メッセージ。 - diary
2009-04-30
# 海外で勉強して働く話の続き
承前。
http://nnri.dip.jp/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2873
http://www.chikawatanabe.com/blog/2009/04/future_of_japan.html
10年間仕事をしていておもったのは、自分が仕事をして作りたいものは、(1)誰かの役に立つもので、かつ(2)対価がそれなりに得られるもの(最低限黒字を出して成長できるレベル)という感じだった。でも、1と2を両方満たす仕事はあまりなく、苦しい戦いを強いられた。
それで10年間の最後には「自分が納得できる仕事をしたい」と考え、会社を辞めてちょっとアメリカへ行ってみることにした。本気になって英語を身に付けたかったのと、アメリカという国がどういうところかを知りたかったから。それと、お金になりもしない仕事をしながら企業のなかで安穏と給料をもらう生活を続けていては、自分が納得して働けないと考えたから。
「納得できる仕事をしたい」とはおもうものの、末端の会社員にすぎず、なんの実績も持たない自分がそれを言うのはおこがましい。業務を遂行するにあたって資金を出すのは会社なのだから、会社の意図に沿って仕事をするのが当然だ。だからぼくは、会社の言うとおりに仕事をした。ぼくの心の中には葛藤があった。
ただ実際のところ、ぼくは「それは違う」と心の中でおもっているばかりだった。誰かが出す提案に「それは違う」と言うだけでは物事は前に進まない。だからぼくは、自分から何かを言い、何かをしなければならなかった。会社を辞め、自分のお金でアメリカへ行ってみることにした。※1
アメリカには2か月ほど滞在でき、それは楽しい経験だった。英語、人間関係、道の歩き方、いろんなことが勉強になった。ただ、どうだろうなぁ。「留学して働く」というのには、到底2か月では足りない。最低でも1年以上、3~4年ぐらいは留学しないといけないんじゃないかな。そこまでするのにいくらお金がかるんだろうか。行く国にもよるけど、たぶん1年アメリカで生活するには最低150万円ぐらいはいるとおもう。学費もかかる。金銭面のハードルは結構高い。
それに加えておもうのは、誰のためにどんな仕事をしたいのかという問題があるんじゃないかな。向こうで短期の語学学校に通っているとき、20代ぐらいの留学生Aさんと、こんな会話をした。
Aさん:「あなたはアメリカで就職したいとおもってるの?」
ふ:「就職できればうれしいとはおもってるよ。でもビザの問題もあるし、難しいんじゃないかな」
Aさん:「仕事なら、探せばあるわ。日本食や韓国料理のレストランなんかでバイトを募集してるし、ビザがなくても働けるよ」
ふ:「でも、ビザなしで働くのは違法だしなぁ」
Aさん:「みんなやってるから大丈夫よ。no problem」
ふ:「そっかぁ。うーん。でもまぁぼくは、IT関連のスキルと経歴があるし、できればその経験を生かした仕事をしたいとおもってる。だからちょっと乗り気がしないな。まぁ、もう少し考えてみるよ、ありがとう」
一般的に、こういう会話がどの程度頻繁に交わされているのかは分からない。でも、こういう考え方で就職を捉えている人も案外多いんじゃないかとおもう。つまり、「アメリカで就職できるなら、レストランのバイトでもなんでもいいじゃないか」とでもいったものだ。いや、実際にAさんは、そんなに極端なことを言おうとしたのではないのかもしれない。物価の高い米国において、生活費の足しがあるほうがいいだろうとアドバイスをしてくれたのかもしれない。ただ、一部にはやっぱりこういう考え方があるのだとおもう。
親戚のおばさんにもアメリカかぶれの人がいて、ぼくが無職だと聞き付けた彼女はこんなことを言ってきた。「アメリカでの就職を考えたらどう? これはチャンスだとおもうの」。実際、彼女の息子たちはアメリカで就職して働いている。ぼくの向こうでの就職も、彼らが手助けしてくれるという。でもよく聞いてみると、彼女は「アメリカで就職すること」ばかりに傾注していた(少なくとも、そのときのぼくにはそう聞こえた)。「アメリカで就職できるなら、レストランでもなんでもいいじゃない」とまでは言わないが、そこで誰にどんな仕事をサーブできるのか、サーブしたいのか、彼女の提案では、そこが最優先に考えられていないような気がした。
