メッセージ。 - diary

2018-07-07

# にゃー

「無敵の人」っていう言葉を最近見かけるけど、要するに浪人ってことだよな。「浪人」が復活したと考えると、それはそれで興味深い。
2018-07-07 10:57:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2018-07-05

# にゃー

近代資本主義化によって、日本の経済は成長し1980年代に頂点に達した。その頂点に至る間人口は増え続け、産業を高次にシフトさせ、第一次産業を毀損してしまった。

しかしその後通貨高や他の国の近代資本主義化によって日本経済は頭打ちし、長い長い経済縮小期を迎えた。春があれば秋があるように、夏があれば冬があるように、成長の蔭には縮小があった。

経済成長というのは、もちろん良いことなのだろう。楽しいことや嬉しいことをたくさんもたらしてくれる。しかし一方で、過大な成長はのちの縮小ももたらす。それは屈辱や苦しみ、死を意味する。

一体全体、経済というものは、無限に成長するものなのだろうか。たしかに、農作物や畜産資源は、特定の環境下にあるとき倍々に増える能力を有する。技術は進歩を続ける。そして資本力は増大する。

だが経済といった観点ではどうだろう?経済はずっと成長を続けるだろうか?そうではないのではないか。あるいは社会。社会はずっと成長し続けるものだろうか?社会にとっての成長とはなんだろう?

人口が減っている社会は成長しているのだろうか?縮小しているのだろうか?そもそもなぜ人口は減っているのだろうか?

かつての日本の封建社会は、あるいは現代にも通じる社会的性向では、技術革新よりも社会性が重視される傾向にある。技術者や専門家の地位は低く、サービスがそれを支配する。開発部門よりも営業部門が偉い社会。

それはまるで、技術の進歩により人間が神に近づくことを怖れ諌めているかのようだ。日本人は基本的に自然崇拝であるが、自然の延長線上にある科学技術をある点では馬鹿にしているか、あるいは下に置こうとする。

農耕文明、太陽崇拝においては、持続可能性こそが無上の価値であり、社会や人はそのフレーム内で日々を過ごすだけというような考え方が、日本人の心のうちにプログラミングされているのかもしれない。ある意味普遍的で、ある意味刹那的な価値観。
2018-07-05 09:18:26 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2018-06-28

# にゃー

日本人の平均学歴はドンドン上がり続けてきたけど、経済成長は頭打ちし衰退を続けているので、旧帝大卒がフリーターなんてのも、それほど不思議でない状況になっているということだ(とくに地方)。それに悲壮感を感じるのは分からんでもないが、いまはこれが普通。これまでの20年、そしてこれからの時代は、これがスタンダードといってもおかしくない状況にある。
2018-06-28 08:57:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2018-06-27

# にゃー

近代資本主義への移行によって何が起こるか。起こったか。(風が吹けば桶屋が儲かる)

第一次産業主体の社会は、第二次産業、第三次産業の割合を拡大する。

生産された物品は、安い労働力と通貨を背景に、海外へと輸出される。

生産性(または国内における資本量)は向上し、若い世代はその前の世代より豊かな暮らしを得る

第二次産業、第三次産業のニーズにより、若い世代はより高い学歴を求められる

今までの世代であれば中卒で第一次産業に就いてていた人が、高卒で第二次産業に就くようになる

今までの世代であれば高卒で第二次産業に就いてていた人が、大卒で第三次産業に就くようになる

国内の第一次産業は廃れ、もしくは人気を失い、海外の製品が入ってくる

海外でも近代資本主義化が進展する

今までの世代であれば高卒で第二次産業に就いてていた人が、大卒で第三次産業に就くようになる

今までの世代であれば大卒で第二次産業に就いてていた人が、大学院卒で第三次産業に就くようになる

人口が減少する(因果関係不明)

国内の第二次産業は廃れ、もしくは人気を失い、海外の製品が入ってくる

労働力と通貨は高くなり、国際競争力を失う

国内の第一次産業、第二次産業は壊滅状態となり、その流通・管理マージンで成り立つ第三次産業も落ち込む

国内の産業が壊滅状態なので仕事がない。学歴の価値は相対的に低くなる。若い世代は前の世代より貧しくなる。

今までの世代であれば大学院卒で第三次産業、大卒で第二次産業に就いてていた人が、働き口を探すも、飲食、流通等の一部の第三次産業しか空きがない

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たぶん、第一次産業、第二次産業、第三次産業に求められる生産の量、就労する人間の数はピラミッド構造になっていて、本来は後ろに行くほど少なくなるのだろう。

たとえば食料は、工業製品に比べて毎日たくさん消費されるものだ(物理的には)。だから、第一次産業に就労する人の数で、第二次産業に就労する人の数は決まるし、第三次産業も同様だろう。

