メッセージ。 - diary
2007-10-26
# モラルをめぐって
http://www.unixuser.org/~euske/offline/memo/2007/a0.html#211156
ちょっと前に新山さんの文章を引用した。共感できるとかすごい発見だとか感じたからなんだけど、その後よく考えてみたら、RMSさん側にも言い分があるような気がした。
つまり、RMSさんは確かにモラルをルールで規定しようという方法論を採ってはいるものの、それを受け容れるかどうかは(ほぼ)完全に利用者に委ねられている。
だから、RMSさんはモラルを押し付けるというところまではいってない。ように思った。彼はたぶん、「これがいいと思う」と言っているにすぎなくて、「こうしろ」とまでは言っていない。
もちろん、ルール(だけ)で人を導けるのかとか、「これがモラルだ」とでも言うような強い主張があって、少なからず軋轢は感じるけど。
あと、これはあれだね。ジラールさんであったりガンジーさんだったりの問題かもしれない。RMSさんのやり方は、著作権というげんこつを振り上げた相手に対して、同じ著作権のげんこつで立ち向かうやり方だろう。そして、世の中には別のやり方があって。
たとえばガンジーさんなら著作権というげんこつ(暴力)に対して、暴力では立ち向かわなかっただろう。ジラールさんは、暴力をやめさせようとして暴力で抗するなら暴力はなくならないというようなことを言っている。
ちょっと前に新山さんの文章を引用した。共感できるとかすごい発見だとか感じたからなんだけど、その後よく考えてみたら、RMSさん側にも言い分があるような気がした。
つまり、RMSさんは確かにモラルをルールで規定しようという方法論を採ってはいるものの、それを受け容れるかどうかは(ほぼ)完全に利用者に委ねられている。
だから、RMSさんはモラルを押し付けるというところまではいってない。ように思った。彼はたぶん、「これがいいと思う」と言っているにすぎなくて、「こうしろ」とまでは言っていない。
もちろん、ルール(だけ)で人を導けるのかとか、「これがモラルだ」とでも言うような強い主張があって、少なからず軋轢は感じるけど。
あと、これはあれだね。ジラールさんであったりガンジーさんだったりの問題かもしれない。RMSさんのやり方は、著作権というげんこつを振り上げた相手に対して、同じ著作権のげんこつで立ち向かうやり方だろう。そして、世の中には別のやり方があって。
たとえばガンジーさんなら著作権というげんこつ(暴力)に対して、暴力では立ち向かわなかっただろう。ジラールさんは、暴力をやめさせようとして暴力で抗するなら暴力はなくならないというようなことを言っている。
# なんとなく思い出したこと
昔、『ドラえもん』を読んでいて、なんともいえない引っかかりを感じた1コマがあった。
その回でドラえもんは、水を半固形化して粘土細工をできるようにする道具を出していた。
その道具を持って彼らは、公園に遊びに出かける。
のび太やしずかちゃん、スネ夫にジャイアン。いつもの面々は、公園の池の水を使って、めいめい舟を作った。
さぁできたぞ。進水だ。そのときのこと。
水のうえを順調に進むスネ夫は、前からしずかちゃんの舟がやってくるのを見つけた。
「やぁ、しずかちゃんの舟、かっこいいねぇ」(しずかちゃんの舟はスワンの形をしている)
「スネ夫さんの舟もすてきよ」
言葉を交わしあう子供たち。
このシーンにぼくは引っかかった。どうして彼らは、そのような言葉を口にしたのか。本来なら彼らは、逆の言葉を口にすべきじゃなかったか。
「やぁ、しずかちゃんの舟、すてきだねぇ」、「スネ夫さんの舟もかっこいいわ」
彼らのパーソナリティなら、当然こう言うはずだ。ところが作者は、ここを逆にした。
「なぜ逆にしたのだろうか?」という問題はぼくも解けていないのだけど、どうしてここの言葉に違和感を感じたのかは、その後十数年考えて分かってきた。
要するに彼らは、自分の価値観の外にまったく出ていない。
スネ夫にとっては「かっこいい」というのが価値なのだ。そしてその「かっこいい」という評価を、しずかちゃんという女性に投げて褒めたつもりになっている。
また、これを受けてしずかちゃんも「すてき」という評価をスネ夫に投げ返す。しかしわざとではない。意識下での思考をほとんど発生させずに、さらっと「すてきよ」と言い放つ。
そして舟はすれ違い、ゆき過ぎていく。
その回でドラえもんは、水を半固形化して粘土細工をできるようにする道具を出していた。
その道具を持って彼らは、公園に遊びに出かける。
のび太やしずかちゃん、スネ夫にジャイアン。いつもの面々は、公園の池の水を使って、めいめい舟を作った。
さぁできたぞ。進水だ。そのときのこと。
水のうえを順調に進むスネ夫は、前からしずかちゃんの舟がやってくるのを見つけた。
「やぁ、しずかちゃんの舟、かっこいいねぇ」(しずかちゃんの舟はスワンの形をしている)
「スネ夫さんの舟もすてきよ」
言葉を交わしあう子供たち。
このシーンにぼくは引っかかった。どうして彼らは、そのような言葉を口にしたのか。本来なら彼らは、逆の言葉を口にすべきじゃなかったか。