頭でっかちで、贅沢な話かもしれないけど。でもぼくは歳をとってしまったこともあり、単に収入があればいいやという仕事は苦痛に感じる。できれば誰かの役に立って、それで対価を得られるような仕事がしたい。そのため問題なのは、自分はなにができて、誰のために働きたいのか、というところだ。いや、もちろん、レストランの仕事でも誰かの役には立つんだけど。でも、違法なのはちょっとなぁ…。
そんなことを考えながら、無職生活を1年ぐらい続けている。このところは、世界的な経済問題が起こっていることもあり、経済系のニュースを見て勉強したりしてる。あと、多少プログラムを組めるという技術を(それほど高度な技術ではないが)、なんとかマネタイズ(お金に替えることが)できないかなぁと試行錯誤してる。でも、お金を稼ぐというのは本当に難しい。そろそろなりふり構わず就職しなければいけなくなりそう。
アメリカには2か月しかいなかったし、旅行者としてしか接していなかったから、良い面ばかりが見えたのかもしれない。その限りの見方ではあるけど、アメリカや海外で働くことができたら面白いだろうなぁとおもう。なぜかというと、ドライブ感(自分が何かを変えている感じ)がある気がするからだ。良くも悪くも、アメリカは広かった。広いゆえに問題もいっぱいあり、まだまだやるべきことがあるように感じた。自分がなにかをすることで、何かを変えることができる。役に立つことができる。そうじゃないかと感じることがあったし、実際そのように行動している人と会えたようにおもう。
一方で日本を振り返ってみると、自分がいったい何の役に立つのか、よく分からない。何かをすれば、何かを変えられるんだろうか。日本にだって問題はあるはずだ。「ここがこうだったらいいのに」とおもうところはある。でもなんか、いろいろ複雑すぎて、自分がいったい何をどうすればいいかよく分からない。どこから手を付けていいかもよく分からないし、よく考えればそもそも資金も力もないのだった。うーん、困った。そういう状態。なんか仕事ありませんかね?(苦笑)
あ、ちなみにアメリカ旅行のときの写真は次のURLに置いてます。
http://picasaweb.google.co.jp/yoshiharu.fujisawa/
※1. 会社や上役の指示にぼくが反発を覚えたのなら、「それは違う。こうしましょう」と声を挙げるという選択肢もあったとおもう。そうするのが苦手だというのも、ぼくの悪いところではある。
http://nnri.dip.jp/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2873
http://www.chikawatanabe.com/blog/2009/04/future_of_japan.html
10年間仕事をしていておもったのは、自分が仕事をして作りたいものは、(1)誰かの役に立つもので、かつ(2)対価がそれなりに得られるもの(最低限黒字を出して成長できるレベル)という感じだった。でも、1と2を両方満たす仕事はあまりなく、苦しい戦いを強いられた。
それで10年間の最後には「自分が納得できる仕事をしたい」と考え、会社を辞めてちょっとアメリカへ行ってみることにした。本気になって英語を身に付けたかったのと、アメリカという国がどういうところかを知りたかったから。それと、お金になりもしない仕事をしながら企業のなかで安穏と給料をもらう生活を続けていては、自分が納得して働けないと考えたから。
「納得できる仕事をしたい」とはおもうものの、末端の会社員にすぎず、なんの実績も持たない自分がそれを言うのはおこがましい。業務を遂行するにあたって資金を出すのは会社なのだから、会社の意図に沿って仕事をするのが当然だ。だからぼくは、会社の言うとおりに仕事をした。ぼくの心の中には葛藤があった。
