メッセージ。 - diary
2021-10-10
# にゃー
(人間の)女性の性欲というのがよく分かっていないのだけど、こういうことなのかな?と思ったのでメモ。
仮説:女性は「アルファ男性から欲望されたい、アルファ男性と関係を持ちたい、アルファ男性から襲われたい、アルファ男性から守られたい」という原始的な(先天的な)欲望を持っている。ただし、人間は社会的な生き物なので、欲望そのままに生きることはできない。社会的な(後天的な)学習によって、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、こうするのが正しい、こうなりたい」という理性や人格を身に着ける。その結果、原始的な性欲を単純に発露し現実のものとすることに対する危険性を学習することで、それとはもっと異なった形で欲が叶えられることを希望する。
同様のことが男性についても言える。男性は「だれかれ構わず女性を欲望し、女性と関係を持ちたい」という原始的な(先天的な)欲望を持っている。ただし、人間は社会的な生き物なので、社会的な(後天的な)学習によって、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、こうするのが正しい、こうなりたい」という理性や人格を身に着ける。その結果、ほとんどの男性は「だれかれ構わず女性を襲いたい」などとは微塵も思わなくなる。動物的な衝動はうちに残っているかもしれないが、理性と人格がそれを抑圧し、まったく異なった形で欲望を内在化する。
どちらのケースも、物理的な肉体のもつ「欲」は抑圧され、精神のもつ「欲」がその人個人の「欲」として自他ともに認知される。たぶん、ほとんどの人がそういう状態になっているのだけれども、一部に自制ができない人がいて、事件が起きる。ただ、自制できない人の絶対数は、(とくに平常状態において)基本的には多くないのではないか。女性は電車に乗ると相当な頻度で痴漢にあうというが、人口に占める痴漢の割合は多くないという説があるが、それと似たような関係性にあるのではないかと思う。
ネットを見ていると、「どうせ男はこうでしょ」といった意見を見かける。たしかに、原始的な(先天的な)欲求としては男なんてそんなものと言えるかもしれない。ただ、多くの女性がそうであるように、多くの男性は学習によって原始的な(先天的な)欲求を抑圧し、理性や人格を身に着けている。そういう人間にとって、原始的な(先天的な)自分は、イコール「自分」というわけではない。原始的な(先天的な)自分はたしかに内在しており消え去ってもいないけれども、人間にとってはその後身に着けた理性や人格こそが(社会における)自分である。
だから理性や人格を否定されてしまうのは悲しい。
結局のところ、相手の人の理性や人格を尊重しない人がいたり、そういったできごとがあったりして、悲しい声が聞こえてくるということなんだろうな・・・。
仮説:女性は「アルファ男性から欲望されたい、アルファ男性と関係を持ちたい、アルファ男性から襲われたい、アルファ男性から守られたい」という原始的な(先天的な)欲望を持っている。ただし、人間は社会的な生き物なので、欲望そのままに生きることはできない。社会的な(後天的な)学習によって、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、こうするのが正しい、こうなりたい」という理性や人格を身に着ける。その結果、原始的な性欲を単純に発露し現実のものとすることに対する危険性を学習することで、それとはもっと異なった形で欲が叶えられることを希望する。
同様のことが男性についても言える。男性は「だれかれ構わず女性を欲望し、女性と関係を持ちたい」という原始的な(先天的な)欲望を持っている。ただし、人間は社会的な生き物なので、社会的な(後天的な)学習によって、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、こうするのが正しい、こうなりたい」という理性や人格を身に着ける。その結果、ほとんどの男性は「だれかれ構わず女性を襲いたい」などとは微塵も思わなくなる。動物的な衝動はうちに残っているかもしれないが、理性と人格がそれを抑圧し、まったく異なった形で欲望を内在化する。
どちらのケースも、物理的な肉体のもつ「欲」は抑圧され、精神のもつ「欲」がその人個人の「欲」として自他ともに認知される。たぶん、ほとんどの人がそういう状態になっているのだけれども、一部に自制ができない人がいて、事件が起きる。ただ、自制できない人の絶対数は、(とくに平常状態において)基本的には多くないのではないか。女性は電車に乗ると相当な頻度で痴漢にあうというが、人口に占める痴漢の割合は多くないという説があるが、それと似たような関係性にあるのではないかと思う。
