メッセージ。 - diary

2007-11-20

# 日々

今日はらが立ったこと。

普通の人は、どうしてそんなに簡単に、システムができると思うんだ。

たった数百万円ぽっちで、どれだけ優れた人材を期待してるんだ。

そんなはした金じゃあ、たいしたことができるわけないでしょう?

そんなはした金しかポッケに入っていないあなたが、どうしてそんなに尊大な注文を出せるの?

100円玉もってフランス料理を食わせろって言うようなものだ。

普通の人は、自分のことを振り返ってみないのか?

自分がどれだけの価値を生み出しているか(どれだけの時間を浪費しているか)、考えてください。

ぼくの口からは言えません。

身の程を知るというのは、悪いことじゃない。そこから成長していけるから。

自らの足るを知れば、目標となる。足るを知らざれば自らにあらず。

苦しいときに、周りの人を責めるのはやめたほうがいいです。

自分が苦しいときこそ、周りの人を助けてあげてください。
2007-11-20 23:23:17 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-15

# 日々

なにもぼくは、それが悪いといっているわけじゃないのです。
人間というのはそういうものだというのがぼくの結論で。
たとえば人間は、その日を幸せに暮らせればそれでいいやと考える生き物です。
すべての人間が、「自分の人生全体の幸福を最大化せねばならない」と毎日を生きているわけじゃない。
むしろ逆です。

ほとんどのケースで彼らは、「人生全体の幸福」と「今日の幸福」を秤にかけて、「今日の幸福」を選んでいます。
ただそれだけのことです。そのこと自体は悪じゃないし、そう悪い手でもない。そのような言わば「行きあたりばったり」は、生命の行動原理です。

 ----

あれはもう書いたっけ?
「近代」というのは(傭兵じゃなく)「市民兵を必要とする状況」において、合理性をもって受け容れられたシステムだってやつ。

 ----

彼らがPHPを選ぶ理由も、そこにあります。
2007-11-15 10:50:43 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# なんでPHPが人気なのか

女子高生ぷろぐらまーなお☆のブログ
http://d.hatena.ne.jp/jknaoya/comment?date=20071112#c

あー。はてなの障害で、コメントが書き込めないのでここに置きます。

 なんで PHP がにんきなのかなぁ??

ちょっと極論を書いてしまいますが、世間一般の人は、「なにが本当に良いものなのか」をうまく理解できないからだと思います。

たとえばある町に住んでいる人は、近所の店で買ったものが「世界中のほかの場所で同様の製品を買うのと比べて、どちらがどれくらい良いか」を理解できません。(というか、ほとんどの人はそういうことをしようとは思わないのです)

普通の人は、何も考えず身近で手に入るものを使うし、使っているうちに愛着がわいて「その製品は良いものだ」と信じてしまいます。PHPはよく使われているC言語やJavaと文法や設計思想が似ているし、世の中に使っている人もいっぱいいます。最近流行のWebとも相性が良いです(本当は、PHPはそんなにうまくWebと親和していないのですが)。なので、普通の人がプログラミングの勉強をスタートするとき、PHPを身近に感じがちなんだと思います。「みんなが使ってるからいいものなんだろう」という感じですかね。
2007-11-15 10:21:43 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# CentOS 4.x系にPHP 5をインストール

CentOS 4.x系ではPHP 4が標準。でもいまどきはPHP 5を使いたいですよね。ということで、「CentOS 4.x PHP 5」みたいにしてググってみるのだけど、そうすると、「centosplusというオプショナルなパッケージ群を使えばPHP 5やMySQL 5が使えますよ」と書いてある。たぶん世の中の人的にも、「CentOS 4.xでPHP 5を使いたいときはcentosplus」みたいな感じなんだと思う。

でも、実際centosplusってどうなの?と調べてみたら、あまり良くないみたいっすよ。PHP 5にしても、2007年2月にRPMが作られたきりだから。2007年2月からいままで、たくさんPHPの脆弱性が見つかってるから。→ JVN iPedia - 脆弱性対策情報データベース

おいらの管理しているサーバーでは、思いあまってソースからPHPの最新版をインストールしてしまった。具体的には次のページに書かれているとおり。

PHP5 with mysqlインストールメモ - akiyan.com - freebsdグループ
http://freebsd.g.hatena.ne.jp/akiyan/20070314/1173842925
2007-11-15 09:48:21 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 言葉を発見する

ファイアウォール、としての言葉 - はてブついでに覚書。
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20071114/1195057619

わー! 面白いです!! なんという鋭敏な感性。これだけトントントンと、言葉を発見できるってどんな感じなんだろう。すごいなぁ。
2007-11-15 07:15:29 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-11

# 夜の海辺

恋愛や仕事、学校生活に疲れて、なんとなしに海辺へ行く。夜の砂浜に座っていると、ただ波の音が聞こえるばかり。じっと座っていると、ヤドカリの歩いているのが見える。月が雲を照らす。

そして主人公はこう思う。「大自然の営みに比べると、自分や自分の悩みはなんてちっぽけなんだ」。

ドラマなんかでこういうシーンがよくあるのだけど、正直ぼくにはよく分からない。そういう気持ちになることは、あるのかもしれないし、ないのかもしれない。夜の海辺へ行ってみたこともあるけれど、正直ピンとこなかった。

2007-11-11 12:10:49 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# メモ

不機嫌な日本全国コストセンター化(その1) - Tech Mom from Silicon Valley経由

「屁尾下郎」氏のツッコミが世の中を詰まらせる (「公私混同」原論):NBonline(日経ビジネス オンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071023/138300/

