メッセージ。 - diary

2007-10-05

# 狂気と近代

はてブついでに覚書。 - 思考の用語辞典
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20070930/1191166037 
 知ってる?かつて狂気は神聖だった。すくなくともプラトンのころ、狂気は両義的なものだったんだ。狂気は理性をうしなった人間の失墜したすがたではある。でも神的なものとの通路でもあった。だから神的な理性というとくべつな地位をみとめられていた。プラトンにとって詩人は、常人にあたえられない通路をつうじて神と交流する者で、それじたい一種の狂気にちかい存在だったんだ。その後ながらく中世まで、狂うことの両義はたもたれていたのに、近代のはじまりにいったいなにが起きたのだろう。そこで人間はぐらりと理性の側にかたむく。
 
 p.157 狂気 foile, alie'nation, Wahsinn

へぇ。こういう歴史は知らなかった。狂気についての感覚は、近代以前の人に共感するなぁ。近代ってやっぱりおかしいような気がする。言うならば、近代人は狂ってる。

それはそれとして独り言。ぼくは、こういう本を読むのは好きじゃないんだよなー。というのも、こういう本を読むのはコミュニケーションをするためにはよいけど、コミュニケーションではない何かをしたい人には役立たないから。

巨人の肩に乗ったり、すでに発見された概念を知ることは、大きな価値があると認める。でもそれが、それこそが自分の問題を解決するのか?と考えると、ぼくの場合は違う。自分の求めていたまさに最後の答が本に書かれているのを発見したとしても、ぼく自身はきっと救われない。

救われないというか、そこで終わらない。そのことについて誰かと話しても話しても渇きはいえない。だから、本を読もうと読むまいと、自分にとっては同じことだ。自分の考えなど陳腐なものであることは分かっている。だけど、だからといってぼくはそれを捨てない。語ることが1つもなくなったって、「語ることがない」と言う。

(一応念のため、本を読むことに価値がないという意味ではないですよ。)
2007-10-05 10:48:54 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# 日々

YouTube - 初音ミクに はじめてのチュウ を歌わせてみた
http://www.youtube.com/watch?v=knX8puDVn_w

これ。たしかに可愛いなぁ……。

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深く考えないで捨てるように書く - 違う人間≠敵対する人間
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20071003/1191381908

なんとなく好きな感じだな……。

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なんか、自分の書いた文章を見てると迷宮にはまりこむ。
この文章で、いったい自分が何を言いたいのか分からなくなるし、
相手も分からないだろうなって。

そう思いながらテキストを眺めてると、言葉が分解されて、
まるでじーっと「ぬ」と「ね」ってどう違うんだっけ?と
見つめたときみたいに気が遠くなる感じがする。

いかにも自分の書いたものはフワフワして、つかみどころがなくて。
でもちょっと待てよ。相手の人の書いたものはどうなんだっけ?と
読み返してみると、それはそれで分からなくなってくる。

楽しい気持ちで書かれたものなのか、悲しい気持ちで書かれたものなのか、
それだけでも分かればいいのに。
しょうがないので、意味も分からずとにかく送信ボタンを押す。
2007-10-05 08:00:35 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-10-04

# たまには流行にのって……

YouTube - 初音ミクに古畑任三郎のテーマ曲をアカペラで歌ってもらいました。
http://www.youtube.com/watch?v=ctn9y5Vv-4o&mode=related&search=

これすごかった。いい。


あとこれ。

YouTube - 初音ミク3パートで般若心経木魚付き x4,669
http://www.youtube.com/watch?v=ipZ6S0NmTyk&mode=related&search=

これを聞いてみて思った。40年ぐらい経ってたとき言うことになるのかなぁ、と。「コンピュータがお経を唱えるのを聞いたのは、あのときがはじめてじゃった」って。
2007-10-04 01:05:23 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-10-03

