メッセージ。 - diary
2019-04-04
# にゃー
よくあるSFのパラレルワールドだと、どこかで分岐した「ありえた世界」が描かれる。ただ、多くのケースではありえた世界をただ手付かずで描くのではなく、ありえた世界の間を、主人公やその仲間が行ったり来たりすることで話が展開する。このとき、登場人物たちは記憶や身体の連続性を保ったまま世界間を行き来するし、場合によっては時間さえも行き来する(世界間の行き来が空間の移動に当たるのかはよく分からない)。
一方でこのパラレルワールドは、記憶や身体の連続性を保ったまま世界観の行き来はできない。世界間の行き来は、別の時間と別の空間へ、記憶も身体もリセットされる形で移送される。一度生まれたものは、死ぬまで別のパラレルワールドには移送されない。それでもこの世界には、文字通り気が遠くなるほど多くのパラレルワールドが存在し、それらが絡み合い、相互作用しあって「一つのありえた世界」を紡いでいく。
一方でこのパラレルワールドは、記憶や身体の連続性を保ったまま世界観の行き来はできない。世界間の行き来は、別の時間と別の空間へ、記憶も身体もリセットされる形で移送される。一度生まれたものは、死ぬまで別のパラレルワールドには移送されない。それでもこの世界には、文字通り気が遠くなるほど多くのパラレルワールドが存在し、それらが絡み合い、相互作用しあって「一つのありえた世界」を紡いでいく。
2019-04-03
# にゃー
東京の電車は面白い。複数の路線が並行して走っているから。他の地域には、あんまりこういうのはないと思うな。電車に乗る人の姿には、なぜだかそれだけでもドラマがあるし、絵になる。とくに、並行して走る別の電車の車窓越しに見る人は、たいへん興味深い。そんな美しい世界じゃなかったとしても。
混んだ電車のなか、窓に手と顔を押し付けられる人。ちょっと見ると滑稽でおかしい。だけどこっちの電車だって混んでいる。後ろから押され、前にも動けず、変な姿勢で足の置き場を探している。つまり、あの人は自分だ。ぎゅうぎゅう詰めの電車のなか、わけもわからず静かにしている。スマホに目を落とす人。目を閉じる人、何かを眺める人。男性も、女性も、老いた人も若い人も、口を開かず、それぞれの思いでそこにいる。
パラレルワールドみたいに交わらない世界。声は届かない、何も伝えられない。でもお互いに、一瞬を切り取って見ることができる。人々は別の空間、別の時間を進んでいく。あなたはわたし。わたしはあなた。そこに区別などない。皆訳も分からずこの世界に放り込まれ、どこかに向かって進んでいく。
混んだ電車のなか、窓に手と顔を押し付けられる人。ちょっと見ると滑稽でおかしい。だけどこっちの電車だって混んでいる。後ろから押され、前にも動けず、変な姿勢で足の置き場を探している。つまり、あの人は自分だ。ぎゅうぎゅう詰めの電車のなか、わけもわからず静かにしている。スマホに目を落とす人。目を閉じる人、何かを眺める人。男性も、女性も、老いた人も若い人も、口を開かず、それぞれの思いでそこにいる。
パラレルワールドみたいに交わらない世界。声は届かない、何も伝えられない。でもお互いに、一瞬を切り取って見ることができる。人々は別の空間、別の時間を進んでいく。あなたはわたし。わたしはあなた。そこに区別などない。皆訳も分からずこの世界に放り込まれ、どこかに向かって進んでいく。
2019-04-02
# にゃー
天を論じないものに大事をなせるだろうか。「なせる」という論と「なせない」という論があるだろう。「なせる」派は単に技術さえあれば、そこに意志は不要という考え方だ。ただ、「ことを成す」のはたぶんどこまで行っても人間か人間の集まりであって、そこに悪意や間違いや暴走があったときにも問題が起こらないかは考えておかなければいけない。悪意や間違いや暴走さえ防げるような技術があれば問題ないという考え方もあって、それはシステムにコントロールを完全に預け、外部から停止する機能を持たないことを意味するだろう。あるいは、人間もある種の機械のようなものなので、システムの中に人間も含めてしまって、人間とシステムの判断によってシステムを停止したり、挙動を微調整するような仕組みか。ただここで問題になるのは「大事をなす」の定義だろう。それが単に「系をできるだけ長く安定させる」ことを指すなら、そういう仕組みで何も問題ないのかもしれない。もしくは、こういった考えそのものが、「人間以外に実行系を持たない」時代のものなのかもしれない。もはや人間など介さずとも計算機がいろいろなことを実行できる環境が見えてきている現代において、心配する必要がないという考え方もある。悪意はさておき、間違いや暴走をできるだけ防ぐ、つまりバグを出さないようにすればいい。といっても未来予見が必要だったり再現性が低かったりするのである程度難しいだろうけど、長期的にはヒューリスティックに補正していくことで系は安定するはず。
ええと、で、何が書きたかったかというと、逆に「なせない」派の視点に立ったとき。「天を論じないものに大事はなせない」というのが命題でこれは「天を論じないものに世界は救えるか?」と言い換えられると思ったんだよな。「できるだけ長く系を安定させる」と「世界を救う」の間には開きがあるような気がするけど。まあとにかく、「世界を救う」と「天を論じる」の二つを考えたとき、天を論じることなく世界を救うような物語が多いなぁと。たとえば『ドラえもん』の大長編映画では、のび太やドラえもんたちがひょんなことから世界の危機に直面し、そして紆余曲折のすえ解決してしまったりする。その話中、彼らが天を論じる箇所はほとんど見ない。同じような構図はそこかしこにあって、普通の少年少女がいつのまにか世界の危機に巻き込まれ、しかしやがて世界を救っていく物語が多い。外観的には「天を論じる」場面など出てこないし、子供たちはそんなようなことは語らない。語られない。でも、それらの物語に通底しているのは、たしかにそういう物語性というか、意志なんじゃないかなぁと思うんだよな。
