メッセージ。 - diary
2019-01-22
# にゃー
やっぱりiPhoneだとテキストが書きにくいなぁ。PCに劣るのは仕方ないにしても、当然そう動くべき挙動が実現していない。これは不具合なんだろうか。ザウルスの小さいキーボードがこいしい。あれはあれで気難しいところがあったが。
人間の体と心も、とくに歳をとってくると言うことを聞かなくなってくる。これは不具合なんだろうか。それともこれが所与のものなのだろうか。他の人はどうしているんだろうか。分からない。思えばずっと、そういった不完全なものとの付き合いばかりだ。すべてが不完全。期待値が高過ぎては転び、低すぎると退屈。いったいぼくは、どこへ向かっているのか。もはやどっちから来たのかすらはっきりしない。
人間の体と心も、とくに歳をとってくると言うことを聞かなくなってくる。これは不具合なんだろうか。それともこれが所与のものなのだろうか。他の人はどうしているんだろうか。分からない。思えばずっと、そういった不完全なものとの付き合いばかりだ。すべてが不完全。期待値が高過ぎては転び、低すぎると退屈。いったいぼくは、どこへ向かっているのか。もはやどっちから来たのかすらはっきりしない。
# にゃー
今回大阪に帰省して、東京よりも知らない人同士が話をする土壌があるのかなぁという気がした。東京だとみんなが忙しすぎて、イレギュラーを会話で吸収するのではなく、事前にイレギュラーが起きないよう考慮しておかなければならない、とでもいうような空気がある気がする。
東京にいると皆がピリピリしていて、自分もちょっとしたことでテンパってしまいがちだけど、大阪では、大袈裟にいうとちょっとしたやりとりや表情に許しがあったというか。
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結局、マネジメントの仕事は、「正解のない課題を正解のある課題に分解して、いろんなリソースを使って実行すること」なんだろう。
マネジメントのある国では、正解のある仕事と正解のない仕事が明確に分割され、それらへの人のアサインも明確に分かれていると考える。
一方日本は、そこがまったく曖昧で、すべての人が正解のない仕事にトライしている。そこに大きな難しさや困難がある。
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今晩リリースだというのに、直前で不具合が発生し、なんとか丸く収めて「さぁ帰ろう」と思ったのもつかの間、東海道線が人身事故で、車内に1時間近く閉じ込められることに…。しかも、風邪の症状が悪化してて、今日ばかりは早く寝たかったんだよ…。人身事故でここまで閉じ込められるのは初めてだけど、これはキツい。本当に今日はついていない。まぁ、といっても昔はもっともっとツラいプロジェクトばかりで、こんな時間に電車に乗れるなんてことは数年に一度もなかったけど。
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やっと最寄駅に着いて、これから歩いて帰る。結局1時間10分ほど止まっていたらしい。まぁまぁ混んでいる中で立ちっぱなしのこれはキツい。ずっと同じ姿勢で立ってたので、少し座らないとどうにかなりそう。しかしホームに椅子はなし。吐きそう。こういう状況にあっても、とくに文句もなく弱音も吐かず、散り散りに家路につく乗客たち。偉い。
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次回同じようなことを聞かれたときのためにメモ。
ここにあるネットワーク機器、PC、サーバー、それらの配線とそこにインストールされているすべてのプログラムとそれらのすべての組み合わせ。そのすべてに意図や目的があって、現在の構成になっているんです。
一部あなたがたのご要望どおりに動かない状況で、なんとか直したい。どこをどう変えれば直るのか?今日突然この場に来たぼくには、まず現状を確認することだけでも困難なんです。たとえばこのルーター。その設定がどうなっているのか、ルーターへのログインIDとパスワードを知らないぼくが、どうやって設定内容を知ることができるでしょう。
