メッセージ。 - diary
2009-05-19
# 言語によるコミュニケーション
最近なんとなく、はてなブックマークを読んでいて感じたことをメモ。
ことの発端は、日本のエロゲーが欧米のamazonで販売されていることが問題視され、抗議活動が日本政府に対してなされているという話。それでまぁ、はてな界隈は例のごとく紛糾したわけだけど。
性暴力表現と規制 - good2ndを読んでいておもったのは、欧米と日本のロックが「違う」ことに似ているのかなぁ、と。つまり、欧米のロックは主張であって政治的であると。一方で日本のロックは趣味で非政治的。欧米からの差別疑惑は、エロゲーというコンテンツを「政治的行為だ」と捉えてるんじゃないかなぁ、と。
同じような話で、Tシャツがある。前にも書いたとおもうけど、欧米人がTシャツを着るとき、「Free Tibet」とか「日本人彼女募集」みたいな文言がプリントされたモノを着ていることがよくある。このとき、Tシャツを着ている人は、そこに書かれていることをマジで捉えているというか、実際に「自らの主張」として着ているフシがある。
一方で、日本人がTシャツを着るとき、そこに書かれる文言はたいていマジ(本気)ではない。Tシャツに書かれる文字は、単なる模様であって、それはお洒落であったり洒落であったりするに過ぎない。そこには主張なんてないし、一般に日本では「主張を唱えることは格好悪いことだ」と捉えられている。
日本においては、「主張」というものは隠される。そういった習慣には合理的な理由もあって、「饅頭怖い」的な価値観があるようにおもう。つまり、「誰かが心に持っている主張や真意というものは、ストレートに明かすと損である」というロジックが、日本人には染み付いているんじゃないかと。
別のところでちょっと見たブログ記事(小学校から『ぼくらの七日間戦争』が撤去されたそうだ。)でも、同じようなことをおもった。この記事は要するに、「自分の子供が通っている小学校の図書室から、どうやら『ぼくらの七日間戦争』という本がなくなったらしい。子供が言うには、校長先生が読んじゃダメと決めたかららしい」、と。
それでこの記事では、「これは一種の言論弾圧ではないか」という説に傾いている。ブコメでもそういう流れになっていて、憤りの感情が広がっているような感じ。でもぼくは、どうしてみんな、そう感情的になるのかなぁと感じた。そもそも話が子供からの伝聞だし、本が撤去された理由もはっきりしない。怒る前にまず、「事実が何か」を確認したほうがいいと思うんだよね(推測した理由が間違っていた場合、怒ったエネルギーが損だし、怒りが間違いを呼び込みやすいと思うから)。
だからまずは、そんなに問題だとおもうなら、校長先生に経緯や真意を尋ねてみて、もし意見に食い違いがあるんだったら、そのとき話し合いをしてお互いに歩み寄りをすればいいんじゃないかなとおもうのだ。要するに「話せば分かる(可能性がある)」という考えね。ところが、件のエントリやハテブのコメントでは、どうも「真意を尋ねてみよう」みたいな意見がなかなか出てこない感じがする。
「学校は密室だから、校長は真意を簡単に隠すことができる」みたいな意見も見かけるし。つまりこれって、接触する前から「校長は敵である」、「饅頭怖い方式で正面からぶつかるのは得策ではない」という感じなんじゃないかなぁ、と。一方でこういう場合、欧米ではまずは声をかけて話し合ってみるのが一般的なんじゃないかという気がする。根拠としては、山岸俊男さんという方が唱えている説で「日本人と欧米人を比べると、欧米人のほうがお互いに信頼しあっている」という意見が挙げられる。
http://takaoka.tumblr.com/post/66215525
「信頼というものを美徳としてじゃなく合理的で社会に本当に必要なものとしてみんなが理解すること」ってのが、日本人にはあまり出来ていない感じがするんだよね。けっこう大事なことだとおもうのだけれど。これって、あれかなぁ。日本は年功序列型社会で、若い人には決定権がない。年嵩が大きくて力の強い者が決定を行うので、話し合いを行って良い方法を選ぶという技術が浸透していないのかなぁ。
話は戻ってエロゲーの話だけど。欧米ではロックが政治的行為であったり、Tシャツが主張であったりするように、「表現、とくに言葉による表現をするということは、何らかの主張をしている」という感覚が強いのではないかなぁとおもった。言語主義というか。「そして、言語や表現によってなにかを変えられる。それは変更可能なものだ」とでもいった感覚が、彼らの中にはあるのではないか(逆にわれわれ日本人のなかには、言語や行動でなにかを変えることは難しいといった感覚があるようだ、とも)。
話は飛ぶが、最近テレビ東京でやりはじめた子供向けアニメの「ドーラの大冒険」というのがあって、これはアメリカで制作された「子供向け英語勉強番組」の吹替え版だ。で、この番組の中でも言語主義的な描写が見られる。それは、いたずらを仕掛けてくるキツネのスワイパーが近付いてきたときに、主人公たちがそれを止めようとして「swiper no swipe! swiper no swipe!」と叫ぶところだ。
要するにキツネがいたずらしようとしたときに、「いたずらをするな! いたずらをするな!」と声をかけるだけなのだけど。この声をかけられたキツネは、「oh! man」(ちぇっとかいう意味か)と言いながら退散する。日本人の感覚からすると、悪いことをしようとしている人に対して「やめろ」と言ったところで事態は好転しないとおもうのだが、欧米的なプロトコルではそういう態度が普通なのかもしれない。
そしてもう少しおもうのは、「swiper no swipe! swiper no swipe!」という言葉が、キツネに対して直接投げ掛けられているのではないのかもしれないということ。もしかすると、それはキツネにではなく、神とか精霊のようなものに対して発せられているのではないかな、とか。「swiperをやめさせてくれ」と天に唱える感じに。まぁとにかく、おもったことを言葉に出してみる文化というのが、欧米にはあるのかもしれないなぁ、とか。
まぁなんか、ここ最近、そんなことを感じる出来事が多かった。
ことの発端は、日本のエロゲーが欧米のamazonで販売されていることが問題視され、抗議活動が日本政府に対してなされているという話。それでまぁ、はてな界隈は例のごとく紛糾したわけだけど。
性暴力表現と規制 - good2ndを読んでいておもったのは、欧米と日本のロックが「違う」ことに似ているのかなぁ、と。つまり、欧米のロックは主張であって政治的であると。一方で日本のロックは趣味で非政治的。欧米からの差別疑惑は、エロゲーというコンテンツを「政治的行為だ」と捉えてるんじゃないかなぁ、と。
