メッセージ。 - diary
2007-11-02
# 熟語の能力
熟語というのは、話し言葉であまり使わないので、好きじゃない面がある。
たとえば「先日」という言葉は、普段しゃべるときには使わない。それはしゃちほこばった言葉であって、心の中にあるものをストレートに表現したいときには、適切な感じがしないから。
心の中にあるものをストレートに表現したいときには、できれば普段使っている言葉をそのまま使いたい。普段は使いもしない言葉や、自分自身が読めないような漢字、横文字、俗語、構文。そういったものを使うとうまく表現できないような気がする(人にもよると思われる)。
ところが、文章を書いていると、普段使いの言葉ではどうも表現能力が足りていないと感じるようなことがある。
たとえば「先日」という言葉は、ぼくの普段使いの言葉でいうと「このあいだ(こないだ)」ということになるのだけど。でも「このあいだ」というのは、活字になっているのを読むと、どうも心にすっと入ってこないようなところがある。
理由を考えてみると、1つには、「このあいだ」という言葉は、「この」という言葉と「あいだ(間)」という言葉の組み合わせのような気がしてしまうというのがあげられる。「この」ってどれを指すんだ?とか「あいだ(間)」ってどれくらいだろう?とか、ニュアンスを解釈する余地が大きくなってしまっているというか。
「この」という文字を読むと、以前に出てきた何かとのかかりうけが一瞬頭に浮かんでしまって、余計に「あいだ(間)」とのあいだで意味が分断されやすいのかもしれない。しかし、かといって「こないだ」という言葉(音)で代用すると、うまく目に入らないように感じられる。「こないだ」という日本語はないような気がするというか、字面として見慣れないので瞬時に頭に入ってこないというか。音や意味としては好きなんだけどねぇ。
そういう問題を考えていると、逆に「先日」という言葉は書き言葉としては能力が高いなぁという風に感じる。「先日」というのはよく見る文字ですっと頭に入ってくるし、単体で使って意味がはっきりしている。「このあいだ」に感じるような後に尾を引く感じがないというか。
話が飛ぶかもしれないけど、普段文章を書くとき、ぼくは普段使いの言葉を使いたい。そのほうが、自分の表現したいものをうまく表現できる気がするし、読み手が知らない単語や受け容れにくい言葉を使わないほうが、うまく伝わるような気がするから。
だから、たとえば熟語や横文字の単語はできるだけ使わないで表現したいと思っている。でも、上に書いたようにひとことで表現できる単語を、「普段使いじゃないからとか、知らない人がいるかもしれないから」という理由で平易な書き方に開くことで、逆に意味があいまいになったりニュアンスが伝わらなかったりすることもあるように思う。
その意味では、横文字の言葉というのはまさに熟語と同じ使い勝手と表現能力がある。横文字の言葉や、まだ生まれて間もないような言葉もあまり使いたくないけど、でも場合によっては使うほうが適切なケースもあるのだなぁなどと考えた。
たとえば「先日」という言葉は、普段しゃべるときには使わない。それはしゃちほこばった言葉であって、心の中にあるものをストレートに表現したいときには、適切な感じがしないから。
心の中にあるものをストレートに表現したいときには、できれば普段使っている言葉をそのまま使いたい。普段は使いもしない言葉や、自分自身が読めないような漢字、横文字、俗語、構文。そういったものを使うとうまく表現できないような気がする(人にもよると思われる)。
ところが、文章を書いていると、普段使いの言葉ではどうも表現能力が足りていないと感じるようなことがある。
たとえば「先日」という言葉は、ぼくの普段使いの言葉でいうと「このあいだ(こないだ)」ということになるのだけど。でも「このあいだ」というのは、活字になっているのを読むと、どうも心にすっと入ってこないようなところがある。
