メッセージ。 - diary

2009-06-09

# 梅田さんと「アテネの学堂」

梅田さんが「好き」であって、日本でもその登場を期待したネットの世界とは、「バーチャル・アテネの学堂」だったんじゃないかと思う。(中略)「チープに手軽に、地理的制約もなく、自らの考えを公表したり議論したりすることができる」という特徴を使って、知的な議論が交わされ、シリコンバレーでよく使われる用語を使って大げさに言えば「世界をよりよくするため(to make the world a better place)の知識」が形成され、それが多くの人の手によって実行に移されていくことが「すごいこと」なんだと思う。
(中略)
つまり、彼は日本(あるいは日本語世界)の知的エリートたちがふがいないことを攻撃している。同時に、知的エリートの世界に参加したいと潜在的に思っている人たちをつまらない嫉妬で引きずりおろそうとする「大衆の愚」に怒っている。

この解釈は正しいのかな? 正確には、梅田さん本人に確認しないと分からないと思うが、とりあえずその解釈が正しいと仮定して話を進める。

たしかに梅田さんは、「ハイブロウな人やものが好き」と言っている。「ハイブロウ」って何かと思って調べてみると「学問や教養の高い人, 知識」(広辞苑)とのこと。high browは直訳すると「額が広い」ということで、ぼくは学者さんのようなタイプを思い浮かべた。

ただぼくは、「ハイブロウな人」が「自らの考えを公表したり議論したりする」のに最適の場所は、アカデミア(学会)だと思っている。人文・社会科学系にせよ自然科学にせよ、知識を戦わせ、研鑽させるために、アカデミア(学会や大学)は設計されているのだから。

そして当然のことながら、「そのような場としてアカデミアは最適である(そうであるのが当然だ)」という命題は、ネットの登場以前も以降も変わらない。アカデミアは、そのために用意された場だ。

だから逆説的だけれども、「ネットがそのような場にならないのはおかしい(ネットがそのような場になってほしい)」という考えはおかしい。ネットがそのような場にならないのは当然なのだ。過去も未来も、アカデミアこそがそのような場であるのだから。

アカデミアというのは、そもそもが「世界をよりよくするため(to make the world a better place)の知識」を集めるための場所だ。「そのような知識が形成され、それが多くの人の手によって実行に移されていくこと」というのは、ネット以前であっても、アカデミアの存在意義として求められていることだ。

そしてまた、俯瞰してみれば分かるが、「すごいこと」というのは、実はネット以前からアカデミアと社会が実現してきた。仕方のないことだが、一般にそのことは忘れられがちだ。もし海部さんの解釈が正しいのだとすれば、彼らは「ネット」に「アカデミアになること」を求めていることになる。だけどネットは、アカデミアにはなれないだろう。

「チープに手軽に、地理的制約もなく、自らの考えを公表したり議論したりすることができる」という利点を、ネットは世の中一般に提供した。これによってアカデミアは、今まで以上に強力になり得るだろう。しかし、世の中一般が「アカデミア」になることはないし、その必要もない。(人類全体の生産性が向上したことで、アカデミアが抱えることのできる人材規模には、拡大の余地ができただろうとは思う。)

たしかにアメリカというところは、社会とアカデミアの距離が近い。アカデミアで紡ぎだされた知識が、社会に適用されることが多い。逆に日本は、アカデミアの権威が低く、マスメディアも政府も、そして社会も、あまり科学的アプローチを取り込んでくれない。それは残念なことだとぼくも思う。

日本の知的エリートがふがいないというか、日本の社会構造があまりアカデミズムを取り込んでくれないというのは、ここ最近の話ではない。ちょっと前のエントリで書いたように、もうずっと何百年も続いてきたことだ。だから今この段階で、「日本のネットは残念」という風に捉えるのは、ちょっと危ういと思う。「日本の社会が残念」と捉えるならもっと良いだろうと、ぼくは考えている。
2009-06-09 15:57:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 匿名と日本の社会

以下の文章は、サーバーでのHDD障害が起こったことにより一時的に消えていたのを復旧したものです。オリジナルの公開日付は、2009/06/05 16:48です。

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「残念」な状況を作り出した大きな原因は、はてなである。梅田氏が「バカなコメントが多い」といったように、実名の生産的な批判より匿名の悪罵のほうが圧倒的に多いことが「上の人」を萎縮させ、日本のウェブのレベルを下げているのだ。その結果、アメリカのブログは著名人が既存メディアの枠を超えてリアルタイムで議論する場になり、大手メディアに対抗する存在になりつつあるのに、彼も嘆くように日本のブログはますます劣化している。

私は、この原因は「日本人の国民性」だとは思わない。それは戦後の日本企業システムの鏡像である。長期雇用のもとでは、絶えず他人の噂話による「360度評価」にさらされるので、ちょっとした失敗やトラブルがあると、そのreputationが数十年にわたって社内で積み重なり、出世に大きく影響する。このシステムはモラルハザードを抑制する上では強力な効果を発揮するが、上司を批判できず転職という逃げ場もないため、そのストレスが匿名による悪罵にはけ口を求めているのだ。

うーん、違うと思うなぁ。上の人が広く議論を呼びかけたり、行動したりできないのは、まさしくここが日本だからだ。そして逆に、「議論によって政治を変えられる」、「公の場でのぶつかりあいで政治が変わる」というのは、アメリカの特性じゃないかと思う。

また、梅田さんも池田さんも「日本のWebの悪いところだ」(アメリカのWebの良いところだ)と言うけど、それも違うと思う。確かにWebは、オバマ大統領の誕生に大きく貢献したけど。でも、Web以前の下地として、アメリカには公の場で政治を変える文化がある。Webがどうこうという話ではない。社会がそのようになっていて、それがWebにも染み出しているだけだ。

アメリカには、「政治に参加する」という民主主義的文化があるというか。一方日本は、民衆は見てるだけで政治に参加してないんじゃないかな。たとえば、みんなの身近で政治家になろうとする人って、いますかね? 政治家になりたがるのは、あるいは政治家としてずっと続けていられるのは、親が政治家という人ぐらいじゃないかな?

