メッセージ。 - diary

2008-03-18

# エゴ?

他人のエゴを避難することはできない。

なぜなら、「それがエゴなんだ」と指摘するぼくの言葉が、すでにエゴだから。

この世界には、エゴでない表現や、エゴを伴わない言葉など存在しない。

自意識の存在とエゴの存在は表裏をなしている。

自意識が存在するところにエゴが存在するし、エゴが存在するところに自意識が存在する。

実際のところ、ぼくはエゴを否定する根拠を持たない。
人間が存在するなら、そこにエゴは存在してもいいと思っている。

ただ、どうせなら、エゴが存在することを、その自意識は認知していてくれたらなぁと思う。

自分がやっていることは、所詮はエゴなんだということを知っていてほしい。

エゴだけどやってるんだとつねに思えるなら、そのほうが面白いし道が開けるんじゃないかという気がする。

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あなたはそこにいますか?
その問いに「はい」と答えるなら、それがエゴです。
その問いに「いいえ」と答えるなら、それもエゴです。

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エゴが存在することは問題じゃない。
つまり、問題が存在することは問題じゃない。
2008-03-18 11:26:41 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日記

んー。悩んでいることがあるなら、一応ぼくに言ってみて。
力になれるかどうかは、自信がないけど。
でもどんな変な悩みだとしても、笑ったりはしないから。

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このところカメラ遊びをしていていて、だんだん分かってきたこと:カメラというのは、けっこうコンピュータに似ている。というのも、カメラもコンピュータも融通がきかない。

ぼくは最初、「もっと簡単にいい写真が撮れたらいいのに」と思っていた。目に見える景色が綺麗なら、その綺麗さがシャッターを押すだけで残ってほしい。もっと言うなら、シャッターなんて押さなくてもいい写真が撮れたらいいのにと思う。

でもカメラは、ぜんぜん期待に応えてくれない。暗いところではブレるし、動くものが止まって写る。電線やら看板やら余計なものが写るし、広い世界を、こーんなに小さな四角の中に閉じ込めてしまう。ぼくがいいなと感じるものを、カメラはだいなしにしてしまう。

でもそれでもカメラと付き合っているうちに、だんだん分かってきた。カメラはコンピュータと同じなんだって。悪く言えば、それらは融通がきかない。コンピュータは、ぼくが考えているようには考えないし、カメラは、ぼくが世界を感じるようには見ない。それらは単に、論理回路とかレンズとかの物理特性を、単純に利用しただけの装置なんだ。

だからそれらは、ぼくらが思っているようにはまったく動かない。使いこなすためには懸命な練習が必要で、うまくいけば、ぼくらの目や頭ではできないことをやってのける。でも一方で、ぼくらが簡単にできる仕事さえろくすっぽこなせないことも多い。

それらは奥が深く、勉強すべきことがたくさんある。でも、勉強して知識をたくさん身に着けたとしても、必ずしもいい結果につながらない。どれだけ知識があってもシャッターチャンスにその場所にいなければなんの役にも立たないし、なんのためにそれを使いたいか本人が分かっていないならたいした仕事をしない。

運も必要だし気持ちも必要。バランス感覚や視点も必要。たぶん人との出会いも必要なんだろう。難しいなぁ。まるで人生がうまくいかないのと同じように、それらはうまくいかない……。でもまぁ不思議なことに、カメラの世界にもコンピュータの世界にもたまに素敵な人たちがいたりして、もうちょっと頑張ってみようかと思ったりする。
2008-03-18 09:29:54 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-03-14

# 「フック」の補足

「フック」というのはプログラマの用語で、「とっかかりをつかむ」というような意味です。

大きなプログラムでは、機能を追加したりカスタマイズしたりしやすいように、プログラムのそこかしこに「フック」が設けられていることがあるのです。「フック」というのは、「ここで(もし誰かが設定しさえすれば)別のプログラムをちょっと呼び出しますよ」といった構造です。大本の大きなプログラムを作った人が、ほかのプログラマやユーザーの利便性のために、そういった構造を大本のプログラムのそこかしこに仕込むわけですね。

プログラマにとって「フック」のイメージは、たとえばロッククライマーにとって「どの岩に手をかけてどの岩に足をかけるか」を考えるときのイメージに似ています。
2008-03-14 08:17:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日記

 健康志向なのか、全くどうでもいいのかよく判らない食生活

笑っちゃった。微笑ましくって好きです。
雑穀ご飯はおいしいとおいらも思う。でも雑穀ってちょっと高いのだよね。なんでじゃろ。

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昔からぼくは友達がほとんどいない。それはひとえにぼくの不徳の致すところだけど、そんなぼくとでもたまーに遊んでくれる人がいて、経験的に、そういう人は(ほぼ)すべて女の人だ。「遊んでくれる」というか、客観的に見ればこっちから「かまってかまって」としているのかもしれないけど。

や、自分はいったいなにを書いてるんだろう。日本語は難しい。んー。なにが言いたいかというと、「なんでかなぁと思って」というか。基本的に、ぼくは女の人に対してはけっこう気を遣っていて(しかも明後日の方向に気を遣っていて)、できるだけ距離を置こうと考えている。そうしているにもかかわらず、どうして自分のまわりに(たまにとはいえ)女の人がいるのかなぁ、というか。ん? こんなこと書いていいんだっけか?