ただ実際のところ、ぼくは「それは違う」と心の中でおもっているばかりだった。誰かが出す提案に「それは違う」と言うだけでは物事は前に進まない。だからぼくは、自分から何かを言い、何かをしなければならなかった。会社を辞め、自分のお金でアメリカへ行ってみることにした。※1
アメリカには2か月ほど滞在でき、それは楽しい経験だった。英語、人間関係、道の歩き方、いろんなことが勉強になった。ただ、どうだろうなぁ。「留学して働く」というのには、到底2か月では足りない。最低でも1年以上、3~4年ぐらいは留学しないといけないんじゃないかな。そこまでするのにいくらお金がかるんだろうか。行く国にもよるけど、たぶん1年アメリカで生活するには最低150万円ぐらいはいるとおもう。学費もかかる。金銭面のハードルは結構高い。
それに加えておもうのは、誰のためにどんな仕事をしたいのかという問題があるんじゃないかな。向こうで短期の語学学校に通っているとき、20代ぐらいの留学生Aさんと、こんな会話をした。
Aさん:「あなたはアメリカで就職したいとおもってるの?」
ふ:「就職できればうれしいとはおもってるよ。でもビザの問題もあるし、難しいんじゃないかな」
Aさん:「仕事なら、探せばあるわ。日本食や韓国料理のレストランなんかでバイトを募集してるし、ビザがなくても働けるよ」
ふ:「でも、ビザなしで働くのは違法だしなぁ」
Aさん:「みんなやってるから大丈夫よ。no problem」
ふ:「そっかぁ。うーん。でもまぁぼくは、IT関連のスキルと経歴があるし、できればその経験を生かした仕事をしたいとおもってる。だからちょっと乗り気がしないな。まぁ、もう少し考えてみるよ、ありがとう」
一般的に、こういう会話がどの程度頻繁に交わされているのかは分からない。でも、こういう考え方で就職を捉えている人も案外多いんじゃないかとおもう。つまり、「アメリカで就職できるなら、レストランのバイトでもなんでもいいじゃないか」とでもいったものだ。いや、実際にAさんは、そんなに極端なことを言おうとしたのではないのかもしれない。物価の高い米国において、生活費の足しがあるほうがいいだろうとアドバイスをしてくれたのかもしれない。ただ、一部にはやっぱりこういう考え方があるのだとおもう。
親戚のおばさんにもアメリカかぶれの人がいて、ぼくが無職だと聞き付けた彼女はこんなことを言ってきた。「アメリカでの就職を考えたらどう? これはチャンスだとおもうの」。実際、彼女の息子たちはアメリカで就職して働いている。ぼくの向こうでの就職も、彼らが手助けしてくれるという。でもよく聞いてみると、彼女は「アメリカで就職すること」ばかりに傾注していた(少なくとも、そのときのぼくにはそう聞こえた)。「アメリカで就職できるなら、レストランでもなんでもいいじゃない」とまでは言わないが、そこで誰にどんな仕事をサーブできるのか、サーブしたいのか、彼女の提案では、そこが最優先に考えられていないような気がした。
頭でっかちで、贅沢な話かもしれないけど。でもぼくは歳をとってしまったこともあり、単に収入があればいいやという仕事は苦痛に感じる。できれば誰かの役に立って、それで対価を得られるような仕事がしたい。そのため問題なのは、自分はなにができて、誰のために働きたいのか、というところだ。いや、もちろん、レストランの仕事でも誰かの役には立つんだけど。でも、違法なのはちょっとなぁ…。
そんなことを考えながら、無職生活を1年ぐらい続けている。このところは、世界的な経済問題が起こっていることもあり、経済系のニュースを見て勉強したりしてる。あと、多少プログラムを組めるという技術を(それほど高度な技術ではないが)、なんとかマネタイズ(お金に替えることが)できないかなぁと試行錯誤してる。でも、お金を稼ぐというのは本当に難しい。そろそろなりふり構わず就職しなければいけなくなりそう。
アメリカには2か月しかいなかったし、旅行者としてしか接していなかったから、良い面ばかりが見えたのかもしれない。その限りの見方ではあるけど、アメリカや海外で働くことができたら面白いだろうなぁとおもう。なぜかというと、ドライブ感(自分が何かを変えている感じ)がある気がするからだ。良くも悪くも、アメリカは広かった。広いゆえに問題もいっぱいあり、まだまだやるべきことがあるように感じた。自分がなにかをすることで、何かを変えることができる。役に立つことができる。そうじゃないかと感じることがあったし、実際そのように行動している人と会えたようにおもう。
