メッセージ。 - diary
2016-09-17
# にゃー
パパが次女(2才)におやつのシュークリームをねだったときのこと - リンゴ日和。
http://www.ringobiyori.com/entry/2016/09/15/183000
幼児はママとのコミュニケーションを内面化するから、ママが自分にしてくれたことを、他の人にもやりたいんだよね。「はい、あーん」ってママにやってもらったから、他の人にもやりたい。お母さんが自分にしてくれるように、他の人にもしてあげたい。その気持ちがお姉ちゃんに向いているのだと思う。つまり、次女さんにとっては自分がお母さん役で、その子供役が長女さんっていう、一種のおままごとというか。お母さんという人格の内面化の発露なんじゃないかな。
さらにいえば、幼児は「はい、あーん」というのが母子間の文脈と理解しているので、あくまで「あーん」の対象は子供なのだ。パパは子供みたいに「あーんして」って近づくのだが、次女さんからすれば、「パパが子供役って、なんか違うでしょう!」と感じるのではないかと思う。そこにはやはり、パパの存在の内面化というのもあって。たぶん心のなかに「ママはこういうもの」、「パパはこういうもの」、「子供はこういうもの」という役割分担がはっきりあるのではないか。だからパパを子供役に据えるのには抵抗感があると。
それと、はてブにはパパが可哀想というコメントがあるけど。パパは案外、幸せに感じているのではないかと思う。家族の愛情とかって、そういう目に見える、分かりやすい、言葉通りのものではないと思うから。娘がパパのことを邪険にするのとかも、パパにしてみれば「もうこんなに大きくなって、この子の心は、自分の力で羽ばたくための練習をしているんだな」と感じるものだ。「パパなんて嫌い」と娘が言ったとしても、字義通り100%パパを嫌いになれる子供などいない。どれほど悪い関係に見えても、親と子の心はつながっている。子は親の心を内面化し、それを胸に自らの道を歩んでいく。パパのあの、ポジションを理解した自虐的な子供っぽい行動は、多かれ少なかれそれを理解してのことではないかなぁと思った。
http://www.ringobiyori.com/entry/2016/09/15/183000
幼児はママとのコミュニケーションを内面化するから、ママが自分にしてくれたことを、他の人にもやりたいんだよね。「はい、あーん」ってママにやってもらったから、他の人にもやりたい。お母さんが自分にしてくれるように、他の人にもしてあげたい。その気持ちがお姉ちゃんに向いているのだと思う。つまり、次女さんにとっては自分がお母さん役で、その子供役が長女さんっていう、一種のおままごとというか。お母さんという人格の内面化の発露なんじゃないかな。
さらにいえば、幼児は「はい、あーん」というのが母子間の文脈と理解しているので、あくまで「あーん」の対象は子供なのだ。パパは子供みたいに「あーんして」って近づくのだが、次女さんからすれば、「パパが子供役って、なんか違うでしょう!」と感じるのではないかと思う。そこにはやはり、パパの存在の内面化というのもあって。たぶん心のなかに「ママはこういうもの」、「パパはこういうもの」、「子供はこういうもの」という役割分担がはっきりあるのではないか。だからパパを子供役に据えるのには抵抗感があると。
それと、はてブにはパパが可哀想というコメントがあるけど。パパは案外、幸せに感じているのではないかと思う。家族の愛情とかって、そういう目に見える、分かりやすい、言葉通りのものではないと思うから。娘がパパのことを邪険にするのとかも、パパにしてみれば「もうこんなに大きくなって、この子の心は、自分の力で羽ばたくための練習をしているんだな」と感じるものだ。「パパなんて嫌い」と娘が言ったとしても、字義通り100%パパを嫌いになれる子供などいない。どれほど悪い関係に見えても、親と子の心はつながっている。子は親の心を内面化し、それを胸に自らの道を歩んでいく。パパのあの、ポジションを理解した自虐的な子供っぽい行動は、多かれ少なかれそれを理解してのことではないかなぁと思った。
2016-09-11
# にゃー
月収13万円、37歳女性を苦しめる「官製貧困」 | 貧困に喘ぐ女性の現実 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
http://toyokeizai.net/articles/-/134801