理由を考えてみると、1つには、「このあいだ」という言葉は、「この」という言葉と「あいだ(間)」という言葉の組み合わせのような気がしてしまうというのがあげられる。「この」ってどれを指すんだ?とか「あいだ(間)」ってどれくらいだろう?とか、ニュアンスを解釈する余地が大きくなってしまっているというか。
「この」という文字を読むと、以前に出てきた何かとのかかりうけが一瞬頭に浮かんでしまって、余計に「あいだ(間)」とのあいだで意味が分断されやすいのかもしれない。しかし、かといって「こないだ」という言葉(音)で代用すると、うまく目に入らないように感じられる。「こないだ」という日本語はないような気がするというか、字面として見慣れないので瞬時に頭に入ってこないというか。音や意味としては好きなんだけどねぇ。
そういう問題を考えていると、逆に「先日」という言葉は書き言葉としては能力が高いなぁという風に感じる。「先日」というのはよく見る文字ですっと頭に入ってくるし、単体で使って意味がはっきりしている。「このあいだ」に感じるような後に尾を引く感じがないというか。
話が飛ぶかもしれないけど、普段文章を書くとき、ぼくは普段使いの言葉を使いたい。そのほうが、自分の表現したいものをうまく表現できる気がするし、読み手が知らない単語や受け容れにくい言葉を使わないほうが、うまく伝わるような気がするから。
だから、たとえば熟語や横文字の単語はできるだけ使わないで表現したいと思っている。でも、上に書いたようにひとことで表現できる単語を、「普段使いじゃないからとか、知らない人がいるかもしれないから」という理由で平易な書き方に開くことで、逆に意味があいまいになったりニュアンスが伝わらなかったりすることもあるように思う。
その意味では、横文字の言葉というのはまさに熟語と同じ使い勝手と表現能力がある。横文字の言葉や、まだ生まれて間もないような言葉もあまり使いたくないけど、でも場合によっては使うほうが適切なケースもあるのだなぁなどと考えた。
# 女にとっての「いい男」
先日テレビを見ていたら、ある会社の女性の社長がこんなことを言っていて鋭いなぁと思った。
「女にとって『いい男』ってのは、とにかく話を聞いてくれる人ですよ。アドバイスはいらない。アドバイスされるとむかつくから」。
こんな風にエッセンスを抜き出して、身も蓋もないことを言えるのは賢い人だ。自分のなかにあるものを偽らずに取り出せるのは、ストレートな感性の持ち主ということ。
しかもこの場合テレビで放送されるもの(どこかのカンファレンスでのパネルディスカッションでの一幕を抜き出したもの?)だったので、女性社長としてある一定の仕事をこなしていたように見受けられた。
上記のような発言では、「女性を共感させられる」という女性(社内)に対してのメッセージ性と、「自分の強さ(女らしさと男っぽさ)を見せつけられる」という市場(男社会)に対してのメッセージ性を端的に演出できていたから。女性社長としてなかなかの仕事だと感じた。
それはそれとして。それが、女にとっての「いい男」だというのは理解できるし、ぼく自身は必要に応じて女の人の話はとりあえず聞くことが多い。「女の人ってのは『喋りたい生き物』なんだな」と思うようなところがあるから。
でもときに、「聞くだけ」というのはあえてやらないこともある。女の人の前で「いい男」でいるだけなのは、女の人にとって気分がよいだろうけど、その実気分がよいだけで女の人をダメにするところがある気がするから。
なんていうか、この場合の女にとっての「いい男」というのは、もっといえば「都合のいい男」ってことだ(かもしれない)。たとえば逆に、「男にとって(都合の)いい男というのは、とにかくすぐ脱いでくれる人のことですよ」とか言われたらどうだろう。
女の人は、「そりゃあそうかもしれないけど。でも脱いであげない」と思うんじゃないだろうか。それに、脱いであげることが、男にとってよいことだと考えるのが妥当だとは思えない。