日本では、「いまの政治は嫌だ」とか、「ここがおかしいから変えたい」とか思っても、それを変えられる気がしない。映画の『それでもボクはやってない』を見て、ぼくはあんな裁判は嫌だと思った。みんなも思ったでしょう?でも、どうやってこの国を変えたらいいか、変えられるか、分からない。

いろんな嫌なことがある。変だと思うことがある。でもそれを、政治的に変えられるようにぼくらは感じていないし、政治があまりにも遠い。政治というものが、胡散臭いように感じていたりもする。それに、よく考えたら、自分自身は今猛烈に困ってるわけじゃないし。だからとりあえず、静観しようとする。

でも、もしぼくがアメリカに住んでいたら、そうじゃないんじゃないかという気がする。政治は曲がりなりにも機能をしていて、問題がたくさんありながらも、現実を変えていけるという、可能性を感じられるんじゃないかな。少なくともぼくは、オバマ大統領が誕生したとき、「ああ、彼らはまだやれるんだ」って感じた。あのような感動の選挙が、日本でも実現するだろうか? ぼくには、その実現可能性はかなり低いように感じる。

日本では、「饅頭怖い」方式で政治が密室でなされる。いや、政治だけに限らない。ほとんどのものごとが密室で決められている。日本の「上の人」は密室に拘束され、オープンな場で議論できない。密室の中にいる「上の人」が、密室内での情報を外に漏らせば、密室から追放されてしまう。そして、追放のリスクを冒して世論に訴えたところで、ものごとは変わらない。密室の力が強すぎるからだ。

そもそもこの国では、誰かが顕名で物申したとしても、ものごとの決定には参加できないのだ。なぜなら、どのような正論も、また世論も、関係者(密室)の利害という渦に飲み込まれてしまうから。このことを、うまく説明している記事がある。

国策がないから検察が勝手に暴走できるのだろうし、この暴走の仕組みは別段検察に限らない。日銀とかも暴走しているし、厚労省もそう見える。まあ、仔細に見ればいろいろ違うとか利権のスジとかからのご意見もあるだろうけど、いずれにせよ、民意みたいなものとは独立して、これらのシステムがご勝手に動く。というか、これこそまさに日本がシステムだということにすぎない。

(中略)ようするに、日本にはシステムだけがあって、権力の中枢がない。というか、意志としての国家が存在しているようにはまったく思えない。というときの、国家(ステート)というのをどう考えるか。

要するにこれは、日本の社会が多数の密室によって執行されていることだと思う。このような状況に照らしてみると、「顕名で議論を呼び掛ける」というのはあまりにも脆弱だ。なぜなら相手は、組織という名の密室・匿名であり、また直接の相手だけでなく、周りに存在するあらゆる組織がまた密室・匿名だからだ。国の機関も密室だし、マスコミの言論も匿名だ。正論を言っても取り上げてくれないし、裏から手を回して潰されてしまう。密室は密室と結びつき、相互監視・相互干渉することで権力闘争している。そしてその構造は、「裏側」を成立させやすくしている。

もちろんぼくも、こういったところは日本の悪い面だと思う。アメリカのような選挙をうらやましく思い、日本ももっと良くあってほしいと思う。もしかしたら、日本のネットで顕名を導入すれば、いつかWebでの言論が実社会を凌駕するようになり、実社会も顕名ベースで正論が通るようなものに変わっていってくれるかもしれない。でもそのような理想は、単にネットで顕名を導入するだけでは実現しないだろう。本質的な原因は、ネットの匿名性ではないからだ。

アメリカでも日本でも、「ネットのシステム」自体には同じものを使っている。ただ、アメリカでは顕名で使っている人が多く、日本では匿名で使う人が多いというだけのことだ。では、なぜそうなっているのか? そこを考えなければならない。それはインターネットというシステムの問題ではない。そのように使う人々の心、つまり社会の問題なのだ。単に顕名を強制するようなシステム、罵声を見えなくするようにするシステムを導入したところで、本質的な原因を取り除くことはできず、社会を望む形に変えることもできない。

ネットにいて匿名で罵声を浴びせる人間は、そりゃあ卑怯かもしれない。しかし、密室でものごとが決まる日本社会で、密室から情報をリークできるのは匿名だからこそだ。顕名で告発することもできるだろうけど、告発した者の保障は決して十分ではなく、また告発が成功する可能性も十分高いと言いきれないだろう。トカゲの尻尾切りで逃げられる可能性も高い。

また、ひろゆきさんが言うように#1、匿名だからこそ「誰が言っているか」ではなく、「何を言っているか」で議論可能性が高まる面もある。いままでの日本では、「誰が言っているか」が重視されすぎた。なぜなら、「誰が言っているか」こそが密室の意図を読み解くための鍵であるからだ。現在の日本では、議論の中身は結論に影響しない。薬事法改正の件でも、法案の趣旨とやっていることがアベコベだ。パブコメを送ったところで、勝手に施行されてしまう。

敵はネットではないのだ。ネットの匿名性でもない。(何回か書いてるけど)勝海舟さんはこう言っている:「我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。(将軍家茂に拝謁した際、幕府の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われて)」#2。「上の人」が(サブカル以外の領域で)才能を発揮できないなんて問題は、江戸の昔からずーっと続いているのだ。それは、たった数年のWebの変化なんかで変えられるものじゃないし、変えられると思うほうがおかしい。もしそれを変えたいなら、それは命懸けでやるべきような仕事だろうと思う。

#1 4Gamer.net ― [OGC2008#03]「2ちゃんねる」と「ニコニコ動画」のひろゆき氏が語る,ゲーム・コミュニティ・文化(シヴィライゼーション4【完全日本語版】)

#2 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F
2009-06-09 13:40:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# さくらインターネットの共有サーバーでHDD障害が起きたのかな?