同じような話で、Tシャツがある。前にも書いたとおもうけど、欧米人がTシャツを着るとき、「Free Tibet」とか「日本人彼女募集」みたいな文言がプリントされたモノを着ていることがよくある。このとき、Tシャツを着ている人は、そこに書かれていることをマジで捉えているというか、実際に「自らの主張」として着ているフシがある。
一方で、日本人がTシャツを着るとき、そこに書かれる文言はたいていマジ(本気)ではない。Tシャツに書かれる文字は、単なる模様であって、それはお洒落であったり洒落であったりするに過ぎない。そこには主張なんてないし、一般に日本では「主張を唱えることは格好悪いことだ」と捉えられている。
日本においては、「主張」というものは隠される。そういった習慣には合理的な理由もあって、「饅頭怖い」的な価値観があるようにおもう。つまり、「誰かが心に持っている主張や真意というものは、ストレートに明かすと損である」というロジックが、日本人には染み付いているんじゃないかと。
別のところでちょっと見たブログ記事(小学校から『ぼくらの七日間戦争』が撤去されたそうだ。)でも、同じようなことをおもった。この記事は要するに、「自分の子供が通っている小学校の図書室から、どうやら『ぼくらの七日間戦争』という本がなくなったらしい。子供が言うには、校長先生が読んじゃダメと決めたかららしい」、と。
それでこの記事では、「これは一種の言論弾圧ではないか」という説に傾いている。ブコメでもそういう流れになっていて、憤りの感情が広がっているような感じ。でもぼくは、どうしてみんな、そう感情的になるのかなぁと感じた。そもそも話が子供からの伝聞だし、本が撤去された理由もはっきりしない。怒る前にまず、「事実が何か」を確認したほうがいいと思うんだよね(推測した理由が間違っていた場合、怒ったエネルギーが損だし、怒りが間違いを呼び込みやすいと思うから)。
だからまずは、そんなに問題だとおもうなら、校長先生に経緯や真意を尋ねてみて、もし意見に食い違いがあるんだったら、そのとき話し合いをしてお互いに歩み寄りをすればいいんじゃないかなとおもうのだ。要するに「話せば分かる(可能性がある)」という考えね。ところが、件のエントリやハテブのコメントでは、どうも「真意を尋ねてみよう」みたいな意見がなかなか出てこない感じがする。
「学校は密室だから、校長は真意を簡単に隠すことができる」みたいな意見も見かけるし。つまりこれって、接触する前から「校長は敵である」、「饅頭怖い方式で正面からぶつかるのは得策ではない」という感じなんじゃないかなぁ、と。一方でこういう場合、欧米ではまずは声をかけて話し合ってみるのが一般的なんじゃないかという気がする。根拠としては、山岸俊男さんという方が唱えている説で「日本人と欧米人を比べると、欧米人のほうがお互いに信頼しあっている」という意見が挙げられる。
http://takaoka.tumblr.com/post/66215525
やっぱり日本の場合は契約型に移行するよりも、信頼型のシステムを取り戻すための努力をしたほうが幸せになれる気がするなぁ。もちろんそれが難しいから問題なんだけれども。まずは信頼というものを美徳としてじゃなく合理的で社会に本当に必要なものとしてみんなが理解すること。宗教としてはもうそれはありえないから、哲学ということになるんだろうね。
「信頼というものを美徳としてじゃなく合理的で社会に本当に必要なものとしてみんなが理解すること」ってのが、日本人にはあまり出来ていない感じがするんだよね。けっこう大事なことだとおもうのだけれど。これって、あれかなぁ。日本は年功序列型社会で、若い人には決定権がない。年嵩が大きくて力の強い者が決定を行うので、話し合いを行って良い方法を選ぶという技術が浸透していないのかなぁ。
話は戻ってエロゲーの話だけど。欧米ではロックが政治的行為であったり、Tシャツが主張であったりするように、「表現、とくに言葉による表現をするということは、何らかの主張をしている」という感覚が強いのではないかなぁとおもった。言語主義というか。「そして、言語や表現によってなにかを変えられる。それは変更可能なものだ」とでもいった感覚が、彼らの中にはあるのではないか(逆にわれわれ日本人のなかには、言語や行動でなにかを変えることは難しいといった感覚があるようだ、とも)。
話は飛ぶが、最近テレビ東京でやりはじめた子供向けアニメの「ドーラの大冒険」というのがあって、これはアメリカで制作された「子供向け英語勉強番組」の吹替え版だ。で、この番組の中でも言語主義的な描写が見られる。それは、いたずらを仕掛けてくるキツネのスワイパーが近付いてきたときに、主人公たちがそれを止めようとして「swiper no swipe! swiper no swipe!」と叫ぶところだ。
要するにキツネがいたずらしようとしたときに、「いたずらをするな! いたずらをするな!」と声をかけるだけなのだけど。この声をかけられたキツネは、「oh! man」(ちぇっとかいう意味か)と言いながら退散する。日本人の感覚からすると、悪いことをしようとしている人に対して「やめろ」と言ったところで事態は好転しないとおもうのだが、欧米的なプロトコルではそういう態度が普通なのかもしれない。
そしてもう少しおもうのは、「swiper no swipe! swiper no swipe!」という言葉が、キツネに対して直接投げ掛けられているのではないのかもしれないということ。もしかすると、それはキツネにではなく、神とか精霊のようなものに対して発せられているのではないかな、とか。「swiperをやめさせてくれ」と天に唱える感じに。まぁとにかく、おもったことを言葉に出してみる文化というのが、欧米にはあるのかもしれないなぁ、とか。
まぁなんか、ここ最近、そんなことを感じる出来事が多かった。
2009-05-16
# 男の子牧場がいいとおもうわけ
http://d.hatena.ne.jp/a666666/20090515/1242316931
男の子牧場 - 刺身☆ブーメランのはてなダイアリー
↑の記事で、ぼくが書いた文章に言及していただいた。ありがとうございます。だいたいの話の流れは、「男性の性が商品化されることは問題ではないか」という感じかな。そこからつながって、いま話題の男の子牧場が「男性の性の商品化」として物議を醸していることがフォーカスされてくる。
言及していただいた記事では、ぼくは「男性の性の商品化」に警鐘を鳴らすような(否定的な)見解を書いていた。
http://nnri.dip.jp/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2877
これと矛盾するように自分でもおもうのだけど、実はぼくは「男性の性の商品化」の一例といえる「男の子牧場」については、けっこう面白いなーと肯定的に捉えている。たとえば、はてなブックマークのコメントで次のように書いたりしてる。:
