メッセージ。 - diary

2007-11-09

# 日々

いつも拝見しているある人のサイトで、「湖畔でこんな卵を見つけた」という文章が書かれていた。見ると薄黄色の少し縦長い卵が5つ、刈れた水草の上写真に収められていた。その人によると「アヒルの卵かもしれない」とのこと。

それを見て、ぼくはとてもびっくりした。だって思えば、ぼくは卵なんてスーパーで売っているのしか見たことがなかったのだから。あるいはテレビの動物番組で、ときたま動物の卵は紹介される。でも実際に、人が歩けるような身近な湖畔で、卵が生まれ、命が育てられているなんて、ぼくは今日まで知らなかった。本当に知らなかった。とても驚いたし、その卵を見られてうれしかった。

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ぼくはときどき、表現する人のことを、可愛らしいなぁと思う。年上であろうとも、性別がどうあろうとも、本当の心で裸になって表現する人は可愛らしい。それはまるで、言葉を覚えたての赤子を見ているよう。というかたぶん、そういう人の心は赤子のそれと同じなのだ。最も美しい表現や創造というのは、赤子の心からのみ生まれるのだ。

子供たちの言葉は、どんな哲学者の言葉よりも力強く、どんな詩人の言葉よりも透き通っている。誰が見ても分かるほどだ。そしてときに、大人になっても赤子の裸の心を持っている人がいる。ぼくは、裸の心で表現する人のことを、守らなければいけないと思う。彼らの心は、あまりにも無防備で傷付きやすくてやわらかい。

※ 赤子の裸の心は、本当は誰の心の中にもまだ残っていて、その灯は守られている。その灯を、強く輝かせている人と弱くなっている人がいるだけだ。でもその灯は、脆くてすぐに揺らいでしまう。多くの人は、大事にそれをかくまって見えないようにしている。大事に大事にかくまわれて、どこへ行ったか分からなくなってしまっている。
2007-11-09 21:50:46 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日々

この前の日曜日、散歩をしていたら公園を見つけた。芝生があって人も少ないので、おもむろに意味もなく走ってみることにした。意味もなく全力で走ったら足がもつれて転んだ。痛かった。左脇あたりを強打したのだろう。あれからええと、5日か。最初は寝返りが打てないほど痛かったが、もう今日はかなり痛みが引いて生活にも支障がなくなった。

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「我々はすでにこれだけ提供したのだから、次はあなたたちが返す番だ」。

この言葉がすべてを物語っている。前々からそうなのだろうと思っていたけど、実際にそうだったということだ。さて。

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最近思うのだけど、ソフトウェアを実装したことのない人が、要求仕様を出すのは難しいよなぁ。

彼らはどうも、自分が何を欲しいのか分かっていないし、そもそもおぼろげなそのイメージを表現することができないようだ(そういう習慣がないのだと思われる)。

なんとなく「SNSみたいなのを作って」という感じで発注をかけて、できあがってきたものを見て憤慨する。「全然違うじゃないか」と。でもそのとき、どこがどう違うのか、どこをどうしなければいけないのかは相手に伝えようとしない。「これは違う」ぐらいしか言わない。

言わなくても分かると思ってるかのようだ。ときに老夫婦は言葉なしで十分なコミュニケーションを成立させるけれども、日本の男はシステム開発においてもあれを期待しているのかもしれない。

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んー。大人か子供かは関係がないと思うっすんだよなー。
「大人にはできるけど子供にはできない」っていうことは、実際には世の中にはほとんどないから。

「3つ子の魂100まで」っていうけど。3才の子供はすでに大人と同じものを持っている。逆に大人でも3才の子供かと思うようなロジックを持っている人がいたりする。や、実際には3才の子供はすでに大人と同じだというのがぼくの意見なんだけど。

ぼくは、子供を救えるのは大人ではないと思う。強いて言えば「たまに人(大人)のなかには子供を救える人がいる」というぐらいか。でもその「たまにいる人」の割合はかなり少なくって、現実的には全然足りない。子供をまず救えるのは、親だ。個々の子供のまさにその親がまず、子供を救うしかない。

そして子供にとって子供を救えるのは、友達であって自分である。そうするほかない。

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「見よ。これでまた1つ、私の仮説の正しが証明された」と言うならば、まさにその瞬間、蜘蛛の糸は切れる。
2007-11-09 10:45:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-08

# 日本における組織と個人

一面において。
日本では、「組織(社会)は悪だ」ということになっている。
組織(社会)は「支配者」であり「特権階級」であり「収奪者」であるということになっている。

だから個人は、組織(社会)に対して攻撃してもよいしちょっとぐらい何かをしてもよいと解釈されうる一時がある。
それは個人の、組織(社会)に対する被差別意識である。

新聞もメディアも、「組織(社会)は悪だ」と書きたてる。
個人もそれに同調する。

また逆に言えば、日本では個人が個人を攻撃することが禁忌される。
攻撃はつねに集団(社会)を動員して行われる。

日本においては、「攻撃」自体が絶対的悪なのだろう。
「みんな仲良くしましょう」という言説には反論が許されない。


日本では、個人と社会が「絶対的敵対関係」と認められ差別関係が築かれたため、
他国にみられるような紛争や宗教戦争が回避される傾向にあるという
仮説もあげられるかもしれない。

そういう意味では、国家というのは宗教的装置なのだろう。
2007-11-08 09:14:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-07

# Gauche 0.8.12のZaurus用パッケージを作りました

Gauche 0.8.12が出ていたのに気付いていませんですた。
Zaurus用のパッケージを作って置いときます。コンパイル時には、--enable-multibyte=eucjpしました。また、今回からdbm.gdbmなどを使えるようにしました。(gdbmを使いたいなら別途libgdbmをインストールする必要あり)

http://pikapika.to/~yf/download/gauche_0.8.12-1_arm.ipk
2007-11-07 07:57:25 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-05