この32ポートのスイッチ。それぞれのポートに刺さっているケーブルがどこから来てどこへ行くのか。床にはいつくばってすべてを追いかけて、まず現状を図や表に落とし込む必要があります。1つたりとも間違わずに。配線だけなら目で見ればわかります。しかしそれぞれがどのIPアドレスを使っているかも調べなければなりません。
IPアドレスって、ケーブルを目で見ても分からないので、通常であればその機器にログインしてコマンドを実行する必要があります。そのためにはやはりそれぞれの機器のログインIDとパスワードが必要です。それらをすべて把握しているネットワーク管理者にいま連絡が取れますでしょうか?ネットワーク管理者がいらっしゃらない?ふぅむ。
現状、ここにあるネットワーク機器、PC、サーバー、それらの配線とそこにインストールされているすべてのプログラムとそれらのすべての組み合わせ。そのすべてに意図や目的があってこうなっています。その不具合を修正し、すべてがあなたがたの望む通り100%の状態にするには、それらのすべての意図(仕様)と、その背景にある要件(あなたがたが実現したいこと、毎日、毎月、毎年の運用のすべて)を知らなければできません。
初めてこの現場に来た私は、それを1つも知りません。しかし一方で、私がここに到着してから1時間のうちに、いま出ている問題を修正し、午後の業務が問題なくできるようにしなければいけないのです。できることには限りがあります。100パーセントの状態にするためには、時間も費用もかかります。また今度にしましょう。
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長年の疑問。トイレに行ったら必ず手を洗うじゃん?用を足して手が汚れてるからだよね。だけど、用を足したあと、パンツやズボンをはくために、手を使わなきゃいけないんだよ。汚れた手でパンツやズボンを触ると汚れがうつるでしょ?つまり、手を洗うのは、ズボンを履く前がいいのか後がいいのか。理屈からいうと前がいいんだけど、お手洗いのシステムがそれを許さないケースが多いんだ。
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営業と開発の軋轢について、これまで何度も経験してきた。なぜ軋轢が起こるのか、一例の言語化を試みる。
まず、営業の要望はこうだ。不具合や障害をゼロにしてほしい。顧客に約束した機能のリリースを絶対に遅延なく、もちろん不具合や障害もなく行ってほしい。
次に開発の意見。不具合や障害をゼロにすることは、物理的にできない。100%過不足のない見積もりはできないので、絶対に遅延や不具合や障害がないことは保証できない。しかし、スケジュールにバッファを持たせることや、二重化、三重化など設計に工夫をこらすことでリスクは減らせる。ただしそのぶんコストがかかる。
それぞれの言いたいことや気持ちは分かる。ある程度もっともな問題定義だと思う。ただ、あいだに立つ、あるいはどちらか一方の立場に立っていると(つまりプロジェクトに参加していると)、非常に骨が折れる。「その骨折りに、会社はお金を払っているんだよ」ということかもしれない。じゃあ、このまま何もしないでもいいのか?これが理想の状態なのかというと、違うと思う。
ちょっと話がそれるが、スクラム。スクラムで見積もりをする。スプリントを回してみる。見積もりどおりに完了しない。ここで営業から不満が出る。「なぜ見積もりどおりに完了しないのか?」と。一つの回答は「見積もりが甘かった」。あるいは、「見積もり時に予期できない問題が後に発見された」。
営業の言い分はこうだ。「見積もりが甘いのは、甘い見積もりを出した開発者の(お前らの)せいだろう」「見積もり時に問題を発見できないのは開発者のスキルが足りないそうだろう」。そして、最悪の場合こう続く。「徹夜してでもやれ」。
どちらの気持ちも分かるが、とくにスクラム開発の場合に理解しておかなければいけないことがあって、それは見積もりにバッファが一切含まれていないことだ。営業部門は顧客ではない。だから、見積もりのときにバッファを持たせていない。だからそこには、無視できない遅延や不具合のリスクがある。