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://company.nikkei.co.jp/compinfo/compinfo_detail.aspx?CONT_ID=00020821
--
さて、ではどうしてぼくが男の子牧場を肯定するかを説明したいのだけど、それをするためには1つ告白をしなければならない。先ほど引用したように、ぼくは『「男子」という表現は、...一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。...見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的である』と書いて批判した。
でも実は、ぼくは本当は、セーラー服やブレザーで身を包んだ可愛い女学生を見ることが好きなのだ。いや、女学生に限らない。可愛らしい女の子が制服姿で歩いていたり、垢抜けないリクルートスーツを着て腕時計なんか見ている姿を見るのも堪らない。だから、もし電車の中や駅などで可愛らしい女の子を見つけてしまうと、どうしてもチラチラと見てしまうのだ。
どうしてこんなことをしてしまうのか、自分でもよく分からない。とにかくぼくは、可愛らしい女の子を見るのが好きなのだ。彼女らの姿を視線の中に入れると、なぜだか脳にシグナルが行って快感を感じるみたい。もちろん、頭では「これは良くないことだ」と分かっている。彼女たちに迷惑をかけたり、不快な思いをさせるのも本意ではない。だからぼくは、そういうときはなるべく「見ないように」と我慢する。でも数秒に1回ぐらい、どうしても我慢できなくて、チラリとそちらを見てしまったりするのだ。ごめんなさい。
実際のところ、こういった行為が「性的視線を向けること」に相当するかよく分からない。そういうのは性欲に基づいた性的行動なのだろうか? 世間一般的には、「チラッと見ること」ぐらいは「性的」の範囲外のものだと見做されているような気がする。でも一方で、彼女らは女性でぼくは男性なのだから、ぼくの行動は「性的ななにか」によって駆動されていることに違いないだろう。いくら可愛くても、男の子をチラチラ見たいとおもったことがないことからもそうだと言える。
つまりこうだ。ぼくの身体には、ぼくの性に基づいたプログラムが埋め込まれている。それは性的ともいえるし生理的ともいえるプログラムだ。一種の性(さが)といってもいいだろう。だからぼくは、ぼくの身体に埋め込まれたプログラムを性的欲求(さがてきよっきゅう)と呼びたい。そして性的欲求(さがてきよっきゅう)は、ぼくだけでなく、ほかの男性にも埋め込まれているのではないかとおもっている。
たぶん少なくない男性は、可愛い女の子やグラビア写真を見るのが好きだ。ただ、街で見掛けた可愛い女の子をジロジロ眺めることは、社会性を逸脱した「してはいけない行為」だ。だからぼくらは、グラビア写真や、ときにはエッチな本やアダルトビデオに心惹かかれてしまうのだとおもう。それらは確かに「商品化された性」だけれども、商品化された性があるからこそ、性的欲求(さがてきよっきゅう)を満たすことができている。
この性的欲求(さがてきよっきゅう)は、きっと少なくない割合の男性に備わっているだろうとおもうのだ。でも、にもかかわらず、いまの日本の社会システムでは、禁止事項として設定されている。おなかが空いてもご飯禁止みたいに。でも幸いなことに、「商品化された性」が合法として存在している。もしこれが、非合法になったとしたらどうだろうか? 厳しいとおもわないだろうか? 高度化し複雑化した人間社会のなかで、われわれは「商品化された性」※を必要としているのではないだろうか?
…あれ、ちょっと話が大きくなりすぎちゃったか。でもまぁもうちょっと続けなきゃな。ぼくがおもうのは、こういうことだ。性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っているのは、男だけではないということ。メカニズムは異なるけれども、女の人も性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っている。そして高度化し複雑化した人間社会のなかで、彼女たちもまた何らかの手当てを必要としている。
「男性の性を商品化するな」という意見に、ぼくは同意できない。なぜなら男たちは、すでに女性の性を商品化しているのだから。そしてそれは、なかば必要悪だともおもっている。だからぼくは、男の子牧場というのは面白いし、あってもいいものだとおもうのだ。それが具体的に、どういう形になるべきかは分からない。でもきっと、女の人の性的欲求(さがてきよっきゅう)に基づいた形である必要があるだろう。
今回の件で、「男の子牧場に対しては男たち自身でちゃんと抗議したほうがいい」という意見を見かけた。でもこれは、「ポルノもグラビアもミスコンテストも、女性の性の商品化だから女性たち自身で抗議したほうがいい」と言うようなものだ。「それらをなくせ」と。でもその論理はおかしい。ポルノもグラビアもミスコンテストも、それを支持しそこに参加したがる女性自身がいるのだ(ポルノにかんしてはもっと難しい問題だけど)。女性全員の敵などではない。「女性自身の問題」でもない。男と女で区切って敵対させないでほしい。
男の子牧場にかんしても同じ。そこに登録されることを嫌がる男もいれば、そこに参加したいとおもう男もいるだろう。「その場所自体が存在してはいけない」という意見は、非常に危険なんじゃないかとぼくはおもう。確かに指摘されているように、男の情報が同意なしに登録され、あることないこと情報が飛び交う危険性はある。しかしそれは性悪説に基づくもので、運営のやり方や集まる人たちによっては、もっと性善説に基づいたまともなサイトになる可能性もあるだろう。
結婚年齢が高くなり、未婚の男女が多くなっている現代の日本。そこではもっとたくさん、出会いがあっていいのではないかとおもう。あるいは未婚の女性がストレスを発散するというか、日々を楽しめるような仕組みがあっていいのではないかとおもう(腐女子方面に走る人もいるだろうけど、そういうのはチョットという人もいるだろう)。一生独身で過ごす男女もこれから増えると予想されている。そうした人たちは、今後どうやって日々を過ごしていくのか。社会は大きく変わる必要があるかもしれない。もうちょっとゆっくりと、話し合いながら、道を進みたいとおもうのだ。
※この文脈では「商品化された性」としているが、必ずしも商品化されていなくても、同じ機能を満たすようなコンテンツやシステムが存在しうるとおもう。また、われわれが必要としているのは「性」そのものではないともいえる。なぜなら「性の商品化」というそもそもの文言が、何を問題だと指摘しているのか不明瞭な点があるからだ。たとえば、漫画やアニメを用いてアダルトコンテンツを制作した場合、それは「性の商品化」と言えるのだろうか。そこには少なくとも、実在する女性が直接的な被害を受けていない。それとも、「性を商品化すること」そのものが問題だと言うのだろうか。もしそう言うのならば、なぜだか尋ねてみたい。