それは単に「都合の良い女(や男や状況)」というだけであって、でも実際には世の中都合の良いことばかりじゃない。短期的には都合のいい女(や男や状況)は「良い」といえるかもしれない。一方で長期的には、「都合が悪い状況でなにができるか」というスキルこそが重要だ。
都合がよすぎてもダメだし、都合が悪すぎてもダメというか。だからたとえば、ぼくは女の人の話は適度に「聞かない」ようにしている。アドバイスもするし対話もする。それらをストップさせようと思えばできるけど、そうはしないという方針でいる(少なくとも最近は)。
「女にとって『いい男』ってのは、とにかく話を聞いてくれる人ですよ。アドバイスはいらない。アドバイスされるとむかつくから」。
こんな風にエッセンスを抜き出して、身も蓋もないことを言えるのは賢い人だ。自分のなかにあるものを偽らずに取り出せるのは、ストレートな感性の持ち主ということ。
しかもこの場合テレビで放送されるもの(どこかのカンファレンスでのパネルディスカッションでの一幕を抜き出したもの?)だったので、女性社長としてある一定の仕事をこなしていたように見受けられた。
上記のような発言では、「女性を共感させられる」という女性(社内)に対してのメッセージ性と、「自分の強さ(女らしさと男っぽさ)を見せつけられる」という市場(男社会)に対してのメッセージ性を端的に演出できていたから。女性社長としてなかなかの仕事だと感じた。
それはそれとして。それが、女にとっての「いい男」だというのは理解できるし、ぼく自身は必要に応じて女の人の話はとりあえず聞くことが多い。「女の人ってのは『喋りたい生き物』なんだな」と思うようなところがあるから。
でもときに、「聞くだけ」というのはあえてやらないこともある。女の人の前で「いい男」でいるだけなのは、女の人にとって気分がよいだろうけど、その実気分がよいだけで女の人をダメにするところがある気がするから。
なんていうか、この場合の女にとっての「いい男」というのは、もっといえば「都合のいい男」ってことだ(かもしれない)。たとえば逆に、「男にとって(都合の)いい男というのは、とにかくすぐ脱いでくれる人のことですよ」とか言われたらどうだろう。
女の人は、「そりゃあそうかもしれないけど。でも脱いであげない」と思うんじゃないだろうか。それに、脱いであげることが、男にとってよいことだと考えるのが妥当だとは思えない。
それは単に「都合の良い女(や男や状況)」というだけであって、でも実際には世の中都合の良いことばかりじゃない。短期的には都合のいい女(や男や状況)は「良い」といえるかもしれない。一方で長期的には、「都合が悪い状況でなにができるか」というスキルこそが重要だ。
都合がよすぎてもダメだし、都合が悪すぎてもダメというか。だからたとえば、ぼくは女の人の話は適度に「聞かない」ようにしている。アドバイスもするし対話もする。それらをストップさせようと思えばできるけど、そうはしないという方針でいる(少なくとも最近は)。
2007-11-01
# 営業という仕事
先日ものの本を読んでいたところ、近年では山本勘助という人物は存在しなかったのではないかという説が有力だったという話が書いてあった。その本の続きを読むと、ところが最近、武田信玄公のしたためた書状が発見され、上記の説が覆されたとのこと。
なんでもその書状は、武田信玄公が支配外の武将との交渉にあたって書いたものだったらしい。当時、そのような国家間の書状は、武将の腹心にあたる者が手渡しで届ける役目を負っており、まさにその任を与えられたのが勘助だったというのだ。
その本では、国家間での交渉にあたって書状を届けるという役目は当時重くとらえられていたと説明されている。というのも、書状を読んだ相手方がどのような反応を示すのか(条件を出してくるのかなど)によって、使者は臨機応変に判断をしすぐさま返事をしなければならなかったからだという。
当然、判断をくだす使者は主の考えをよく理解しておらねばならず、また咄嗟の機転で事態を有利に運べる才能を持ち合わせていなければならなかったとの由。