今日気付いたのだけど、3日前に書いてここに置いていた文章が1つ消えた。「匿名と日本の社会」というタイトルのもの。

ポストしたときに、自分がなにかオペミスをしたのかと思ったけど、たしかちゃんと投稿したはず。サーバー側で何か問題(CGIのバグとか)が起こったのかもしれない。

ただ、momoka.cgiはさくらインターネットの共有サーバーで運用しているため、細かいログ(error.log)やサーバーの障害情報(dmesg等)は取れないのだ。どうしたものか。

まずはポストしたかどうか定かではないので、客観的事実を確認したいと思い、RSSリーダー(Fastladder)に記事が残っていないか確認してみた。すると、果たして問題の記事は残っていた。全文配信しているので、ロスレスで回復できる。やったぞ。

そして、やっぱり記事は投稿していたんだ。3日前、確かにmomoka.cgiはポストを受信し、文章を掲示していた。だけどそれが、何らかの理由でロールバックしてしまったのだ。では原因はなんだろう?

共有サーバーにログインして、データファイルの日付を確認してみる。

[yfujisawa@www1429 ~/data/Momoka-0.51]$ ls -lth
-rw----rw-  1 yfujisawa  users   2.7M Jun  1 21:51 mdb.scm
データファイルの日付

RSSリーダーによると、日付は本当は「2009/06/05 16:48」でなければならない。なのにデータはこれより古い。「CGIでファイルを上書きしてしまった」というような、アプリケーションレイヤでの問題ではなさそうだ。

ならば、バックアップスクリプトが動いたとき、古いファイルで上書きしてしまったのだろうか。この線を疑って、別サーバーに保存されているバックアップ済みファイルを見てみた。バックアップは2世代だけ世代バックアップを取っているので、1~2日前のデータならば確認できる。

結果として、日付は2ファイルとも同じで6月1日のもの。つまり、「バックアップスクリプトの問題であって、かつ少なくともここ1~2日で障害が起こった」という線はなさそうだ。ただし、バックアップスクリプトが問題かどうかは、これ以上追い掛けられない。(スクリプト内容をチェックすることは可能だが後回し)

そこで次に、サーバーの障害か、クオータによるディスクフル(書き込み不可)がロールバックを発生させた可能性を疑ってみた。だが、クオータによるディスクフルはなさそう。共有サーバーのコントロールパネルで確認したところ、まだ8%しかディスクを使用していない。

ということで、サーバーのHDD障害が濃厚になった。さくらの共有サーバーではaccess.logを毎日保存してくれるサービスがあって、それを確認してみると次のとおり。

[yfujisawa@www1429 ~]$ ls -lt log | head
total 5340
drwxr-xr-x  2 yfujisawa  users    3584 Jun  9 00:06 webalizer
-rw-r--r--  1 yfujisawa  users  654968 Jun  9 00:05 access_log_20090608
-rw-r--r--  1 yfujisawa  users   66538 Jun  8 00:05 access_log_20090607.gz
-rw-r--r--  1 yfujisawa  users   14020 Jun  7 00:05 access_log_20090606.gz
-rw-r--r--  1 yfujisawa  users  801419 Jun  4 00:05 access_log_20090603
-rw-r--r--  1 yfujisawa  users   78816 Jun  3 00:05 access_log_20090602.gz
-rw-r--r--  1 yfujisawa  users   59898 Jun  2 00:05 access_log_20090601.gz
-rw-r--r--  1 yfujisawa  users   40379 Jun  1 00:05 access_log_20090531.gz
-rw-r--r--  1 yfujisawa  users   57229 May 31 00:05 access_log_20090530.gz
定期保存されたaccess.log

…明らかにおかしい。6月4日から6月5日までのデータが欠けていて、6月6日のデータ量がやけに小さい。こりゃあ、6月6日にHDD障害が発生したんだな。それで、さくらのオペレータさんが、6月4日に取ったバックアップからデータを復旧したんだと思われる。

ただ、さくらのサイトでは、障害についてとくに報告もないんだよなぁ(→お知らせ)。さくらの共有サーバーって、こういうサポートレベルなのか。や、悪い意味じゃなく。月500円と安いからね。多くを求めるつもりはない。次に同じような問題が起こったとき、復旧の目安にしたいのでメモ。
2009-06-09 13:39:23 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2009-06-01

# 仕事とは何か?

以前、はてなの近藤さんがシリコンバレーに進出した。あるいはインフォテリアの江島さんがシリコンバレーでLingrを立ち上げたりした。そもそもベンチャー的な試みは、日本国内にせよ海外にせよ、成功するのがかなり難しいと思うけれども。ただそういった難しさとは別に、彼らのような日本人が、シリコンバレーに行って成功することそのものにも、ある種の難しさがあると思っている。その難しさは、「仕事とは何か?」という問題と密接につながっている。

はてなはそもそも、社長の近藤さんが「ネットのことは全然分からない自分の父親のために、ユーザーどうしが質問と回答でコミュニケーションできるサービスを作りたい」という発想から始まったのだという。その試みは「人力検索はてな」というサービスとして結実し、現在も動いている。「人力検索はてな」自体、それほど成功しているとは感じないけれども、でも最初にそれを作ろうと思った発想自体は、「成功」にとって重要な要素だろうと思う。