「やぁ、しずかちゃんの舟、すてきだねぇ」、「スネ夫さんの舟もかっこいいわ」
彼らのパーソナリティなら、当然こう言うはずだ。ところが作者は、ここを逆にした。
「なぜ逆にしたのだろうか?」という問題はぼくも解けていないのだけど、どうしてここの言葉に違和感を感じたのかは、その後十数年考えて分かってきた。
要するに彼らは、自分の価値観の外にまったく出ていない。
スネ夫にとっては「かっこいい」というのが価値なのだ。そしてその「かっこいい」という評価を、しずかちゃんという女性に投げて褒めたつもりになっている。
また、これを受けてしずかちゃんも「すてき」という評価をスネ夫に投げ返す。しかしわざとではない。意識下での思考をほとんど発生させずに、さらっと「すてきよ」と言い放つ。
そして舟はすれ違い、ゆき過ぎていく。
2007-10-25
# 日記
なんか、ここの文章にたまにリンクしてくださる人がいる。
面と向かっては言えないけど、ありがとうございます。
----
なにかの気の迷いでtwitterに登録してみた。
でも、自分には使いこなせそうもない。
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そういや今朝、通勤途中で旅行者らしい金髪の人たちを見た。
新橋駅で2組。どちらも男女のカップル。
いっぽうの組の男のほうの人が、地下構内をニコニコしながら歩いていたので、
視線の先を追ってみた。でも、なにもないんだよね。
ほの暗いコーヒー色の地下の道を、たまに日本人の黒髪が横切るぐらいで。
なにをあんなにニコニコしてたんだろうな……。
----
ぼくはネガティブコメントとポジティブコメントの間に有意な違いはないと考えている。
ネガティブコメントを言いたくなるときの人間の心象と、ポジティブなコメントを
言いたくなるときの人間の心象はどちらもまぁ、同じだと思うから。
ネガティブコメントってこんな感じ? - 深く考えないで捨てるように書く
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20071001/1191210457
----
群れの中でどれだけ有利な地位を確保するか、それが我々猿族の個体にとっての至上命題だ。
面と向かっては言えないけど、ありがとうございます。
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なにかの気の迷いでtwitterに登録してみた。
でも、自分には使いこなせそうもない。
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そういや今朝、通勤途中で旅行者らしい金髪の人たちを見た。
新橋駅で2組。どちらも男女のカップル。
いっぽうの組の男のほうの人が、地下構内をニコニコしながら歩いていたので、
視線の先を追ってみた。でも、なにもないんだよね。
ほの暗いコーヒー色の地下の道を、たまに日本人の黒髪が横切るぐらいで。
なにをあんなにニコニコしてたんだろうな……。
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ぼくはネガティブコメントとポジティブコメントの間に有意な違いはないと考えている。
ネガティブコメントを言いたくなるときの人間の心象と、ポジティブなコメントを
言いたくなるときの人間の心象はどちらもまぁ、同じだと思うから。
ネガティブコメントってこんな感じ? - 深く考えないで捨てるように書く
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20071001/1191210457
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群れの中でどれだけ有利な地位を確保するか、それが我々猿族の個体にとっての至上命題だ。
2007-10-23
# 日々
大きな世界を守る、きっと頭のおかしい人たちについて - はてブついでに覚書。
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20071022/1193064307
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2007年 10月 (0)。
http://www.unixuser.org/~euske/offline/memo/2007/a0.html#211156
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もしいま目の前で溺れている人や死にそうな人を見たら、ぼくは苦しく感じるだろう。なんとか助けたくなったり、一緒に涙を流すことさえするかもしれない。でも違うんだ。
いまこの瞬間も、世界中でたくさんの命が失われているけど、彼らが苦しんだり死んでしまうことについて、ぼくはさみしいとか悲しいとは思わない。それはどうして?