# 魔女狩りについて

魔女狩りについて、ふじさわが得ている感触は、次のとおり。

魔女狩りは過去に存在した奇妙で特殊な事件ではない。それは現代でも(いままさにこの瞬間も)行われている。

たとえば、「ホテルルワンダ」という映画で語られた同一民族どうしの大虐殺もそうだし、毎日テレビで放送されているワイドショーもそう。不二家やライブドアを叩いて知識人でございって顔しているニュース番組もそうだし、第二次世界大戦へと走った日本人たちもそう。いじめという現象もそう。

だから別に、はてなが特殊なわけではない。テレビが特殊なわけでもない。日本人や男や女が特殊で愚かなわけでもない。ガイジンさんやアメリカ人や、帝国主義者が特殊で愚かなわけでもない。人間というのが、弱いからこうなっている。

人間というのは、どこかに悪の根源があると考えてしまう。銀の弾丸が存在すると考えてしまう。暴れん坊将軍やスーパーマンを見て快感を刺激されてしまう。自分が正義だと考えてしまう。自分の罪から目をそらしてしまう。人間は動物とは違うと考えてしまう。人殺しは悪いことだと考えてしまう(「人殺しは悪い」という価値観は、裏を返せば「人でなければ殺していい」ということだ)。正義や真理がどこかに存在すると考えてしまう。我思う故に我ありと考えてしまう。それらは、人間というものが弱いからだ。

だから、魔女狩りという概念は、もっと普通に使われていいと思う。心と同じぐらい、空気と同じぐらい、友達と同じぐらい、ごはんと同じぐらい、イノベーションと同じぐらい、貧乏父さんと同じぐらい、コロンブスの卵と同じぐらい、青い鳥と同じぐらい、普遍的な概念ではないかと思っている。
2007-10-03 23:51:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 幻想世間

赤の女王とお茶を - 2007-09-28
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20070928#p1
 「村の掟」・「故郷の土」・「会社のため」・「市場*1」・「Web2.0」・「公」
 
 結局、幻想世間は田舎のみならず、日本に遍在しているのです。

ふむふむ。これはまったく同意なんだけど。同意するからこそ、

 「生活世間」は(中略)今後の日本で一層重要になってくる

え? 自己矛盾じゃね? 「今後の日本」って、まさしく「幻想世間」でしょ?

 「大いなるもの」を騙って人や世の中を動かそうとする田吾作さん達には早めに御退場願いましょう。それこそが真の集団知システムを作動させる大前提ですから。

「集団知システムを作動させる」ことが善だという考え(もしそういう考えがあるのなら)も「幻想世間」で「大いなるもの」のような気が。

 個人の心の中に「大いなるもの」を持つのは結構ですが、それを集団の原理にしてはならないのです。

これ(↑。「してはならない」という言説)自体が「大いなるもの」ですよね……。

や、まぁ語ろうとするもの(対象や目的など)によっては、そういう部分を捨象するやり方ももありだと思うし、また自己破壊的表現方法の可能性があるので、読み違えているかもしれません。
2007-10-03 09:02:08 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-10-02

# 日常と芸術についての補足

芸術ってなんだろうと一時期考えたことがあって、まだあまり煮詰まっていないような気がするけど、現時点で中間的に仮説のようなものを置いている。それが、「日常は芸術」っていう考えなんだけど。

ここで言ってる芸術って、なんだろなぁ。まぁ、スタート地点は全然難しい感じではなくって、たとえば映画とか、小説とか、昔話とか、まぁ漫画も含む「作品」的なもの。で、これらに共通するものって何かなぁとか考えていった。

その結果、1つそれらしきものを見つけたのは、「それらは非日常を描いている」というもの。映画も小説も漫画もそうだけど、物語的なものは、まぁおおむね起承転結がある。つまり思いもかけない事件が起こるのだ。逆にいうと、なにも事件が起こらないような作品は、ほとんどない。で、事件というのは非日常なんだな。

だから、1つの着地点として非日常と芸術はなにか関係がある気がする、と考えた。とりあえず、ここまでよしとする。

次に、音楽とか絵画には事件ってあるの?と考えてみる。必ずしもないような気はする。でも、「非日常か?」と考えたら、実は音楽や絵画は非日常そのものだ。道を歩いているときや、朝起きたとき、青空の下や川のそばの木陰、そういったところに音楽も絵画もない。それらは、日常ではないところに存在してる。