どのような商品を作るときもそうだけれども、ものを作って売るということは、「こんな人の生活をあんな風に良くしたい」というビジョンがなければならない。ウォークマンは、「外出しているときも好きな音楽を聞きたい人のために、自由に聞けるような小さなプレイヤーを開発する」というビジョンから開発、商品化された。稲を育てる人は、それを精米し、炊いて食べる人たちのことを考えて田を耕している。

どのような商品もサービスも、誰かの、何かの、役に立つために提供される。そういった「ビジョン」にブレのない商品は、高く評価される傾向にある。たとえばiPodは音楽好きな人たちに「一段上の楽しさ」を提供したし、任天堂のファミコンは、コンピュータという新しくて偉大な発明品を子供たちの身近に届け、「コンピュータで遊ぶ楽しさ」を提供した。トヨタの自動車の評価が高いのには、「それほどメンテナンスしなくても故障せずしっかり走ってくれる」という基本性能の高さが少なからぬ要因だと考えられる。

商品やサービスが開発され提供されるとき、それがビジネスとして成功するための1つの要因が、「誰のどんな役に立つか」というビジョンだと言えるだろう。そしてこの法則が適用されるのは、企業だけに限らない。一個人にとっての仕事というものも、「誰のどんな役に立つか」が考えられているとき、成功に一歩近づけるのだと、ぼくは考えている。ゲームクリエイターは、そのゲームが誰の生活をどんな風に変えるか考えたときに、良いゲームを作るヒントになるだろうし、米農家は「誰がどんな風にしてそれを食べるのか」を考えるからこそ、「強すぎる農薬は使いすぎないほうがいい」と考えられる。

このような法則は、消費者の側から見たときの「そうであるべき」都合だけれども、また同時に生産者にとっても、仕事というのは「そうであるべき」都合と考えていいのではないかと、ぼくは思う。つまり、ゲームクリエイターはユーザーが自分の作ったゲームを楽しんでくれるほうが嬉しいし、米農家は自分の作った米を誰かが食べて健康に暮らしてくれるほうが嬉しいと感じるはずだ。生産者にとっても、消費者にとっても、商品やサービスというものは、「誰かの何かの役に立っているか」を考えて提供されていることが「良い」ということだ。

少なくともぼく自身にとっては、仕事というのは「誰かの何かの役に立っているか」を考えずには行えない。誰にも何にも役に立っていない仕事なんてものは、ぼくには堪えられない。そんなのは時間の無駄であり、人生の無駄だと思ってしまうからだ。こういう風に感じるのは、ぼくだけなんだろうか? よく分からない。でも、ぼくと同じように感じる人だって、たくさんいるはずだと思っている。いや、もっと言ってしまえば、人間は基本的に、そういう風に感じる傾向があるのだと考えたい。そう考える。

そう考えるぼくは、近藤さんによるはてなのサービスや、江島さんのLingrがシリコンバレーで開発・提供されると聞いたときに、それが成功する要因という意味で、一歩不利な立場にあるのではないかと感じていた。つまり、彼らがシリコンバレーで何かを作ったとして、そこには一体、「誰のどんな役に立つ」というビジョンがあるのだろうか。いやもちろん、彼らの作るものにビジョンがないなんて言うつもりはない。でもたとえば、近藤さんはシリコンバレーでサービスを作ったとして、「これ使ってみてよ」と、誰に向かって言うんだろうか。胸を張って、「これが貴方や、貴方のお母さんや、あなたの子供たちの生活をきっと変えますよ」と言えるだろうか。

それはちょっと難しいんじゃないかと、ぼくは思う(不可能と言ってるわけじゃない)。はてなの近藤さんにとって、人力検索を開発・提供する動機が彼の「お父さんにインターネットの素晴らしさを感じさせてあげたい」という気持ちであったように、同じような気持ちを、英語圏の人たちに対して持てるだろうか。シリコンバレーや英語圏に生活している人たちが、どんな風に日々を過ごし、どんなことに困り、自分は彼らの未来に対してどんな風に貢献できるか、貢献したいかをイメージし、彼らのために身を捧げることができるだろうか?

もしぼくだったら、難しい気がするんだよね。アメリカやインドやアフリカやいろんな国。そういった国にいる人たちに対して、ぼくは「こんなことをしてあげたい、してあげられる」という具体的イメージを、うまく持つことができない。もっと範囲を絞ってシリコンバレーにぼくが行ったとしても、彼の地やその周辺にいる人たちに「こんなことをしてあげたい、こんなことをしてあげたらきっと彼らの生活が良くなるぞ」と思えるようなことを、ぼく自身がうまくイメージできないし、できる能力があるという自信も、なかなか持つのは難しい。それは、彼らの生活を実際のところ知らなかったり、向こうに友達や家族がいないことに起因する(あと、自分の能力やそれが本当に役立つか)。

要するに、シリコンバレーに行って仕事をするというのは、シリコンバレーに友達や家族や隣人を持つということだ。そして仕事というのは究極的に、友達や家族や隣人のために身を捧げ、彼らとともに生きるというということだ。だからぼくは、シリコンバレーで仕事をするというのは、不可能ではないけれども、1年や2年ぐらいで成功するのはけっこう難しいんじゃないかと思う。1年ぐらいでは、友達や家族や隣人を(深いレベルで)作ることが難しいから。いま住んでいる場所(日本)を捨てるぐらいの覚悟が必要なんじゃないかな。
2009-06-01 21:51:18 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2009-05-25

# 性教育と差別についてちょっとメモ

性教育と差別についていくつか読んだ。それでなんとなく思うところがあるのだけど、他にもやることのスタックが溜まっているので、掃き出すためにちょっとメモ。全然まとまらないが。