要するにこういうこと。人が死んだり苦しんだりしているのを見て「悲しい」と感じる人は、いっぽうで地球の裏側にある人や動物やキノコやミトコンドリアが死ぬのを知っているのに何とも感じない。それはどうしてなの?と。
----
安西先生、消したとされているケータイ画像が見たいです……。
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20071022/1193064307
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2007年 10月 (0)。
http://www.unixuser.org/~euske/offline/memo/2007/a0.html#211156
GPL などのコピーレフトがウザいと思うこと。コピーレフトがやっているのは、要するに「モラルの押し付け」である。自分はこうやってる (そしてそれが正しいと思っている) んだから、あんたもこうやんなさい、というわけだ。そしてこの背後にあるのは RMS の根本的な人間不信、あるいは「規則によって個人のモラルを規定しよう」という思想である。
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もしいま目の前で溺れている人や死にそうな人を見たら、ぼくは苦しく感じるだろう。なんとか助けたくなったり、一緒に涙を流すことさえするかもしれない。でも違うんだ。
いまこの瞬間も、世界中でたくさんの命が失われているけど、彼らが苦しんだり死んでしまうことについて、ぼくはさみしいとか悲しいとは思わない。それはどうして?
要するにこういうこと。人が死んだり苦しんだりしているのを見て「悲しい」と感じる人は、いっぽうで地球の裏側にある人や動物やキノコやミトコンドリアが死ぬのを知っているのに何とも感じない。それはどうしてなの?と。
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安西先生、消したとされているケータイ画像が見たいです……。
2007-10-13
# 「お前に何が分かるのか?」問題
昨日書いた文章についてだけど。あれを読んだ人はどう感じるのだろうか。いろいろな感じ方があるとは思うけど、1つあるのはこういうやつだと思う。
「お前に何が分かるのか?」
実際に体験したことのないお前に、当事者の気持ちが分かるの? 当事者を助けることができるの?って。
そう言いたい気持ちは分かる。そして、自分だってそう思うときはよくある。自分の悩みや苦労を告白したとき、「わかるわかる」とか、「そういうときはこうしたらいいんだよ」とか言う人がいる。
そういうとき、「何が分かるんだよ」と思ってしまうこともある。でも、相手によっては逆のことを感じるときもあってね。何が違うんだろう、と。それをずっと考えてきた。
それで、1つの結論に達したの。結局のところの違いは、「目の前にいるこの人は、ぼくのことを本当に助けてくれようとしてくれている人なのか、ぼくと一緒に泣いてくれる人なのか」ってこと。
目の前にいる人は、本当に自分の味方なのか。本当に自分のことを大事に思ってくれているのか。ぼくにとって、それを見極めることはすごく重要だって気付いた。そして、それを見極めようと頑張っているうちに、また新しいことに気付いた。
世の中のほとんどの人は、ぼくのことなんてどうだっていいと思っている。しかも、そう思っているにもかかわらず、表面上だけは「分かる」とか「こうすれば助かるよ」とか言ってくる。
