

もうよく分からない。でもとにかく、とりあえず、やってみる。できるかどうか。ぼくにはもうそれしかできない。頭がよくないから。

でだ。やってみて、できたとしよう。その場合どう答えればいいんだろうか。

「できます」と答えるべきなんだろうけど、現実はすでに「できました」の状態になってしまっている。

「できました」と答えていいんだろうか?「できるか知りたかっただけなのに」と言われてしまうかもしれない。

「できました」の状態を元に戻してから「できます」と答えるのがいいような気がする。

でも、「できました」の状態を元に戻すことはできないかもしれない。その場合はどうしよう?

よしんば元に戻せたとしても、二回目はできないかもしれないし。

そもそも「○○できますか?」という言葉は「○○してください」という意味なのだろうか。

分からない。人間は難しい。
2025-05-24 01:07:28 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2025-05-16

# にゃー

まったくもって素人ながら、近ごろの世界情勢、とくにアメリカにおいてトランプ旋風が巻き起こっていることについて、ちょっと私見を述べてみる。

この私見のきっかけになったのは、たしかもう1ヶ月ぐらい前かな、に読んだアメリカの小さな町の、田舎の人たちがどういう風にトランプさんを捉えているかとか、どういう風に自分たちの暮らしを捉えているかといった記事を読んだことがきっかけになる。

その記事の中で語られていたのは、結局「自分たちの町から仕事がなくなってしまった」ということ。何も悪いことはしていないし善良に生きていたいだけなのに、どんどん生活が苦しくなっていく。それはなぜかというと、工場がアメリカからなくなって、中国に行ったりインドに行ったりしているからだと。工場が外国に出ていったかわりに、物の価格は確かに安くなったりとかいい面もあるけれども、古き良きアメリカの姿、一生懸命真面目に働けば幸せに暮らせるという暮らしを破壊してしまった、という憤りというか、やりきれなさというかが、市井に暮らす一人の人間として苦しい、という思いを訴えるものだった。

確かにこの感情は分かる部分がある。とくに自分もある程度歳をとってきて、あるいはある程度経済が縮小し続けている日本で暮らしてきて、同じような感想を抱くことはあるから。

とくにプログラマーなんていうのをやっていると、競争相手がグローバルになるわけだよ。仕事をやるにしても、オープンソース活動をやるにしても、世界トップランカーたちと戦わなければならない。でも、ぼくなんかが真正面から戦って勝てるわけがないんだもの。彼らが手を出さないニッチなところで頑張る以外に生き残る道はないし、まあそれでも誰かの役に立つ、何かの役に立ってお金をもらえているならばありがたいことだと思っているけれども。だけど正直しんどいよね。ずるずると土俵際に追い詰められているのを感じる。

競争にさらされるというのは、直接的に「仕事がなくなる」とか「彼らに比べて良い仕事ができない劣等感」という意味でしんどさもあるけれども、ひいては「自分は何のためにいるんだろう」と、存在意義を否定されるような気持ちにもなる。現代は、十分な能力というか、十分以上の能力がないと生きていけない、あるいは生きることを許されないかのような、そういう圧力というか雰囲気というか。それがやっぱり自分の中にも内面化してしまっている。

だからある意味、中国の戦略は正しいというか、中国自身にとってはすごく合理的だと思うんだよ。というのも、外国からの競争を最初からある程度シャットダウンしているから。グレートファイアウォールと俗に言われるように、外のインターネットにはそのまま繋がらないようになっているし。検索エンジンにしてもSNSにしても決済にしても製造業にしても、彼らは自国の産業を守るためのガードを用意して、真っ向からグローバル企業と戦ったり、グローバル企業の言いなりにならないように保護政策をしっかり用意しているわけだよ。

翻って日本にはそういうものはないわけだから。中国は人口規模が大きくて経済規模も大きいのでその分有利であるという条件も元々ありつつ、そういった政策上の合理性というか戦略性というか、そういったものがあることで、やはり自国とその国民を守るということをしているわけだよね。

逆にアメリカに住んでいる一般の善良な市民たち、そして結局同じような日本の市民たちも、そういう保護政策やガード、セーフティネットがない状態で撤退戦を強いられているわけで。真面目にコツコツ暮らしているのに、暮らしがどんどん苦しくなって、生きていることを否定されるような、自分の存在価値を認めてもらえないような、そういう状況にいたら、そりゃあもうどうにかしてほしいと思っちゃうよね。とくにアメリカはさ、ホームレスや小売店の商品略奪など、目に見える形で町の治安が悪化しているし、健康保険などのセーフティネットも乏しい。経済的な意味だけでなく、文化的な面や社会的な面でもすごく不安が大きくなっていると思うんだよね。

そういう中でさ、もうどうにかしてほしい、となるのはまあ当然だよ。だから、いま起こっている現象は、単にトランプ氏の弁舌が巧みだったとか、民主党の政策が悪かったとか、それ以上の、なんていうか、行き過ぎたグローバリゼーションに対する反発というか、市民たちの苦しみの声が形になっているんじゃないかな、というようなことは感じるよね。

そういう意味では、日本だって状況はある程度共通していて、グローバリゼーションによって良かったこともあれば、悪かったこともあって。生活が苦しいよね。日本だけでなく、多分ヨーロッパもそうだし、もしかしたらロシアもそうなのかもしれない。

グローバリゼーションのおかげで、物は安く買えるようになったし、世界全体としては確かに生産性が上がっているんだろうけれども、生産性が上がったことによって、一般の労働者というか、これまで真面目に暮らし、真面目に働き、真面目に誰かのための仕事をしてきた人たちが、その暮らしを続けられなくなっている。全体最適が個別の最適を破壊しているわけだ。モータリゼーションによって馬が仕事を失ったように、現代はグローバリゼーションや大規模経済化によって人間が仕事を失いつつある。

そういう力学が働いていた(る)、というのがおそらく事実なんだと思う。だからさ、グローバリゼーションには良い面もあれば、少し行き過ぎると悪い面もあるというか。グローバリゼーションを進めるにしても、進め方を漸進的にするとか、あるいはそれによってあぶれてしまう人たち、割を食う人たちをどうするか、どうケアするかという問題もあるし。仕事がなくなって、そこに暮らしている人たちが何をすべきなのかという問題とセットで考えられなければいけないよね。そこを今まで誰か論じてきたのだろうか、とは思う。

どうしてこういう状況になっているんだろう。誰かがこうなる方向に駒を進めたんだろうか。あるいは誰の意図でもなく、自然発生的にそういう方向に我々が進んでしまったのだろうか。いずれにしても、現代において、我々はどうありたいのか、どう生きるべきか、幸せとは何なのかということが、あまりにも論じられてなさすぎるように思う。これじゃあグローバル(経済)の奴隷だよ。
2025-05-17 15:34:24 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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