メッセージ。 - diary

2007-11-11

# 夜の海辺

恋愛や仕事、学校生活に疲れて、なんとなしに海辺へ行く。夜の砂浜に座っていると、ただ波の音が聞こえるばかり。じっと座っていると、ヤドカリの歩いているのが見える。月が雲を照らす。

そして主人公はこう思う。「大自然の営みに比べると、自分や自分の悩みはなんてちっぽけなんだ」。

ドラマなんかでこういうシーンがよくあるのだけど、正直ぼくにはよく分からない。そういう気持ちになることは、あるのかもしれないし、ないのかもしれない。夜の海辺へ行ってみたこともあるけれど、正直ピンとこなかった。

2007-11-11 12:10:49 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# メモ

不機嫌な日本全国コストセンター化(その1) - Tech Mom from Silicon Valley経由

「屁尾下郎」氏のツッコミが世の中を詰まらせる (「公私混同」原論):NBonline(日経ビジネス オンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071023/138300/

ご機嫌な人を見ると、不機嫌になる社会 (「公私混同」原論):NBonline(日経ビジネス オンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071031/139184/?P=2&ST=sp_hobonichi07
2007-11-11 09:27:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-09

# 日々

いつも拝見しているある人のサイトで、「湖畔でこんな卵を見つけた」という文章が書かれていた。見ると薄黄色の少し縦長い卵が5つ、刈れた水草の上写真に収められていた。その人によると「アヒルの卵かもしれない」とのこと。

それを見て、ぼくはとてもびっくりした。だって思えば、ぼくは卵なんてスーパーで売っているのしか見たことがなかったのだから。あるいはテレビの動物番組で、ときたま動物の卵は紹介される。でも実際に、人が歩けるような身近な湖畔で、卵が生まれ、命が育てられているなんて、ぼくは今日まで知らなかった。本当に知らなかった。とても驚いたし、その卵を見られてうれしかった。

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ぼくはときどき、表現する人のことを、可愛らしいなぁと思う。年上であろうとも、性別がどうあろうとも、本当の心で裸になって表現する人は可愛らしい。それはまるで、言葉を覚えたての赤子を見ているよう。というかたぶん、そういう人の心は赤子のそれと同じなのだ。最も美しい表現や創造というのは、赤子の心からのみ生まれるのだ。

子供たちの言葉は、どんな哲学者の言葉よりも力強く、どんな詩人の言葉よりも透き通っている。誰が見ても分かるほどだ。そしてときに、大人になっても赤子の裸の心を持っている人がいる。ぼくは、裸の心で表現する人のことを、守らなければいけないと思う。彼らの心は、あまりにも無防備で傷付きやすくてやわらかい。

※ 赤子の裸の心は、本当は誰の心の中にもまだ残っていて、その灯は守られている。その灯を、強く輝かせている人と弱くなっている人がいるだけだ。でもその灯は、脆くてすぐに揺らいでしまう。多くの人は、大事にそれをかくまって見えないようにしている。大事に大事にかくまわれて、どこへ行ったか分からなくなってしまっている。
2007-11-09 21:50:46 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日々

この前の日曜日、散歩をしていたら公園を見つけた。芝生があって人も少ないので、おもむろに意味もなく走ってみることにした。意味もなく全力で走ったら足がもつれて転んだ。痛かった。左脇あたりを強打したのだろう。あれからええと、5日か。最初は寝返りが打てないほど痛かったが、もう今日はかなり痛みが引いて生活にも支障がなくなった。

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「我々はすでにこれだけ提供したのだから、次はあなたたちが返す番だ」。

この言葉がすべてを物語っている。前々からそうなのだろうと思っていたけど、実際にそうだったということだ。さて。

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最近思うのだけど、ソフトウェアを実装したことのない人が、要求仕様を出すのは難しいよなぁ。

彼らはどうも、自分が何を欲しいのか分かっていないし、そもそもおぼろげなそのイメージを表現することができないようだ(そういう習慣がないのだと思われる)。

なんとなく「SNSみたいなのを作って」という感じで発注をかけて、できあがってきたものを見て憤慨する。「全然違うじゃないか」と。でもそのとき、どこがどう違うのか、どこをどうしなければいけないのかは相手に伝えようとしない。「これは違う」ぐらいしか言わない。

言わなくても分かると思ってるかのようだ。ときに老夫婦は言葉なしで十分なコミュニケーションを成立させるけれども、日本の男はシステム開発においてもあれを期待しているのかもしれない。

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んー。大人か子供かは関係がないと思うっすんだよなー。
「大人にはできるけど子供にはできない」っていうことは、実際には世の中にはほとんどないから。

「3つ子の魂100まで」っていうけど。3才の子供はすでに大人と同じものを持っている。逆に大人でも3才の子供かと思うようなロジックを持っている人がいたりする。や、実際には3才の子供はすでに大人と同じだというのがぼくの意見なんだけど。

ぼくは、子供を救えるのは大人ではないと思う。強いて言えば「たまに人(大人)のなかには子供を救える人がいる」というぐらいか。でもその「たまにいる人」の割合はかなり少なくって、現実的には全然足りない。子供をまず救えるのは、親だ。個々の子供のまさにその親がまず、子供を救うしかない。

そして子供にとって子供を救えるのは、友達であって自分である。そうするほかない。

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「見よ。これでまた1つ、私の仮説の正しが証明された」と言うならば、まさにその瞬間、蜘蛛の糸は切れる。
2007-11-09 10:45:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-08

# 日本における組織と個人

一面において。
日本では、「組織(社会)は悪だ」ということになっている。
組織(社会)は「支配者」であり「特権階級」であり「収奪者」であるということになっている。

だから個人は、組織(社会)に対して攻撃してもよいしちょっとぐらい何かをしてもよいと解釈されうる一時がある。
それは個人の、組織(社会)に対する被差別意識である。

新聞もメディアも、「組織(社会)は悪だ」と書きたてる。
個人もそれに同調する。

また逆に言えば、日本では個人が個人を攻撃することが禁忌される。
攻撃はつねに集団(社会)を動員して行われる。

日本においては、「攻撃」自体が絶対的悪なのだろう。
「みんな仲良くしましょう」という言説には反論が許されない。


日本では、個人と社会が「絶対的敵対関係」と認められ差別関係が築かれたため、
他国にみられるような紛争や宗教戦争が回避される傾向にあるという
仮説もあげられるかもしれない。

そういう意味では、国家というのは宗教的装置なのだろう。
2007-11-08 09:14:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-07

# Gauche 0.8.12のZaurus用パッケージを作りました

Gauche 0.8.12が出ていたのに気付いていませんですた。
Zaurus用のパッケージを作って置いときます。コンパイル時には、--enable-multibyte=eucjpしました。また、今回からdbm.gdbmなどを使えるようにしました。(gdbmを使いたいなら別途libgdbmをインストールする必要あり)

http://pikapika.to/~yf/download/gauche_0.8.12-1_arm.ipk
2007-11-07 07:57:25 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-05

# メモ

2007-11-05 10:27:17 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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