それを読んでなるほどなぁと思った。一方で現代のビジネスはちょっと変なような気がした。現代のビジネスにおいては、商品企画・製造部門が武将で営業部門が使者のように思われる。ところが営業部門は、商品の販売において腹心といえるほど商品製造部門と連絡を密にしているだろうか。むしろ逆のような気がする。たとえば営業の人材を、製造部門の中から選ぶというような組織はどうなんだろうか。
なんでもその書状は、武田信玄公が支配外の武将との交渉にあたって書いたものだったらしい。当時、そのような国家間の書状は、武将の腹心にあたる者が手渡しで届ける役目を負っており、まさにその任を与えられたのが勘助だったというのだ。
その本では、国家間での交渉にあたって書状を届けるという役目は当時重くとらえられていたと説明されている。というのも、書状を読んだ相手方がどのような反応を示すのか(条件を出してくるのかなど)によって、使者は臨機応変に判断をしすぐさま返事をしなければならなかったからだという。
当然、判断をくだす使者は主の考えをよく理解しておらねばならず、また咄嗟の機転で事態を有利に運べる才能を持ち合わせていなければならなかったとの由。
それを読んでなるほどなぁと思った。一方で現代のビジネスはちょっと変なような気がした。現代のビジネスにおいては、商品企画・製造部門が武将で営業部門が使者のように思われる。ところが営業部門は、商品の販売において腹心といえるほど商品製造部門と連絡を密にしているだろうか。むしろ逆のような気がする。たとえば営業の人材を、製造部門の中から選ぶというような組織はどうなんだろうか。
2007-10-31
# プログラムを書く難しさ
今月(?)起きた改札機/Suicaの障害だけど。あれって「大トラブル」とは到底思えない。
だって、あれが大トラブルだとしたら、阪神大震災とかはなにトラブルなの?
あんなのを大トラブルだなんて言うのはリスク管理に対するスケールが小さすぎるんじゃないかなぁ。
3時間やそこらで復旧したのだし、鉄道システムとして輸送機能自体はほぼ問題ないレベルで稼働してたように思う。
だとしたら、なにが問題なのか。
ソフトウェアやシステムに不具合があるのは当然なのだから、なにかが起こったら運用でカバーをする。
そして今回は、ちゃんと運用でカバーできていたんじゃないかなぁ。
やったことない人には分からなくても仕方ないけど、プログラミングってのは難しいんですよ。
たとえば文章でいうと、原稿用紙何千枚を文字で埋めて、一文字でも誤字脱字・文法ミスがあってはいけないというレベル。
しかもそれを、わけの分からん言語で書いて、わけの分からん相手に読ませなきゃいけない。
1つでも行き違いがあったらバグで、不具合に結びつくかもしれない。
大変なんですよ。
だって、あれが大トラブルだとしたら、阪神大震災とかはなにトラブルなの?
あんなのを大トラブルだなんて言うのはリスク管理に対するスケールが小さすぎるんじゃないかなぁ。
3時間やそこらで復旧したのだし、鉄道システムとして輸送機能自体はほぼ問題ないレベルで稼働してたように思う。
だとしたら、なにが問題なのか。
ソフトウェアやシステムに不具合があるのは当然なのだから、なにかが起こったら運用でカバーをする。
そして今回は、ちゃんと運用でカバーできていたんじゃないかなぁ。
やったことない人には分からなくても仕方ないけど、プログラミングってのは難しいんですよ。
たとえば文章でいうと、原稿用紙何千枚を文字で埋めて、一文字でも誤字脱字・文法ミスがあってはいけないというレベル。
しかもそれを、わけの分からん言語で書いて、わけの分からん相手に読ませなきゃいけない。
1つでも行き違いがあったらバグで、不具合に結びつくかもしれない。
大変なんですよ。
2007-10-29
# コピーライトについて
バカが征く
http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=20071027
うおーそうだったのか! バカ往くさんすごい!
