メッセージ。 - diary
2007-12-31
# 大阪すごいなぁ
帰省して大阪の街を歩いているのだけど、
大阪すごいなぁ東京や横浜とずいぶん違うなぁと感じた。
たとえば今日、ビックカメラに行こうと難波のあたりを歩いていたのだけど、
サンマルクの系列?の普通のカレー屋さんがあって、まぁ小綺麗な普通の
カレー屋さんなわけ。「お、こんなカレー屋さんいいなぁ」
(横浜はカレー屋さんが少ないので)なんて思って前を通りすぎようとしたら、
びっこを引いた男の人(30歳代ぐらいの人)が歩いてきて、
そのカレー屋さんに入った。なんかねぇ。その光景が新鮮で。
まず東京や横浜だと、びっこを引いた男の人ってほとんど見ない気がする。
難波と言ったら、大阪の中心に近い場所で十分な都会なわけなんだよね。
そういう綺麗な場所で、びっこを引いた30歳代ぐらいの男の人ってのが
普通の綺麗なお店に入るというのは、不思議な感じ。
たとえば東京で、キモオタが普通の店に入ることって、けっこう憚られる
感じがするのだけど、大阪ではそもそも、街全体に「はばかられる感じ」が
少ないのかなぁと思った。
よく見てみると、街を歩いている人たちの風体に生活感が感じられて、
小綺麗な格好をしている人というのは、決して多数派ではない。
でも別に、そういった小綺麗でない格好がはばかられるわけではなくて、
普通に街の中に溶け込んでる。
そういうような感じは、東京や横浜ではあまりないような気がする。
あと、その後で家の近所まで帰ってきてすき家に入ったのだけど、
そこでもちょっと変わった光景を目にした。
それも40歳ぐらいかなぁ、くたびれた感じのおばさんがお客として来ていて、
店員に対してなんかゴニョゴニョ話してる。店員さんはその人の言葉がよく
分からないようで、手振りを交えながら「オーケー」とか言っていた。
「外人さんなのかなぁ」と思っていたら、
そのおばさんはしつこくゴニョゴニョゴニョゴニョ店員さんに声をかける。
大晦日でバイトの手が足りないのだろう。そのときお店には1人しか店員さんが
いなくて、お客がなんにんか待っているので、その人につきっきりになるわけには
いかない。
なのにそのおばさんは、ゴニョゴニョゴニョゴニョ話しかける。
店員さんもほかのお客さんも、「この人はどんな人で、何を言おうとしているのか」と
いぶかしがっていた。それでそのゴニョゴニョ言っているのを聞くともなしに
聞いてみると、どうもそのおばさんは日本人だけど耳が聞こえないらしい。
耳が聞こえないけど、つたないながらも言葉を話すことができるおばさん。
抑揚や切れ目のない言葉に耳を傾けてみると、持ち帰りで○○を、いま店内で
××を食べたい、などと言ってるみたい。しかもサラダも付けてくれとか、
自分が先に来たのになかなか食事が出てこないとか、そういうことを
言っているらしいことが分かった。
店員さんも偉くって、若いのにじっと相手の顔を見て手振りを見て、
戸惑いながらも何を言おうとしているのか理解し、また店員として
お客さんの要求にきちんと答えようとしていた。
なにしろ店員さんが1人しかいないので(途中で2人に増えたけど)、
そこにいるお客さんたちはみな、ちょっと困った場所に来たなぁという顔をしたり、
でもまぁそういうもんだという顔をしたりしながら、食事が出てくるのを待っていた。
ぼくもそういう顔をしながら、牛丼を待って、店内の備え付けをじっと見たりして
時間を過ごしていたのだけど。
正直なところ、そんなおばさんなんて、厄介なことこのうえないわけだよね。
だから普通はかかわりあいになりたくなんてないし、実際東京や横浜にいたら、
かかわりあいにならなくって済む。東京や横浜ではどうしてかかわりあいに
ならなくって済むかというと、それはやっぱり、そういう人を家から出さない人がいて
本人も家から出ないようにしているという現実がある
ということなんじゃないかと思う。
東京や横浜では、そんな風に耳が聞こえないおばさんが、一人でお店に買い物に
来るなんてことはほとんどないんじゃないかな。(下町ではあるかもしれない)
ぼくは行動範囲が狭いので、偏った見方をしているかもしれないけど、
大阪の街をちょっと歩いてみて、一日でそういう出来事に2つも遭遇したので、
驚きのような感じを受けたのでした。
大阪すごいなぁ東京や横浜とずいぶん違うなぁと感じた。
たとえば今日、ビックカメラに行こうと難波のあたりを歩いていたのだけど、
サンマルクの系列?の普通のカレー屋さんがあって、まぁ小綺麗な普通の
カレー屋さんなわけ。「お、こんなカレー屋さんいいなぁ」
