メッセージ。 - diary
2025-09-24
# にゃー
カメラの話。ニコンがZRというシネマカメラを発表したとのこと。
で、シネマカメラとは何ぞや?という疑問を呈している人を見かけた。
それで感じたこと。
最近のカメラは高機能すぎるというか、高級すぎるというか、とにかくすごい。すごすぎる。
でも。「すごい」というのは個人的には手が出しづらくなっちゃうんだよね。
そういう製品は値段も高くなるし。
これは前にも書いたことがあるけど、シンプルで非力なものを限界まで使いこなすほうが、個人的には楽しく感じる。人馬一体の感覚みたいなものがあるし、ライトウェイトスポーツカーに乗っているような感じ。バイクだって排気量の大きいものに乗るより50CCとか125CCぐらいを振り回すほうが楽しいらしいけど、それと同じだと思う。
PCにおいては、Zaurusという小さくて非力なコンピュータを使うほうが、高性能なPCを使うより楽しいと昔書いたことがあるけど、それも同じ。結局高度で複雑でブラックボックスになってしまった道具を使っても、世界や自然と直接対話できなくなってしまってしんどいということじゃないかな。
だから趣味で使う道具なんかは敢えてシンプルな思想、設計で作ってくれるほうがいいし、仕事で使う道具でさえそうであってほしい。そうじゃないと正しいことをやっているか自信が持てないし、何をやっているのか分からなくなってしまう。
なんなら道具に限らないかな。社会自体ももっとシンプルで直接的であったほうが、人間にとって「優しい」気がする。現代社会はもう、何が真実かも分からないし、人とのコミュニケーションが難しすぎる。もっと地に足のついた生活をして、手触りのある、身体的な関係性でなければ、難しいのではないか。
なんかカメラの話だけではなくなったけど。
で、シネマカメラとは何ぞや?という疑問を呈している人を見かけた。
それで感じたこと。
最近のカメラは高機能すぎるというか、高級すぎるというか、とにかくすごい。すごすぎる。
でも。「すごい」というのは個人的には手が出しづらくなっちゃうんだよね。
そういう製品は値段も高くなるし。
これは前にも書いたことがあるけど、シンプルで非力なものを限界まで使いこなすほうが、個人的には楽しく感じる。人馬一体の感覚みたいなものがあるし、ライトウェイトスポーツカーに乗っているような感じ。バイクだって排気量の大きいものに乗るより50CCとか125CCぐらいを振り回すほうが楽しいらしいけど、それと同じだと思う。
PCにおいては、Zaurusという小さくて非力なコンピュータを使うほうが、高性能なPCを使うより楽しいと昔書いたことがあるけど、それも同じ。結局高度で複雑でブラックボックスになってしまった道具を使っても、世界や自然と直接対話できなくなってしまってしんどいということじゃないかな。
だから趣味で使う道具なんかは敢えてシンプルな思想、設計で作ってくれるほうがいいし、仕事で使う道具でさえそうであってほしい。そうじゃないと正しいことをやっているか自信が持てないし、何をやっているのか分からなくなってしまう。
なんなら道具に限らないかな。社会自体ももっとシンプルで直接的であったほうが、人間にとって「優しい」気がする。現代社会はもう、何が真実かも分からないし、人とのコミュニケーションが難しすぎる。もっと地に足のついた生活をして、手触りのある、身体的な関係性でなければ、難しいのではないか。
なんかカメラの話だけではなくなったけど。
2025-09-16
# にゃー
↓のような記事を読んだ。
家族持ちのエンジニアが副業や勉強に精を出しすぎて家庭が壊れてしまう現象を僕の観測範囲内でも片手に収まらないぐらい観測してる→「家族との対話大事」「365日働きたい」
https://posfie.com/@kalofollow/p/UFMTkRl
SNSの意見では「そんな風に働きたい」とか「家庭を省みないのは社会不適格者」といった意見が多いみたい。
ぼく自身はプライベートな時間でたいして勉強しているわけではないし、勉強が好きだったり楽しいと感じたりできない中途半端な人間なのだけど、そんなに打ち込んで勉強できる人は尊敬する。
もちろん、家庭も大切にしないといけないし、現代において365日24時間働くなんてのは不正義なのかもしれないけど。ただ、それが本当に不正義かどうか、働くとはどいうことかについて、他の人があまり指摘していないことをここでは書きたい。
この記事を読んで思い出したのは、昭和のころのような昔の世代の研究者だ。『白い巨塔』なんかを読んでいてもそういう研究者(白い巨塔の場合は大学病院に勤務する医師・助教授クラス)が出てくるけど、そういう昔の研究者って、ものすごく勉強するんだよね。
家でも自室に籠って勉強し、研究に邁進する。そして妻や子供は、そういった旦那の仕事を邪魔しないよう、旦那が自室に籠っているときは静かに暮らし、ひっそりと影で支えるというのが、たぶんその時代は普通だったんだと解釈している。
研究者というのは、それくらい勉強しないと成り立たない職業ということだと思うし、研究者に限らずとも、「何かを為す」ためにはそれほどの献身が必要だということを、本人も家族も(そしてたぶん社会も)その当時は理解し合意していたんだと思う。
ぼく自身は研究者にも何者にもなれなかった人間だけど、正直なところ、そういう人間には憧れがあるし、そういう人がいたら応援したいなと思う。だって、「仕事」に身を捧げるというのは崇高で尊いものだというイデアが自分の中にあるから。
こんなの、侍の時代の考え方で時代遅れの害悪なのかもしれないけどさ。でも、現代においてさえ、政治家やトップの研究者や芸術家は(もっといえば役人、職人、商人においてさえ)、そのレベルの献身をもってことに当たるのが「当たり前」なんじゃないのかな?