ネットを見ていると、「どうせ男はこうでしょ」といった意見を見かける。たしかに、原始的な(先天的な)欲求としては男なんてそんなものと言えるかもしれない。ただ、多くの女性がそうであるように、多くの男性は学習によって原始的な(先天的な)欲求を抑圧し、理性や人格を身に着けている。そういう人間にとって、原始的な(先天的な)自分は、イコール「自分」というわけではない。原始的な(先天的な)自分はたしかに内在しており消え去ってもいないけれども、人間にとってはその後身に着けた理性や人格こそが(社会における)自分である。
だから理性や人格を否定されてしまうのは悲しい。
結局のところ、相手の人の理性や人格を尊重しない人がいたり、そういったできごとがあったりして、悲しい声が聞こえてくるということなんだろうな・・・。
2021-10-08
# にゃー
昔から青春という言葉が好きではない。その定義もよくわからないし、性的なイメージが想起されることから、そういうことに前向きになれない自分には青春らしきもの参加したいという気はさらさら起きなかった。あるいは、自分の過ごす時間のなんらかが「青春」の一部として捉えられることを嫌悪する気持ちがあった。そういった気持ちはいまもあり、実際のところそれらを肯定できないことで、(その後も含めて)人生のそれなりの時間を浪費してしまったかもしれないとも思う。
ただなんとなく、「では青春とは何か?」という問いに対しては、ふと「これではないか」という感触を得たので書き下してみる(もちろん辞書で調べたりGoogleで検索したりすればすぐに結果が分かるようなことなのかもしれないが、この文章を書くにあたって、あるいはこの人生の時間をここまで過ごすにあたって、そういったことはこれまで特段していない。いや、いままでまったくそういうことをしなかったというわけではないがとにかく)。
よく分からないが、「青春」を英語に訳すならば「tean-ager」ということになるのではないかと思う。要するに、10歳から20歳ごろになると人間にはいろいろなできごとが起こる。その原因としては、
- ホルモンの変化やある種の肉体的形質変化といった性的・肉体的な変化
- 知識の増大による思索範囲、思索方向の変化
- 周囲の人間の変化、およびその相互作用によって引き起こされるできごと
- 進学や受験、就職、成人といった社会的制度によって引き起こされる生活環境の変化と、変化にともなう不安やギャップ、ある種の「事件」
- 現在の自分と、「こうあるべき」自分、あるいは「こうありたい」自分のギャップに対する不安、未知なるものへの不安やリスク、および実際にその変化によって引き起こされたできごと・体験(これはとくに受験や就職、成人といった社会的制度の影響も大きい)
といったものが思いつく。
ここにあげたような強度の高い「変化」や「体験」は、なにも10歳から20歳だけに起こるものではない。ただ、なぜだかこの社会では、10歳から20歳のあいだのこの時期を、あるいはその時期に起こりうるリスクやハプニング、起こったできごとを「青春」と呼ぶらしい。
一つ解せないのは、彼らがこれを肯定的に捉えているように見えることだ。もしかしたらここを通過した人たちのいくばくかは、彼らの身にこの時期に起こった「良いこと」を「青春」に結びつけて記憶したりしているのかもしれない。しかし、いうまでもなく、この時期の生活にはリスクもある。「良いこと」も起これば「悪いこと」も起こるのだ。
青虫が蝶になるとき、青虫はさなぎになって体を作り変える。本当かは知らないが、さなぎになったとき、青虫の体はどろどろに溶けてその肉体構造は完全に作り変えられると聞いたことがある。その過程で失敗して死んでしまう青虫もいれば、朝になれる青虫もいる。
10歳から20歳というのは、要するに子供から大人に変わる時期を指しているのだろう。その過程においては、当然大きな混乱や再構築、およびそれらによってできごとが引き起こされる。それを彼らは「青春」と呼んでいるのではないか。
ただなんとなく、「では青春とは何か?」という問いに対しては、ふと「これではないか」という感触を得たので書き下してみる(もちろん辞書で調べたりGoogleで検索したりすればすぐに結果が分かるようなことなのかもしれないが、この文章を書くにあたって、あるいはこの人生の時間をここまで過ごすにあたって、そういったことはこれまで特段していない。いや、いままでまったくそういうことをしなかったというわけではないがとにかく)。