一昔前には、あるいは今でも一部の国で、貧乏を理由とした早婚が行われてるけど、日本でも口を糊するための結婚というのを真剣に考えていいんじゃないかと思う。
現代の西洋的価値観だと個人、政治、社会で支えなければいけないように感じてしまうけど、日本では結局政治や社会による支えが十分機能せず、人間として最低限の幸福を感じられない生活の人もこの記事のようにたくさんいる。
それに、皆が皆社会的に十分強く、一人前でなければならないという価値観に沿った生き方を誰もができるわけではない。経済的にプラス成長の状況では多少生活力や経済力に問題がある人でも幸福に生きられたが、経済がマイナス成長している社会ではかなり厳しい生活を強いられる。
ならばもう、家族で支えたっていいんだよ。別にそれは、敗北ではない。だって日本人は、強くあらねばならないというイデオロギーをもともと受け容れていたわけではないから。自律的な個人が社会を形成し、互助によって個人と社会の自己実現を達成するなんてことを目指してるわけじゃない。
ただたまたまリッチになって、一時的に個人主義的生活ができるようになったってだけのこと。だからリッチでなくなれば、それをやめるしかないし、やめることができる。
http://toyokeizai.net/articles/-/134801
一昔前には、あるいは今でも一部の国で、貧乏を理由とした早婚が行われてるけど、日本でも口を糊するための結婚というのを真剣に考えていいんじゃないかと思う。
現代の西洋的価値観だと個人、政治、社会で支えなければいけないように感じてしまうけど、日本では結局政治や社会による支えが十分機能せず、人間として最低限の幸福を感じられない生活の人もこの記事のようにたくさんいる。
それに、皆が皆社会的に十分強く、一人前でなければならないという価値観に沿った生き方を誰もができるわけではない。経済的にプラス成長の状況では多少生活力や経済力に問題がある人でも幸福に生きられたが、経済がマイナス成長している社会ではかなり厳しい生活を強いられる。
ならばもう、家族で支えたっていいんだよ。別にそれは、敗北ではない。だって日本人は、強くあらねばならないというイデオロギーをもともと受け容れていたわけではないから。自律的な個人が社会を形成し、互助によって個人と社会の自己実現を達成するなんてことを目指してるわけじゃない。
ただたまたまリッチになって、一時的に個人主義的生活ができるようになったってだけのこと。だからリッチでなくなれば、それをやめるしかないし、やめることができる。
2016-09-08
# にゃー
以前、プログラムの初学者にHello
worldから教えるのは意味がないと言うことを書いたんだけれども。ただまぁ、プログラムが動いているかどうかを確認するには結局のところI/Oがなければその確認自体が不可能になるわけで。
プログラムが走っているインスタンスとなんらかの入出力が可能でなければ、なにも確認できない。何も知り得ない。プログラムが期待どおりに動いているか知ることができないし、それ以前にプログラムが動いているか、それがそこに存在しているかも知り得ない。
チューリングテストが、「人間が機械とやりとりして、機械か人間か区別できないなら人工知能とする」という基準で人工知能かどうか(知的かどうか)を規定するものであるのと同様に、コンピュータの外とIOができなければプログラムを「作る」ことができないという理屈なら分からなくはない。シュレディンガーの猫みたいなもんだね。
ただ、それにしたってそういう哲学的スタートを何の背景説明もなしに進めるのは意味がないと思う。
あと、IOがなければプログラムが作れないという点も、検証が必要なのではないか。科学は再現可能性によって成り立っているから、再現と検証のためにはIOが必要だ。だけど、世の中はすべてが再現可能なわけではない。IOがない状況で、プログラムを作り、動かし、その結果何かが起こった。何かが起こったというのはIOに違いないけれども、でもすべてのoutputが捕捉可能でないという状況はままある。
テストカバレッジが100%というシステムは一部にあるが、プログラムが正しく動くことが100%証明できているシステムというのは、ある程度の規模になると相当難しいだろう。では、そういう状況を「テストにパスしている」、「期待したとおりに動いている」といえるかどうか。
世の中には、プログラムを書く仕事が2種類あって、1つ目は理論上正しく動くことが証明できるシステムを作るということ。2つ目は理論上の正しさは100%保証できないけれども概ね動くということを保証するシステム。