男の子牧場 - 刺身☆ブーメランのはてなダイアリー
↑の記事で、ぼくが書いた文章に言及していただいた。ありがとうございます。だいたいの話の流れは、「男性の性が商品化されることは問題ではないか」という感じかな。そこからつながって、いま話題の男の子牧場が「男性の性の商品化」として物議を醸していることがフォーカスされてくる。
言及していただいた記事では、ぼくは「男性の性の商品化」に警鐘を鳴らすような(否定的な)見解を書いていた。
http://nnri.dip.jp/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2877
結論からいうと、「草食系男子」という言い方は嫌いだ。いい歳をした男を「男子」と呼ぶのは、恋愛資本主義陣営がむりやり人間を商品にしようとしているように感じる。小学生の女の子が、教室の中でキャッキャと恋愛の話ではしゃぐような感覚がある。いい歳をした人が「男子」という呼称をもって男の人を見るとき、そこには中年男性がセーラー服の女学生を見るのと同じ視線があるのではないか。「男子」という表現は、不特定多数の成人男性を、小中学生男子のような未熟な男性のイメージでくくり、仮想恋愛の対象として(主に)想像の中で楽しむ行為のようにおもえる。だとすれば、それは一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。もちろん、そういった「遊び」が想像の中でのみ行われていたり、現実の犯罪や苦しむ人を生まないならば、その限りにおいて自由にやってもらっていいとおもう。ただ、その遊びを想像の外に出し、性的視線を実在する女学生や成人男性に向けることは下品であるし、反社会的行為であると認識すべきだ。これは、見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的であるということを根拠とする。また、そのような嗜好を公の場で堂々と表現することは好ましくない。「草食系男子」という言葉や、そのようなマーケティング行為は、潜在的に誰かを傷付けたり、傷付けようとする性質をもっている。できれば人々には、そのことに無自覚であってほしくない。
これと矛盾するように自分でもおもうのだけど、実はぼくは「男性の性の商品化」の一例といえる「男の子牧場」については、けっこう面白いなーと肯定的に捉えている。たとえば、はてなブックマークのコメントで次のように書いたりしてる。:
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://company.nikkei.co.jp/compinfo/compinfo_detail.aspx?CONT_ID=00020821
やー、面白いとおもうよ。企画を通したCAはいいセンスと度胸してる。男なんて昔からこういう扱いされてる。それに、牧場に登録される価値がないおいらには雲の上の話。女性版ポルノじゃね?全否定はやりすぎかと。
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さて、ではどうしてぼくが男の子牧場を肯定するかを説明したいのだけど、それをするためには1つ告白をしなければならない。先ほど引用したように、ぼくは『「男子」という表現は、...一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。...見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的である』と書いて批判した。
でも実は、ぼくは本当は、セーラー服やブレザーで身を包んだ可愛い女学生を見ることが好きなのだ。いや、女学生に限らない。可愛らしい女の子が制服姿で歩いていたり、垢抜けないリクルートスーツを着て腕時計なんか見ている姿を見るのも堪らない。だから、もし電車の中や駅などで可愛らしい女の子を見つけてしまうと、どうしてもチラチラと見てしまうのだ。
どうしてこんなことをしてしまうのか、自分でもよく分からない。とにかくぼくは、可愛らしい女の子を見るのが好きなのだ。彼女らの姿を視線の中に入れると、なぜだか脳にシグナルが行って快感を感じるみたい。もちろん、頭では「これは良くないことだ」と分かっている。彼女たちに迷惑をかけたり、不快な思いをさせるのも本意ではない。だからぼくは、そういうときはなるべく「見ないように」と我慢する。でも数秒に1回ぐらい、どうしても我慢できなくて、チラリとそちらを見てしまったりするのだ。ごめんなさい。
実際のところ、こういった行為が「性的視線を向けること」に相当するかよく分からない。そういうのは性欲に基づいた性的行動なのだろうか? 世間一般的には、「チラッと見ること」ぐらいは「性的」の範囲外のものだと見做されているような気がする。でも一方で、彼女らは女性でぼくは男性なのだから、ぼくの行動は「性的ななにか」によって駆動されていることに違いないだろう。いくら可愛くても、男の子をチラチラ見たいとおもったことがないことからもそうだと言える。
つまりこうだ。ぼくの身体には、ぼくの性に基づいたプログラムが埋め込まれている。それは性的ともいえるし生理的ともいえるプログラムだ。一種の性(さが)といってもいいだろう。だからぼくは、ぼくの身体に埋め込まれたプログラムを性的欲求(さがてきよっきゅう)と呼びたい。そして性的欲求(さがてきよっきゅう)は、ぼくだけでなく、ほかの男性にも埋め込まれているのではないかとおもっている。
たぶん少なくない男性は、可愛い女の子やグラビア写真を見るのが好きだ。ただ、街で見掛けた可愛い女の子をジロジロ眺めることは、社会性を逸脱した「してはいけない行為」だ。だからぼくらは、グラビア写真や、ときにはエッチな本やアダルトビデオに心惹かかれてしまうのだとおもう。それらは確かに「商品化された性」だけれども、商品化された性があるからこそ、性的欲求(さがてきよっきゅう)を満たすことができている。
この性的欲求(さがてきよっきゅう)は、きっと少なくない割合の男性に備わっているだろうとおもうのだ。でも、にもかかわらず、いまの日本の社会システムでは、禁止事項として設定されている。おなかが空いてもご飯禁止みたいに。でも幸いなことに、「商品化された性」が合法として存在している。もしこれが、非合法になったとしたらどうだろうか? 厳しいとおもわないだろうか? 高度化し複雑化した人間社会のなかで、われわれは「商品化された性」※を必要としているのではないだろうか?