たしかに、コピーライトが「Copyright (c) 1905 tko at jitu.org」って
なってて変だなって思ってたんだけど、パブリックドメインだったとは。
すばらしい。さすがだ。面白い。
ちなみにうちは(笑)、コピーライトを掲示してないんだけど
なぜかというと「そんなものを掲示する文化ではありません」というスタンスだから。
ここの文章を切り貼りするなり改変するなり引用するなりは「完全に」自由。
そちらが「そうしよう」と思ったすべての事象について(そうしようと思っていないすべての事象についても)、こちらは何も干渉しません(あるいはすべて任せます)。
いまの時点では。つーか何も考えてない。未来は予測不能で情報の価値も測定不能。
情報が引用されたり改変されたりすることが、どれだけどのような価値を
生み出すか(破壊するか)も予測不能だと考えてる。まったくコントローラブルで
ないものをコントロールしようとするなんて、おいらには馬鹿げて見える。
そんな無駄なことには時間は使わない。面白ければそれでいい。
まぁ、コメントをいただいたり、引用している部分はどうだっていう話はあるんだけどね。
でも、知らん。ここがそういう場所だってことは、コメント書く人は予想できるだろうし、
ここにコピーライトがないことは見れば分かる。
まぁ滅茶苦茶ではありますわな。はい。滅茶苦茶ですとも。
http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=20071027
何回か書いてるけど、下のcopyright noticeは、半分シャレで、半分本気なのね。要は、ここに書いてることは全部public domainだっていうこと。ここ以外でも、jitu.orgで公開してるのは基本的にはpublic domain。移植とかの場合は、オリジナルのライセンスを引き継いでる場合もあるんだけど。そういうのは明示してあるはず。(中略)でも、そのときからpublic domainであることは謳ってたわけで。だから、何かあったら引用するなり、丸ごと引っぱるなりしてくださいっていう方針だったのね。
うおーそうだったのか! バカ往くさんすごい!
たしかに、コピーライトが「Copyright (c) 1905 tko at jitu.org」って
なってて変だなって思ってたんだけど、パブリックドメインだったとは。
すばらしい。さすがだ。面白い。
ちなみにうちは(笑)、コピーライトを掲示してないんだけど
なぜかというと「そんなものを掲示する文化ではありません」というスタンスだから。
ここの文章を切り貼りするなり改変するなり引用するなりは「完全に」自由。
そちらが「そうしよう」と思ったすべての事象について(そうしようと思っていないすべての事象についても)、こちらは何も干渉しません(あるいはすべて任せます)。
いまの時点では。つーか何も考えてない。未来は予測不能で情報の価値も測定不能。
情報が引用されたり改変されたりすることが、どれだけどのような価値を
生み出すか(破壊するか)も予測不能だと考えてる。まったくコントローラブルで
ないものをコントロールしようとするなんて、おいらには馬鹿げて見える。
そんな無駄なことには時間は使わない。面白ければそれでいい。
まぁ、コメントをいただいたり、引用している部分はどうだっていう話はあるんだけどね。
でも、知らん。ここがそういう場所だってことは、コメント書く人は予想できるだろうし、
ここにコピーライトがないことは見れば分かる。
まぁ滅茶苦茶ではありますわな。はい。滅茶苦茶ですとも。
2007-10-27
# 日々
承認2.0 - はてブついでに覚書。
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20071026/1193417274
この人の感性は鋭いなぁ。でも鋭いだけじゃなくて、丸くて優しい。好きだ。
----
まあ基本的なとこはココなんだけどね、って話。 - S嬢 はてな
http://d.hatena.ne.jp/satomies/20071027/p1#c
そう! そうなんよ。
おいらが口を酸っぱくして言ってるのもこれなんだよなぁ。
外野からいろいろ言ってくる人の言葉は、
ポジティブなものであれネガティブなものであれ重く捉えない。
(逆に自分も軽々しくそっちにくちばしをはさまさない)
それよりも、身近にいる本当に大事な人を本当に大事にしなさいよと。
それにしても、satomieさんの書かれていることは
ほかにも共感できるのがいっぱいだ。
----