# メモ

2007-11-05 10:27:17 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-11-02

# 熟語の能力

熟語というのは、話し言葉であまり使わないので、好きじゃない面がある。

たとえば「先日」という言葉は、普段しゃべるときには使わない。それはしゃちほこばった言葉であって、心の中にあるものをストレートに表現したいときには、適切な感じがしないから。

心の中にあるものをストレートに表現したいときには、できれば普段使っている言葉をそのまま使いたい。普段は使いもしない言葉や、自分自身が読めないような漢字、横文字、俗語、構文。そういったものを使うとうまく表現できないような気がする(人にもよると思われる)。

ところが、文章を書いていると、普段使いの言葉ではどうも表現能力が足りていないと感じるようなことがある。

たとえば「先日」という言葉は、ぼくの普段使いの言葉でいうと「このあいだ(こないだ)」ということになるのだけど。でも「このあいだ」というのは、活字になっているのを読むと、どうも心にすっと入ってこないようなところがある。

理由を考えてみると、1つには、「このあいだ」という言葉は、「この」という言葉と「あいだ(間)」という言葉の組み合わせのような気がしてしまうというのがあげられる。「この」ってどれを指すんだ?とか「あいだ(間)」ってどれくらいだろう?とか、ニュアンスを解釈する余地が大きくなってしまっているというか。

「この」という文字を読むと、以前に出てきた何かとのかかりうけが一瞬頭に浮かんでしまって、余計に「あいだ(間)」とのあいだで意味が分断されやすいのかもしれない。しかし、かといって「こないだ」という言葉(音)で代用すると、うまく目に入らないように感じられる。「こないだ」という日本語はないような気がするというか、字面として見慣れないので瞬時に頭に入ってこないというか。音や意味としては好きなんだけどねぇ。

そういう問題を考えていると、逆に「先日」という言葉は書き言葉としては能力が高いなぁという風に感じる。「先日」というのはよく見る文字ですっと頭に入ってくるし、単体で使って意味がはっきりしている。「このあいだ」に感じるような後に尾を引く感じがないというか。

話が飛ぶかもしれないけど、普段文章を書くとき、ぼくは普段使いの言葉を使いたい。そのほうが、自分の表現したいものをうまく表現できる気がするし、読み手が知らない単語や受け容れにくい言葉を使わないほうが、うまく伝わるような気がするから。

だから、たとえば熟語や横文字の単語はできるだけ使わないで表現したいと思っている。でも、上に書いたようにひとことで表現できる単語を、「普段使いじゃないからとか、知らない人がいるかもしれないから」という理由で平易な書き方に開くことで、逆に意味があいまいになったりニュアンスが伝わらなかったりすることもあるように思う。

その意味では、横文字の言葉というのはまさに熟語と同じ使い勝手と表現能力がある。横文字の言葉や、まだ生まれて間もないような言葉もあまり使いたくないけど、でも場合によっては使うほうが適切なケースもあるのだなぁなどと考えた。
2007-11-02 06:21:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 女にとっての「いい男」

先日テレビを見ていたら、ある会社の女性の社長がこんなことを言っていて鋭いなぁと思った。

「女にとって『いい男』ってのは、とにかく話を聞いてくれる人ですよ。アドバイスはいらない。アドバイスされるとむかつくから」。

こんな風にエッセンスを抜き出して、身も蓋もないことを言えるのは賢い人だ。自分のなかにあるものを偽らずに取り出せるのは、ストレートな感性の持ち主ということ。

しかもこの場合テレビで放送されるもの(どこかのカンファレンスでのパネルディスカッションでの一幕を抜き出したもの?)だったので、女性社長としてある一定の仕事をこなしていたように見受けられた。

上記のような発言では、「女性を共感させられる」という女性(社内)に対してのメッセージ性と、「自分の強さ(女らしさと男っぽさ)を見せつけられる」という市場(男社会)に対してのメッセージ性を端的に演出できていたから。女性社長としてなかなかの仕事だと感じた。


それはそれとして。それが、女にとっての「いい男」だというのは理解できるし、ぼく自身は必要に応じて女の人の話はとりあえず聞くことが多い。「女の人ってのは『喋りたい生き物』なんだな」と思うようなところがあるから。

でもときに、「聞くだけ」というのはあえてやらないこともある。女の人の前で「いい男」でいるだけなのは、女の人にとって気分がよいだろうけど、その実気分がよいだけで女の人をダメにするところがある気がするから。

なんていうか、この場合の女にとっての「いい男」というのは、もっといえば「都合のいい男」ってことだ(かもしれない)。たとえば逆に、「男にとって(都合の)いい男というのは、とにかくすぐ脱いでくれる人のことですよ」とか言われたらどうだろう。

女の人は、「そりゃあそうかもしれないけど。でも脱いであげない」と思うんじゃないだろうか。それに、脱いであげることが、男にとってよいことだと考えるのが妥当だとは思えない。

それは単に「都合の良い女(や男や状況)」というだけであって、でも実際には世の中都合の良いことばかりじゃない。短期的には都合のいい女(や男や状況)は「良い」といえるかもしれない。一方で長期的には、「都合が悪い状況でなにができるか」というスキルこそが重要だ。

都合がよすぎてもダメだし、都合が悪すぎてもダメというか。だからたとえば、ぼくは女の人の話は適度に「聞かない」ようにしている。アドバイスもするし対話もする。それらをストップさせようと思えばできるけど、そうはしないという方針でいる(少なくとも最近は)。
2007-11-02 05:41:22 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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