メッセージ。 - diary

2019-02-17

# にゃー

大人には、やらなきゃいけないことってないんだよ。子供は宿題をやらなきゃいけない、身の回りの整理をしなきゃいけない、でも大人にはそういうものはないんだ。もちろん確かに、大人は仕事をすることになっているし、毎日洗濯をしたり家の中を片付けたり、ご飯を食べたりすることになっている。でもそれらは大人にとって、最終的には「やらなきゃいけないこと」ではないんだよ。

自分がやりたくないと望むなら「やらない」という選択もあるし、やりたい、何かを手にしたいと願うならやることもできる。やるかやらないか、どこまでやるか、いつやるかは、すべて自由。ただ、その自由によって選択した道の先に起こることも、すべて受け入れなければいけない。答えのない問題に向きあって、暗がりのなかを歩き続ける。それが大人なんだ。

ただ、ぼくだって偉そうなことは言えない。毎日失敗して、「ああすればよかった。どうしてこう言わなかったんだろう?」と思うことの連続だ。残念ながら、ぼくはたいした人間ではない。本当に毎日失敗ばかりで、こんなふうでごめんねと心から謝りたい。ごめんね。でも。でもぼくはまだ諦めてはいないんだ。毎日失敗ばかりで、周りの人を傷つけてしまうし自分で自分が嫌になることも多いけど、「やりたいこと」のために、少しでも前に進みたいとまだ願ってる。
2019-02-17 22:54:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-02-16

# にゃー

文章が読めない人が案外いるという話が少し前話題になったけど、文脈とか文意の理解が苦手な人が案外多いってことなのかなぁ。たとえば、文章の中にちょっとでもネガティブな言葉が入っていると「縁起でもないこというな」という感じで拒絶してしまい、あらゆる可能性を想定した仮説や議論そのものができない人がいるけど、案外文章の中の単語だけを拾ってしまったり、特定の単語に反応しすぎてしまったりして、全体の文意が取れなくなってしまうのかもしれない。かくいうぼくも、会議とかで他の人がつまらない話題を話し出すと、とたんに興味を失い話についていけなくなることがある。悪い意味ではなく、識字障害の一種というか、センテンスの理解にも人それぞれのやり方や理解度、あるいは理解や興味の癖というものがあり、同じ文章でも世の中で人に理解されているより受け取られ方は相当多様なのではないかと思った。
2019-02-16 22:18:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# にゃー

魔女狩りは過去のものではない。いまもそこかしこで起きている。しかもたちが悪いことに、彼らは自分が恐ろしいことをしているという自覚がない。自分が正しいことをしていると信じ、呪いのこもったひどい言葉を投げつける。そういったひどい言葉は、現在のところは違法ではない。言論と表現の自由がある。魔女狩りにあった人が、本当に悪人か、サイコパスか、真に強い人であるならば、恨みの言葉など気にしなければいいだけだろう。しかし、必ずしもそうではない。普通の人間が業火に投げ込まれている。目を覆いたくなる惨状だ。
2019-02-16 00:57:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-02-15

# にゃー

文章が読めない人が案外いるという話が少し前話題になったけど、文脈とか文意の理解が苦手な人が案外多いってことなのかなぁ。たとえば、文章の中にちょっとでもネガティブな言葉が入っていると「縁起でもないこというな」という感じで拒絶してしまい、あらゆる可能性を想定した仮説や議論そのものができない人がいるけど、案外文章の中の単語だけを拾ってしまったり、特定の単語に反応しすぎてしまったりして、全体の文意が取れなくなってしまうのかもしれない。かくいうぼくも、会議とかで他の人がつまらない話題を話し出すと、とたんに興味を失い話についていけなくなることがある。悪い意味ではなく、識字障害の一種というか、センテンスの理解にも人それぞれのやり方や理解度、あるいは理解や興味の癖というものがあり、同じ文章でも世人に理解されているより受け取られ方は多様なのではないかと想像する。
2019-02-15 23:54:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-02-12

