メッセージ。 - diary

2008-12-15

# テレビの感想(NHKスペシャル|セーフティーネット・クライシスII 非正規労働者を守れるか)

NHKスペシャル|セーフティーネット・クライシスII 非正規労働者を守れるか

という番組を見て興味深かった。とくに、反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さんが話されていたことが印象に残った。いわく、「この年末年始の連休は12月26日の金曜日から始まり、1月5日まで続く。これは平年よりも長いのですが、皆さんはご存知ですか? 解雇された労働者の方々の話を聞いていると、その連休の間、どうやって暮らせばいいかと皆心配している。役所も関連施設も年末年始は閉まるので、どこにも助けを求められない。連休を無事に過ごせるか分からない。それくらい切羽詰まっているんですよ」と。大変重い言葉だと感じられた。

また彼は、つい昨年あたりに過去最高益を出していながら今年は派遣労働者を大量に解雇するという自動車メーカーに対し、どうしてもう少しでも労働者を保護できないのかと訴えていた。企業活動はボランティアではないし、利益も出さなければならない。また現在の世界同時不況はたいへんに苛烈で、企業として生き残りのために奮闘努力しなければならない。それは分かるが、放り出された労働者はこの冬を越せるかどうかの状況にあるという内容だ。彼の言葉に反論することは難しい。

以下、番組を見ていて思ったことなど。日本では、社会不信が蔓延している。社会保障の制度はいちおう存在するけど、労働者の側はそれを知らなかったり、申請するのを面倒がったりしている。年金も、健康保険も、税金も、しくみが複雑すぎる。ふつうの日本人で、年金や健康保険や税金についてちゃんと理解している人がどれだけいるだろうか。すべての国民が知っているべきしくみで、国民を助けるためにあるのに、それは義務教育では教えられない。親も知らない。いったい誰が教えてくれるというんだろうか。

どんな優れた制度も、知らなければ使えない。為政者たちは、労働者たちにたいして「こういう制度がありますよ」と教えてまわるべきじゃないんだろうか。ところが現実は逆だ。労働者たちが制度を知らなければ、歳出を抑えられる。だから役所の人間は、労働者たちにできるだけ馬鹿でいてもらいたいと思っているんじゃないだろうか。そこにあるのは絶望的な相互不信だ。労働者たちのほうも役人にたいして不信感をもっている。役人や社会が、自分を救ってくれるとは思えない。だから何かを申請したり、救いの手を求めることをおそれたりする。

前述の湯浅さんは、社会保障を手厚くすべきと言っていた。職をうしなった人に職業訓練をほどこしたり、住まいのない人に住まいを提供したり、社会保障の制度をうまく使えるようにサポートしたりすべきだと。そして、消費税についても。そもそも老年人口がおおくなって社会保障費を確保できなくなるおそれがあったから、消費税を導入するという話になった。しかし消費税を導入したあとも医療負担増などで社会保障費が足りない状況になっている。老年人口の増加にあいまって、非正規雇用の人も増えている現在、社会保障費はますます足りない状況になりつつある。

こういった状況に対して消費税にもとづく歳入を上げたいという考えは分かるが、消費税の導入によってもっとも苦しむのは、ほんらい社会保障費でまかなうべきだった老年人口や失業者、非正規雇用の人間だと湯浅さんは指摘していた。消費税の増額は必要なのだろうが、社会保障の改善やいったんドロップアウトした人たちの再起の仕組みを作らないで消費税だけ増額すれば、問題はおおきくなるばかりだと。

ドロップアウトした人を再教育する仕組みが必要だという意見があった後で、スーツを来た国政側の人間はこんなことを言っていた。「再教育をしようとなんども試みたが、うまくいかなかった。社会保障を手厚くしようとお金を用意すると、お金だけかすめとろうとする人間だっている」。ぼくはそれを聞いて、要するにそこにあるのは不信だと思った。再教育しようとする側が生徒を信頼できていない。リスペクトがないから教育がうまくいかないのだ。同じことは生徒の側にも言えるだろう。生徒が先生をリスペクトしていないから、教育を受ける効果が上がらないのだ。

ぼくが日本で問題だと思うのは、不信があまりにも蔓延していることだ。労働者も役人も、「相手は悪いことをしようとしている。怠慢な人間だ」と不信をもっている。目の前にいる人にかかわることをおそれているし、自分になにかあったときに助けてもらえるとは思っていない。ある種のムラ的構造が保存されていて、身内以外は信用しない。そしてなお悪いことに、核家族化がすすんで身内がとても少なくなっている。失業した労働者たちを見ていると、ぼくなんかは「いったん実家に帰ればいいのに」と思う。でも画面に出てくる人はだれも「実家に帰る」という言葉を口にしない。テレビのコメンテーターたちも、口にしない。