いや、違うなぁ。こういうことが書きたかったわけじゃない。なんだろう。そのー。たとえばぼくは、男の人に声をかけるのが憚られるところがある。世の中には、男どうしで服を買ったりお酒を飲みにいったりする人がいるけど、どうもぼくはそういうことができない。誘えないのだ。「ぼくなんかと服を買いにいって、あるいはお酒を飲みにいって、(彼にとって)なんの意味がある?」というように考えてしまう。

意味はあるのかもしれない。ないのかもしれない。グレーなのかもしれない。でもとにかく、ぼくは男の人とつるむということが、うまくできないように感じてしまう。だからうまく誘えないし、一人で遊ぶことが多い。それは、服とかお酒に限らず、仕事でも趣味でもそうだ。なにをするにしても、ぼくは基本的に一人。ただ、そんなぼくでもたまに友達と遊ぶことがあって、そういうときの「友達」というのが基本的に女の子になる。

どうして女の子とつるんだり遊んだりするかというと、それは基本的に「フックしやすいからだ」と言えるかもしれない。「お酒飲みにいこうよ」とか、そこまでいかなくても何かの折に一声かけるとか、そういうことは、相手の人が異性であるときのほうがやりやすい。だってそこには、誘う理由があるから。ぼくが男で、きみが女なら、それだけで十分の理由になるし、実際のところ一緒に会って時間をすごすとしても、たいていの場合はうまくやれる。
(たまに気の合わない女の人がいてさんざんな目にもあうけど。あとこれはあくまでも「当社比」。向こうが実際のところどう感じているかは知らない。)

それともう1つ。そんな風にして女の子と遊ぶ(ここでの「遊ぶ」にはたまに軽口を叩きあうことを含む)ことがあるけど、実際のところぼくとしては、それほど下心があるわけではないことも多い。や、下心はゼロではない。ただ、ゼロではなくてじゃあいくつぐらいあるかというと、「フックしやすさ分ぐらい」というか。ただ会って、ご飯を食べて、「久しぶりだねー」とか「あれからどうしてたー?」とか、そういう話をすることで十分満足する。それこそが満足というか。あ、駅だ。とりあえずここまで。
2008-03-14 00:52:21 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-03-06

# メモ

他人からどう見られているかや、他人との比較のなかでしか世界を見られないのなら、まだ子供だ。
2008-03-06 09:08:01 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-03-05

# 日記

ラベンダーのいいにおいがする……
どのおんなだ。こんにゃろ。
2008-03-05 22:55:52 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 技術の国外流出

『日本は技術立国なのだから、技術の国外流出を防がなくてはいけない』。

んー、どうだろ。ぼくは基本的に、「技術の国外流出は防いでもいい。防ぐ方向もやりつつ」と考えてる。

これは大きい問題だから、整理しようとすると時間がかかるけど。

まず1つとして、「日本は技術立国」というのは、開国後必要にせまられて立てた基本方針で、そろそろ見直してもよいかな、と。いずれにせよ非資源国なので、そこをスタート地点に考えていく感じかなぁ。

かつて技術立国だったイギリスやドイツ、アメリカなんかも、まぁ盛者必衰はまぬがれないわけですよね。それを考えると、日本の技術立国も、ある程度地位をゆずることになるのかなぁと。

技術の創出が流出をうわまわればいいというのは、理想だけどちょっと難しいように思ってる。もちろん、理想に近付くための努力は必要だしその努力には非常に価値があると思うのですけどね。
2008-03-05 11:01:51 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# データを消してしまったときに感じたこと

ここで公開しているすべてのデータをオペミスで消してしまったとき、ぼくはそれほどショックを感じなかった。普通であれば、胸がドキドキと高鳴ったり、頭の中が熱くなってキーンと音が聞こえてきそうな状況だけど、不思議とぼくは落ち着いていた。

たとえて言うなら、「形あるものはすべて壊れる」とでも言うような。すべてのデータがなくなった兆候を示すメッセージ「No such file or directory.」を見ながら、ぼくの頭はまずこんなことを考えた。「一定の役割は果たした」と。

形はなくなっても、メッセージは生き続ける。ただちょっと、予想したよりも早くそのときが来ただけ。今からまた始めても同じこと。だからぼくは、全然悲しくなかったし、驚きさえなかった。最初は。ただ、少したってからちょっと思い直すことがあった。ぼくはいいけど、他の人には悪いことをしちゃったかな、と。

とくに、ぼくにはこの場所で待っている人がいるのだった。ナイーブな彼らが戻ってきたとき、なにもないこの場所はどう見えるだろうかと心配になった。それによく考えたら、失ったデータはもったいない。実は今回のデータ消失で、ぼくは過去2年分のメールも失ったと思われるのだけど、それはたいしたことがないとすぐに気付いた。

意外なことに、ぼくはここ数年大してメールをやり取りしていなかった。そしてメールに比べてもっと価値があり、もっとプライベートなものをWeb上に載せていたようだ。皆に読んでもらい、またお返ししてもらったメッセージの数々は、ぼくにとってこの数年のすべてだった。

そのすべては、形が残らなくとも自分の中に生きていて、まぁなくても問題ないと今も思える。でもまぁ、復旧できるならそれにこしたことがない。結果的には、ほぼ問題ないレベルまで戻ることができて良かった。
2008-03-05 00:05:23 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2008-03-04

# YASWikiとYASWiki2の復旧できた! 一応!

やったよ父ちゃん! あしたはホームランだ!
おいらはやればできる子!!!
2008-03-04 23:40:19 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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