(横浜はカレー屋さんが少ないので)なんて思って前を通りすぎようとしたら、
びっこを引いた男の人(30歳代ぐらいの人)が歩いてきて、
そのカレー屋さんに入った。なんかねぇ。その光景が新鮮で。
まず東京や横浜だと、びっこを引いた男の人ってほとんど見ない気がする。
難波と言ったら、大阪の中心に近い場所で十分な都会なわけなんだよね。
そういう綺麗な場所で、びっこを引いた30歳代ぐらいの男の人ってのが
普通の綺麗なお店に入るというのは、不思議な感じ。
たとえば東京で、キモオタが普通の店に入ることって、けっこう憚られる
感じがするのだけど、大阪ではそもそも、街全体に「はばかられる感じ」が
少ないのかなぁと思った。
よく見てみると、街を歩いている人たちの風体に生活感が感じられて、
小綺麗な格好をしている人というのは、決して多数派ではない。
でも別に、そういった小綺麗でない格好がはばかられるわけではなくて、
普通に街の中に溶け込んでる。
そういうような感じは、東京や横浜ではあまりないような気がする。
あと、その後で家の近所まで帰ってきてすき家に入ったのだけど、
そこでもちょっと変わった光景を目にした。
それも40歳ぐらいかなぁ、くたびれた感じのおばさんがお客として来ていて、
店員に対してなんかゴニョゴニョ話してる。店員さんはその人の言葉がよく
分からないようで、手振りを交えながら「オーケー」とか言っていた。
「外人さんなのかなぁ」と思っていたら、
そのおばさんはしつこくゴニョゴニョゴニョゴニョ店員さんに声をかける。
大晦日でバイトの手が足りないのだろう。そのときお店には1人しか店員さんが
いなくて、お客がなんにんか待っているので、その人につきっきりになるわけには
いかない。
なのにそのおばさんは、ゴニョゴニョゴニョゴニョ話しかける。
店員さんもほかのお客さんも、「この人はどんな人で、何を言おうとしているのか」と
いぶかしがっていた。それでそのゴニョゴニョ言っているのを聞くともなしに
聞いてみると、どうもそのおばさんは日本人だけど耳が聞こえないらしい。
耳が聞こえないけど、つたないながらも言葉を話すことができるおばさん。
抑揚や切れ目のない言葉に耳を傾けてみると、持ち帰りで○○を、いま店内で
××を食べたい、などと言ってるみたい。しかもサラダも付けてくれとか、
自分が先に来たのになかなか食事が出てこないとか、そういうことを
言っているらしいことが分かった。
店員さんも偉くって、若いのにじっと相手の顔を見て手振りを見て、
戸惑いながらも何を言おうとしているのか理解し、また店員として
お客さんの要求にきちんと答えようとしていた。
なにしろ店員さんが1人しかいないので(途中で2人に増えたけど)、
そこにいるお客さんたちはみな、ちょっと困った場所に来たなぁという顔をしたり、
でもまぁそういうもんだという顔をしたりしながら、食事が出てくるのを待っていた。
ぼくもそういう顔をしながら、牛丼を待って、店内の備え付けをじっと見たりして
時間を過ごしていたのだけど。
正直なところ、そんなおばさんなんて、厄介なことこのうえないわけだよね。
だから普通はかかわりあいになりたくなんてないし、実際東京や横浜にいたら、
かかわりあいにならなくって済む。東京や横浜ではどうしてかかわりあいに
ならなくって済むかというと、それはやっぱり、そういう人を家から出さない人がいて
本人も家から出ないようにしているという現実がある
ということなんじゃないかと思う。
東京や横浜では、そんな風に耳が聞こえないおばさんが、一人でお店に買い物に
来るなんてことはほとんどないんじゃないかな。(下町ではあるかもしれない)
ぼくは行動範囲が狭いので、偏った見方をしているかもしれないけど、
大阪の街をちょっと歩いてみて、一日でそういう出来事に2つも遭遇したので、
驚きのような感じを受けたのでした。
2007-12-27
# 一歩
たとえば「どもり」は、本人が気にすればするほどひどくなる。「いま自分はどもっているかもしれない」と気にしたり、「うまく話そう」と努力すればするほど、よけいにしゃべれなくなる。運動会の徒競走とか書道とかも、「うまくやろう」、「うまくやれるだろうか」と考えれば考えるほど、動けなくなる。ひとたび悪い方向に傾いたら、元のバランスに戻すのは難しい。
そういうときはどうすればいいか。ぼくは、なにも考えずにやってみるしかないと思っている。結果はどうでもいいと考るなら、あるいは破れかぶれにやれるなら、自然にそれは成されることも多い。そうして実際、ぼくらが身に付けてきたことの多くは、ある面で破れかぶれの連続で得られてきたものだ。安全地帯にとどまらず、転ぶかもしれないけど一歩を踏み出してきたこと。それがぼくらを、ここまで運んできた。