彼らに帰る実家はないんだろうか。ないのかもしれないし、実家がないことが悪いと思わない。ただ、そういった身寄りのない人たちがたくさんいて、どこにも助けを求められずにもがいているのだとしたら、それは問題だろうと思う。家族や地域の構造は、ここ数十年おおきく変化してきた。むかしにおいては、「セーフティネット」というのは、「家族」や「地域」だったのだろう。なにかあったら家族や親戚が助けてくれるし、都会で仕事を失えば地域に帰るという手があった。地域にも仕事があっただろう。しかしいまでは、そういったセーフティネットが失われてしまったのではないか。

番組の終盤で、東京大学教授の神野直彦さんがおっしゃっていたのは、やはり信頼の問題だった。いまの日本には人のあいだの信頼がないと。いくら制度が充実してお金が用意されていても、相互に信頼する関係がないならば、日本人のあいだに幸せは訪れないだろうと。ぼくはこの意見に心から同意する。そして相互信頼が日本に訪れるためには、哲学が必要ではないかと思うのだ。たとえば、問題を解決しようという意志や、問題を解決したいと思わせる人の絆。自立と自律にもとづいた人や地域。そういったものが日本の社会で育ってほしいと思う。
2008-12-15 22:30:44 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-11-28

# テレビの感想(NHKスペシャル アブグレイブ刑務所事件)

先日、テレビのNHKスペシャルで、2004年のイラク戦争のときアメリカ兵が起こした捕虜虐待事件の番組を見た。アブグレイブ刑務所で、アメリカ兵がイラク兵捕虜を裸にしたり犬をけしかけたりと虐待した件で、その写真が公になったというものだ。

個人的にはこの番組をみるまで、「イラク戦争ではアメリカ兵のストレスが大変大きく、そういったストレスが虐待として顕在した事件なのだろう」という風に捉えていた。つまり、この事件の真の問題はアメリカ兵に加えられた強いストレスであり、強いストレスがかかると今回のような事件はおうおうにして起こるのだろうと。

当時マスメディアの論調などははっきり覚えていないけど、上記の印象からそう外れることのない材料しか提供していなかったと思うし、その後も詳しい情報などはとくに報道されていないように思う(とくにテレビなどの大衆向けメディアにおいて)。

ところが今回の番組では、上記の印象を覆すような情報が提供されていて驚いた。番組では事件の加害者とされる女性や上官らに直接インタビューをし、現場にいた人間から事件がどう見えていたのかをレポートしていたのだ。インタビューによると、加害者の女性は虐待を「与えられた任務」だと捉えていたというのだ。

そういった感覚は、その女性だけが持っていたものではない。虐待に加わった人間たちは、多かれ少なかれ上層部の意図を汲み取って虐待を行っていたという。当時の上層部は、イラク人の捕虜を肉体的にも精神的にも追い詰めることで、情報を引き出そうとしていたという。そしてそういった方針のもと、本来の業務外の仕事(捕虜の監視)を加害兵士たちに与え、また虐待の様子を実際に確認してもいたとのこと。

しかし事件が明るみにでると、そういった方針は公にされなかった。単に加害兵士たちは「腐ったリンゴ」として扱われた。つまり、「虐待は軍による命令ではなく、兵士たち個人の意思により行われたものである」という態度が取られたのだ。実際、この事件で処罰されたのは写真に写っていたかシャッターを切ったとされる7人だけであるという。要はトカゲのしっぽきりだ。

インタビューの中では、加害兵士たちがまったくの潔白であるとは表現していない。彼らのうちの1人(男性)は、すすんで虐待を行う人格的な問題をかかえていたようだし、またインタビューを受けた女性は、その男性の恋人であったため、虐待を行う彼に加担するような行動をとっていたと表現されている。

ぼくは、この番組で報道されていたことが事実かどうか分からない。ただ、事実だとしたら大きな問題であるように思う。また、そういった切り口で報道している今回の番組のことを、とても素晴らしいものだと思う。

NHKスペシャル|微笑と虐待 ~証言 アブグレイブ刑務所事件~
2008-11-28 20:13:32 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-11-19

# ちょっとOCamlを勉強中

ちょっとOCamlを勉強中。そもそもは、Haskellを使って大量データの統計を取るプログラムを書いていたのだけど、それがうまく動かなかったのだった。うまく動かない原因について、Haskell(GHC)のプロファイラを使って調べてみたのだけど、どうやら大量のデータをプログラムにロードする部分が重いらしい。具体的に言うと、CSVファイルを開いてそこに書かれている数字をreadするのだが、それ(read)が遅い。

もととなるCSVファイルは5MB(100万件)程度。プログラムを実行しているのは、ノートPC上のWindows XP上のcoLinux環境(メモリは192MB割り当てている)。5MBのデータで平均をとったり量子化して分類したりしたいのだけど、スワップを起こして20分以上待っても実行が終了しそうにない。Gaucheで同じプログラムを書き下して実行すると、2分30秒程度で終わるような処理内容なのに。

ちなみに、Haskell(GHC)でのプログラムのチューニングは、次のページの情報が非常に参考になった。
Chapter 25. Profiling and optimization

また、Haskellで性能劣化の原因となる「遅延評価によるスペースリーク」について、次のページの情報が導入として役に立った。
第9回 Haskellはなぜ遅いと思われているのか:ITpro