…あれ、ちょっと話が大きくなりすぎちゃったか。でもまぁもうちょっと続けなきゃな。ぼくがおもうのは、こういうことだ。性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っているのは、男だけではないということ。メカニズムは異なるけれども、女の人も性的欲求(さがてきよっきゅう)を持っている。そして高度化し複雑化した人間社会のなかで、彼女たちもまた何らかの手当てを必要としている。
「男性の性を商品化するな」という意見に、ぼくは同意できない。なぜなら男たちは、すでに女性の性を商品化しているのだから。そしてそれは、なかば必要悪だともおもっている。だからぼくは、男の子牧場というのは面白いし、あってもいいものだとおもうのだ。それが具体的に、どういう形になるべきかは分からない。でもきっと、女の人の性的欲求(さがてきよっきゅう)に基づいた形である必要があるだろう。
今回の件で、「男の子牧場に対しては男たち自身でちゃんと抗議したほうがいい」という意見を見かけた。でもこれは、「ポルノもグラビアもミスコンテストも、女性の性の商品化だから女性たち自身で抗議したほうがいい」と言うようなものだ。「それらをなくせ」と。でもその論理はおかしい。ポルノもグラビアもミスコンテストも、それを支持しそこに参加したがる女性自身がいるのだ(ポルノにかんしてはもっと難しい問題だけど)。女性全員の敵などではない。「女性自身の問題」でもない。男と女で区切って敵対させないでほしい。
男の子牧場にかんしても同じ。そこに登録されることを嫌がる男もいれば、そこに参加したいとおもう男もいるだろう。「その場所自体が存在してはいけない」という意見は、非常に危険なんじゃないかとぼくはおもう。確かに指摘されているように、男の情報が同意なしに登録され、あることないこと情報が飛び交う危険性はある。しかしそれは性悪説に基づくもので、運営のやり方や集まる人たちによっては、もっと性善説に基づいたまともなサイトになる可能性もあるだろう。
結婚年齢が高くなり、未婚の男女が多くなっている現代の日本。そこではもっとたくさん、出会いがあっていいのではないかとおもう。あるいは未婚の女性がストレスを発散するというか、日々を楽しめるような仕組みがあっていいのではないかとおもう(腐女子方面に走る人もいるだろうけど、そういうのはチョットという人もいるだろう)。一生独身で過ごす男女もこれから増えると予想されている。そうした人たちは、今後どうやって日々を過ごしていくのか。社会は大きく変わる必要があるかもしれない。もうちょっとゆっくりと、話し合いながら、道を進みたいとおもうのだ。
※この文脈では「商品化された性」としているが、必ずしも商品化されていなくても、同じ機能を満たすようなコンテンツやシステムが存在しうるとおもう。また、われわれが必要としているのは「性」そのものではないともいえる。なぜなら「性の商品化」というそもそもの文言が、何を問題だと指摘しているのか不明瞭な点があるからだ。たとえば、漫画やアニメを用いてアダルトコンテンツを制作した場合、それは「性の商品化」と言えるのだろうか。そこには少なくとも、実在する女性が直接的な被害を受けていない。それとも、「性を商品化すること」そのものが問題だと言うのだろうか。もしそう言うのならば、なぜだか尋ねてみたい。
2009-05-08
# NHK「日本の、これから 独身者急増!“未婚社会”」を見た(途中まで)
昨日、NHKの番組で「日本の、これから 独身者急増!“未婚社会”」という番組を見た。録画しながら見ていて途中までしか見ていないのだけど、ちょっと気になったことがあるのでメモ。気になったのは、「草食系男子」という言葉で、未婚を説明しようとしていたところ。
http://www.nhk.or.jp/korekara/
結論からいうと、「草食系男子」という言い方は嫌いだ。いい歳をした男を「男子」と呼ぶのは、恋愛資本主義陣営がむりやり人間を商品にしようとしているように感じる。小学生の女の子が、教室の中でキャッキャと恋愛の話ではしゃぐような感覚がある。いい歳をした人が「男子」という呼称をもって男の人を見るとき、そこには中年男性がセーラー服の女学生を見るのと同じ視線があるのではないか。
「男子」という表現は、不特定多数の成人男性を、小中学生男子のような未熟な男性のイメージでくくり、仮想恋愛の対象として(主に)想像の中で楽しむ行為のようにおもえる。だとすれば、それは一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。もちろん、そういった「遊び」が想像の中でのみ行われていたり、現実の犯罪や苦しむ人を生まないならば、その限りにおいて自由にやってもらっていいとおもう。
ただ、その遊びを想像の外に出し、性的視線を実在する女学生や成人男性に向けることは下品であるし、反社会的行為であると認識すべきだ。これは、見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的であるということを根拠とする。また、そのような嗜好を公の場で堂々と表現することは好ましくない。「草食系男子」という言葉や、そのようなマーケティング行為は、潜在的に誰かを傷付けたり、傷付けようとする性質をもっている。できれば人々には、そのことに無自覚であってほしくない。
もちろん、「遊び」はあっていいとおもうし、社会には「遊び」がなくてはならない。それは必要悪と同等のものである。要するに人々は、遊びや必要悪と、もっとうまく付き合う必要があるのだとおもう。
さて、もう1つおもうのは、草食系といわれる人たちの一部は、男女平等に基づくリベラルな人たちなのではないかということだ。男女平等を重んじるからこそ、彼らは「これは男性がすべき仕事」で「これは女性がすべき仕事」と分けて考えない。どんな仕事も、男性ができるなら男性がやればよいし、女性ができるなら女性がやればよいと考えている。だから「デートは男性から誘うべき(女性が誘ってはいけない)」とは考えないし、「デート費用は男性が負担すべき(女性が負担してはいけない)」とは考えない。そのような先入観から解放されている。まぁ、それ以前に女性と付き合った経験がなくって、どうすればよいか分からないだけという男の人も多いだろうけど…。
ただ、番組を見てて一番おもったのは、「男性がもっと恋愛に積極的になるべき」とか「男性が家計費用を負担しなければならない」といった価値観は、男女平等やジェンダーフリーの観点からすると「アウト」だということを、どうして誰も意識したり指摘したりしないのかということだ。あれだけ人数がいて、「男女平等」を言う人がいないこと(途中まで見ていただけなので、見ていないところで言ってたのかもしれないが。あと、言う人がいたけどカットされてたのかもしれないが)に驚く。それは男尊女卑であり女尊男卑だ。