たとえば川で溺れている人がいるとする。そのとき、いったい何人の人が、実際に川に飛び込んで助けてくれるだろう。ねぇ、あなたが川で溺れたとして、誰が助けてくれる思う? 川に飛び込んで人を助けるというのは、危険に身をさらすことだ。自分の命まで、生死の線すれすれにまで持っていくことだ。それができる人、自分のためにそれをしてくれる人。(逆に、自分はいったい誰のためなら川に飛び込めるだろうか、とも)
岸の上から心配して声をかけてくれる人はたくさんいる。でも、違うんだ。実際彼らのほとんどは、川に飛び込んでまで自分を助けてくれない。耳障りのいい言葉を投げかけたり、「人が川で溺れないよう柵が必要だ」とか言う人はいる。でも、目の前にいる人に対して、自分の身を危険にさらしてまで助けようとしてくれる人は、かなり少ない。
これは、いじめの構図にもあてはまる。「いじめられている子の味方をしたら自分もいじめられるかもしれない」って、みんないじめる子の側にまわるか遠巻きに眺めるばかり。戦争もそう。教師と教員室の関係もそうだし、学校と社会の関係もそう。だと感じてる。そのぐるぐるした輪の中から、抜けだしたいとぼくは思ってる。
「お前に何が分かるのか?」
実際に体験したことのないお前に、当事者の気持ちが分かるの? 当事者を助けることができるの?って。
そう言いたい気持ちは分かる。そして、自分だってそう思うときはよくある。自分の悩みや苦労を告白したとき、「わかるわかる」とか、「そういうときはこうしたらいいんだよ」とか言う人がいる。
そういうとき、「何が分かるんだよ」と思ってしまうこともある。でも、相手によっては逆のことを感じるときもあってね。何が違うんだろう、と。それをずっと考えてきた。
それで、1つの結論に達したの。結局のところの違いは、「目の前にいるこの人は、ぼくのことを本当に助けてくれようとしてくれている人なのか、ぼくと一緒に泣いてくれる人なのか」ってこと。
目の前にいる人は、本当に自分の味方なのか。本当に自分のことを大事に思ってくれているのか。ぼくにとって、それを見極めることはすごく重要だって気付いた。そして、それを見極めようと頑張っているうちに、また新しいことに気付いた。
世の中のほとんどの人は、ぼくのことなんてどうだっていいと思っている。しかも、そう思っているにもかかわらず、表面上だけは「分かる」とか「こうすれば助かるよ」とか言ってくる。
たとえば川で溺れている人がいるとする。そのとき、いったい何人の人が、実際に川に飛び込んで助けてくれるだろう。ねぇ、あなたが川で溺れたとして、誰が助けてくれる思う? 川に飛び込んで人を助けるというのは、危険に身をさらすことだ。自分の命まで、生死の線すれすれにまで持っていくことだ。それができる人、自分のためにそれをしてくれる人。(逆に、自分はいったい誰のためなら川に飛び込めるだろうか、とも)
岸の上から心配して声をかけてくれる人はたくさんいる。でも、違うんだ。実際彼らのほとんどは、川に飛び込んでまで自分を助けてくれない。耳障りのいい言葉を投げかけたり、「人が川で溺れないよう柵が必要だ」とか言う人はいる。でも、目の前にいる人に対して、自分の身を危険にさらしてまで助けようとしてくれる人は、かなり少ない。
これは、いじめの構図にもあてはまる。「いじめられている子の味方をしたら自分もいじめられるかもしれない」って、みんないじめる子の側にまわるか遠巻きに眺めるばかり。戦争もそう。教師と教員室の関係もそうだし、学校と社会の関係もそう。だと感じてる。そのぐるぐるした輪の中から、抜けだしたいとぼくは思ってる。