ご機嫌な人を見ると、不機嫌になる社会 (「公私混同」原論):NBonline(日経ビジネス オンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071031/139184/?P=2&ST=sp_hobonichi07
2007-11-11 09:27:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-09

# 日々

いつも拝見しているある人のサイトで、「湖畔でこんな卵を見つけた」という文章が書かれていた。見ると薄黄色の少し縦長い卵が5つ、刈れた水草の上写真に収められていた。その人によると「アヒルの卵かもしれない」とのこと。

それを見て、ぼくはとてもびっくりした。だって思えば、ぼくは卵なんてスーパーで売っているのしか見たことがなかったのだから。あるいはテレビの動物番組で、ときたま動物の卵は紹介される。でも実際に、人が歩けるような身近な湖畔で、卵が生まれ、命が育てられているなんて、ぼくは今日まで知らなかった。本当に知らなかった。とても驚いたし、その卵を見られてうれしかった。

 ----

ぼくはときどき、表現する人のことを、可愛らしいなぁと思う。年上であろうとも、性別がどうあろうとも、本当の心で裸になって表現する人は可愛らしい。それはまるで、言葉を覚えたての赤子を見ているよう。というかたぶん、そういう人の心は赤子のそれと同じなのだ。最も美しい表現や創造というのは、赤子の心からのみ生まれるのだ。

子供たちの言葉は、どんな哲学者の言葉よりも力強く、どんな詩人の言葉よりも透き通っている。誰が見ても分かるほどだ。そしてときに、大人になっても赤子の裸の心を持っている人がいる。ぼくは、裸の心で表現する人のことを、守らなければいけないと思う。彼らの心は、あまりにも無防備で傷付きやすくてやわらかい。

※ 赤子の裸の心は、本当は誰の心の中にもまだ残っていて、その灯は守られている。その灯を、強く輝かせている人と弱くなっている人がいるだけだ。でもその灯は、脆くてすぐに揺らいでしまう。多くの人は、大事にそれをかくまって見えないようにしている。大事に大事にかくまわれて、どこへ行ったか分からなくなってしまっている。
2007-11-09 21:50:46 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日々

この前の日曜日、散歩をしていたら公園を見つけた。芝生があって人も少ないので、おもむろに意味もなく走ってみることにした。意味もなく全力で走ったら足がもつれて転んだ。痛かった。左脇あたりを強打したのだろう。あれからええと、5日か。最初は寝返りが打てないほど痛かったが、もう今日はかなり痛みが引いて生活にも支障がなくなった。

 ----

「我々はすでにこれだけ提供したのだから、次はあなたたちが返す番だ」。

この言葉がすべてを物語っている。前々からそうなのだろうと思っていたけど、実際にそうだったということだ。さて。

 ----

最近思うのだけど、ソフトウェアを実装したことのない人が、要求仕様を出すのは難しいよなぁ。

彼らはどうも、自分が何を欲しいのか分かっていないし、そもそもおぼろげなそのイメージを表現することができないようだ(そういう習慣がないのだと思われる)。

なんとなく「SNSみたいなのを作って」という感じで発注をかけて、できあがってきたものを見て憤慨する。「全然違うじゃないか」と。でもそのとき、どこがどう違うのか、どこをどうしなければいけないのかは相手に伝えようとしない。「これは違う」ぐらいしか言わない。

言わなくても分かると思ってるかのようだ。ときに老夫婦は言葉なしで十分なコミュニケーションを成立させるけれども、日本の男はシステム開発においてもあれを期待しているのかもしれない。

 ----

んー。大人か子供かは関係がないと思うっすんだよなー。
「大人にはできるけど子供にはできない」っていうことは、実際には世の中にはほとんどないから。

「3つ子の魂100まで」っていうけど。3才の子供はすでに大人と同じものを持っている。逆に大人でも3才の子供かと思うようなロジックを持っている人がいたりする。や、実際には3才の子供はすでに大人と同じだというのがぼくの意見なんだけど。

ぼくは、子供を救えるのは大人ではないと思う。強いて言えば「たまに人(大人)のなかには子供を救える人がいる」というぐらいか。でもその「たまにいる人」の割合はかなり少なくって、現実的には全然足りない。子供をまず救えるのは、親だ。個々の子供のまさにその親がまず、子供を救うしかない。

そして子供にとって子供を救えるのは、友達であって自分である。そうするほかない。

 ----

「見よ。これでまた1つ、私の仮説の正しが証明された」と言うならば、まさにその瞬間、蜘蛛の糸は切れる。
2007-11-09 10:45:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-08

# 日本における組織と個人

一面において。
日本では、「組織(社会)は悪だ」ということになっている。
組織(社会)は「支配者」であり「特権階級」であり「収奪者」であるということになっている。

だから個人は、組織(社会)に対して攻撃してもよいしちょっとぐらい何かをしてもよいと解釈されうる一時がある。
それは個人の、組織(社会)に対する被差別意識である。

新聞もメディアも、「組織(社会)は悪だ」と書きたてる。
個人もそれに同調する。

また逆に言えば、日本では個人が個人を攻撃することが禁忌される。
攻撃はつねに集団(社会)を動員して行われる。

日本においては、「攻撃」自体が絶対的悪なのだろう。
「みんな仲良くしましょう」という言説には反論が許されない。


日本では、個人と社会が「絶対的敵対関係」と認められ差別関係が築かれたため、
他国にみられるような紛争や宗教戦争が回避される傾向にあるという
仮説もあげられるかもしれない。

そういう意味では、国家というのは宗教的装置なのだろう。
2007-11-08 09:14:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
recent days<< | >>old days