そのほかにも、経済や非正規雇用、託児所、都市と地方、社会保障、家の問題、社会と個人、義務と権利など、このへんは問題が複雑に絡まりあっている。「結婚」というテーマを扱うには、かなり問題を整理しなければ、番組としての完成度が上がらないのではないかとおもう。とくに討論番組で扱うには難しい。(「日本の、これから」シリーズは何作品か見たけど、「NHKスペシャル」等に比べるとどうも消化不良の場合が多いような気がする。それでも、討論することに意義があるという趣旨なんだろうけど。まぁそういう趣旨があるとすれば同意する)
http://www.nhk.or.jp/korekara/
結論からいうと、「草食系男子」という言い方は嫌いだ。いい歳をした男を「男子」と呼ぶのは、恋愛資本主義陣営がむりやり人間を商品にしようとしているように感じる。小学生の女の子が、教室の中でキャッキャと恋愛の話ではしゃぐような感覚がある。いい歳をした人が「男子」という呼称をもって男の人を見るとき、そこには中年男性がセーラー服の女学生を見るのと同じ視線があるのではないか。
「男子」という表現は、不特定多数の成人男性を、小中学生男子のような未熟な男性のイメージでくくり、仮想恋愛の対象として(主に)想像の中で楽しむ行為のようにおもえる。だとすれば、それは一部の成人男性が、女学生を性的対象として仮想恋愛の中で遊ぶ行為にほとんど等しい。もちろん、そういった「遊び」が想像の中でのみ行われていたり、現実の犯罪や苦しむ人を生まないならば、その限りにおいて自由にやってもらっていいとおもう。
ただ、その遊びを想像の外に出し、性的視線を実在する女学生や成人男性に向けることは下品であるし、反社会的行為であると認識すべきだ。これは、見知らぬ異性に対して性的視線を向けることは反社会的であるということを根拠とする。また、そのような嗜好を公の場で堂々と表現することは好ましくない。「草食系男子」という言葉や、そのようなマーケティング行為は、潜在的に誰かを傷付けたり、傷付けようとする性質をもっている。できれば人々には、そのことに無自覚であってほしくない。
もちろん、「遊び」はあっていいとおもうし、社会には「遊び」がなくてはならない。それは必要悪と同等のものである。要するに人々は、遊びや必要悪と、もっとうまく付き合う必要があるのだとおもう。
さて、もう1つおもうのは、草食系といわれる人たちの一部は、男女平等に基づくリベラルな人たちなのではないかということだ。男女平等を重んじるからこそ、彼らは「これは男性がすべき仕事」で「これは女性がすべき仕事」と分けて考えない。どんな仕事も、男性ができるなら男性がやればよいし、女性ができるなら女性がやればよいと考えている。だから「デートは男性から誘うべき(女性が誘ってはいけない)」とは考えないし、「デート費用は男性が負担すべき(女性が負担してはいけない)」とは考えない。そのような先入観から解放されている。まぁ、それ以前に女性と付き合った経験がなくって、どうすればよいか分からないだけという男の人も多いだろうけど…。
ただ、番組を見てて一番おもったのは、「男性がもっと恋愛に積極的になるべき」とか「男性が家計費用を負担しなければならない」といった価値観は、男女平等やジェンダーフリーの観点からすると「アウト」だということを、どうして誰も意識したり指摘したりしないのかということだ。あれだけ人数がいて、「男女平等」を言う人がいないこと(途中まで見ていただけなので、見ていないところで言ってたのかもしれないが。あと、言う人がいたけどカットされてたのかもしれないが)に驚く。それは男尊女卑であり女尊男卑だ。
そのほかにも、経済や非正規雇用、託児所、都市と地方、社会保障、家の問題、社会と個人、義務と権利など、このへんは問題が複雑に絡まりあっている。「結婚」というテーマを扱うには、かなり問題を整理しなければ、番組としての完成度が上がらないのではないかとおもう。とくに討論番組で扱うには難しい。(「日本の、これから」シリーズは何作品か見たけど、「NHKスペシャル」等に比べるとどうも消化不良の場合が多いような気がする。それでも、討論することに意義があるという趣旨なんだろうけど。まぁそういう趣旨があるとすれば同意する)
2009-05-06
# 大学が多すぎるという話について
大学というものが、ある時期から遊びに行く場所になってしまっているんだよね。また同時に、学士が1つのステータスとして扱われ、「就職のための切符」に矮小化されてしまった。みんなその切符が欲しいと殺到するので、名前を聞いたこともない大学が増え、勉強する意欲のない学生が氾濫しているんじゃないかとおもう。(かくいうぼくも、大学というのは遊びに行くところだとおもっていた)。
こうなっている大きな原因は、ベルトコンベア式に人間を扱う日本社会の習慣だと考えている。大衆も企業も、「いい大学を出た人がいい会社に就職でき、出世コースを歩む」と刷り込まれている。たとえばアメリカでは、いったん就職したり軍役についたりして社会人を経験した人が、後に大学に入って勉強しなおすことがあるが、日本ではそういった経歴は異例だ。
「新卒採用」という言葉に代表されるように、企業は4月、一律に大量の大学卒業者を採用し、プロパーとして育てていく。最近でこそ転職もそれほど珍しくなくなったが、しかし30代を過ぎるころから転職はかなり難しくなる。40代や50代ともなると、同業種内での戦略的な転職や、異業種(掃除夫や介護職ではないもの)への転職はほとんど不可能になるのではないだろうか。
なぜこうなっているかというと、年功序列などの日本的習慣が一因ではないかと考えられる。日本では、とにかく「年長者が偉い」という基本的ルールがあり、その一方で村社会的に人材がコミュニティに対し強い忠誠を誓うことを要請する傾向がある。そうなると、転職者というのは脱藩者であって、気軽に脱藩するような忠誠心の低い者はなかなか受け容れられず、既存のコミュニティ内で「余所者を受け容れたくない」という反発が強くなるのではないか。また、年下の人間が年上の人間を扱う方法論が、日本的習慣の中では存在しないことも、年長者の転職が難しい原因になっているだろう。
結果的に日本の社会では、個人の専門性や能力、客観性にもとづいた技能はなかなか生かされず、「いかにコミュニティに忠誠を誓うか」が重みをもってしまっているのではないか。これでは社内政治が跋扈する原因になるし、外部からの人材流入が少ないので、技術レベルの向上や社内政治の抑制が難しくなるだろう。また個人にとっても、高校のときの進路決定があまりに重大で、またベルトコンベアから外れることが大きなリスクになってしまう。途中で方向転換を試みたり失敗してしまうと、ベルトコンベアから外れ、大きなコストを支払わねばならない。