一方で日本を振り返ってみると、自分がいったい何の役に立つのか、よく分からない。何かをすれば、何かを変えられるんだろうか。日本にだって問題はあるはずだ。「ここがこうだったらいいのに」とおもうところはある。でもなんか、いろいろ複雑すぎて、自分がいったい何をどうすればいいかよく分からない。どこから手を付けていいかもよく分からないし、よく考えればそもそも資金も力もないのだった。うーん、困った。そういう状態。なんか仕事ありませんかね?(苦笑)
あ、ちなみにアメリカ旅行のときの写真は次のURLに置いてます。
http://picasaweb.google.co.jp/yoshiharu.fujisawa/
※1. 会社や上役の指示にぼくが反発を覚えたのなら、「それは違う。こうしましょう」と声を挙げるという選択肢もあったとおもう。そうするのが苦手だというのも、ぼくの悪いところではある。
2009-04-29
# 海外で勉強して働く話
On Off and Beyond: 海外で勉強して働こう
成功体験かぁ。そうなんだよなぁ。自分も、SI会社で5年、出版社で5年働いていたけど、そのあいだで「成功した」と感じられたことがほとんどない。業績は右肩下がりで、新しいことをやってもお金に結び付きそうに思えない。とくに、上役がイメージ・指示する仕事のやり方が、どうも自分のイメージする「ヒットする商品」と結び付かない。…まぁ、とはいっても自分自身、「ヒットする商品」なんてものを作り出せた経験が一度もないのでアレなんだ。どうやればうまくいくか、全然分からない状態なんだよなぁ。
今の日本は、「成功体験のある人」が著しく減ってしまった。高度成長は1955年から73年なわけだが、この時代を経験した人の殆どはもう引退してしまっているわけです。80年代のバブル期にバリバリやっていた人たちは、その後の失われた20年で「やっぱり間違ってたかも・・・」という自信喪失に陥った世代。
成功体験かぁ。そうなんだよなぁ。自分も、SI会社で5年、出版社で5年働いていたけど、そのあいだで「成功した」と感じられたことがほとんどない。業績は右肩下がりで、新しいことをやってもお金に結び付きそうに思えない。とくに、上役がイメージ・指示する仕事のやり方が、どうも自分のイメージする「ヒットする商品」と結び付かない。…まぁ、とはいっても自分自身、「ヒットする商品」なんてものを作り出せた経験が一度もないのでアレなんだ。どうやればうまくいくか、全然分からない状態なんだよなぁ。
# 愚痴について
愚痴について。
愚痴にも、良い愚痴と悪い愚痴があるんだよなぁ。
聞いてて救いようがないような、堂々巡りするような愚痴は、聞くほうも辛くなる。
「それでも我慢して聞け」ということなのかもしれないけど、辛いばっかりなんだよなぁ。我慢にも限界がある。
やっぱりさぁ、救いがないというのはつらい。重い愚痴の場合、話せばスッキリするというわけでもないんだから、
結局のところ、いずれかの時点で本人が問題を飲み込むしかない。周りの人ももちろん手助けするんだけど。
でも手助けが届かないというのはつらいんだよね。つらくってイライラしてしまうこともあるだろう。
--
「女の人は共感を求めている」という説について。
ちょっと同意しがたい。そんな単純なものじゃないというか。あと、上から目線の気がして感じが悪い。
分かったつもりになるのは避けたほうがいい。とか言いつつ蛇足を書くけど。
どちらかというと、女の人は共感を求めているというよりは気持ちの切り替えを望む傾向がある気がする。
たとえば嫌な気分に陥っている女の人がいるとすると、その人は一緒になって嫌な気分になってくれる人を
望んでいるんじゃなくって、嫌な気分を明るい気分に変えてくれるようなきっかけを望んでるんじゃないかなと。
愚痴にも、良い愚痴と悪い愚痴があるんだよなぁ。
聞いてて救いようがないような、堂々巡りするような愚痴は、聞くほうも辛くなる。
「それでも我慢して聞け」ということなのかもしれないけど、辛いばっかりなんだよなぁ。我慢にも限界がある。