よく分からないが、「青春」を英語に訳すならば「tean-ager」ということになるのではないかと思う。要するに、10歳から20歳ごろになると人間にはいろいろなできごとが起こる。その原因としては、
- ホルモンの変化やある種の肉体的形質変化といった性的・肉体的な変化
- 知識の増大による思索範囲、思索方向の変化
- 周囲の人間の変化、およびその相互作用によって引き起こされるできごと
- 進学や受験、就職、成人といった社会的制度によって引き起こされる生活環境の変化と、変化にともなう不安やギャップ、ある種の「事件」
- 現在の自分と、「こうあるべき」自分、あるいは「こうありたい」自分のギャップに対する不安、未知なるものへの不安やリスク、および実際にその変化によって引き起こされたできごと・体験(これはとくに受験や就職、成人といった社会的制度の影響も大きい)
といったものが思いつく。
ここにあげたような強度の高い「変化」や「体験」は、なにも10歳から20歳だけに起こるものではない。ただ、なぜだかこの社会では、10歳から20歳のあいだのこの時期を、あるいはその時期に起こりうるリスクやハプニング、起こったできごとを「青春」と呼ぶらしい。
一つ解せないのは、彼らがこれを肯定的に捉えているように見えることだ。もしかしたらここを通過した人たちのいくばくかは、彼らの身にこの時期に起こった「良いこと」を「青春」に結びつけて記憶したりしているのかもしれない。しかし、いうまでもなく、この時期の生活にはリスクもある。「良いこと」も起これば「悪いこと」も起こるのだ。
青虫が蝶になるとき、青虫はさなぎになって体を作り変える。本当かは知らないが、さなぎになったとき、青虫の体はどろどろに溶けてその肉体構造は完全に作り変えられると聞いたことがある。その過程で失敗して死んでしまう青虫もいれば、朝になれる青虫もいる。
10歳から20歳というのは、要するに子供から大人に変わる時期を指しているのだろう。その過程においては、当然大きな混乱や再構築、およびそれらによってできごとが引き起こされる。それを彼らは「青春」と呼んでいるのではないか。
2021-08-22
# にゃー
オリンピックに関して、僕は賛成派でも反対派でもない。一般的に、僕は何派とかに属することはほとんどない。ただ個人的に思うこととしては、やはりオリンピックの開催はいまは不可能だろうということだ。
なぜならオリンピックは世界的なイベントであって、参加する各国や各選手の事情を充分考慮しなければならない。開催国が自国のコロナを押さえ込めると判断し、よしんば十分な準備ができたとしても、選手を送り出す各国が対応できなければどうしようもない。
とくに大変な数の感染者や犠牲者を出している国を思うと、いまこんな時期にオリンピックに人を出してくれと頼むのは僕だったらできない。それはまるで、戦争やお葬式をやっているすぐその横でパーティを開催するようなものだ。
この時期に開催することは、現在進行形でコロナと戦っている各国の負担になりリスクになる。だからひとことで言うと賛成とか反対とかではなく不可能だろうということだ。
オリンピックが人々の夢や希望になるという意見もあるけれども、本当にそうなのだろうか。たしかに頑張っている人を見るのは、ときに心を打つものがある。しかし、やはりいま一番頑張っているのは医療従事者であり、コロナに罹患して苦しんでいる家族と患者、あるいは感染を広めないよう不断の努力をしている人々のはずだ。
みなを代表して一番頑張っている人のことをテレビに映すというのならば、彼らを差し置いて映すものなどない。もし仮にコロナのワクチンや治療薬が世界の隅々にまで行き渡って、世界の隅々の人々が希望を実感できるようになる状況ならば、オリンピックの開催にも価値があるだろう。
なぜなら現代において人々に夢や希望を与えるものがあるとすれば、それは「科学の進歩」と「人類の理性」であると個人的に思うからだ。科学の進歩を象徴するコロナワクチンが、人類の理性を象徴する平等と人道の実践によって富めるものと富まざるものに分け隔てなく行き渡るならば、夢と希望が感じられる。
ここ数世紀、大きな鉄の塊を高速で走らせ、遠くの人と音声や視覚を共有し、宇宙にまで人間を運び、病気や死の苦しみを遠くに押しやることができる科学の進歩は、子どもだけでなく大人にも夢を見せ、その考え方も生活も変えてきた。
それに加えて、社会という人間にとって最も危険な存在の暴走が抑制され、科学の強大な力がより恐ろしい結果をもたらすことを防ぎ、憎しみの衝突を対話によって回避できることが、現代に生きる人類にとっての、最大の救いであるはずだと考える。
その点では、残念ながら最近のニュースからは夢と希望を感じられることがほとんどなく、むしろ逆行してさえしているように感じてやまない。オリンピックという一事をとっても、あまりに情けない状況ばかりが目につき、言葉をなくしてしまう。本来なら、このイベントは我々にとって夢と希望を取り戻す一つのチャンスにさえなりえたはずなのにと感じてしまう。