それでまぁ、現時点では、「Haskellは大量データを一括処理するのには向いていないのだろうなぁ」と結論づけた。だって、readという言語の中身がボトルネックなのだから改善しようがない(言語の中身をいじるほど力がいまのぼくにはない)。で、HaskellにかわるものとしてOCamlを勉強してみることにした。実際のところ、やろうとしている仕事に対してGaucheでも不足はないのだけど、静的型付き言語を魅力的に感じてしまったのだ。

ただ勉強しはじめてみると、OCamlもこれはこれで違和感があるなぁ。たとえば、ファイルの内容をいっぺんに読み込む関数が標準で用意されていないみたい。Gaucheでいうと、file->stringとかcall-with-input-fileとかがない。あとは、GHCみたいにライブラリの依存関係を自動で解決してくれないみたい。GHCだと、「ghc --make test.hs」などとやることで、ライブラリの依存関係を自動で解決してくれる。ちょっとしたことなんだけど、やる気にブレーキがかかるんだよなぁ。んー愚痴。
2008-11-19 10:52:29 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-11-12

# 定額給付金の代案

定額給付金はあまり良い案じゃないと思うけど、「やっぱりやめる」って方向は難しそうだから、まぁやってみればいいと思う。で、まぁそれはそれとして、もし次回の刺激策があるのだとしたらこんなんどう?っていうアイデアをば。ただの思い付きだけど。

「現状は大半の企業で給与の支払いが銀行振込となっているが、これを一定の期間現金支給にした企業に減税を施す」ってな感じで。要するに、市民にお金を使ってもらいたいのだったら、「銀行に入ってるお金を引き出す」という一手間を省いてあげて、現金を直接市民の手に渡せばいい。

基本的に人間はものぐさだから、きっと彼らは現状よりもお金を使うようになる。そんだけ。
2008-11-12 19:59:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-11-07

# 企業の合併

パナソニックとサンヨーが合併するらしい。テレビで、企業の合併が進んでいるということを報じていた。パナソニックもサンヨーもメーカーだけど、メーカーにかかわらず、このところ企業の合併が進んでいるらしい。たとえば、家電量販店とかスーパーとか。で、ドラッグストアなんかはまだ群雄割拠の時代で、マツキヨでさえ市場シェアが1割ぐらい、これから合併が進むだろうと言われてるんだって。合併しようとしている人たちは、こんなことを言っていた。「合併することで、価格競争力が出てくる」と。

で、これはきっと要するに、カルテルってことなんだよなぁ。つまりドラッグストアで考えると分かりやすいけど、狭い地域にいくつものドラッグストアがあると、価格競争せざるを得なくなる。マツキヨとハックドラッグとどっちが安いか、みたいな。そういう競争を続けるのは、各ドラッグストアにとって痛い。できれば価格は下げたくないから、競争なんかしたくない。

ドラッグストア同士で連携して(つまり談合して)価格を高く維持できれば、利益率をある程度確保できる。でもこれはカルテルで違法だからダメ。で、どうするかという答えが、要するに「合併」なんだろうなと思った。談合して「同じ会社」であれば、各店で価格が同じでも問題がない。そりゃ、小売店にとってはお得だわな。

今日のパナソニックとサンヨーの合併報道では、家電量販店の人が「家電量販店の合併はメーカーの合併に影響しているのか?」と尋かれて、こんなことを言っていた。「合併が進んでくれば、小売店にとってもメーカーにとっても、今のような低い利益率という状態を改善できるだろうとは考えている」と。

小売店やメーカーにとどまらず、銀行なんかに至るまで、最近はいろんな企業の合併が進んでいる。これは要するにカルテルの存在を許しているというか、手綱を緩めているという状態なわけで、社会主義的な傾向を強めているんじゃないかと思う。かなり純粋な民主主義ならば、このようなカルテルは許さないのではないか。

ぼくはカルテルが悪いとは言わない。カルテルという存在も、社会においては0か1かではなくて、つねに「0と1の間」にあると思うからだ。カルテル度ゼロの社会は存在しないし、カルテル度1の社会も存在しない(ソビエトなんかはカルテル度1だったのかもしれないけど、腐敗が進んだのか崩壊してしまった)。状況によっては、カルテル度を上げ下げすることは、社会や政治にとって必要なことなのではないかと思う。

そして、現在の日本でこのようにカルテル度が上がっていく(カルテル度の上昇を許す)状況というのは、市場において企業というプレーヤーが疲弊し、競争を続けるだけの体力を失なっていることを裏付けているのかもしれない。あるいは「国際競争」というものが存在感を強め、国家間の代理戦争の様相を呈しているのかもしれない。つまり、国内のパイを争って疲弊するのではなく、国間の競争に立ち向かわなければならないという状況にあるのではないか、と。まぁでも前者の情勢がメインかな。

ええと、なんだ。単にテレビを見ていて思ったこと、でした。
2008-11-08 00:00:58 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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