やっぱりさぁ、救いがないというのはつらい。重い愚痴の場合、話せばスッキリするというわけでもないんだから、
結局のところ、いずれかの時点で本人が問題を飲み込むしかない。周りの人ももちろん手助けするんだけど。
でも手助けが届かないというのはつらいんだよね。つらくってイライラしてしまうこともあるだろう。
--
「女の人は共感を求めている」という説について。
ちょっと同意しがたい。そんな単純なものじゃないというか。あと、上から目線の気がして感じが悪い。
分かったつもりになるのは避けたほうがいい。とか言いつつ蛇足を書くけど。
どちらかというと、女の人は共感を求めているというよりは気持ちの切り替えを望む傾向がある気がする。
たとえば嫌な気分に陥っている女の人がいるとすると、その人は一緒になって嫌な気分になってくれる人を
望んでいるんじゃなくって、嫌な気分を明るい気分に変えてくれるようなきっかけを望んでるんじゃないかなと。
2009-04-17
# 「工学というものは最初から社会的な学問だった」
http://tabesugi.net/memo/2009/4a.html#131904
あいかわらず、新山さんはいいことを言うなぁ。「工学というものは最初から社会的な学問だった」。そうか、たしかにそうだなぁ。しかし実際、なかなかそれをするのは難しい。自分の無能が恨めしい。
もともと、工学というものは最初から社会的な学問だった。 政治や経済と同じくらい社会的だ。しかし、いまの日本で その社会性をきちんと理解している人がどれだけいるだろうか? (新山だってよく理解していない) ところで思うのだけど、みずから医学部や看護学部に (親に行かされるのでなく) 志願して行くような人は、その学問の 「社会性」というものをすこしは認識していそうである。しかし工学部へ、とくに 情報系の分野へ行く連中はどうなのか。ただひたすら「オモチャをいじっているのが楽しい」 だけの人が多いんじゃないか? アホな連中が、やれ facebook だ twitter だ cloud だ、と騒ぐのを見て、 新山が圧倒的に「…どうでもよろ」という気分になってしまうのは、しょうがない。 そんなものは、しょせん「問題のための問題」であって、誰のためにもならないからだ。 練習問題をやっているだけでは世の中は良くならないのである。まえに Siegel がいっていたように、“工学の女王”である計算機科学は、 未分化な細胞の塊のようなもんだと思う。これは、それ自体では何もできないけれど、 方向が定まればどんな形の花でも咲かせることができる -- そう新山は信じている。 上の記事にはその見方が明確に示されている。学生に与えられた指令は "Find someone or something in trouble and save it. (何か問題をかかえている人・モノをみつけて、行ってそれを救いなさい)" というものだ。なんてカッコいいんだろう! 新山はこういう「カッコよさ」に憧れる人は沢山いるだろうと思っている。 そして、将来ほんとうに計算機科学を身につけてほしい人々というのは、 実はこういう社会的な視点をもった人々だ。 C++やHaskellでアクロバティックなコードを書ける子供などではなく。
あいかわらず、新山さんはいいことを言うなぁ。「工学というものは最初から社会的な学問だった」。そうか、たしかにそうだなぁ。しかし実際、なかなかそれをするのは難しい。自分の無能が恨めしい。
2009-03-20
# メモ(日本人の所属の感覚)
もう記憶が定かではないのだけど、カリフォルニアでは公の場所は禁煙ということを当地旅行中に聞いた。公道の禁煙はもちろんのこととして、喫茶店やレストランといった店舗内でも禁煙らしい。とくに店舗内で禁煙の理由が、日本とずいぶん違うなぁと感じたのだった。
その理由というのは、「喫茶店やレストランの禁煙は、そこで働く従業員の健康保護のため」というものだった。もし喫茶店やレストランが喫煙可能だったら、そこで働く従業員が健康を害するからダメということだ。これを聞いて違和感を感じた。日本でこんな理由がまかりとおるだろうか?