あ、駅。とりあえずここまで。


2007-10-02 22:39:28 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ヌーディストの追記

作家が書いた日記形式のエッセイがあって、それへのコメントという形で読んだ言葉が印象に残ってる。

その日記はあまりに赤裸々なことが書かれていたらしいのだけど、評者はそれを指してこう喝破した。「そこまで書いていいの!?ということを書いてこそ物書きである」と。

ぼくはこの意見に同意できるし、どうせなにかを書くなら、そこまで書いたほうがハッピーだと思う。

というのも、そういう領域のものが芸術・創作であり、物書きというのはシャーマンだと思うから。まわりの人とまぐわることが、シャーマニズムの本質であるような気がしている。シャーマニズムは、日常と日常をつなぐ非日常。そして日常はイコール芸術なんじゃないかなと。
2007-10-02 10:41:11 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-10-01

# 日記

日本語がへたすぎる。orz

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それにしても、世の中にはいい人がいるなぁ。
いい人すぎて泣けてくる。

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wHite_caKe - ブログが作るヌーディストビーチ
http://d.hatena.ne.jp/white_cake/20070927/1190866371

コメント欄も含めて興味深かった。

ちょっと思ったこと。個人的な感覚でいうと、シロイさんみたいに親に自分のブログを教えるほうが、よっぽど心の敷居があるんだよなぁ。なんつーか、コッパズカシイ。

ちなみに自分にかんしては、ネットの中と会社とは、一応地続きになっている。つまり、ぼくは会社でもふじさわだし、ネットでもそうだし、そのほかでもそう。(でも本当は、会社では漢字で名乗っているので、ちょっと緩衝地帯を作ってる)

ぼくの場合、会社の人に積極的にアドレスは教えないけど、わざわざ検索してくるなら見ることは拒まないという感じ。というか、ネットとそれ以外を分けようとしても、分けようがないんだよなぁ。なんというか、ぼくにとってネットというのは、世界と完全につながっているから。

ネットの中だけに何かを流そうという気にならないし、逆に非ネットの中だけに何かを流そうとも思わない。そしてまた、自分の中だけに、あるいは外だけに何かを流そうと思わない。まるでメビウスの輪のように、自分に働きかけることは世界に働きかけること。自分は世界で世界は自分。頑張ってもうまく隠せない感じ。

あ、えーと、どっちがいいとか悪いとかじゃなくてね。ただ、どうせなら女の子がいるほうが楽しいかなーとか。ヌーディストビーチ。うへへへへ。
2007-10-01 22:40:12 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ダイナミズム

なんと表現してよいか分からなくて、いつもは「ダイナミズム」と表現している感覚がある。直接的には、「動きが感じられる」とか、「大きさを実感させられる」とかそういう意味の言葉(で、あってると思う)。ただ、ぼくが感じる「ダイナミズム」は、ちょっと違う意味で使っているような、不安というか、なにかがあって。

ぼくがダイナミズムを感じるのは、たとえばいつもとちょっと違う電車に乗ったとき。横浜から東京に行くのに、少し路線が違うだけで、全然違う風景が目に飛び込んでくる。「いつもこのビルの前ってこんなに人が歩いてた?」とか、「いつも通ってる道ってこんなにたくさんの線路が這ってるんだ」とか。

ダイナミズムを感じる状況はいくつかあるんだけど、1つには建造物の大きさや古さを感じたときが挙げられる。「いつも下をくぐる橋脚は、こんなに大きかったんだなぁ」とか、「たくさんの人があのビルの入口を毎日通ってるんだなぁ」とか。

そういうときに、「ああ、ダイナミズムだなぁ」と思う。ただ、よく分からないのが、ダイナミズムってなに?ってことだ。どうしてぼくは、そういうものを見て、ダイナミズムを感じるのだろう。昔のことを思い出すと、自分はそういうものにダイナミズムを感じてはいなかったはずなんだけど。その昔、大きな橋脚も、人の流れも、空の青さも、自分にとってはただ風景だったような気がする。
2007-10-01 11:10:18 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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