いまあらためて足元を見てみる。そこは安全地帯だろうか。また遠い先を眺めてみる。そこは危険地帯だろうか。ひとつ言えるのは、あなたがそこまで、無事に歩いてきたという事実だ。いいかい? あなたのその一歩一歩は、間違いなく安全なんてものではなかった。どうなるか分からない怖ろしい暗闇の中だった。でもあなたは、ここまで歩いてきた。
そういうときはどうすればいいか。ぼくは、なにも考えずにやってみるしかないと思っている。結果はどうでもいいと考るなら、あるいは破れかぶれにやれるなら、自然にそれは成されることも多い。そうして実際、ぼくらが身に付けてきたことの多くは、ある面で破れかぶれの連続で得られてきたものだ。安全地帯にとどまらず、転ぶかもしれないけど一歩を踏み出してきたこと。それがぼくらを、ここまで運んできた。
いまあらためて足元を見てみる。そこは安全地帯だろうか。また遠い先を眺めてみる。そこは危険地帯だろうか。ひとつ言えるのは、あなたがそこまで、無事に歩いてきたという事実だ。いいかい? あなたのその一歩一歩は、間違いなく安全なんてものではなかった。どうなるか分からない怖ろしい暗闇の中だった。でもあなたは、ここまで歩いてきた。
2007-12-26
# 最近のこと
最近は冴えない。うつらうつらとしているうちに、時間が過ぎていく。
言いたいことはたまに浮かぶけど、ぼくが言わなくても、ぼくよりうまく、誰かが書いてくれている。
何かを否定する気も、肯定する気も起きない。
--
でも、うれしかったことも、いくつかはあるかな。
それはとても個人的なこと。
--
そうそう。そう言えば。
今年一番よかった映画は、『ヨコハマメリー』です。
1990年代のなかばごろまで横浜にいた、奇妙な風体の老婆をあつかったドキュメンタリー映画。
とうに腰の曲がったお婆さんが、異様に塗りたくった化粧姿で街角に立って、街行く人たとから
気味悪がられていたそうです。人呼んで「ハマのメリーさん」とか。
映画にはそのメリーさんがほとんど出てこず、メリーさんを知る人たちによる
たくさんのインタビューで、メリーさんはどんな人だったのか、メリーさんとは何だったのかが
語られます。
ぼくはメリーさんとは入れ違いに横浜に来て、お会いしたことはないのだけど、
この映画を見ていると胸を締め付けられるような思いになりました。この先も、何度もなんども
観たくなる映画のように予感しています。たぶん、横浜とは縁もゆかりもない人でも、
この映画を観た人は同じように感じるでしょう。
ハマのメリーさんと、彼女をとりまく人々。誰も知らない街の片隅に生きる人々の姿。
横浜というスケールをはるかに超え、生きるということを見つめさせられました。
言いたいことはたまに浮かぶけど、ぼくが言わなくても、ぼくよりうまく、誰かが書いてくれている。
何かを否定する気も、肯定する気も起きない。
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でも、うれしかったことも、いくつかはあるかな。
それはとても個人的なこと。
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そうそう。そう言えば。
今年一番よかった映画は、『ヨコハマメリー』です。
1990年代のなかばごろまで横浜にいた、奇妙な風体の老婆をあつかったドキュメンタリー映画。
とうに腰の曲がったお婆さんが、異様に塗りたくった化粧姿で街角に立って、街行く人たとから
気味悪がられていたそうです。人呼んで「ハマのメリーさん」とか。
映画にはそのメリーさんがほとんど出てこず、メリーさんを知る人たちによる
たくさんのインタビューで、メリーさんはどんな人だったのか、メリーさんとは何だったのかが
語られます。
ぼくはメリーさんとは入れ違いに横浜に来て、お会いしたことはないのだけど、
この映画を見ていると胸を締め付けられるような思いになりました。この先も、何度もなんども
観たくなる映画のように予感しています。たぶん、横浜とは縁もゆかりもない人でも、
この映画を観た人は同じように感じるでしょう。
ハマのメリーさんと、彼女をとりまく人々。誰も知らない街の片隅に生きる人々の姿。
横浜というスケールをはるかに超え、生きるということを見つめさせられました。
2007-12-20
# ハーメルンの笛吹き
MORI LOG ACADEMY: 本当に考えたの?