一日本人であるぼくの感覚(先入観)からすれば、そんなものは店側の都合であって、客側が譲歩を強いられるいわれはない。客に不便を強いる理由として「従業員の健康を害するから」なんてのは、日本では通らないのではないかとおもった。でもよく考えてみれば、カリフォルニア方式にも理がある。従業員の健康だって大事だ。そのことを、ぼくはどうして忘れていたのだろう?
この違和感にはいくつかの日米の常識や社会観が関係していて、そのうちの1つは、「そっち」と「こっち」の感覚の違いがあるのかなぁとおもった。日本においては、「そっち」と「こっち」は大きく分断されている。「そっち」の利害と「こっち」の利害は大きく対立していて、それぞれのグループは自らの利益を最大化すべく行動していると。
あるグループは、自グループの利益を最大化すべく、自グループのシステムを調整する。たとえばレストランというグループは、自分が持つ店舗を禁煙とするか喫煙とするかを検討し、利益が大きくなるほうを選択する。従業員の健康は、彼らの保険・保障や利益と天秤にかけられ、できるだけ彼らの健康を維持しながら利益が最大化できる方策が探られるだろう。
従業員の健康を心配すべきはそのグループやグループのメンバーであって、グループ外の人間が口を出す問題ではないという感覚が、日本人にはあるのではないか。つまり、日本ではグループという共同体が利害の主体であって、個人は共同体に強く属している。そして、個々人は、他者が属する共同体でどんなルール・システムが敷かれていても、とくに関知しない。逆に言えば共同体の自治権は比較的強く、個々人からしてみれば、自共同体内での発言権を向上することがなによりも重要になる?とか。
うーん、なんかうまく表現できないのと、標本1つで一般化するのも難しいのでメモレベルで感じたことを書いておく。とにかく禁煙の理由がけっこう印象に残ったのだった。
その理由というのは、「喫茶店やレストランの禁煙は、そこで働く従業員の健康保護のため」というものだった。もし喫茶店やレストランが喫煙可能だったら、そこで働く従業員が健康を害するからダメということだ。これを聞いて違和感を感じた。日本でこんな理由がまかりとおるだろうか?
一日本人であるぼくの感覚(先入観)からすれば、そんなものは店側の都合であって、客側が譲歩を強いられるいわれはない。客に不便を強いる理由として「従業員の健康を害するから」なんてのは、日本では通らないのではないかとおもった。でもよく考えてみれば、カリフォルニア方式にも理がある。従業員の健康だって大事だ。そのことを、ぼくはどうして忘れていたのだろう?