どうしたらいいんだろう。何をしたらこの状況を変えられるんだろう。少しでもヒントを知っている人がいれば教えてほしい。
なぜならオリンピックは世界的なイベントであって、参加する各国や各選手の事情を充分考慮しなければならない。開催国が自国のコロナを押さえ込めると判断し、よしんば十分な準備ができたとしても、選手を送り出す各国が対応できなければどうしようもない。
とくに大変な数の感染者や犠牲者を出している国を思うと、いまこんな時期にオリンピックに人を出してくれと頼むのは僕だったらできない。それはまるで、戦争やお葬式をやっているすぐその横でパーティを開催するようなものだ。
この時期に開催することは、現在進行形でコロナと戦っている各国の負担になりリスクになる。だからひとことで言うと賛成とか反対とかではなく不可能だろうということだ。
オリンピックが人々の夢や希望になるという意見もあるけれども、本当にそうなのだろうか。たしかに頑張っている人を見るのは、ときに心を打つものがある。しかし、やはりいま一番頑張っているのは医療従事者であり、コロナに罹患して苦しんでいる家族と患者、あるいは感染を広めないよう不断の努力をしている人々のはずだ。
みなを代表して一番頑張っている人のことをテレビに映すというのならば、彼らを差し置いて映すものなどない。もし仮にコロナのワクチンや治療薬が世界の隅々にまで行き渡って、世界の隅々の人々が希望を実感できるようになる状況ならば、オリンピックの開催にも価値があるだろう。
なぜなら現代において人々に夢や希望を与えるものがあるとすれば、それは「科学の進歩」と「人類の理性」であると個人的に思うからだ。科学の進歩を象徴するコロナワクチンが、人類の理性を象徴する平等と人道の実践によって富めるものと富まざるものに分け隔てなく行き渡るならば、夢と希望が感じられる。
ここ数世紀、大きな鉄の塊を高速で走らせ、遠くの人と音声や視覚を共有し、宇宙にまで人間を運び、病気や死の苦しみを遠くに押しやることができる科学の進歩は、子どもだけでなく大人にも夢を見せ、その考え方も生活も変えてきた。
それに加えて、社会という人間にとって最も危険な存在の暴走が抑制され、科学の強大な力がより恐ろしい結果をもたらすことを防ぎ、憎しみの衝突を対話によって回避できることが、現代に生きる人類にとっての、最大の救いであるはずだと考える。
その点では、残念ながら最近のニュースからは夢と希望を感じられることがほとんどなく、むしろ逆行してさえしているように感じてやまない。オリンピックという一事をとっても、あまりに情けない状況ばかりが目につき、言葉をなくしてしまう。本来なら、このイベントは我々にとって夢と希望を取り戻す一つのチャンスにさえなりえたはずなのにと感じてしまう。
どうしたらいいんだろう。何をしたらこの状況を変えられるんだろう。少しでもヒントを知っている人がいれば教えてほしい。
2021-07-14
# にゃー
うーん。やっぱり、デザイナーさんに「文言まで考えて」とお願いするのは無理があると思うよ。餅は餅屋。言葉を考えるってのは、誰でもできるようで、そう簡単なことじゃない。言葉の重みとか、どう受け取られるかとか、「こうでないといけない」ということがたくさんある。
もちろん、デザイナーさんでもそれができる人はいる。でも、基本的には別の仕事だから。当たり前のように(だれかれ構わず)「デザイナーだからできるでしょ」とか、「デザイナーもできたほうがいいでしょ」みたいに考えて仕事を振ってしまうのは、物事の道理にかなっていないと思う。
デザイナーとかディレクターとか編集とかプログラマーとかにかかわらず、仕事を依頼するときは、仕事の内容やお願いする相手のことを理解しないと、大きくモチベーションを下げるし、事故につながるリスクを大きくする。それぞれ専門性や得意分野があるので、それを尊重しないとひどいことになるよという話。
もちろん、デザイナーさんでもそれができる人はいる。でも、基本的には別の仕事だから。当たり前のように(だれかれ構わず)「デザイナーだからできるでしょ」とか、「デザイナーもできたほうがいいでしょ」みたいに考えて仕事を振ってしまうのは、物事の道理にかなっていないと思う。
デザイナーとかディレクターとか編集とかプログラマーとかにかかわらず、仕事を依頼するときは、仕事の内容やお願いする相手のことを理解しないと、大きくモチベーションを下げるし、事故につながるリスクを大きくする。それぞれ専門性や得意分野があるので、それを尊重しないとひどいことになるよという話。