「いや、バッファを持たせていいから絶対に守れるスケジュールをあげよ」ということかもしれない。「プロなんだから、やると言った約束を守れよ(でもバッファは持たせるな)」という場合もありそうだ。しかしまぁ、正確にはぼくも理解できていないかもしれないけど、スクラム開発ってそういうものなんじゃないかという気がする(少なくとも開発側はそう思ってると考えないと整合性が取りにくい)。
あるいは不具合や障害が出たとき。開発側は「よし。自動テストのカバレッジを上げたので二度と同じ問題は起こらないよ。Cool!」とか言ってたりする(とくに外国人エンジニア)。一方で営業の言い分はこうだ。「そもそも不具合や障害が何で起きるんだ?最初から起こらないようにしろよ。プロだろ?」(とくに日本人の営業担当者)。
ぼくにはどちらの気持ちも分かる。分かるけど、非常につかれる。問題はどこにあるのか?このままでいいのか?個人的には、それぞれが上に挙げたようなことを、ただ思い、お互いに悪感情を抱くだけで、「これが嫌だよ」「こうして欲しいよ」「こうなるといいよね」と語りかけず、ただ不満と不信だけが募っていくのが、一番問題だと思う。
前提となる進め方とゴール、理想すら共有されていない。そんなのでうまくいくわけがない。
----
この世界では、強くなければ、欲しいものは手に入らないんだ。ほんのささやかなものでさえ、強さを必要とする。歩くのも、話すのも、考えるのも、どこかに行くのも強さだ。最低限の強さがなければ、最低限の欲しいものさえ手に入らない。人間の社会は、現代社会は、かつてより平等になったのだと思う。それでもいまでも、欲しいものを手に入れるには、強くあるしかないんだ。少なくとも、最低限の強さを。ぼくは、普段生きていて、強さは悪いことのように感じてしまうことがある。何かを手に入れたいという欲も、仏教では悪だろう。だけど、強さそのものは悪ではないのかな。普段なんとなく、強さをあまり良くないもののような感じるけど、それはきっと違うんだよね。強いこと自体は、たぶん悪じゃない。あとは、欲しいという欲。仏教ではそれは悪だろうけど、資本主義をベースとした今の世の中で、それはいったいどう位置付けられるんだろう。
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「みんながそうするから自分も同じようにする」ってのは、現実問題として大勢だと思う。だって、ペットの去勢とか、家畜をブロイラーに入れるのとか、どう考えてもひどい暴力だもの。でもみんな、それを受け入れてる。たいした考えもせずに。キリストが死んでくれたからいいんだって?馬鹿を言え。キリスト一人の命で償える罪だと思うか?百歩譲ってキリスト教の仕組みが働くとしても、キリストの命は初期費用に過ぎない。いずれにせよ月額保守派は必要だ。あるいは、キリスト教外の人間はどうするのか?どう罪を贖うのか?
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自意識のない生物には何をしてもいいと言うのが、現代のおおかたの価値観だろうね。正しいか、倫理的か、哲学的かはさておき。
東京にいると皆がピリピリしていて、自分もちょっとしたことでテンパってしまいがちだけど、大阪では、大袈裟にいうとちょっとしたやりとりや表情に許しがあったというか。
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結局、マネジメントの仕事は、「正解のない課題を正解のある課題に分解して、いろんなリソースを使って実行すること」なんだろう。
マネジメントのある国では、正解のある仕事と正解のない仕事が明確に分割され、それらへの人のアサインも明確に分かれていると考える。
一方日本は、そこがまったく曖昧で、すべての人が正解のない仕事にトライしている。そこに大きな難しさや困難がある。
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今晩リリースだというのに、直前で不具合が発生し、なんとか丸く収めて「さぁ帰ろう」と思ったのもつかの間、東海道線が人身事故で、車内に1時間近く閉じ込められることに…。しかも、風邪の症状が悪化してて、今日ばかりは早く寝たかったんだよ…。人身事故でここまで閉じ込められるのは初めてだけど、これはキツい。本当に今日はついていない。まぁ、といっても昔はもっともっとツラいプロジェクトばかりで、こんな時間に電車に乗れるなんてことは数年に一度もなかったけど。
