メッセージ。 - diary

2019-04-22

# にゃー

昔、エネルギー革命や産業革命が起こる前、人間が住む環境をコントロールしようとしたとき、どんなことをしただろう。たとえば、作物の取れにくい痩せた土壌、雨が少ししか降らない土地、土砂崩れの起こりやすい土地。今のように重機も、車や鉄道による流通システムもない時代。そんな時代に人間が使った道具は、たぶん水だ。山に降った雨が川に流れる。その流れを少し変えて、水と地形の力で、少しずつ地形や土壌や流通システムを変えていくことができる。ビーバーがダムを作るように、人間もダムを作り、川を作り、長い年月をかけて土壌や土地を「改良」していったはずだ。大きな力の助けを借りる、大きな力を使いこなす。観察し、調査し、実験する。小さなロジック、小さなスイッチが、大きな力の流れを変えうること。ただ大きな結果を得るためには、大きな背景を理解し、先を読み、本質を突く必要がある。
2019-04-22 09:11:07 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# にゃー

練習もしないで、できるようになるわけがない。たくさん練習をしたら、できないはずがない。
2019-04-22 08:36:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-04-19

# にゃー

神さまは、あなたが笑顔でいるのを見たいんだよ。
2019-04-19 08:42:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-04-18

# にゃー

人は、何かを演じることができる。会社員なら誰でも、「会社の中で働く人には、こういうリアクションが期待されているだろう」というイメージを持ち、それを演じている。父親には父親の、通行人には通行人の、カメラを持つ人にはカメラを持つ人の、子供には子供の、猫には猫の「イメージ」や「社会から要請されている『あるべき姿』」があり、この社会においては、その範囲内で振る舞う限りある程度の安全が保証されている。だからみな、ほとんどの人はほとんどのケースで、そのイメージを逸脱しないようにしている。

一方で、そういったイメージを演じることには、オーバーヘッドがある。ネイティブマシンの上で動く仮想マシンには、ネイティブマシンより早く動作できないという差分、オーバーヘッドがあるように、ネイティブな人間の感性や思考、好みをある程度封じ、社会から要請されるイメージを演じることは、オーバーヘッドを内包している。もちろん、「イメージを演じる」ことは、その役割に期待されている機能性を満たすための「プロトコルに沿っている」ことを保証する意味もあるので、マクロ的に見たときの生産性という観点では、オーバーヘッドとプロトコルは相殺されるのかもしれないが。
2019-04-18 09:24:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-04-17

# にゃー

目標を立ててしまうと、達成できなかったときにペナルティを感じてしまう。「だから最初から目標を立てない」、もしくは「目標を低めに設定する」という人って、実は多いんじゃないか。少なくとも、ぼくは子供のころにそういった考え方を身に付け、実践してきたところがある。多くを望んで手に入れられずガッカリするのなら、最初から望まないほうがいいと。

それは一理ある。正しい生き方なんじゃないかとさえ思うし、それ自体を否定するのは性急だと考えるので、ここでは議論しない。ここで言いたいのは、「とはいえ、なんの目標も立てないで漫然とやる、あるいはとても小さな目標だけあげてその消化を命題とする」というのでは、結局何がやりたいのか分からなくなったり、毎日の仕事から意義が失われてしまったりするんじゃないかということ。

そのためにも、目標が達成できなかったとしても即座にペナルティとしない、あるいは、素直に何がやりたいのか、何ができるかもしれないのか、まずは口にしてみるということが必要なんじゃないかと思う。そういう意味では、素直さってのは実はすごく強い。
2019-04-17 09:24:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-04-12

# にゃー

子供のころ、学校に遅刻しちゃって、校門の前で泣いてたことがあったんだよね。そしたら、スーツを着た男の人が声をかけてくれてさ。教室まで連れていってくれたんだよ。そのときぼくは、大きくなったらあんな風に誰かを助けられる人になりたいって強く思ったんだ。
2019-04-12 09:06:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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