2007-10-04 - みやきち日記
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20071004#1191464553
ふぅむ、たしかに。これ、実際にやるのは難しいんだけど、そのへんはどうやって説明してるんだろう。ちょっと読んでみたいなぁ……。
----
「やりたいこと」と「売れること」は対立しない。どちらかではなくどちらもやることにこそ頭を使ってほしい - ラノ漫—ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記—
http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20071026/1193403354
そうなんだよね。雑誌に限らずブログにも言えることだと思う。一時期、「アクセス数の多いブログが、面白くて価値があって偉いの?」という話題が盛り上がったけど、結局のところそれらの間には直接的な相関関係はないか、むしろ若干負の相関があるのだろう。
もうちょっと一般化して、科学的価値や芸術性などが高ければ高いほど、それを好んで理解・共感する人の数は少なくなるのだろうとぼくは考えている。でも、ちょっと待てよ。「科学的価値や芸術性が高い」というのはたぶん「普遍性が高い」ということで、多くの人に受け容れられるのが自然なような気がするか……。や、でもだからこそ、かな。多くの人は普遍性を身近には置かないで暮らしていたりする。普遍性よりもっと身近なものとして、国籍であるとか人間であるとか、男であるとか、モテであるとかなんとか職であるとかいうことにアイデンティファイされることを好む。だから、普遍性の高いものはそれほどニンゲンと相性が良いわけではない(とくに短いタイムスケールでは)という仮説。は言えそう、という感じだったか。
うーん。鋭いなぁ……。なんとなくは、おいらもこういう意見を持っていたけど、ここまで端的に、しかも公の文章として意見を述べられるというのはものすごい切れ味だ。あと、実際にこれを実践してビジネス的にも文芸的にも成り立たせたんだろうからすごい。
ええとまぁ結局は、これも雑誌に限らないんだよね。我々は、ユーザーが望むものを与えてはいけないというか。ユーザーが(作者ですら)望みさえしなかった望外のものを提供してこそだという気がする。アウトプットしたものが独り歩きしていくような、そういう作品・製品を作れたら最高だ。
もっと言えば、ぼくはこれは作品や製品やアウトプットに限らないかもしれないと考えている。つまり、自分というものが、自分の望みどおりに生きたり自分の考えたとおりの道を進んでいるのなら、それは自分にとって最も幸せな生き方ではないということ。自分らしく生きようとするなら、いずれ自分を捨てなければならないときがくるのではないか。不射の射というか。そういう生き方ができたらうれしい。
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20071026/1193417274
この人の感性は鋭いなぁ。でも鋭いだけじゃなくて、丸くて優しい。好きだ。
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まあ基本的なとこはココなんだけどね、って話。 - S嬢 はてな
http://d.hatena.ne.jp/satomies/20071027/p1#c
> 自分が進む道を歩む。> 自分を信頼してくれる人を支えにする。> っつ〜ことに行き着くのね、結局は。
そう! そうなんよ。
おいらが口を酸っぱくして言ってるのもこれなんだよなぁ。
外野からいろいろ言ってくる人の言葉は、
ポジティブなものであれネガティブなものであれ重く捉えない。
(逆に自分も軽々しくそっちにくちばしをはさまさない)
それよりも、身近にいる本当に大事な人を本当に大事にしなさいよと。
それにしても、satomieさんの書かれていることは
ほかにも共感できるのがいっぱいだ。
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2007-10-04 - みやきち日記
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20071004#1191464553