村瀬の問題定義で同意できるのは、そもそもポルノに代わる「性教育」がなされていないということ。現在学校でおこなわれているのは「性器教育」や「生殖教育」であり、「快楽、喜びとしての性」や女性差別を問う視点が存在しない、と村瀬は指摘している。

たしかに、この指摘についてはぼくも同意できる。ただ、それだけでも十分じゃなくね?とも思う。

たとえばぼく自身、この手の問題について最初に興味を持ったのは「昆虫図鑑」だった。子供のころ、昆虫が好きでよく図鑑を見ていたのだけど、最初はカラーページにある綺麗な昆虫の写真ばかり見ていたのが、だんだんのめり込んでいって後ろのほうのモノクロページにある、昆虫の生態等を紹介したページが面白くなっていったからだ。

そこには当然性交についても説明があって、ぼくはそこを読むことによって大きな知的満足を得たのを覚えている。「ああ、そうなっているのか。生物というのは、そのように『生きて』いるのか」とでもいうような感じ。人間も動物の1つであって、多かれ少なかれ、人間もそのように「生きて」いるのだろうなぁと、ぼくはボンヤリと理解した。

たぶん、小学校低学年ぐらいのときのことだ。「いやらしい」とは感じなかったし、性的な興味があったというわけでもなかった。ただ、あのころのぼくには隠されていた世界、大人たちが隠していて見せてくれない、彼らがうまく説明できない世界について、そこに書かれてあるということが分かったし、図鑑の説明は簡潔にして的確で、昆虫好きの少年を高揚させる力を持っていた。世界について理解することの喜びがあった。

他の人が、昆虫の図鑑のようなものに興味を示すのかは、よく分からない。ただ、もしぼくが性についての教育カリキュラムを考えるのだったら、他の動物や昆虫が、どのように暮らし生きているのかを教えたいなと思う。たとえば女王を中心に巣で生活をする蟻たち。一匹の雄がボスとなってハーレムを形成する猿たち。性交のあと興奮して(タンパク質を補うためという説もある)オスを食べてしまうこともあるカマキリのメス。たくさんの卵から生まれるが、そのほとんどが大人になる前に食べられてしまう、海亀の子供たち。

そういった生き物たちの生態や「社会」を知ってもらい、一方で人間というものがどのような生態と「社会」を持っているのか、今後築くのがよいのかを考えてもらうことが、性教育の一部として重要な価値があると思うからだ。もちろんその中には、「快楽、喜びとしての性」や女性差別も含まれる。人間の性交には(一般的に)快楽があること、なぜ快楽があるのか、子供を生み育てるということの意味、そして差別という名の「社会と個」の問題も当然含まれる。

猿のハーレムに差別はないのか、当の猿たちはどう思っているだろうか。カマキリは、ライオンは、海亀は、そして地球上に散らばっている多くの人間の部族と彼らの習慣。歴史上の出来事。いろんな人がいること。人にはそれぞれ違いがあり、攻撃的な人もいれば温和な人もいる。痛みを強く感じる人もいれば、短命な人もいる。悩みをかかえる人、病気と闘う人、生まれたばかりの人、死にゆく人、戦地にいる人、お金持ちの人。王様もいれば奴隷として生まれてしまった人もいる。病気になれば王様だって苦しいし、死は免れない。命は平等だ。

そういうことについて話さないと、性教育にはならないんじゃないかなぁ。違うのかなぁ。確かに、こういう話に興味のない子供や大人も、たくさんいるだろう。ぼくは教育論については素人なのでよく分からないけど、できるだけ多くの子供や大人が興味を持てるよう、できれば多様なカリキュラムを用意したほうがよいだろうとおもう。でもいずれにせよ、上記のようなカリキュラムも、あってもよいのじゃないかという気がする。

一方で従来の性教育というのは、どんな感じなんだろうか。現場のことは知らないでまったく想像で書くけれども、どうも上記のような視点はあまりないんじゃないか。キリスト教をベースとする欧米の教育方法論では、人間を「動物の延長」として説明することを、あまり望まないのではないかと考える。彼らにとっての教育とは、(動物とは違い、神の子である存在としての)「人間」を育てるという視点が大きいのではないか。

フェミニズムや差別についての議論を見ていると、どうもそこに超人主義的というか、「正しい人間のあり方」とでもいうものが存在しているかのような「感覚」があるような感じがする。「未熟で動物的な存在を、教育によって人間にするのだ」というか。たとえば「ポルノ(姦淫)は悪である」とか。一方で、日本人の性は江戸時代にけっこう大らかだったという話があるように、「性欲や淫欲は必ずしも悪いものじゃない」という考え方だってありうるはずだ。

だって、性欲なんて、食欲とどう違うのか。どうして一方は隠さなければならなくて、もう一方は大っぴらにしてよいのか。「性欲は汚くて恥ずかしくて人に見せられないものだ」と言う人がいるかもしれないが、食欲だってそうだとぼくは思う。他者の命を奪ってわがものとする行為が、そうそう褒められたことだろうか? 肉や魚や野菜、あれらは生き物の死体だ。生き物を殺し、その死体を貪ってわれわれは生きている。そのような行為が恥ずかしくないと言いきれるだろうか。言いきれるとすればなぜだろうか。

あれ? 脱線したぞ。なんの話だっけ。ああ、そうそう性教育だ。なんだろうなぁ。たとえば江戸時代に長屋住みだった人たちは、どのように性行為をしていたのだろう。一間しかなくて、子供と夫婦と川の字で寝ていた人たちは、子供にどうしても性行為を見られないよう、努力していたのだろうか。努力していたとしたら、なぜなのか。そのへんがよく分からない。もう別に、子供に見られてもいいじゃないかとか。子供に見せて、いったいどんな問題があるのだろうか。それは文字通り「夫婦の営み」であって、もっと言えば「家族の営み」でもあるんじゃないのか。