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やっと最寄駅に着いて、これから歩いて帰る。結局1時間10分ほど止まっていたらしい。まぁまぁ混んでいる中で立ちっぱなしのこれはキツい。ずっと同じ姿勢で立ってたので、少し座らないとどうにかなりそう。しかしホームに椅子はなし。吐きそう。こういう状況にあっても、とくに文句もなく弱音も吐かず、散り散りに家路につく乗客たち。偉い。
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次回同じようなことを聞かれたときのためにメモ。
ここにあるネットワーク機器、PC、サーバー、それらの配線とそこにインストールされているすべてのプログラムとそれらのすべての組み合わせ。そのすべてに意図や目的があって、現在の構成になっているんです。
一部あなたがたのご要望どおりに動かない状況で、なんとか直したい。どこをどう変えれば直るのか?今日突然この場に来たぼくには、まず現状を確認することだけでも困難なんです。たとえばこのルーター。その設定がどうなっているのか、ルーターへのログインIDとパスワードを知らないぼくが、どうやって設定内容を知ることができるでしょう。
この32ポートのスイッチ。それぞれのポートに刺さっているケーブルがどこから来てどこへ行くのか。床にはいつくばってすべてを追いかけて、まず現状を図や表に落とし込む必要があります。1つたりとも間違わずに。配線だけなら目で見ればわかります。しかしそれぞれがどのIPアドレスを使っているかも調べなければなりません。
IPアドレスって、ケーブルを目で見ても分からないので、通常であればその機器にログインしてコマンドを実行する必要があります。そのためにはやはりそれぞれの機器のログインIDとパスワードが必要です。それらをすべて把握しているネットワーク管理者にいま連絡が取れますでしょうか?ネットワーク管理者がいらっしゃらない?ふぅむ。
現状、ここにあるネットワーク機器、PC、サーバー、それらの配線とそこにインストールされているすべてのプログラムとそれらのすべての組み合わせ。そのすべてに意図や目的があってこうなっています。その不具合を修正し、すべてがあなたがたの望む通り100%の状態にするには、それらのすべての意図(仕様)と、その背景にある要件(あなたがたが実現したいこと、毎日、毎月、毎年の運用のすべて)を知らなければできません。
初めてこの現場に来た私は、それを1つも知りません。しかし一方で、私がここに到着してから1時間のうちに、いま出ている問題を修正し、午後の業務が問題なくできるようにしなければいけないのです。できることには限りがあります。100パーセントの状態にするためには、時間も費用もかかります。また今度にしましょう。
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長年の疑問。トイレに行ったら必ず手を洗うじゃん?用を足して手が汚れてるからだよね。だけど、用を足したあと、パンツやズボンをはくために、手を使わなきゃいけないんだよ。汚れた手でパンツやズボンを触ると汚れがうつるでしょ?つまり、手を洗うのは、ズボンを履く前がいいのか後がいいのか。理屈からいうと前がいいんだけど、お手洗いのシステムがそれを許さないケースが多いんだ。
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営業と開発の軋轢について、これまで何度も経験してきた。なぜ軋轢が起こるのか、一例の言語化を試みる。
まず、営業の要望はこうだ。不具合や障害をゼロにしてほしい。顧客に約束した機能のリリースを絶対に遅延なく、もちろん不具合や障害もなく行ってほしい。
次に開発の意見。不具合や障害をゼロにすることは、物理的にできない。100%過不足のない見積もりはできないので、絶対に遅延や不具合や障害がないことは保証できない。しかし、スケジュールにバッファを持たせることや、二重化、三重化など設計に工夫をこらすことでリスクは減らせる。ただしそのぶんコストがかかる。
