メッセージ。 - diary

2020-04-22

# にゃー

新型コロナウイルスの件、率直にいってまるでSFのようだ。つまり、物理法則や自然科学を舞台装置とした壮大な物語。典型的には、序盤に平穏な日常が描かれ、人々は登場人物やそこにある物理法則を理解させられる。まるで犬や猫がその理解の到底及ばないであろう自動車や舗装道路があふれる街の中に放り込まれ、それを所与のものとしてそこに住まわされるように、世界の光景や法則は、「当然のもの」として人々の心と体に描きこまれる。そこに描かれる法則は、ある意味で「願い」であり「祈り」である。

しかしあるとき事件が起こり、平穏な日々は破られる。起こるはずのないことが起こり、人々の「理解」が壊される。「願い」や「祈り」が粉々になる。そして明らかになるのは、『そこに当然あると思っていた日常は、あくまで「法則」が生み出しうる世界の一象限でしかなかった』という事実だ。法則が生み出しうる別の象限の存在が、人々を追い詰めていく。新たな世界が「現実」を上書きしていく。人々は「現実」と戦い、「世界」と戦う。「祈り」や「願い」を求めて道を進む。
2020-04-22 23:54:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-03-03

# にゃー

ヒーロー、ヒロインものの物語では、「正体が知られてしまうと消えなければならない」という設定が相当な頻度でついてくるけど、どこがルーツなのかな。『鶴の恩返し』?国外の物語にも見られる設定だよね?

ある種のマイノリティ、あるいはある種の人間が、人間の世界で暮らすとき、その正体を匿して生きなければならない(さもなければ消えてしまう)という状況を含んでいるのかなと思った。
2020-03-03 09:24:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-02-03

# にゃー

現場に近い人は機能の話をしていて、現場から遠い人は気分の話をしている。現場から遠い人には、機能とか機能の詳細とかは興味がなくて、ただ気分が良くなればいいと思っている。間に立つ人は、本来ならそれら近い人と遠い人の意識や方向性を一つにまとめらことが重要だけれども、それが難しいケースが往々にしてあり、いずれにせよ適当に機能と気分の両方を満たしてやる必要がある。
2020-02-03 09:16:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-01-10

# にゃー

にわとりと卵の問題。たしかに、にわとりが先に生まれたのか、それとも卵が先に生まれたのか、考えてもよく分からない。でも、卵からはにわとりが生まれ、にわとりからは卵が生まれ、そのサイクルはぐるぐる回って少しずつ変容し進化を続けてきたはずだ。

にわとりか卵が最初に生まれてくる前にも、このサイクルがぐるぐ
る回っていたと考えると考えて間違いがない(だろう)。
であるならば、本当の問題(もしくはより大きな問題)は、
そのサイクルがどのようにしてスタートしたのか。つまり0から
1に変わったり、さらに1から2に進んだのはどういうプロセスなのかということではないか。つまり、どういう過程で無機物から有機物ができたのかという問いに還元されるのではないか(あるいは時間が進むとはどういう理屈なのか)。

また、人間など哺乳類の赤ちゃんは、お腹の中にいるときや生まれてくるとき、膜に包まれている。この膜が、鳥の場合は硬くなっていて、それが卵と呼ばれているだけと考えることもできる。そう考えたら、「にわとりが先か卵が先か」という問題は、どういう問いに帰結するだろう。「生体が先か膜が先か」になるだろうか?これは面白い問題で、しっくりくる表現がスッと出てこない。それと面白いのは、「卵」が「膜」に変わっただけで、「いったいそもそも何を知りたかったんだろうか?」という問いが出てくることだ。

「にわとりが先か?卵が先か?」と問われると、みな不思議に感じ興味深く思うけれども、ここまで見てきたように、その問いは「生体が先か膜が先か」という問いとイコールであるだろう(ほかにもイコールになる問いがあると思う)。そしてその問いは、「無機物から有機物ができた過程はどういったものだろう?」という問いとイコールになる(ちなみに、「無機物が先か有機物が先か」という問いとはイコールにならないはずだ)。

ところで、「無機物から有機物ができた過程はどういったものだろう?」という問いは、「にわとりが先か卵が先か」という問いに比べると、直感的には面白さが減じてしまうように感じる。後者では、無限に再帰しながらステートを辿るという問題を、人間の意識が自然と避け思考を停止しようとする作用の領域に対して、意識が踏み込もうとして面白く感じているようにも思う。
2020-01-10 09:16:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-12-27

# にゃー

現場の人間の声を聞く能力がない組織なんて、うまくいかなくて当然だ。「声を聞く」というのは、単に彼らに喋らせたり彼らから情報を得るということではない。彼らの想いを聞き、参加してもらい、力を引き出すために、物心両面で彼らを受け容れ、議論をすることだ。そのためには、本当の意味で彼らに居場所を与えることだ。重要なテーマについて議題が及んだとき、重要なメンバーに等しく発言の機会を与えないのは愚の骨頂だ。
2019-12-27 09:24:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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