もちろん、日本的手法にもメリットがある。外部からの人材流入が少ないということは、外部へ人材流出が少ないということでもある。自社内での技術レベルや教育レベルが十分高いなら、人材が流出しないことで自社の技術レベルをそのまま高止まりさせることができるだろうから。また社内での忠誠心が高いというのは、コミュニケーションコストが低くなるので生産性が高くなったり、セキュリティリスクを減らせるだろう。
考えなければいけないのは、マクロ的に見て日本的手法とそうでない手法と、どちらがよいかだろう。それを判断するのは、なかなか難しい。0か1かではなく、ある程度バランスだろうし。ただ、現在の状況では、大学というものが実効的に働いていないのはもったいないようにおもう。たとえば、社会人が自分の専門性を高めるために、もっと気軽に大学を利用できるようにしたり、産学共同の研究がもっと増えたりするほうがよいのではないだろうか。
また、大学はもっと地域に開かれたほうがよいのではないかともおもう。生涯学習の拠点として、あるいは市井の研究者や専門家が集い、情報交換をできる場所として、大学は役割を担える可能性がある。そもそも、現在の日本では、科学やアカデミーの地位が低すぎるのも問題だ。日本では流言や誤り偏った情報が氾濫しやすく、良きにせよ悪しきにせよ、世論が加熱しやすい傾向にある。こういった世論が、いたずらに悪い方向に暴走してしまうことを防ぐためにも、大衆の心と知性の拠り所となるようなものが必要だと考える。
そういう意味で大学の存在意義は大きく、ポテンシャルは高い。現在のように大学が矮小化され、アカデミーの整備が野放図にされている状態は好ましくないだろう。
こうなっている大きな原因は、ベルトコンベア式に人間を扱う日本社会の習慣だと考えている。大衆も企業も、「いい大学を出た人がいい会社に就職でき、出世コースを歩む」と刷り込まれている。たとえばアメリカでは、いったん就職したり軍役についたりして社会人を経験した人が、後に大学に入って勉強しなおすことがあるが、日本ではそういった経歴は異例だ。
「新卒採用」という言葉に代表されるように、企業は4月、一律に大量の大学卒業者を採用し、プロパーとして育てていく。最近でこそ転職もそれほど珍しくなくなったが、しかし30代を過ぎるころから転職はかなり難しくなる。40代や50代ともなると、同業種内での戦略的な転職や、異業種(掃除夫や介護職ではないもの)への転職はほとんど不可能になるのではないだろうか。
なぜこうなっているかというと、年功序列などの日本的習慣が一因ではないかと考えられる。日本では、とにかく「年長者が偉い」という基本的ルールがあり、その一方で村社会的に人材がコミュニティに対し強い忠誠を誓うことを要請する傾向がある。そうなると、転職者というのは脱藩者であって、気軽に脱藩するような忠誠心の低い者はなかなか受け容れられず、既存のコミュニティ内で「余所者を受け容れたくない」という反発が強くなるのではないか。また、年下の人間が年上の人間を扱う方法論が、日本的習慣の中では存在しないことも、年長者の転職が難しい原因になっているだろう。
結果的に日本の社会では、個人の専門性や能力、客観性にもとづいた技能はなかなか生かされず、「いかにコミュニティに忠誠を誓うか」が重みをもってしまっているのではないか。これでは社内政治が跋扈する原因になるし、外部からの人材流入が少ないので、技術レベルの向上や社内政治の抑制が難しくなるだろう。また個人にとっても、高校のときの進路決定があまりに重大で、またベルトコンベアから外れることが大きなリスクになってしまう。途中で方向転換を試みたり失敗してしまうと、ベルトコンベアから外れ、大きなコストを支払わねばならない。
もちろん、日本的手法にもメリットがある。外部からの人材流入が少ないということは、外部へ人材流出が少ないということでもある。自社内での技術レベルや教育レベルが十分高いなら、人材が流出しないことで自社の技術レベルをそのまま高止まりさせることができるだろうから。また社内での忠誠心が高いというのは、コミュニケーションコストが低くなるので生産性が高くなったり、セキュリティリスクを減らせるだろう。
考えなければいけないのは、マクロ的に見て日本的手法とそうでない手法と、どちらがよいかだろう。それを判断するのは、なかなか難しい。0か1かではなく、ある程度バランスだろうし。ただ、現在の状況では、大学というものが実効的に働いていないのはもったいないようにおもう。たとえば、社会人が自分の専門性を高めるために、もっと気軽に大学を利用できるようにしたり、産学共同の研究がもっと増えたりするほうがよいのではないだろうか。
また、大学はもっと地域に開かれたほうがよいのではないかともおもう。生涯学習の拠点として、あるいは市井の研究者や専門家が集い、情報交換をできる場所として、大学は役割を担える可能性がある。そもそも、現在の日本では、科学やアカデミーの地位が低すぎるのも問題だ。日本では流言や誤り偏った情報が氾濫しやすく、良きにせよ悪しきにせよ、世論が加熱しやすい傾向にある。こういった世論が、いたずらに悪い方向に暴走してしまうことを防ぐためにも、大衆の心と知性の拠り所となるようなものが必要だと考える。
そういう意味で大学の存在意義は大きく、ポテンシャルは高い。現在のように大学が矮小化され、アカデミーの整備が野放図にされている状態は好ましくないだろう。
2009-05-01
# 成功体験
1年ぐらい前、うちの親父と仕事について話していて、彼からこんなことを聞いた。曰く、「古い会社というのはよくできている」と。たとえば、彼のいた会社で20年ほど前、シャープとの取り引き拡大を検討している部署があったという。現在のシャープは、液晶関連デバイスで世界的な企業になっているけど、当時はこれといって特徴のない中小企業の1つに過ぎなかったという。
彼が所属していた会社では、「シャープとの取り引き拡大するため投資を増やす」という話が広がると、大半の人間は「はぁ? シャープ? 大丈夫かいな? まぁほどほどにしとけよ」という反応が普通であったという。そういう彼自身も、シャープのことを大して評価していなかったそうな。
ところが20年たった現在、シャープは押しも押されもせぬ大企業になり、かつての投資は大成功を納め、現在彼の会社へ大きく貢献しているのだとか。彼はこの事例を挙げてこう言った。「会社というのは、そういうものだ」と。つまり、会社の中で進められている案件のうち、シャープ向けの投資の例のように、成功するものはほんの数パーセントしかない。