複雑化し高度化した現代社会において、あるいは文明が発達し公共地(コモンズ)が広くなった現代社会において、教育もまた(家ではなく)学校という場に多くを委ねられるようになったというのは合理的だと理解できるし、反論もない。学校というものが、社会で生活するために必要なルールや基礎知識を教えられるべき場所だということも賛成する。その意味で、教育カリキュラムに「家庭科」が存在することも理解できるし、「性教育」も必要だろう(蛇足だが、「法律」や「政治」、「福祉」、「社会保障」、「金融」とかも必要だとおもう)。

ただ…、放っといても人間が「ものを食べることを忘れない」、「食べ方が分からなくなったりしない」ように、性行為についても、そうそう間違った方向に行かないんじゃないかなぁ、行くのかなぁ。まぁ、食事と違って性行為は他人に迷惑や危害が加わる可能性があるから、なんらかの禁止や抑止が必要ではあるか。ただ、「これが正しいやり方ですよ」って教えたところで、悪いことするやつはするというか。

そういう意味では、「人格の矯正みたいなのを教育に含めるか」という問題が、東西の違いとしてそもそもあるような気がする。西洋的キリスト教的な教育観では、「人格の矯正」を教育に含めているんじゃないかなぁ。「そもそも人間でないものを人間に育てる」というような。一方で東洋的な感覚では、「人間の性や業は変えられない」、「変えられないけれども、うまく折合いを付けることはできる」というか。よく分からん。間違ってるような感じもするけど。まーメモだしね。なんかそんなようなことを考えた。
2009-05-25 12:43:23 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2009-05-19

# 言語によるコミュニケーション

最近なんとなく、はてなブックマークを読んでいて感じたことをメモ。

ことの発端は、日本のエロゲーが欧米のamazonで販売されていることが問題視され、抗議活動が日本政府に対してなされているという話。それでまぁ、はてな界隈は例のごとく紛糾したわけだけど。

性暴力表現と規制 - good2ndを読んでいておもったのは、欧米と日本のロックが「違う」ことに似ているのかなぁ、と。つまり、欧米のロックは主張であって政治的であると。一方で日本のロックは趣味で非政治的。欧米からの差別疑惑は、エロゲーというコンテンツを「政治的行為だ」と捉えてるんじゃないかなぁ、と。

同じような話で、Tシャツがある。前にも書いたとおもうけど、欧米人がTシャツを着るとき、「Free Tibet」とか「日本人彼女募集」みたいな文言がプリントされたモノを着ていることがよくある。このとき、Tシャツを着ている人は、そこに書かれていることをマジで捉えているというか、実際に「自らの主張」として着ているフシがある。

一方で、日本人がTシャツを着るとき、そこに書かれる文言はたいていマジ(本気)ではない。Tシャツに書かれる文字は、単なる模様であって、それはお洒落であったり洒落であったりするに過ぎない。そこには主張なんてないし、一般に日本では「主張を唱えることは格好悪いことだ」と捉えられている。

日本においては、「主張」というものは隠される。そういった習慣には合理的な理由もあって、「饅頭怖い」的な価値観があるようにおもう。つまり、「誰かが心に持っている主張や真意というものは、ストレートに明かすと損である」というロジックが、日本人には染み付いているんじゃないかと。

別のところでちょっと見たブログ記事(小学校から『ぼくらの七日間戦争』が撤去されたそうだ。)でも、同じようなことをおもった。この記事は要するに、「自分の子供が通っている小学校の図書室から、どうやら『ぼくらの七日間戦争』という本がなくなったらしい。子供が言うには、校長先生が読んじゃダメと決めたかららしい」、と。

それでこの記事では、「これは一種の言論弾圧ではないか」という説に傾いている。ブコメでもそういう流れになっていて、憤りの感情が広がっているような感じ。でもぼくは、どうしてみんな、そう感情的になるのかなぁと感じた。そもそも話が子供からの伝聞だし、本が撤去された理由もはっきりしない。怒る前にまず、「事実が何か」を確認したほうがいいと思うんだよね(推測した理由が間違っていた場合、怒ったエネルギーが損だし、怒りが間違いを呼び込みやすいと思うから)。

だからまずは、そんなに問題だとおもうなら、校長先生に経緯や真意を尋ねてみて、もし意見に食い違いがあるんだったら、そのとき話し合いをしてお互いに歩み寄りをすればいいんじゃないかなとおもうのだ。要するに「話せば分かる(可能性がある)」という考えね。ところが、件のエントリやハテブのコメントでは、どうも「真意を尋ねてみよう」みたいな意見がなかなか出てこない感じがする。

「学校は密室だから、校長は真意を簡単に隠すことができる」みたいな意見も見かけるし。つまりこれって、接触する前から「校長は敵である」、「饅頭怖い方式で正面からぶつかるのは得策ではない」という感じなんじゃないかなぁ、と。一方でこういう場合、欧米ではまずは声をかけて話し合ってみるのが一般的なんじゃないかという気がする。根拠としては、山岸俊男さんという方が唱えている説で「日本人と欧米人を比べると、欧米人のほうがお互いに信頼しあっている」という意見が挙げられる。

http://takaoka.tumblr.com/post/66215525
 やっぱり日本の場合は契約型に移行するよりも、信頼型のシステムを取り戻すための努力をしたほうが幸せになれる気がするなぁ。もちろんそれが難しいから問題なんだけれども。まずは信頼というものを美徳としてじゃなく合理的で社会に本当に必要なものとしてみんなが理解すること。宗教としてはもうそれはありえないから、哲学ということになるんだろうね。