『13歳からの論理ノート』(小野田博一、PHP研究所)という本を最近読みました。論理的に考えるためのポイントが明快に書かれており、たいへん役に立つ本だったのですが、特に印象深かったのは以下の部分。「日常的に見られる変な論理は、多くの場合、隠されている前提が変なのだ」という趣旨の話の一部分です。> 【例】> 「歩きタバコは不快である。歩きながらタバコを吸うことを禁止すべきだ」>> これを省略なしの形にすると、次のようになります。>> 「歩きながらタバコを吸っている人がいるのは、私には不快だ。私に不快なことは、すべて禁止すべきだ。したがって、歩きながらタバコを吸うことを禁止すべきだ」>> このように省略なしにすると、ムチャクチャなことを述べていることが歴然となりますね。ところが、>> 「歩きタバコは不快である。歩きながらタバコを吸うことを禁止すべきだ」>> では必ずしも歴然ではありません。省略なし版のほうをムチャクチャと思い、省略版の方をムチャクチャと思わない人は、「省略」にごまかされているわけなのです。
ふぅむ、たしかに。これ、実際にやるのは難しいんだけど、そのへんはどうやって説明してるんだろう。ちょっと読んでみたいなぁ……。
----
「やりたいこと」と「売れること」は対立しない。どちらかではなくどちらもやることにこそ頭を使ってほしい - ラノ漫—ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記—
http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20071026/1193403354
「LEON」の創刊編集長として知られる岸田一郎氏は、著書「LEONの秘密と舞台裏」で次のように語っています。> 「オタク」なものになればなるほど、読者はどんどん減っていきます。もし、一部のマニアックな人たちから> 「今までこんな凄いものはなかった!」> といわれるほどの雑誌ができたとしても、それを理解して賛同してくれる読者の絶対数というのは、思った以上に少ないという場合がほとんどです。> 私の感覚では、作り手の「自己表現度」といったものが高いほど、読者はかえって少なくなる。雑誌とはおしなべて、そういうものなのです。
そうなんだよね。雑誌に限らずブログにも言えることだと思う。一時期、「アクセス数の多いブログが、面白くて価値があって偉いの?」という話題が盛り上がったけど、結局のところそれらの間には直接的な相関関係はないか、むしろ若干負の相関があるのだろう。
もうちょっと一般化して、科学的価値や芸術性などが高ければ高いほど、それを好んで理解・共感する人の数は少なくなるのだろうとぼくは考えている。でも、ちょっと待てよ。「科学的価値や芸術性が高い」というのはたぶん「普遍性が高い」ということで、多くの人に受け容れられるのが自然なような気がするか……。や、でもだからこそ、かな。多くの人は普遍性を身近には置かないで暮らしていたりする。普遍性よりもっと身近なものとして、国籍であるとか人間であるとか、男であるとか、モテであるとかなんとか職であるとかいうことにアイデンティファイされることを好む。だから、普遍性の高いものはそれほどニンゲンと相性が良いわけではない(とくに短いタイムスケールでは)という仮説。は言えそう、という感じだったか。
最後に、福島正実氏が「未踏の時代」で語っている、「SFマガジン」創刊時の考えかたを引用して今回の締めに代えたいと思います。> もしSF雑誌を曲がりなりにも成功させようとおもうなら、まず第一に、SFファンを無視してかからなければならない。SFファンを読者対象としてあてにしてはならない。SFファンのための雑誌しかできないようなら、最初から出さない方がいい——ぼくは、こう考えた。
うーん。鋭いなぁ……。なんとなくは、おいらもこういう意見を持っていたけど、ここまで端的に、しかも公の文章として意見を述べられるというのはものすごい切れ味だ。あと、実際にこれを実践してビジネス的にも文芸的にも成り立たせたんだろうからすごい。
ええとまぁ結局は、これも雑誌に限らないんだよね。我々は、ユーザーが望むものを与えてはいけないというか。ユーザーが(作者ですら)望みさえしなかった望外のものを提供してこそだという気がする。アウトプットしたものが独り歩きしていくような、そういう作品・製品を作れたら最高だ。
もっと言えば、ぼくはこれは作品や製品やアウトプットに限らないかもしれないと考えている。つまり、自分というものが、自分の望みどおりに生きたり自分の考えたとおりの道を進んでいるのなら、それは自分にとって最も幸せな生き方ではないということ。自分らしく生きようとするなら、いずれ自分を捨てなければならないときがくるのではないか。不射の射というか。そういう生き方ができたらうれしい。