# にゃー

スナップ撮影の話で、「撮る前にひと声かけて許可を得ろ」という意見があるけど。だけど許可を得るために一声かけること自体、「キモいから話しかけるな。非常識だろう。撮影なんか許可するわけないだろう、知り合いでもないのに声をかけてくるのは犯罪」みたいに言われない?言われる感じがすごくするんだけど。男女の付き合いで、「同意を得ろ」という話にも同じことが言えると思ってて。「〇〇していい?」って同意を求めたら、「ぬいぐるみに〇〇が」とか言われて結局罪を着せられるんじゃないかなぁ?結局どうすればいいのか分からないんだよね。とにかく他者には近寄らないしかないと思ってしまう。近寄るだけで怖がらせてしまい迷惑になると本気で心配している人がいるんだよ。病気なのかもしれないけど。
2019-02-12 22:12:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-02-10

# にゃー

https://togetter.com/li/1317407
娘と電車に乗っていたら全く知らない老人に突然インスタントカメラで写真を撮られた…『勝手に撮るの止めてください』→全く話が通じなかった出来事 - Togetter

この話、はてブのほうにコメントしたけど。

 うーん。どっちの気持ちも分かる。撮影の問題というより、人と人とはどう触れ合えるのか、とくに見知らぬもの同士の場合、かな。ご老体は、自らの子や孫のように被写体を愛しているとも取れる。社会への愛と憎。

このご老体がどういう人かは分からない。悪い人かもしれない。気持ち悪いという気持ちや、撮られた人の気持ちを考えてほしいという気持ちも分かる。ぼくもそういう気持ちになる。それはそれとして、一つの可能性として。

ぼくが、「写真を撮りたいな」と感じるのは、「ああ、美しいなぁ。好きだなぁ」と感じるときだ。この瞬間をずっと見ていたい。ありがとうと言いたい。自分の好きな人にも見せてあげたい。「ほら、世界はこんなに美しいんだよ。優しいんだよ」って。

ご老体の気持ちを想像するならなおさら、美しい世界への思いは強いだろう。なぜなら彼らは、それを日々失いつつあるし、近いうちにそのすべてを失くしてしまうのだから。可愛らしい子供の仕草、母と子の絆。射し込む光の美しさ、あたたかな時間。それらを永遠にとどめておきたい。

もちろん、被写体となるその世界を壊すなんてつもりは毛頭ない。むしろ守りたいとさえ思うだろう。そうしたとき、「大丈夫」という言葉が出るのかもしれない。「この世界は、怖くないんだよ。あなたを傷つけるものはここにはいないし、いたとしたら私が許さない。だから大丈夫。若いあなたは怖れるかもしれないけど、あなたが思うより、ほら、こんなにも世界は優しく美しいんだよ」と。

少し前。もしかしたら今もかもしれないけど。田舎の家には玄関の鍵などかけなかった。都会でもそういうところがあっただろう。別に鍵などかけなくても、泥棒になど入られなかった。それがいまは、都会ならどこでも鍵をかけるだろう。実際に、泥棒が増えているのかそうでないのかは知らない。鍵をかけることに本当に効果があるのかもしれない。しかし、そうでないのかもしれない。

少なくともぼくが思うのは、あるいは望むのは。皆が鍵をかける世の中よりも、皆が鍵をかけない世の中だ。田舎の家が、昔の家が、鍵をかけないでいられたのはなぜだろう。それがいまできないのなら、なぜなんだろう。問題なのは、家に鍵をかけることだろうか。家に鍵などかけなくても、泥棒をする必要がない世界なのではないか。

いや、そんなこと不可能だという意見も分かる。現実とは違うとぼく自身も思う。だけど、人を疑えば相手だってこちらを疑う。人を憎めばこちらも憎まれる。そして、その逆もまた起こり得るんだ。そのために必要なことはなんだと思う?
2019-02-10 13:42:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
recent days<< | >>old days