「信頼というものを美徳としてじゃなく合理的で社会に本当に必要なものとしてみんなが理解すること」ってのが、日本人にはあまり出来ていない感じがするんだよね。けっこう大事なことだとおもうのだけれど。これって、あれかなぁ。日本は年功序列型社会で、若い人には決定権がない。年嵩が大きくて力の強い者が決定を行うので、話し合いを行って良い方法を選ぶという技術が浸透していないのかなぁ。

話は戻ってエロゲーの話だけど。欧米ではロックが政治的行為であったり、Tシャツが主張であったりするように、「表現、とくに言葉による表現をするということは、何らかの主張をしている」という感覚が強いのではないかなぁとおもった。言語主義というか。「そして、言語や表現によってなにかを変えられる。それは変更可能なものだ」とでもいった感覚が、彼らの中にはあるのではないか(逆にわれわれ日本人のなかには、言語や行動でなにかを変えることは難しいといった感覚があるようだ、とも)。

話は飛ぶが、最近テレビ東京でやりはじめた子供向けアニメの「ドーラの大冒険」というのがあって、これはアメリカで制作された「子供向け英語勉強番組」の吹替え版だ。で、この番組の中でも言語主義的な描写が見られる。それは、いたずらを仕掛けてくるキツネのスワイパーが近付いてきたときに、主人公たちがそれを止めようとして「swiper no swipe! swiper no swipe!」と叫ぶところだ。

要するにキツネがいたずらしようとしたときに、「いたずらをするな! いたずらをするな!」と声をかけるだけなのだけど。この声をかけられたキツネは、「oh! man」(ちぇっとかいう意味か)と言いながら退散する。日本人の感覚からすると、悪いことをしようとしている人に対して「やめろ」と言ったところで事態は好転しないとおもうのだが、欧米的なプロトコルではそういう態度が普通なのかもしれない。

そしてもう少しおもうのは、「swiper no swipe! swiper no swipe!」という言葉が、キツネに対して直接投げ掛けられているのではないのかもしれないということ。もしかすると、それはキツネにではなく、神とか精霊のようなものに対して発せられているのではないかな、とか。「swiperをやめさせてくれ」と天に唱える感じに。まぁとにかく、おもったことを言葉に出してみる文化というのが、欧米にはあるのかもしれないなぁ、とか。

まぁなんか、ここ最近、そんなことを感じる出来事が多かった。
2009-05-26 01:52:20 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2009-05-16

# 男の子牧場がいいとおもうわけ

http://d.hatena.ne.jp/a666666/20090515/1242316931
男の子牧場 - 刺身☆ブーメランのはてなダイアリー

↑の記事で、ぼくが書いた文章に言及していただいた。ありがとうございます。だいたいの話の流れは、「男性の性が商品化されることは問題ではないか」という感じかな。そこからつながって、いま話題の男の子牧場が「男性の性の商品化」として物議を醸していることがフォーカスされてくる。

言及していただいた記事では、ぼくは「男性の性の商品化」に警鐘を鳴らすような(否定的な)見解を書いていた。

http://nnri.dip.jp/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2877
 結論からいうと、「草食系男子」という言い方は嫌いだ。いい歳をした男を「男子」と呼ぶのは、恋愛資本主義陣営がむりやり人間を商品にしようとしているように感じる。小学生の女の子が、教室の中でキャッキャと恋愛の話ではしゃぐような感覚がある。いい歳をした人が「男子」という呼称をもって男の人を見るとき、そこには中年男性がセーラー服の女学生を見るのと同じ視線があるのではないか。
 
 「男子」という表現は、不特定多数の成人男性を、小中学生男子のような未熟な男性のイメージでくくり、仮想恋愛の対象として(主に)想像の中で楽しむ行為のようにおもえる。だとすれば、それは一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。もちろん、そういった「遊び」が想像の中でのみ行われていたり、現実の犯罪や苦しむ人を生まないならば、その限りにおいて自由にやってもらっていいとおもう。
 
 ただ、その遊びを想像の外に出し、性的視線を実在する女学生や成人男性に向けることは下品であるし、反社会的行為であると認識すべきだ。これは、見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的であるということを根拠とする。また、そのような嗜好を公の場で堂々と表現することは好ましくない。「草食系男子」という言葉や、そのようなマーケティング行為は、潜在的に誰かを傷付けたり、傷付けようとする性質をもっている。できれば人々には、そのことに無自覚であってほしくない。


これと矛盾するように自分でもおもうのだけど、実はぼくは「男性の性の商品化」の一例といえる「男の子牧場」については、けっこう面白いなーと肯定的に捉えている。たとえば、はてなブックマークのコメントで次のように書いたりしてる。:

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://company.nikkei.co.jp/compinfo/compinfo_detail.aspx?CONT_ID=00020821
 やー、面白いとおもうよ。企画を通したCAはいいセンスと度胸してる。男なんて昔からこういう扱いされてる。それに、牧場に登録される価値がないおいらには雲の上の話。女性版ポルノじゃね?全否定はやりすぎかと。

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さて、ではどうしてぼくが男の子牧場を肯定するかを説明したいのだけど、それをするためには1つ告白をしなければならない。先ほど引用したように、ぼくは『「男子」という表現は、...一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。...見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的である』と書いて批判した。

でも実は、ぼくは本当は、セーラー服やブレザーで身を包んだ可愛い女学生を見ることが好きなのだ。いや、女学生に限らない。可愛らしい女の子が制服姿で歩いていたり、垢抜けないリクルートスーツを着て腕時計なんか見ている姿を見るのも堪らない。だから、もし電車の中や駅などで可愛らしい女の子を見つけてしまうと、どうしてもチラチラと見てしまうのだ。

