メッセージ。 - diary

2019-12-25

# にゃー

たまに、「友達みたいな親子関係」というのを聞き、ぼく自身もそういうのがいいなと思うけど、もしかしたら、そうでない形の良さもあるのかもしれない。

「友達みたい」というのは、対等で分かりあえるということだと思うけど、その逆で、子にとって「分からない親」という形。とくに小さい子供にとって、大人というのは対等に理解しあうには難しい存在だ。どちらが正しいというのではなく、底まで深くは理解が届かないというような。

つまりそれは世界と同じだ。子供には、そして人間にも、「世界」というものの全貌は理解しにくい。それは、家の中から窓の外を毎日眺めるような、電車の車窓から外の世界を覗くような、ふと一人になって、世界の音と光に耳を傾けるような、そういった「分からなさ」。

もしかしたら、子供にとって親というのもそういうものでいいのかもしれない。子は親をだんだんに理解していく。何か分からない、奥深い存在として。分からないけれども、何か分かるような気がする存在として。
2019-12-25 21:00:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-12-24

# にゃー

天井からは工場の幕が垂れ下がり、たくさんの照明が構内を照らす。人の群れは右から左、前から後ろ、左から右、下から上へ。大きな群れ、小さな群れ、あっちから来てはこっちへ行き、照明は光条を引き、行き交うものたちの影かたちをゆがめる。ときおり遠くから轟音が響き、振動が心地よく世界を揺らし、行き交う群れの個体もまたときおり靴音を響かせる。あまねく響く波の音、海の中、光の下。
2019-12-24 09:24:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-12-17

# にゃー

たとえば、電車に乗っていると、たまに誰かが誰かに迷惑をかけられているシーンを見かける。いそいで電車から降りようとして人にぶつかるとか。ぶつけてしまった人が謝ればいいのだけど、謝らずに立ち去る人というのがたまにいる。

そういった場合、もし自分がぶつかられたほうだったら腹が立つ。頭に血がのぼって、はらわたが煮えくりかえるような感じがし、いっとき怒りが頭と心を支配して、さらに嫌な気持ちになる。

しかし一方で、もし自分がただそのシーンを見かけた傍観者だった場合、腹は立たない。「嫌な人がいるなぁ。ぶつかられた人は気の毒だなぁ」と思うけれども、それでおしまい。この違いはなんなんだろう。

どうして自分自身が被害を受けたときには腹が立ち、自分が傍観者だった場合には腹が立たないのか。

本来なら、どちらのケースでも腹が立っていいし、逆にどちらのケースでも腹が立たないという選択肢もありうる。
2019-12-17 09:24:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-12-04

# にゃー

なんとなく思ったこと。たとえば、フランス人にとって英語を学ぶことは、日本人にとって英語を学ぶことより簡単だろうと思われるが、どの程度簡単なんだろうか。簡単だと思われる理由としては、文法構造が似ていることや、ある程度似た文化的基盤を持つことが挙げられる。これらの背景により、フランス人は英語を話すとき、母語であるフランス語から英語へと言語を「トランスパイル」することができるのではないか。

一方で日本語や日本の文化は、フランス語やフランス文化に比べると英語圏との共通点が少ない。その結果、日本人が英語を話すとき、母語である日本語を「コンパイル」しなければならない。文化的背景の差から単語やイディオムを探すだけでも難易度が高くなるが、文章の構造を変換したり、まったく異なる言い回しを見つけてくる必要がある。つまり、単語のレベル、文法のレベル、文脈のレベルで適切なものを見つけなければならない。それをリアルタイムにやるのだ。

トランスパイルであればリアルタイムに実行できることでも、コンパイルとなると技術的難易度が跳ね上がる。日本人が英語を学ぶときに得なければいけない能力は、ここにあげたような単語、文法構造、文脈に応じた言い回し、さらには音素・音感とリズム、ある程度の社会的プロトコル(常識や期待される社会的類型)の「体得」となるだろう。
2019-12-04 09:16:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2019-11-18

# にゃー

先週末、横浜でよこはま運河チャレンジというイベントをやっていて、これ自体は横浜市内の水上交通をキーにしたイベントという感じだったんだけど、いろいろ面白かった。大岡川をボート?小さめの船で30分ほどクルーズしてくれたり、ライブや踊りのイベントをやっていたり。偉い人の挨拶もちょっとだけ聞いたのだけど、それさえも等身大な感じで飾りがなくて面白かった。

その中でも、日の出桟橋のところでやっていたライブ。なんていうバンドの人たちが歌っていたのか知らないのだけど、お客さんも含めて盛り上がっていた。バンドの人が「まるでライブみたい」って自分で言ってるのも面白かったけど、たしかに「まるでライブみたい」と感じた。

で、そのバンドの人が言っていたんだけど、「世界を救うために歌ってるんだ」って。「でも、本当はあんたが世界を救うんだ。おれも頑張るけどよー」みたいに歌っていて。「本当は自分も世界を救いたいって、心の中に少しでも願っている人たちに向けて歌ってるんだ」って言っていて。本当にそうだよなぁって思った。

こないだ読んだ松下幸之助さんの本でも、会社が上向いてきたころ「これからはただ目の前の製品を作るというのではなくて、社会の役に立ち世界の役に立つ仕事をするという目標を立てたら、なぜだか結果が変わってきた。同じことをしていても、より大きな目標に向かって自然と前進するようになった」というようなことが書いてあって、それと同じだと思った。

普段ぼくも、世の中の役に立つシステム、人の心を動かす計算機を作りたいと考えているけど、「世界を救う」というところまでは大きいことを言っていなかったし、「目標」といえるほど言葉にはしていなかった。だけど、本当はぼくだって、世界を救う仕事がしたいんだ。世界を救うために、何か少しでもできることがあると信じたいんだ。

これまで長年、プログラムを書いてきて、それなりになにかしらのシステムが作れるはずだと、思ってる。もっとやれるはずだと思ってる。これからはもっと前を向いて、世界を救うシステムを作っていきたい。
2019-11-18 09:24:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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