メッセージ。 - diary

2017-04-27

# にゃー

ぼくは、治療や健康の最終責任者は、結局本人だと考えている。医師は、どんなに頑張ったって、その手助けをすることまでしかできない。非常に限られた時間とリソースのなかで、やれることをやるだけだ。

医師や医療機関による医療行為は、技術的、精神的ケアであり、最終的な判断や執行は、本人にしかできない。それはもう、物理的な制約から当たり前のことだ。理知的な人なら誰だって分かる。

ただ、それなのになぜか、診療に関する情報が本人には伝えられない。結論だけが断片的に本人に伝えられ、判断する具体的な材料が与えられない。それはおかしいでしょう。

健康におけるプロジェクトマネジャー、最終責任者は本人だ。なのにその本人に、現場から重要な情報が上がってこないでは、まったくプロジェクトの推進が困難だ。

もちろん、世の中のすべてのプロジェクトマネージャーが優秀なわけではない。全部任せますという人もいるだろう。全体的な医療費の抑制や最適化、あるいは医師や患者保護の観点で、基準となるルールは必要だ。ただ、いまの形が最適で、なにも変える余地がないかといえば違うと思う。
2017-04-27 09:00:10 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2017-02-23

# にゃー

知らない街を見ているだけで、なんでこんなにドキドキするんだろう。。。。

2017-02-23 21:00:06 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2016-10-26

# Japan Product Manager Conference 2016に行ってきた

月曜と火曜、日本プロダクトマネージャーカンファレンス2016に行ってました。すごく楽しかったです。スピーカー、運営、参加者の皆さん、ありがとうございました。

http://pmconf.jp/

ぼくもよく知らなかったんだけど、Product Managerというのは、製品開発に責任を持ち、あらゆる手を使って開発をドライブするといった開発上の役割らしい。スクラムにおけるプロダクトオーナーに相当しそうだけど、ぼく自身はまだ違いがよく分かっていない。

ただ、スクラムは開発の中での実装を前に進めるものという印象があり、プロダクトオーナーも実装上の最終決定権を持つ人なのかなと思っている。一方プロダクトマネージャーは実装に限らず、作っているものが最大限の商品的価値を持てるように、あらゆる手を尽くして(製品・商品の)開発をコーディネートする役割ということのようだ。その職責には、マーケティングやユーザーヒアリング、ドキュメント整備、エンジニア・各部署調整なども含まれる。

すごいプロダクトを生み出し続けているプロダクトマネージャーのトップランナーたちが、世界を変えるために何ができるか、何をしているかが各セッションで語られ、400人もの参加者が同じような問題意識を持って、いいものを作るために奮闘しているのを見れたのは大変興味深く、勇気をもらえる二日間だった。本当に楽しかった。

とりいそぎ、未熟ながらもぼくもアンカンファレンスで発表させていただいたので、資料を置いておきます。

http://pikapika.to/~yf/uimock-slide.pdf

uimockを触りたい方は、 https://h.pikapika.to/uimock/ からどうぞ。
デモページでよければ、 https://h.pikapika.to/uimock/NANQpNT6JFfOQMhngLZO から見られます。このページは誰からも見える状態なので、社外に出したくないコンテンツは置かないようにしてください。

※もし動いてなかったら、夜帰宅してから直します(すみません)。
2016-10-26 14:41:52 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2016-10-04

# にゃー

だとしたら、時間の流れってのは、宇宙の膨張に引っ張られて起こってるんじゃない?
2016-10-04 09:24:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2016-09-17

# にゃー

パパが次女(2才)におやつのシュークリームをねだったときのこと - リンゴ日和。
http://www.ringobiyori.com/entry/2016/09/15/183000

幼児はママとのコミュニケーションを内面化するから、ママが自分にしてくれたことを、他の人にもやりたいんだよね。「はい、あーん」ってママにやってもらったから、他の人にもやりたい。お母さんが自分にしてくれるように、他の人にもしてあげたい。その気持ちがお姉ちゃんに向いているのだと思う。つまり、次女さんにとっては自分がお母さん役で、その子供役が長女さんっていう、一種のおままごとというか。お母さんという人格の内面化の発露なんじゃないかな。

さらにいえば、幼児は「はい、あーん」というのが母子間の文脈と理解しているので、あくまで「あーん」の対象は子供なのだ。パパは子供みたいに「あーんして」って近づくのだが、次女さんからすれば、「パパが子供役って、なんか違うでしょう!」と感じるのではないかと思う。そこにはやはり、パパの存在の内面化というのもあって。たぶん心のなかに「ママはこういうもの」、「パパはこういうもの」、「子供はこういうもの」という役割分担がはっきりあるのではないか。だからパパを子供役に据えるのには抵抗感があると。

それと、はてブにはパパが可哀想というコメントがあるけど。パパは案外、幸せに感じているのではないかと思う。家族の愛情とかって、そういう目に見える、分かりやすい、言葉通りのものではないと思うから。娘がパパのことを邪険にするのとかも、パパにしてみれば「もうこんなに大きくなって、この子の心は、自分の力で羽ばたくための練習をしているんだな」と感じるものだ。「パパなんて嫌い」と娘が言ったとしても、字義通り100%パパを嫌いになれる子供などいない。どれほど悪い関係に見えても、親と子の心はつながっている。子は親の心を内面化し、それを胸に自らの道を歩んでいく。パパのあの、ポジションを理解した自虐的な子供っぽい行動は、多かれ少なかれそれを理解してのことではないかなぁと思った。
2016-09-17 01:12:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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