どうしてこんなことをしてしまうのか、自分でもよく分からない。とにかくぼくは、可愛らしい女の子を見るのが好きなのだ。彼女らの姿を視線の中に入れると、なぜだか脳にシグナルが行って快感を感じるみたい。もちろん、頭では「これは良くないことだ」と分かっている。彼女たちに迷惑をかけたり、不快な思いをさせるのも本意ではない。だからぼくは、そういうときはなるべく「見ないように」と我慢する。でも数秒に1回ぐらい、どうしても我慢できなくて、チラリとそちらを見てしまったりするのだ。ごめんなさい。

実際のところ、こういった行為が「性的視線を向けること」に相当するかよく分からない。そういうのは性欲に基づいた性的行動なのだろうか? 世間一般的には、「チラッと見ること」ぐらいは「性的」の範囲外のものだと見做されているような気がする。でも一方で、彼女らは女性でぼくは男性なのだから、ぼくの行動は「性的ななにか」によって駆動されていることに違いないだろう。いくら可愛くても、男の子をチラチラ見たいとおもったことがないことからもそうだと言える。

つまりこうだ。ぼくの身体には、ぼくの性に基づいたプログラムが埋め込まれている。それは性的ともいえるし生理的ともいえるプログラムだ。一種の性(さが)といってもいいだろう。だからぼくは、ぼくの身体に埋め込まれたプログラムを性的欲求(さがてきよっきゅう)と呼びたい。そして性的欲求(さがてきよっきゅう)は、ぼくだけでなく、ほかの男性にも埋め込まれているのではないかとおもっている。

たぶん少なくない男性は、可愛い女の子やグラビア写真を見るのが好きだ。ただ、街で見掛けた可愛い女の子をジロジロ眺めることは、社会性を逸脱した「してはいけない行為」だ。だからぼくらは、グラビア写真や、ときにはエッチな本やアダルトビデオに心惹かかれてしまうのだとおもう。それらは確かに「商品化された性」だけれども、商品化された性があるからこそ、性的欲求(さがてきよっきゅう)を満たすことができている。

この性的欲求(さがてきよっきゅう)は、きっと少なくない割合の男性に備わっているだろうとおもうのだ。でも、にもかかわらず、いまの日本の社会システムでは、禁止事項として設定されている。おなかが空いてもご飯禁止みたいに。でも幸いなことに、「商品化された性」が合法として存在している。もしこれが、非合法になったとしたらどうだろうか? 厳しいとおもわないだろうか? 高度化し複雑化した人間社会のなかで、われわれは「商品化された性」※を必要としているのではないだろうか?

…あれ、ちょっと話が大きくなりすぎちゃったか。でもまぁもうちょっと続けなきゃな。ぼくがおもうのは、こういうことだ。性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っているのは、男だけではないということ。メカニズムは異なるけれども、女の人も性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っている。そして高度化し複雑化した人間社会のなかで、彼女たちもまた何らかの手当てを必要としている。

「男性の性を商品化するな」という意見に、ぼくは同意できない。なぜなら男たちは、すでに女性の性を商品化しているのだから。そしてそれは、なかば必要悪だともおもっている。だからぼくは、男の子牧場というのは面白いし、あってもいいものだとおもうのだ。それが具体的に、どういう形になるべきかは分からない。でもきっと、女の人の性的欲求(さがてきよっきゅう)に基づいた形である必要があるだろう。

今回の件で、「男の子牧場に対しては男たち自身でちゃんと抗議したほうがいい」という意見を見かけた。でもこれは、「ポルノもグラビアもミスコンテストも、女性の性の商品化だから女性たち自身で抗議したほうがいい」と言うようなものだ。「それらをなくせ」と。でもその論理はおかしい。ポルノもグラビアもミスコンテストも、それを支持しそこに参加したがる女性自身がいるのだ(ポルノにかんしてはもっと難しい問題だけど)。女性全員の敵などではない。「女性自身の問題」でもない。男と女で区切って敵対させないでほしい。

男の子牧場にかんしても同じ。そこに登録されることを嫌がる男もいれば、そこに参加したいとおもう男もいるだろう。「その場所自体が存在してはいけない」という意見は、非常に危険なんじゃないかとぼくはおもう。確かに指摘されているように、男の情報が同意なしに登録され、あることないこと情報が飛び交う危険性はある。しかしそれは性悪説に基づくもので、運営のやり方や集まる人たちによっては、もっと性善説に基づいたまともなサイトになる可能性もあるだろう。

結婚年齢が高くなり、未婚の男女が多くなっている現代の日本。そこではもっとたくさん、出会いがあっていいのではないかとおもう。あるいは未婚の女性がストレスを発散するというか、日々を楽しめるような仕組みがあっていいのではないかとおもう(腐女子方面に走る人もいるだろうけど、そういうのはチョットという人もいるだろう)。一生独身で過ごす男女もこれから増えると予想されている。そうした人たちは、今後どうやって日々を過ごしていくのか。社会は大きく変わる必要があるかもしれない。もうちょっとゆっくりと、話し合いながら、道を進みたいとおもうのだ。


※この文脈では「商品化された性」としているが、必ずしも商品化されていなくても、同じ機能を満たすようなコンテンツやシステムが存在しうるとおもう。また、われわれが必要としているのは「性」そのものではないともいえる。なぜなら「性の商品化」というそもそもの文言が、何を問題だと指摘しているのか不明瞭な点があるからだ。たとえば、漫画やアニメを用いてアダルトコンテンツを制作した場合、それは「性の商品化」と言えるのだろうか。そこには少なくとも、実在する女性が直接的な被害を受けていない。それとも、「性を商品化すること」そのものが問題だと言うのだろうか。もしそう言うのならば、なぜだか尋ねてみたい。
2009-05-17 16:36:51 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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