しかしある時点で、この国や他の近代国家は、第一次産業をアウトソースするようにしてしまった。よってピラミッドは国内完結ではなく国際的な構造になった。

誰もが第二次産業、第三次産業を目指した。なぜなら、それが人々の暮らしを豊かにしてくれるのを目の当たりにしたから。そして彼らは第一次産業を捨てた。

しかし、当たり前のように海外の国の人も同じことをした。第一次産業の受け皿となった国では、生産量増大のために産業をシステム化・高度化し、第二次産業、第三次産業へと社会構造を変化させていった。

本質的なのは、このピラミッド型の需給構造だろう。技術が発展していっても、このピラミッドはそう簡単には変わらない。しかし我々は、上へ上へと向かい、退路を絶ってしまった。
2018-06-27 09:24:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2018-06-25

# 性とか恋愛ってなんだろう

挿入は要らない|自分の中の、同性愛と性行為についての考察 - ニャート

 だけど、自分を「同性愛者」だとラベリングはしない。
 ラベリングすることで、また不自由になってしまいそうだからだ。
 自分の性愛のあり方を、ただ素直に受けとめる。私は私。

これ(↑)は分かる。ふんふんなるほどと思うんだけど。

 次こそは、その人個人に恋したい。

なんでこうなるんだろう。まず、「恋したい」というのがよく分からない。恋をする前提は、外せないんだろうか。
「次がまたある」という暗黙の前提はどこからやってくるんだろうか。

そして、「その人個人に」という部分。本当にその人個人を見るんだったら、別に相手が男性でも女性でもよくなくない?いや、前提条件としてこの文章には「可愛い女の子を見て、とにかく幸せな気分になる~」といったくだりがある。だから、はなから男性は選外になっているのだろう。

しかしその時点で、「その人個人」というよりも「甘くやさしい女の子らしさ」という属性に惹かれているのではないか。その人個人の中身よりも、身体的特徴が主たる対象になっているのではないか。たとえば、最高に気の合う人がいたとしても、「甘くやさしい女の子らしさ」を持ち合わせていない人だったら、どうなるんだろうか。

つまりそれが、「性欲」というものなのかもしれない。相手の人の中身ではなく、身体的特徴を欲望してしまう、消費したくなってしまうということなのかもしれない。「いや、そこはそうじゃないんだ。『甘くやさしい女の子らしさ』という前提条件は外せないけど、その先はどっぷり中身なんだ。中身しかないんだ」ということなのかもしれないけど。

「性」とか「性欲」というものを考えたとき、結局のところは人間の入れ物である身体、動物・生物の生理反応以上のものであるのだろうか?「いや、人間には心があるのだから、動物・生物の生理反応に影響を受けつつも、それを超えた心的つながり、精神の無辜なる友愛を生じせしめ、永遠という神を欲し追究する究極の美学なのだ。つまり、動物とは違うのだ」ということなのだろうか。しかし、やはり「欲」というからには、自己の生存こそがその存在理由であり、友愛や美学からはだいぶ遠いのではないかと思う。

個人的に、性欲とか恋愛というのが、よく分からないんだよな。

 好きな人とイチャイチャしながらお風呂に入った後、あたたまった身体にやさしく触れて、特に達することなくただ一緒に眠れたら、どれだけ幸せだろう。

たしかに、これは幸せなんだろうと思う。しかし、これが最終的で究極的な幸せなんだろうか。イチャイチャして、ただ一緒に眠る。それは、性欲を満たすのには、あるいは恋愛を成就させるという点ではゴールなのかもしれない。しかし、性欲を満たせれば、あるいは恋愛が成就できれば、それが幸せなんだろうか。心が満たされるんだろうか。

「恋をする」というのがゴールや前提になっている意見はけっこうよく見かけるけど、本当にそうなんだろうか。それこそラベリングじゃないんだろうか。「いや、そんなことはないんだ。私の中のゴーストが囁くのだ」ということなのかもしれない。だったらそれでいい。

ただ、ぼく自身には本当に分からなくて。恋愛とか性欲とか、いやそれ以前の基本的な人間関係、社会関係というのが、ぼくにとってはものすごく難しいものに感じられる。理想や希望が遠すぎて、悲しいほどみじめな現実だけが手のひらにあるという状態で。人生なんてのは、思ったとおりには行かないもんだ。何一つ思うとおりには行かない。

でも。思う通りに行くことがすべてではないとも思う。簡単すぎる問題を解くのはつまらないように、簡単すぎる人生を生きるのもつまらない。また、思ったとおりでない結果が、案外悪くなかったりもするものだ。いずれにせよ、現実をまず受け容れること。そして、現実は少しずつでも、少しずつなら変えられると信じること。そういったことをつねに思っている。そして、そういった話をたまにでもできる友達がいて、この美しい世界をともに散歩でもできればうれしいなと、ただ思うのだ。
2018-06-25 00:45:30 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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