それぞれの言いたいことや気持ちは分かる。ある程度もっともな問題定義だと思う。ただ、あいだに立つ、あるいはどちらか一方の立場に立っていると(つまりプロジェクトに参加していると)、非常に骨が折れる。「その骨折りに、会社はお金を払っているんだよ」ということかもしれない。じゃあ、このまま何もしないでもいいのか?これが理想の状態なのかというと、違うと思う。
ちょっと話がそれるが、スクラム。スクラムで見積もりをする。スプリントを回してみる。見積もりどおりに完了しない。ここで営業から不満が出る。「なぜ見積もりどおりに完了しないのか?」と。一つの回答は「見積もりが甘かった」。あるいは、「見積もり時に予期できない問題が後に発見された」。
営業の言い分はこうだ。「見積もりが甘いのは、甘い見積もりを出した開発者の(お前らの)せいだろう」「見積もり時に問題を発見できないのは開発者のスキルが足りないそうだろう」。そして、最悪の場合こう続く。「徹夜してでもやれ」。
どちらの気持ちも分かるが、とくにスクラム開発の場合に理解しておかなければいけないことがあって、それは見積もりにバッファが一切含まれていないことだ。営業部門は顧客ではない。だから、見積もりのときにバッファを持たせていない。だからそこには、無視できない遅延や不具合のリスクがある。
「いや、バッファを持たせていいから絶対に守れるスケジュールをあげよ」ということかもしれない。「プロなんだから、やると言った約束を守れよ(でもバッファは持たせるな)」という場合もありそうだ。しかしまぁ、正確にはぼくも理解できていないかもしれないけど、スクラム開発ってそういうものなんじゃないかという気がする(少なくとも開発側はそう思ってると考えないと整合性が取りにくい)。
あるいは不具合や障害が出たとき。開発側は「よし。自動テストのカバレッジを上げたので二度と同じ問題は起こらないよ。Cool!」とか言ってたりする(とくに外国人エンジニア)。一方で営業の言い分はこうだ。「そもそも不具合や障害が何で起きるんだ?最初から起こらないようにしろよ。プロだろ?」(とくに日本人の営業担当者)。
ぼくにはどちらの気持ちも分かる。分かるけど、非常につかれる。問題はどこにあるのか?このままでいいのか?個人的には、それぞれが上に挙げたようなことを、ただ思い、お互いに悪感情を抱くだけで、「これが嫌だよ」「こうして欲しいよ」「こうなるといいよね」と語りかけず、ただ不満と不信だけが募っていくのが、一番問題だと思う。
前提となる進め方とゴール、理想すら共有されていない。そんなのでうまくいくわけがない。
----
この世界では、強くなければ、欲しいものは手に入らないんだ。ほんのささやかなものでさえ、強さを必要とする。歩くのも、話すのも、考えるのも、どこかに行くのも強さだ。最低限の強さがなければ、最低限の欲しいものさえ手に入らない。人間の社会は、現代社会は、かつてより平等になったのだと思う。それでもいまでも、欲しいものを手に入れるには、強くあるしかないんだ。少なくとも、最低限の強さを。ぼくは、普段生きていて、強さは悪いことのように感じてしまうことがある。何かを手に入れたいという欲も、仏教では悪だろう。だけど、強さそのものは悪ではないのかな。普段なんとなく、強さをあまり良くないもののような感じるけど、それはきっと違うんだよね。強いこと自体は、たぶん悪じゃない。あとは、欲しいという欲。仏教ではそれは悪だろうけど、資本主義をベースとした今の世の中で、それはいったいどう位置付けられるんだろう。
----
「みんながそうするから自分も同じようにする」ってのは、現実問題として大勢だと思う。だって、ペットの去勢とか、家畜をブロイラーに入れるのとか、どう考えてもひどい暴力だもの。でもみんな、それを受け入れてる。たいした考えもせずに。キリストが死んでくれたからいいんだって?馬鹿を言え。キリスト一人の命で償える罪だと思うか?百歩譲ってキリスト教の仕組みが働くとしても、キリストの命は初期費用に過ぎない。いずれにせよ月額保守派は必要だ。あるいは、キリスト教外の人間はどうするのか?どう罪を贖うのか?
