メッセージ。 - diary

2019-04-18

# にゃー

人は、何かを演じることができる。会社員なら誰でも、「会社の中で働く人には、こういうリアクションが期待されているだろう」というイメージを持ち、それを演じている。父親には父親の、通行人には通行人の、カメラを持つ人にはカメラを持つ人の、子供には子供の、猫には猫の「イメージ」や「社会から要請されている『あるべき姿』」があり、この社会においては、その範囲内で振る舞う限りある程度の安全が保証されている。だからみな、ほとんどの人はほとんどのケースで、そのイメージを逸脱しないようにしている。

一方で、そういったイメージを演じることには、オーバーヘッドがある。ネイティブマシンの上で動く仮想マシンには、ネイティブマシンより早く動作できないという差分、オーバーヘッドがあるように、ネイティブな人間の感性や思考、好みをある程度封じ、社会から要請されるイメージを演じることは、オーバーヘッドを内包している。もちろん、「イメージを演じる」ことは、その役割に期待されている機能性を満たすための「プロトコルに沿っている」ことを保証する意味もあるので、マクロ的に見たときの生産性という観点では、オーバーヘッドとプロトコルは相殺されるのかもしれないが。
2019-04-18 09:24:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-04-17

# にゃー

目標を立ててしまうと、達成できなかったときにペナルティを感じてしまう。「だから最初から目標を立てない」、もしくは「目標を低めに設定する」という人って、実は多いんじゃないか。少なくとも、ぼくは子供のころにそういった考え方を身に付け、実践してきたところがある。多くを望んで手に入れられずガッカリするのなら、最初から望まないほうがいいと。

それは一理ある。正しい生き方なんじゃないかとさえ思うし、それ自体を否定するのは性急だと考えるので、ここでは議論しない。ここで言いたいのは、「とはいえ、なんの目標も立てないで漫然とやる、あるいはとても小さな目標だけあげてその消化を命題とする」というのでは、結局何がやりたいのか分からなくなったり、毎日の仕事から意義が失われてしまったりするんじゃないかということ。

そのためにも、目標が達成できなかったとしても即座にペナルティとしない、あるいは、素直に何がやりたいのか、何ができるかもしれないのか、まずは口にしてみるということが必要なんじゃないかと思う。そういう意味では、素直さってのは実はすごく強い。
2019-04-17 09:24:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-04-12

# にゃー

子供のころ、学校に遅刻しちゃって、校門の前で泣いてたことがあったんだよね。そしたら、スーツを着た男の人が声をかけてくれてさ。教室まで連れていってくれたんだよ。そのときぼくは、大きくなったらあんな風に誰かを助けられる人になりたいって強く思ったんだ。
2019-04-12 09:06:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-04-11

# にゃー

昨日たまたま、女性の体がなんとなくぼくの体に触れることがあったんだけど。なんであんなに、心地よく感じるのかなぁ。柔らかさというか、重さというか、なんとも言えない心地よさがあった。同じ空間にあって、お互いのことを特に知らないし知るつもりもないけど、ただかたわらにありそっと触れあう時間を共有しただけで、ちょっと許されたような感覚があった。世の中には、こんなに人間がいて、社会も発展しているのに、こんなささやかな許しにはなかなかたどり着けない。どうなっているんだろうね。
2019-04-11 08:30:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-04-10

# にゃー

普段行かない場所に行ったりすると、ふと不安になることがある。「自分はここにいていいんだろうか」って。動物でいうなら、自分のテリトリーや安全地帯から外れてしまったとき、身の危険を感じるのと同じだろう。だから、こういう風に感じること自体は普通のことだと思うんだけど。他の人も同じように感じてるんだろうか。周りの人を見ていても、よく分からないんだよね。みんな綺麗に着飾って、キラキラかがやく街を、胸を張って前を見て歩いてる。でもぼくには、そういうことができる気がしない。ここにいていいんだろうか。ぼくは何をしてるんだろうか。なぜここにいるんだろうか。そういうことを考えてしまう。
2019-04-10 21:00:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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