この違和感にはいくつかの日米の常識や社会観が関係していて、そのうちの1つは、「そっち」と「こっち」の感覚の違いがあるのかなぁとおもった。日本においては、「そっち」と「こっち」は大きく分断されている。「そっち」の利害と「こっち」の利害は大きく対立していて、それぞれのグループは自らの利益を最大化すべく行動していると。
あるグループは、自グループの利益を最大化すべく、自グループのシステムを調整する。たとえばレストランというグループは、自分が持つ店舗を禁煙とするか喫煙とするかを検討し、利益が大きくなるほうを選択する。従業員の健康は、彼らの保険・保障や利益と天秤にかけられ、できるだけ彼らの健康を維持しながら利益が最大化できる方策が探られるだろう。
従業員の健康を心配すべきはそのグループやグループのメンバーであって、グループ外の人間が口を出す問題ではないという感覚が、日本人にはあるのではないか。つまり、日本ではグループという共同体が利害の主体であって、個人は共同体に強く属している。そして、個々人は、他者が属する共同体でどんなルール・システムが敷かれていても、とくに関知しない。逆に言えば共同体の自治権は比較的強く、個々人からしてみれば、自共同体内での発言権を向上することがなによりも重要になる?とか。
うーん、なんかうまく表現できないのと、標本1つで一般化するのも難しいのでメモレベルで感じたことを書いておく。とにかく禁煙の理由がけっこう印象に残ったのだった。
2009-03-08
# 社会保障のありかた
テレビの話。ちょっと前にNHKスペシャルの『揺れる大国 プーチンのロシア』という番組を見た。
揺れる大国 プーチンのロシア 失われし人々の祈り ~膨張するロシア正教~
いまロシアでは、ロシア正教の力が強まっているらしい。市場主義による競争が持ち込まれた結果、多くの人が失業者になったり、身寄りも貯蓄ないお年寄りが孤立したりしている。そういったなかで、宗教に頼る人たちが増えているというのだ。
教会では、困った人たちを助けるボランティアのネットワークが根を伸ばしている。ボランティアの事務所には、身寄りのないお年寄りからひっきりなしに電話が入る。「老齢で体が動かず、食事や掃除が満足にできません。助けてほしい」、そういった声だ。社会主義体制下でサポートされていた年金や医療費などは、現在では十分機能しておらず、貧しい人たちを直撃しているとのこと。そういった状況を救おうとしているのが、草の根ベースのボランティアだ。
ボランティアは、ロシア正教を精神的な支えとして、民間人たちが互いに助けあう形で運営されている。ソビエト時代は宗教が否定されていたため、みな昔からの教徒というわけではない。そのため、ボランティア活動に参加している人たちも、サービスを受けている人たちも、ロシア正教への態度はまちまちだ。貧困のなか救いを求め聖書にすがる妻と、元科学者で無神論者の夫のあいだには、ギクシャクした空気がたちこめる。人々のあいだに貧困が忍び寄った結果、彼らは混乱し、どうしようもない状況のなかで宗教に救いを求めている。
ロビエト時代に否定されていたロシア正教だが、逆にプーチン政権下では手厚い保護を受けている。もともとロシア帝政と共同歩調を取っていたロシア正教は、プーチン政権下でも当時とおなじように政権との結び付きを強くしようとしているのだ。その力が、ボランティアなど社会保障面で機能するぶんにはいいことだとおもうが、一方で孤児を兵隊に育て、愛国軍として組織しようとしている一部の教会もあるという。
と、そういう内容だった。この番組はシリーズ化されていて、あと2回「プーチンのロシア」として番組が予定されているのでぜひ見てみたい。興味深い内容だった。ところで、番組を見たあとで日本を振り返っておもったのだけど、日本には同じようなボランティアネットワークが少なく、貧困層を助けてくれる力が足りないのではないか。ちょっと前、「セーフティネット・クライシス」の感想で書いたように、日本の人たちは精神的にすごく孤立している。家族は信頼するけど、それ以外に信頼できる関係性があまりない。
親友は家族と同等に信頼できる存在かもしれない。でも親友はいたとしても1人とか2人とかで、しかもほとんどのケースで、彼らに経済的援助を期待することは困難なのではないか。…いや、分からない。一般的には、そうではないのかもしれない。最後の最後には、そういう状況では親友に助けを請うのかもしれない。ただ、ここで言いたいのは、そういった社会保障といったものが、日本では政府によってしかサポートされておらず、しかも国民と政治運営者のあいだに、格段の信頼関係が存在していないのではないかということだ。