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自意識のない生物には何をしてもいいと言うのが、現代のおおかたの価値観だろうね。正しいか、倫理的か、哲学的かはさておき。
2018-08-02
# 日本人のウチ・ソトから通じる主客のロールについて
なんか最近、はてなブックマークの感じが悪いなぁと思っている。一時期話題になったネットイナゴみたいというか、みんなで憤って特定の対象に罵詈雑言を浴びせるみたいなのをよく目にする。記事を読んだときに、すぐどっちかに肩入れして感情的になるような人が多いのかなぁ。見ていて怖い。集団ヒステリーみたいな。もうちょっと優しくしてくれるとうれしいのだけど。まぁ裏を返せば、ぼくはぼくで、そういう事態に遭遇しがちな記事をよく見ているということだけど。で、今日見かけたのはこの記事。
オバさん「救急隊員がコンビニに入ることはどうかな、購入は控えたほうがいい」飲み物を買うことすら快く思わない不寛容な人が話題に - Togetter
この件、「救急隊員がコンビニに入ることはどうかな」という感覚を持つ人が一定数いる、というのは、ある程度事実なんじゃないかなという気がする。「それは不寛容だ」「そういうのを許す社会であるべき」という意見も分かる。しかし、なぜそういう人が一定数いるのか、そういう価値観の人がいるのかを理解しようとしないで、「許すべき」「変わるべき」と言っても、それはただの精神論や言い争いにしかならないように思う。
性急に感じてしまうんだよな。まぁ、はてなブックマークの仕様上100文字しか書けないから、十分な論考を書くのが難しいというのは分かる。しかし、何かコメントを書く前に頭の中で考えて、どちらかに偏らない、攻撃的でないコメントだけを残してみるというのは、不可能ではないはずだ。本来はてなブックマークに集う人たちというのは、それができる賢い人達だったと思うんだよなぁ。
で、コンビニの救急隊員立ち寄りの件なんだけど。救急隊員のような制服を着た人たちというのは、社会にとってはメタな存在なんだよね。社会の秩序を保つ監督者というか。黒子みたいなもので、基本的に、日本人は彼らが見えないことを期待しているように思う。だから、救急隊員や警察官が、私服でコンビニに行くのは全然違和感がないんだよ。なぜなら私服の人は、社会の監督者ではなく監督される者であり、お客様だから。
この「監督する者」と「監督される者」という言い方は、いくぶん分かりにくい。もっとストレートに言うと、主(あるじ)と客(きゃく)なんだ。日本人には、ある程度動物的・原始的な縄張り意識が強固にあって、いま自分が縄張りのウチにいるかソトにいるかを無意識のなかで常に理解して行動している。自宅の中ではもちろんウチだが、一歩戸外に出るとソトだ。そして、外に出てしまえば客(きゃく)として振る舞うことが社会から要請されている。客は、主の言うことに従わねばならない。逆に主は、客の安全を保証し、客同士のいざこざを裁定する義務を負う。
公道であれば、主は警察官であり国家だ。駅であれば主は駅員であり鉄道事業者だ。だからたとえば、公道において窃盗事件を目の当たりにしたとして、もしくは駅において病気で倒れた人がいたとして、それを見つけた日本人は、自らだけの判断で犯人を逮捕しようとしたり、病人を助けるために救急車を呼ぶということは躊躇われる。なぜなら、客の義務はまず主に報告することだからだ。窃盗の犯人を捕らえたり、直接駅に救急車を呼んだりすることは、客としての権限を超えた行為であり、何か起こったときの責任が取れないと感じてしまう。公道や駅において、客として期待される振る舞いは、あくまでも歩行者や乗客であって、それを逸脱する行為には、大きな心理的葛藤が生じるのだ。日本人にとって、「与えられたロール」というのは、それほど強固だ。
※逆に外国では、それほど主客のロールが強固でなく、主もテリトリーの安全を100%保証できない、する必要がないという考えから、客は自己の安全を自分で守る権限と責任があると見なされているように思う。そのためアメリカ人は銃を持ちたがるし、逆に日本では事件があると警察や場の主が強く責められるといった傾向があるのではないか。