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/12/post_1581.php
森さんが書いていることはよく分かる。
----
「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 - 分裂勘違い君劇場
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20071209/1197232409
誰かから「好きを貫け」とか言われないと貫けないような「好き」は、本物の好きじゃない。おいらの考えでは、「好き」ってのはもっと業に近い。
たとえばモーツアルトやアインシュタインに対して、誰かが「好きを貫け」などと言う必要があっただろうか? なかっただろう。彼らは、周りの人がなんと言おうと彼らの仕事をやっただろうし、そうせざるを得なかったとぼくは思っている。
才能や「好き」というのは、一種の憑き物に近い。本人が「この道を通りたくない」と思っても知らぬ間にそこを通ってしまっている類のものだし、周りの人が「あの道を行け」と言おうと言うまいと結果には関係がない。彼らは抗いようもなく、その仕事をやってしまうのだ。「好き」とか才能を突き詰めて言えば、そういうことだいうのがぼくの考え。
分裂勘違いさんは、梅田さんを「近代的だ」と指摘したけど、まさにそのとおり。梅田さんが言う「好きを貫け」というのは、近代にありがちな共同幻想にすぎない。その程度の言葉に躍らされる普通の「人々」を動員してマスとしての生産性を上げる手法か、あるいは超人思想がそこにあるのではないかと思う。
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/12/post_1581.php
森さんが書いていることはよく分かる。
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「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 - 分裂勘違い君劇場
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20071209/1197232409
誰かから「好きを貫け」とか言われないと貫けないような「好き」は、本物の好きじゃない。おいらの考えでは、「好き」ってのはもっと業に近い。
たとえばモーツアルトやアインシュタインに対して、誰かが「好きを貫け」などと言う必要があっただろうか? なかっただろう。彼らは、周りの人がなんと言おうと彼らの仕事をやっただろうし、そうせざるを得なかったとぼくは思っている。
才能や「好き」というのは、一種の憑き物に近い。本人が「この道を通りたくない」と思っても知らぬ間にそこを通ってしまっている類のものだし、周りの人が「あの道を行け」と言おうと言うまいと結果には関係がない。彼らは抗いようもなく、その仕事をやってしまうのだ。「好き」とか才能を突き詰めて言えば、そういうことだいうのがぼくの考え。
分裂勘違いさんは、梅田さんを「近代的だ」と指摘したけど、まさにそのとおり。梅田さんが言う「好きを貫け」というのは、近代にありがちな共同幻想にすぎない。その程度の言葉に躍らされる普通の「人々」を動員してマスとしての生産性を上げる手法か、あるいは超人思想がそこにあるのではないかと思う。
2007-12-18
# ブータン
ブータンとその国王 - 生きてみた感想
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20071215
ブータン王国に学ぶリーダーシップの形 ガバナンス・リーダーシップ考 RIETI 経済産業研究所
http://www.rieti.go.jp/users/nishimizu-mieko/glc/004.html
すごい人とすごい国があるもんだなぁ。こういう人たちと仕事がしたい。読み途中だけどメモ。
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20071215
ブータン王国に学ぶリーダーシップの形 ガバナンス・リーダーシップ考 RIETI 経済産業研究所
http://www.rieti.go.jp/users/nishimizu-mieko/glc/004.html
すごい人とすごい国があるもんだなぁ。こういう人たちと仕事がしたい。読み途中だけどメモ。