とくに貧困な状況にいる人は、社会から阻害されたと感じているだろう。自分たちを社会における弱者だと見なしていて、社会は敵だと考えていのではないか。もしそうなら、その社会から施しを受けることに抵抗を感じ、心を許すことが難しかったとしても自然だろう。なにより現状の「政府による社会保障」には、精神的サポートや、なぜ保障を行うかといったメッセージが存在しない。こういった構図を考えれば、社会保障を政府が直接かつ全面的に請け負うよりも、宗教や地域といった第三者による社会保障のほうが適切である可能性が高いのではないか。そうすれば、金銭面だけでなく、精神面でも困った人をサポートできるし、彼らに居場所を与えることができるのではないか。そんなことをおもった。
揺れる大国 プーチンのロシア 失われし人々の祈り ~膨張するロシア正教~
いまロシアでは、ロシア正教の力が強まっているらしい。市場主義による競争が持ち込まれた結果、多くの人が失業者になったり、身寄りも貯蓄ないお年寄りが孤立したりしている。そういったなかで、宗教に頼る人たちが増えているというのだ。
教会では、困った人たちを助けるボランティアのネットワークが根を伸ばしている。ボランティアの事務所には、身寄りのないお年寄りからひっきりなしに電話が入る。「老齢で体が動かず、食事や掃除が満足にできません。助けてほしい」、そういった声だ。社会主義体制下でサポートされていた年金や医療費などは、現在では十分機能しておらず、貧しい人たちを直撃しているとのこと。そういった状況を救おうとしているのが、草の根ベースのボランティアだ。
ボランティアは、ロシア正教を精神的な支えとして、民間人たちが互いに助けあう形で運営されている。ソビエト時代は宗教が否定されていたため、みな昔からの教徒というわけではない。そのため、ボランティア活動に参加している人たちも、サービスを受けている人たちも、ロシア正教への態度はまちまちだ。貧困のなか救いを求め聖書にすがる妻と、元科学者で無神論者の夫のあいだには、ギクシャクした空気がたちこめる。人々のあいだに貧困が忍び寄った結果、彼らは混乱し、どうしようもない状況のなかで宗教に救いを求めている。
ロビエト時代に否定されていたロシア正教だが、逆にプーチン政権下では手厚い保護を受けている。もともとロシア帝政と共同歩調を取っていたロシア正教は、プーチン政権下でも当時とおなじように政権との結び付きを強くしようとしているのだ。その力が、ボランティアなど社会保障面で機能するぶんにはいいことだとおもうが、一方で孤児を兵隊に育て、愛国軍として組織しようとしている一部の教会もあるという。
と、そういう内容だった。この番組はシリーズ化されていて、あと2回「プーチンのロシア」として番組が予定されているのでぜひ見てみたい。興味深い内容だった。ところで、番組を見たあとで日本を振り返っておもったのだけど、日本には同じようなボランティアネットワークが少なく、貧困層を助けてくれる力が足りないのではないか。ちょっと前、「セーフティネット・クライシス」の感想で書いたように、日本の人たちは精神的にすごく孤立している。家族は信頼するけど、それ以外に信頼できる関係性があまりない。
親友は家族と同等に信頼できる存在かもしれない。でも親友はいたとしても1人とか2人とかで、しかもほとんどのケースで、彼らに経済的援助を期待することは困難なのではないか。…いや、分からない。一般的には、そうではないのかもしれない。最後の最後には、そういう状況では親友に助けを請うのかもしれない。ただ、ここで言いたいのは、そういった社会保障といったものが、日本では政府によってしかサポートされておらず、しかも国民と政治運営者のあいだに、格段の信頼関係が存在していないのではないかということだ。
とくに貧困な状況にいる人は、社会から阻害されたと感じているだろう。自分たちを社会における弱者だと見なしていて、社会は敵だと考えていのではないか。もしそうなら、その社会から施しを受けることに抵抗を感じ、心を許すことが難しかったとしても自然だろう。なにより現状の「政府による社会保障」には、精神的サポートや、なぜ保障を行うかといったメッセージが存在しない。こういった構図を考えれば、社会保障を政府が直接かつ全面的に請け負うよりも、宗教や地域といった第三者による社会保障のほうが適切である可能性が高いのではないか。そうすれば、金銭面だけでなく、精神面でも困った人をサポートできるし、彼らに居場所を与えることができるのではないか。そんなことをおもった。