会社の中で仕事をしている人のうち、大半の人はシャープ向けの投資が成功するなどとは考えていなかったという。そういった大半の人は、それぞれが自ら伸びると信じる分野で頑張って仕事をしていたはずだ。けれども、そういった分野のほとんどは実を結ばず、ほんの一握りの分野や会社への投資だけが、大きな成功を納めたことになる。
彼が言ったのはこういうことだった。要するに、何が成功するかは分からない。でも、だからこそ短期の収益を追い掛けるのではなく、また収益性だけを気に掛けるのでもなく、いろいろな方面で(ときには無駄だとおもえるようなものでも)事業を展開することが重要だと。そうしているうちに、おもわぬところから収益の柱が育っていったりするのだと。
この話を聞いて、ぼくは少し衝撃を受けた。そういう考え方もあるのかと。いや、もちろん、話を聞いてみればそれほど不自然な考えではないし、当然のロジックでさえある。だけど不思議なことに、自分自身のこれまでを振り返って、そのような観点に接することはまったくといってよいほどなかった。これまでぼくは、自分が所属する部署や事業において、黒字が出なかったり、マイナス成長したりすることを、非常に苦しくおもっていた。
そのような部署にいる自分は会社にとってお荷物だろうと考えたし、うまくいかない仕事のやり方や、引いてはそういった仕事のやり方しかさせられないその会社自体に、明るい未来がないのではないかとおもっていた。ぼくが会社員として勤めていた10年の大半は、大かれ少なかれ、そういった苦しみの中にあった。
でも実際振り返ってみると、自分が最初に就職した会社(6年前に辞めた会社)は、今現在もそれなりに営業しているみたいだし、社員数がけっこう増えていたりする。また、昨年辞めた出版社も、それなりに営業を続けている(先日はワールドビジネスサテライトで新しい事業が取り上げられていた)。
そういう意味で、自分が感じていた苦しみや不安は、実際には杞憂で一人相撲だったのかもしれない。あるいは、そんなことなくて、そんな悠長なことを言っていられるのは、彼が言うように「古い会社」だからなのかもしれない。経済が拡大期にあったから、そのようなやり方で成長できたのかもしれない。でもとにかく、そういう仕事のやり方、考え方を普通だとおもっている会社や人がいるのだということに、ぼくは衝撃を受けた。同じ星にある、同じ会社や同じ人間とはおもえないとでもいうような、ちょっとした疑いを持ちさえした。
実際のところ、どうなんだろう。かつてぼくが所属した会社も、明言はされていなかったけど、そういった思考のもとに運営されていたんだろうか。ぼくは下っ端だから分からなかったけど、そうだったんだろうか。なんとなく、そんな感じはしないんだけどな。課長や部長は泥のようにはいつくばって、目先の黒字のために苦労をしていたようにおもったんだけどな。いずれにせよ、よく分からない。ぼくの苦しみはいったいなんだったのか。まだ当分、その答えは分からないのだろう。
彼が所属していた会社では、「シャープとの取り引き拡大するため投資を増やす」という話が広がると、大半の人間は「はぁ? シャープ? 大丈夫かいな? まぁほどほどにしとけよ」という反応が普通であったという。そういう彼自身も、シャープのことを大して評価していなかったそうな。
ところが20年たった現在、シャープは押しも押されもせぬ大企業になり、かつての投資は大成功を納め、現在彼の会社へ大きく貢献しているのだとか。彼はこの事例を挙げてこう言った。「会社というのは、そういうものだ」と。つまり、会社の中で進められている案件のうち、シャープ向けの投資の例のように、成功するものはほんの数パーセントしかない。
会社の中で仕事をしている人のうち、大半の人はシャープ向けの投資が成功するなどとは考えていなかったという。そういった大半の人は、それぞれが自ら伸びると信じる分野で頑張って仕事をしていたはずだ。けれども、そういった分野のほとんどは実を結ばず、ほんの一握りの分野や会社への投資だけが、大きな成功を納めたことになる。
彼が言ったのはこういうことだった。要するに、何が成功するかは分からない。でも、だからこそ短期の収益を追い掛けるのではなく、また収益性だけを気に掛けるのでもなく、いろいろな方面で(ときには無駄だとおもえるようなものでも)事業を展開することが重要だと。そうしているうちに、おもわぬところから収益の柱が育っていったりするのだと。
この話を聞いて、ぼくは少し衝撃を受けた。そういう考え方もあるのかと。いや、もちろん、話を聞いてみればそれほど不自然な考えではないし、当然のロジックでさえある。だけど不思議なことに、自分自身のこれまでを振り返って、そのような観点に接することはまったくといってよいほどなかった。これまでぼくは、自分が所属する部署や事業において、黒字が出なかったり、マイナス成長したりすることを、非常に苦しくおもっていた。
そのような部署にいる自分は会社にとってお荷物だろうと考えたし、うまくいかない仕事のやり方や、引いてはそういった仕事のやり方しかさせられないその会社自体に、明るい未来がないのではないかとおもっていた。ぼくが会社員として勤めていた10年の大半は、大かれ少なかれ、そういった苦しみの中にあった。
でも実際振り返ってみると、自分が最初に就職した会社(6年前に辞めた会社)は、今現在もそれなりに営業しているみたいだし、社員数がけっこう増えていたりする。また、昨年辞めた出版社も、それなりに営業を続けている(先日はワールドビジネスサテライトで新しい事業が取り上げられていた)。
そういう意味で、自分が感じていた苦しみや不安は、実際には杞憂で一人相撲だったのかもしれない。あるいは、そんなことなくて、そんな悠長なことを言っていられるのは、彼が言うように「古い会社」だからなのかもしれない。経済が拡大期にあったから、そのようなやり方で成長できたのかもしれない。でもとにかく、そういう仕事のやり方、考え方を普通だとおもっている会社や人がいるのだということに、ぼくは衝撃を受けた。同じ星にある、同じ会社や同じ人間とはおもえないとでもいうような、ちょっとした疑いを持ちさえした。
実際のところ、どうなんだろう。かつてぼくが所属した会社も、明言はされていなかったけど、そういった思考のもとに運営されていたんだろうか。ぼくは下っ端だから分からなかったけど、そうだったんだろうか。なんとなく、そんな感じはしないんだけどな。課長や部長は泥のようにはいつくばって、目先の黒字のために苦労をしていたようにおもったんだけどな。いずれにせよ、よく分からない。ぼくの苦しみはいったいなんだったのか。まだ当分、その答えは分からないのだろう。