んー。とりとめがない。
worldから教えるのは意味がないと言うことを書いたんだけれども。ただまぁ、プログラムが動いているかどうかを確認するには結局のところI/Oがなければその確認自体が不可能になるわけで。
プログラムが走っているインスタンスとなんらかの入出力が可能でなければ、なにも確認できない。何も知り得ない。プログラムが期待どおりに動いているか知ることができないし、それ以前にプログラムが動いているか、それがそこに存在しているかも知り得ない。
チューリングテストが、「人間が機械とやりとりして、機械か人間か区別できないなら人工知能とする」という基準で人工知能かどうか(知的かどうか)を規定するものであるのと同様に、コンピュータの外とIOができなければプログラムを「作る」ことができないという理屈なら分からなくはない。シュレディンガーの猫みたいなもんだね。
ただ、それにしたってそういう哲学的スタートを何の背景説明もなしに進めるのは意味がないと思う。
あと、IOがなければプログラムが作れないという点も、検証が必要なのではないか。科学は再現可能性によって成り立っているから、再現と検証のためにはIOが必要だ。だけど、世の中はすべてが再現可能なわけではない。IOがない状況で、プログラムを作り、動かし、その結果何かが起こった。何かが起こったというのはIOに違いないけれども、でもすべてのoutputが捕捉可能でないという状況はままある。
テストカバレッジが100%というシステムは一部にあるが、プログラムが正しく動くことが100%証明できているシステムというのは、ある程度の規模になると相当難しいだろう。では、そういう状況を「テストにパスしている」、「期待したとおりに動いている」といえるかどうか。
世の中には、プログラムを書く仕事が2種類あって、1つ目は理論上正しく動くことが証明できるシステムを作るということ。2つ目は理論上の正しさは100%保証できないけれども概ね動くということを保証するシステム。
んー。とりとめがない。
2016-09-06
# にゃー
シン・ゴジラであらためて思うのは、映画の楽しみは映画館だけで完結しないということ。あの映画を観た多くの人が、ネット上での批評や議論、感想をやりとりして楽しんでいる。映画自体の面白さと、事後の楽しさと、その両方があるからこそあの映画はこれだけ面白く楽しい。
昔ある人が言っていたけれど、車の雑誌を買っているのは車のオタクだと。一般の車のユーザーは、車の雑誌を買っていない。コンピュータも同じで、コンピュータの雑誌を買うのはコンピュータのオタクだと。映画についても同じことが言えるんじゃないか?一般の市民は映画など観ていない。映画を観ているのは映画のオタクだ。
だから、コンピューターの雑誌や映画やなんかを、もっとヒットさせたいなら、もっと面白くしたいなら、それそのものを面白くするだけじゃダメってこと。面白いか面白くないかじゃなくて、もちろん面白さは当たり前に必要なんだけども、それ以上に他の人に語りたくさせる、オタクでない人でも語りたくなる要素があるっていう、社会性が必要なんだよ。
もっといえば物語性。雑誌でも映画でもその他の商品でも、その商品の内部で完結する機能性じゃなくてその外部との接続性、物語性が、このインターネットの時代においてはヒットの要因になっているってこと強く思わされた。まぁもう当たり前の話なんだけども、邦画でもそういう手法がこの規模で使われたんだなぁと感じた。
昔ある人が言っていたけれど、車の雑誌を買っているのは車のオタクだと。一般の車のユーザーは、車の雑誌を買っていない。コンピュータも同じで、コンピュータの雑誌を買うのはコンピュータのオタクだと。映画についても同じことが言えるんじゃないか?一般の市民は映画など観ていない。映画を観ているのは映画のオタクだ。
だから、コンピューターの雑誌や映画やなんかを、もっとヒットさせたいなら、もっと面白くしたいなら、それそのものを面白くするだけじゃダメってこと。面白いか面白くないかじゃなくて、もちろん面白さは当たり前に必要なんだけども、それ以上に他の人に語りたくさせる、オタクでない人でも語りたくなる要素があるっていう、社会性が必要なんだよ。
もっといえば物語性。雑誌でも映画でもその他の商品でも、その商品の内部で完結する機能性じゃなくてその外部との接続性、物語性が、このインターネットの時代においてはヒットの要因になっているってこと強く思わされた。まぁもう当たり前の話なんだけども、邦画でもそういう手法がこの規模で使われたんだなぁと感じた。