逆にそういう真剣さをみなが手放してしまったことで、政治も研究も社会も、なんか変なことになっているような気がする。なんのために働くのか、なんのために生きるのか、そういうことが本当に分かりにくく、合意されていない時代になってしまった。
家族持ちのエンジニアが副業や勉強に精を出しすぎて家庭が壊れてしまう現象を僕の観測範囲内でも片手に収まらないぐらい観測してる→「家族との対話大事」「365日働きたい」
https://posfie.com/@kalofollow/p/UFMTkRl
SNSの意見では「そんな風に働きたい」とか「家庭を省みないのは社会不適格者」といった意見が多いみたい。
ぼく自身はプライベートな時間でたいして勉強しているわけではないし、勉強が好きだったり楽しいと感じたりできない中途半端な人間なのだけど、そんなに打ち込んで勉強できる人は尊敬する。
もちろん、家庭も大切にしないといけないし、現代において365日24時間働くなんてのは不正義なのかもしれないけど。ただ、それが本当に不正義かどうか、働くとはどいうことかについて、他の人があまり指摘していないことをここでは書きたい。
この記事を読んで思い出したのは、昭和のころのような昔の世代の研究者だ。『白い巨塔』なんかを読んでいてもそういう研究者(白い巨塔の場合は大学病院に勤務する医師・助教授クラス)が出てくるけど、そういう昔の研究者って、ものすごく勉強するんだよね。
家でも自室に籠って勉強し、研究に邁進する。そして妻や子供は、そういった旦那の仕事を邪魔しないよう、旦那が自室に籠っているときは静かに暮らし、ひっそりと影で支えるというのが、たぶんその時代は普通だったんだと解釈している。
研究者というのは、それくらい勉強しないと成り立たない職業ということだと思うし、研究者に限らずとも、「何かを為す」ためにはそれほどの献身が必要だということを、本人も家族も(そしてたぶん社会も)その当時は理解し合意していたんだと思う。
ぼく自身は研究者にも何者にもなれなかった人間だけど、正直なところ、そういう人間には憧れがあるし、そういう人がいたら応援したいなと思う。だって、「仕事」に身を捧げるというのは崇高で尊いものだというイデアが自分の中にあるから。
こんなの、侍の時代の考え方で時代遅れの害悪なのかもしれないけどさ。でも、現代においてさえ、政治家やトップの研究者や芸術家は(もっといえば役人、職人、商人においてさえ)、そのレベルの献身をもってことに当たるのが「当たり前」なんじゃないのかな?
逆にそういう真剣さをみなが手放してしまったことで、政治も研究も社会も、なんか変なことになっているような気がする。なんのために働くのか、なんのために生きるのか、そういうことが本当に分かりにくく、合意されていない時代になってしまった。
2025-08-11
# にゃー
やっぱ本屋はいいなぁ。本最高だなぁ。
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本屋の何がいいって、情報がちゃんと人間の力で整理されてるというか、読む人のために用意されてるところにとても安心感がある。ネットと比べるなら、ネットは野生の森の中、藪の中を行くようなものだと感じる。本屋は整備された町の中。もちろん町なんかつまらないと、家から飛び出して野生の世界に触れるべきだ、みたいな意見も分かるんだけれども。
ある程度バランスが大事だと思うよ。だって、本屋で本を選ぶとか、学会でフィルタリングされた論文を読むのって、要するに巨人の肩に乗るってことだから。それを完全に否定するのはもったいないと思う。知の宝庫だよあそこは。
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本屋の何がいいって、情報がちゃんと人間の力で整理されてるというか、読む人のために用意されてるところにとても安心感がある。ネットと比べるなら、ネットは野生の森の中、藪の中を行くようなものだと感じる。本屋は整備された町の中。もちろん町なんかつまらないと、家から飛び出して野生の世界に触れるべきだ、みたいな意見も分かるんだけれども。
ある程度バランスが大事だと思うよ。だって、本屋で本を選ぶとか、学会でフィルタリングされた論文を読むのって、要するに巨人の肩に乗るってことだから。それを完全に否定するのはもったいないと思う。知の宝庫だよあそこは。