だから、救急隊員や警察官や駅員の制服で、あるいは医師や看護師なら白衣で、学生なら学生服で、居ていい場所というのは限られる。日本人はその服装でロールを特定し、それに限られた振る舞いのみを許容するよう、無意識に強く刷り込まれている。しかも、そのロールは、基本的に見た目(制服、性別、年齢等)だけで判断される。全然違うトピックだけど、日本で生まれ日本で育ったハーフやクオーターの人(外国人の見た目を持つ人)が、日本語を話すと奇異に見られたり、どれだけ頑張っても外国人扱いされたりするのも何か共通の要因があるのではないか。
そういう日本人の基本的アルゴリズムがあるところに、「制服を着た人が私人として行動することに寛容であるべき」と単純に押し付けても仕方がないというか、コンフリクトを起こすだろう。それはつまり、主人と客の境界をあいまいにする言説であり、基本的アルゴリズムのセキュリティやプロトコルのインターフェースを脅かすことになるのだから。そういう寛容さを許容できるようにするには、基本的アルゴリズムのほうに手を入れるか、プロトコルを拡張するかしなければ、現実的な提案とはいえないのではないか。
オバさん「救急隊員がコンビニに入ることはどうかな、購入は控えたほうがいい」飲み物を買うことすら快く思わない不寛容な人が話題に - Togetter
この件、「救急隊員がコンビニに入ることはどうかな」という感覚を持つ人が一定数いる、というのは、ある程度事実なんじゃないかなという気がする。「それは不寛容だ」「そういうのを許す社会であるべき」という意見も分かる。しかし、なぜそういう人が一定数いるのか、そういう価値観の人がいるのかを理解しようとしないで、「許すべき」「変わるべき」と言っても、それはただの精神論や言い争いにしかならないように思う。
性急に感じてしまうんだよな。まぁ、はてなブックマークの仕様上100文字しか書けないから、十分な論考を書くのが難しいというのは分かる。しかし、何かコメントを書く前に頭の中で考えて、どちらかに偏らない、攻撃的でないコメントだけを残してみるというのは、不可能ではないはずだ。本来はてなブックマークに集う人たちというのは、それができる賢い人達だったと思うんだよなぁ。
で、コンビニの救急隊員立ち寄りの件なんだけど。救急隊員のような制服を着た人たちというのは、社会にとってはメタな存在なんだよね。社会の秩序を保つ監督者というか。黒子みたいなもので、基本的に、日本人は彼らが見えないことを期待しているように思う。だから、救急隊員や警察官が、私服でコンビニに行くのは全然違和感がないんだよ。なぜなら私服の人は、社会の監督者ではなく監督される者であり、お客様だから。
この「監督する者」と「監督される者」という言い方は、いくぶん分かりにくい。もっとストレートに言うと、主(あるじ)と客(きゃく)なんだ。日本人には、ある程度動物的・原始的な縄張り意識が強固にあって、いま自分が縄張りのウチにいるかソトにいるかを無意識のなかで常に理解して行動している。自宅の中ではもちろんウチだが、一歩戸外に出るとソトだ。そして、外に出てしまえば客(きゃく)として振る舞うことが社会から要請されている。客は、主の言うことに従わねばならない。逆に主は、客の安全を保証し、客同士のいざこざを裁定する義務を負う。
公道であれば、主は警察官であり国家だ。駅であれば主は駅員であり鉄道事業者だ。だからたとえば、公道において窃盗事件を目の当たりにしたとして、もしくは駅において病気で倒れた人がいたとして、それを見つけた日本人は、自らだけの判断で犯人を逮捕しようとしたり、病人を助けるために救急車を呼ぶということは躊躇われる。なぜなら、客の義務はまず主に報告することだからだ。窃盗の犯人を捕らえたり、直接駅に救急車を呼んだりすることは、客としての権限を超えた行為であり、何か起こったときの責任が取れないと感じてしまう。公道や駅において、客として期待される振る舞いは、あくまでも歩行者や乗客であって、それを逸脱する行為には、大きな心理的葛藤が生じるのだ。日本人にとって、「与えられたロール」というのは、それほど強固だ。
※逆に外国では、それほど主客のロールが強固でなく、主もテリトリーの安全を100%保証できない、する必要がないという考えから、客は自己の安全を自分で守る権限と責任があると見なされているように思う。そのためアメリカ人は銃を持ちたがるし、逆に日本では事件があると警察や場の主が強く責められるといった傾向があるのではないか。
だから、救急隊員や警察官や駅員の制服で、あるいは医師や看護師なら白衣で、学生なら学生服で、居ていい場所というのは限られる。日本人はその服装でロールを特定し、それに限られた振る舞いのみを許容するよう、無意識に強く刷り込まれている。しかも、そのロールは、基本的に見た目(制服、性別、年齢等)だけで判断される。全然違うトピックだけど、日本で生まれ日本で育ったハーフやクオーターの人(外国人の見た目を持つ人)が、日本語を話すと奇異に見られたり、どれだけ頑張っても外国人扱いされたりするのも何か共通の要因があるのではないか。