ええと、で、何が書きたかったかというと、逆に「なせない」派の視点に立ったとき。「天を論じないものに大事はなせない」というのが命題でこれは「天を論じないものに世界は救えるか?」と言い換えられると思ったんだよな。「できるだけ長く系を安定させる」と「世界を救う」の間には開きがあるような気がするけど。まあとにかく、「世界を救う」と「天を論じる」の二つを考えたとき、天を論じることなく世界を救うような物語が多いなぁと。たとえば『ドラえもん』の大長編映画では、のび太やドラえもんたちがひょんなことから世界の危機に直面し、そして紆余曲折のすえ解決してしまったりする。その話中、彼らが天を論じる箇所はほとんど見ない。同じような構図はそこかしこにあって、普通の少年少女がいつのまにか世界の危機に巻き込まれ、しかしやがて世界を救っていく物語が多い。外観的には「天を論じる」場面など出てこないし、子供たちはそんなようなことは語らない。語られない。でも、それらの物語に通底しているのは、たしかにそういう物語性というか、意志なんじゃないかなぁと思うんだよな。
2019-04-01
# にゃー
「天」という概念がいいなとぼくが思う理由は、それが人生と社会と世界を運命論的に扱うからだ。それぞれに意味があるという考え方が根底にある。逆に、「すべてに意味なんてないんだ。現代において人間は、動物的に、意味や物語でなく唯物論的に快楽的に生きればいいんだ」という意見もあるけど。
人間は何か大きなものに仮託して生きたくなってしまう生き物だ。個人的にはあまり好きな考えではないというか、認めたくない考え方だけど。しかし、人生に意味は欲しい。生きている、生きていく、死んでいくとは何なのかと考えてしまう。究極的には、誰かに認められる必要なんかない。自分で自分を認める必要すらないのではないかと思う。ただここにある以上、なにかを願い、祈らざるを得ないような感じ。死への道筋でただ一つ何かをしていいと許されるなら、それは祈りなのではないか。
何の話だっけ。天か。まとまらないけど、「天」という言葉の感覚は、ぼくにとってはお釈迦様が空から人びとを見ているような感覚がある。人間や生き物や世界、地上の世界が幸せにあるよう見守っているような。それぞれの人生、それぞれの一瞬一瞬、それぞれの国家、それぞれのプロジェクトに、そのときどき果たすべき役割があるというような感覚。社会のなかの存在意味でなくても、個としての存在意味を与えるような。
相変わらずまとまらないけど、「天」という感覚を持つことが、ある意味で教養なのではないか。中島らもは「一人で誰にも迷惑をかけず時間を過ごせる技術が教養だ」というようなことを言った。それはまさに「天」と個との感覚を言っているように思うし、天という価値観がなければ、国家運営のような大事を成すことは難しいようにも思う。
人間は何か大きなものに仮託して生きたくなってしまう生き物だ。個人的にはあまり好きな考えではないというか、認めたくない考え方だけど。しかし、人生に意味は欲しい。生きている、生きていく、死んでいくとは何なのかと考えてしまう。究極的には、誰かに認められる必要なんかない。自分で自分を認める必要すらないのではないかと思う。ただここにある以上、なにかを願い、祈らざるを得ないような感じ。死への道筋でただ一つ何かをしていいと許されるなら、それは祈りなのではないか。
何の話だっけ。天か。まとまらないけど、「天」という言葉の感覚は、ぼくにとってはお釈迦様が空から人びとを見ているような感覚がある。人間や生き物や世界、地上の世界が幸せにあるよう見守っているような。それぞれの人生、それぞれの一瞬一瞬、それぞれの国家、それぞれのプロジェクトに、そのときどき果たすべき役割があるというような感覚。社会のなかの存在意味でなくても、個としての存在意味を与えるような。
相変わらずまとまらないけど、「天」という感覚を持つことが、ある意味で教養なのではないか。中島らもは「一人で誰にも迷惑をかけず時間を過ごせる技術が教養だ」というようなことを言った。それはまさに「天」と個との感覚を言っているように思うし、天という価値観がなければ、国家運営のような大事を成すことは難しいようにも思う。
2019-03-29
# にゃー
「神」というのは、方程式における「x」だとぼくは思ってる。理想を満たすものをさがすとき、あるいは単に何かの概念を念頭に置くとき、それに名前を付けると扱いやすい。式をこねくり回して「証明」したりできる。だからそこに誰かが名前を付けた。「神」と。「そこに何かがあるとすれば」とまどろこしく前提を付けるのではなく、「いったんあると仮定しましょう、xです。xはaを満たすはずです、bも満たします」と式を置いていった。日本語で表現するならば、それは「天」に相当するだろう。
まぁしかし、「天」なんて言葉は最近聞かないな。完全に死に絶えたわけではないだろうけど、「天」という言葉を出して何かを論じる人はほとんど見ない。かといって日本人は「神」などという言葉や概念もほぼ使わない。ただ(自分も含めて)人々が気にしているのは、身の回りの人やお金や何かの物ばかりなのではないか。でもそれでほんとにいいんだろうか。
まぁしかし、「天」なんて言葉は最近聞かないな。完全に死に絶えたわけではないだろうけど、「天」という言葉を出して何かを論じる人はほとんど見ない。かといって日本人は「神」などという言葉や概念もほぼ使わない。ただ(自分も含めて)人々が気にしているのは、身の回りの人やお金や何かの物ばかりなのではないか。でもそれでほんとにいいんだろうか。