メッセージ。 - diary
2019-01-30
# にゃー
ここ数日、家の周りで猫がにゃあにゃあないている。夜通しないているような感じで心配だ。あれだけなけば、喉だって痛いだろう。何か困っているんじゃないかなぁ。こんな寒い冬の夜に、外で寝るのはさぞ辛いはず。いったいどうすればいいんだろう。あたたかいご飯でもあげて家に入れてあげたいけど。それをするには、去勢をしたり最後まで責任を持つ必要があるんだって。でも、率直に言ってぼくは去勢が嫌いだ。自分自身が去勢されたくないから。もしくは、ぼく自身が誰か他の人を去勢する権利があると納得できないから。しかし、ならばスーパーで肉を買い、暖かい家の中で美味しいものを毎日お腹いっぱい食べているぼくは、どんな権利の上に成り立っているのかという話であることは理解できる。じゃあどうすればいいんだろう。目の前に困っている人(猫)がいても、ぼくは何もできないのか。じゃあ、人生っていったいなんなのか。一日一善なんて嘘なのか?いったいこの世界はどうなっているんだろう。どうすればいいんだろう。
2019-01-29
# にゃー
昨日電車に乗っていたときのこと。イヤフォンのケーブルが誰か知らない人のカバンのベルトに挟まってしまったようで、駅に着いたとき引っ張られてしまった。手もふさがっていたので、おっとっとという感じになったんだけど、たまたま隣に立っていたお姉さんが気づいて、さっと両手を使って外してくれた。「ありがとうございます」と言うと、ちょっとこちらを見てニコッ。かっこよかったなぁ。ああいうのがヒーローっていうんだと思う。そういえば、昔はよく「一日一善」という言葉を聞いたけど、最近は聞かないなぁ。皆があんな風に一日一善できたら、この世界は凄いことになるんだろうなぁと思った。
# にゃー
一人称について。ちょっと前、あるお母さんが小さい娘さんに「あ
なたはもうお姉ちゃんなんだから、自分のことは「さっちゃん」(仮称)じゃなくて『
わたし』と呼ぶんだよ」と教えていて、なんでなんだろうと思っていた。その後えらく時間がかかったけど、やっと理由が分かった。
自分の一人称を名前で呼ぶということは、その環境はみな自分のことを知っている前提がある。たとえば家族の中では、
周りは皆自分のことを一人称の呼び名、たとえば「さっちゃん」
と呼ぶ。だから自分で自分のことを「さっちゃんはね」
と呼んでも何も不都合がない。
しかし、家から外に出て、自分のことを知らない人や、今後も名前を覚えあう必要のない相手と会話するとき、一人称を「さっちゃんは」とすることには合理性がない。「わたし」という匿名化された形こそが適切になるのだろう。つまり、あのお母さんは娘さんが一人で社会に出ていける歳になりつつあるんだよという考えを持っていたんだなぁ。まだちょっと早いような気はするけど。
なたはもうお姉ちゃんなんだから、自分のことは「さっちゃん」(仮称)じゃなくて『
わたし』と呼ぶんだよ」と教えていて、なんでなんだろうと思っていた。その後えらく時間がかかったけど、やっと理由が分かった。
自分の一人称を名前で呼ぶということは、その環境はみな自分のことを知っている前提がある。たとえば家族の中では、
周りは皆自分のことを一人称の呼び名、たとえば「さっちゃん」
と呼ぶ。だから自分で自分のことを「さっちゃんはね」
と呼んでも何も不都合がない。
しかし、家から外に出て、自分のことを知らない人や、今後も名前を覚えあう必要のない相手と会話するとき、一人称を「さっちゃんは」とすることには合理性がない。「わたし」という匿名化された形こそが適切になるのだろう。つまり、あのお母さんは娘さんが一人で社会に出ていける歳になりつつあるんだよという考えを持っていたんだなぁ。まだちょっと早いような気はするけど。
2019-01-28
# にゃー
カメラの選び方について。経験上、結局のところ買って試してみるしかないと思う。買ってみて細かい不満が出てきたら、その不満を解消できる次のカメラを買うことになるので、その繰り返しで家の中にどんどんカメラが増える。でも、カメラってのはそういうものなんだと思う。良い写真を得るためには、写真を撮る技術も必要だけど、撮りたいものに適した機材を選ぶ知識も必要になる。だから、良い写真が欲しいという気持ちは、いろんな機材を知りたい気持ちと繋がりやすい。そして、機材の良さは使ってみないと分からない。誰かからかいつまんで要点を教えてもらってショートカットしようとしても、結局のところ写真が好きなら機材は増えてしまう傾向にある。でも、それできっと良いのだ。ただ、それでもやっぱり予算は無限にあるわけではないので、出来るだけ近道を行きたい気持ちは分かる。その場合、初心者のころにカメラを選ぶ大事なポイントは、「気軽に持ち運べる重さと大きさ」「明るいレンズ」につきるかなというのが、個人的な意見。
2019-01-24
# にゃー
少しだけ時間を余らせて、街角に立ち、人の流れを見る。いろんな人がいる。皆前を向き歩いていく。いつものぼくも、そういった風景の中に染まり、通り過ぎていく。当たり前だが、前だけを見ていては前以外が見えない。そこにあるはずの、人も物も場所も時間も、まるでなかったかのように通り過ぎていく。消え去っていく。しかし、果たして消え去っていくのは、人や物や場所や時間なんだろうか。消え去っているのは自分自身ではないか。いや、実際には自分自身のはずがない。自分も、他のものも、世界自体も、消え去っている。でもどこに?それは分からない。もうずっと分からない。あるいは、世界自体は消え去っていないのかもしれない。それは前など向いていないだろう。