そういう日本人の基本的アルゴリズムがあるところに、「制服を着た人が私人として行動することに寛容であるべき」と単純に押し付けても仕方がないというか、コンフリクトを起こすだろう。それはつまり、主人と客の境界をあいまいにする言説であり、基本的アルゴリズムのセキュリティやプロトコルのインターフェースを脅かすことになるのだから。そういう寛容さを許容できるようにするには、基本的アルゴリズムのほうに手を入れるか、プロトコルを拡張するかしなければ、現実的な提案とはいえないのではないか。
2018-07-05
# にゃー
近代資本主義化によって、日本の経済は成長し1980年代に頂点に達した。その頂点に至る間人口は増え続け、産業を高次にシフトさせ、第一次産業を毀損してしまった。
しかしその後通貨高や他の国の近代資本主義化によって日本経済は頭打ちし、長い長い経済縮小期を迎えた。春があれば秋があるように、夏があれば冬があるように、成長の蔭には縮小があった。
経済成長というのは、もちろん良いことなのだろう。楽しいことや嬉しいことをたくさんもたらしてくれる。しかし一方で、過大な成長はのちの縮小ももたらす。それは屈辱や苦しみ、死を意味する。
一体全体、経済というものは、無限に成長するものなのだろうか。たしかに、農作物や畜産資源は、特定の環境下にあるとき倍々に増える能力を有する。技術は進歩を続ける。そして資本力は増大する。
だが経済といった観点ではどうだろう?経済はずっと成長を続けるだろうか?そうではないのではないか。あるいは社会。社会はずっと成長し続けるものだろうか?社会にとっての成長とはなんだろう?
人口が減っている社会は成長しているのだろうか?縮小しているのだろうか?そもそもなぜ人口は減っているのだろうか?
かつての日本の封建社会は、あるいは現代にも通じる社会的性向では、技術革新よりも社会性が重視される傾向にある。技術者や専門家の地位は低く、サービスがそれを支配する。開発部門よりも営業部門が偉い社会。
それはまるで、技術の進歩により人間が神に近づくことを怖れ諌めているかのようだ。日本人は基本的に自然崇拝であるが、自然の延長線上にある科学技術をある点では馬鹿にしているか、あるいは下に置こうとする。
農耕文明、太陽崇拝においては、持続可能性こそが無上の価値であり、社会や人はそのフレーム内で日々を過ごすだけというような考え方が、日本人の心のうちにプログラミングされているのかもしれない。ある意味普遍的で、ある意味刹那的な価値観。
しかしその後通貨高や他の国の近代資本主義化によって日本経済は頭打ちし、長い長い経済縮小期を迎えた。春があれば秋があるように、夏があれば冬があるように、成長の蔭には縮小があった。
経済成長というのは、もちろん良いことなのだろう。楽しいことや嬉しいことをたくさんもたらしてくれる。しかし一方で、過大な成長はのちの縮小ももたらす。それは屈辱や苦しみ、死を意味する。
一体全体、経済というものは、無限に成長するものなのだろうか。たしかに、農作物や畜産資源は、特定の環境下にあるとき倍々に増える能力を有する。技術は進歩を続ける。そして資本力は増大する。
だが経済といった観点ではどうだろう?経済はずっと成長を続けるだろうか?そうではないのではないか。あるいは社会。社会はずっと成長し続けるものだろうか?社会にとっての成長とはなんだろう?
人口が減っている社会は成長しているのだろうか?縮小しているのだろうか?そもそもなぜ人口は減っているのだろうか?
かつての日本の封建社会は、あるいは現代にも通じる社会的性向では、技術革新よりも社会性が重視される傾向にある。技術者や専門家の地位は低く、サービスがそれを支配する。開発部門よりも営業部門が偉い社会。
それはまるで、技術の進歩により人間が神に近づくことを怖れ諌めているかのようだ。日本人は基本的に自然崇拝であるが、自然の延長線上にある科学技術をある点では馬鹿にしているか、あるいは下に置こうとする。
農耕文明、太陽崇拝においては、持続可能性こそが無上の価値であり、社会や人はそのフレーム内で日々を過ごすだけというような考え方が、日本人の心のうちにプログラミングされているのかもしれない。ある意味普遍的で、ある意味刹那的な価値観。