メッセージ。 - diary

2007-11-01

# 営業という仕事

先日ものの本を読んでいたところ、近年では山本勘助という人物は存在しなかったのではないかという説が有力だったという話が書いてあった。その本の続きを読むと、ところが最近、武田信玄公のしたためた書状が発見され、上記の説が覆されたとのこと。

なんでもその書状は、武田信玄公が支配外の武将との交渉にあたって書いたものだったらしい。当時、そのような国家間の書状は、武将の腹心にあたる者が手渡しで届ける役目を負っており、まさにその任を与えられたのが勘助だったというのだ。

その本では、国家間での交渉にあたって書状を届けるという役目は当時重くとらえられていたと説明されている。というのも、書状を読んだ相手方がどのような反応を示すのか(条件を出してくるのかなど)によって、使者は臨機応変に判断をしすぐさま返事をしなければならなかったからだという。

当然、判断をくだす使者は主の考えをよく理解しておらねばならず、また咄嗟の機転で事態を有利に運べる才能を持ち合わせていなければならなかったとの由。

それを読んでなるほどなぁと思った。一方で現代のビジネスはちょっと変なような気がした。現代のビジネスにおいては、商品企画・製造部門が武将で営業部門が使者のように思われる。ところが営業部門は、商品の販売において腹心といえるほど商品製造部門と連絡を密にしているだろうか。むしろ逆のような気がする。たとえば営業の人材を、製造部門の中から選ぶというような組織はどうなんだろうか。
2007-11-01 22:11:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-10-31

# プログラムを書く難しさ

今月(?)起きた改札機/Suicaの障害だけど。あれって「大トラブル」とは到底思えない。
だって、あれが大トラブルだとしたら、阪神大震災とかはなにトラブルなの?

あんなのを大トラブルだなんて言うのはリスク管理に対するスケールが小さすぎるんじゃないかなぁ。
3時間やそこらで復旧したのだし、鉄道システムとして輸送機能自体はほぼ問題ないレベルで稼働してたように思う。
だとしたら、なにが問題なのか。

ソフトウェアやシステムに不具合があるのは当然なのだから、なにかが起こったら運用でカバーをする。
そして今回は、ちゃんと運用でカバーできていたんじゃないかなぁ。

やったことない人には分からなくても仕方ないけど、プログラミングってのは難しいんですよ。
たとえば文章でいうと、原稿用紙何千枚を文字で埋めて、一文字でも誤字脱字・文法ミスがあってはいけないというレベル。
しかもそれを、わけの分からん言語で書いて、わけの分からん相手に読ませなきゃいけない。
1つでも行き違いがあったらバグで、不具合に結びつくかもしれない。
大変なんですよ。
2007-10-31 11:02:30 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-10-29

# コピーライトについて

バカが征く
http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=20071027
 何回か書いてるけど、下のcopyright noticeは、半分
 シャレで、半分本気なのね。要は、ここに書いてることは
 全部public domainだっていうこと。ここ以外でも、
 jitu.orgで公開してるのは基本的にはpublic domain。
 移植とかの場合は、オリジナルのライセンスを引き継いで
 る場合もあるんだけど。そういうのは明示してあるはず。
 
 (中略)
 
 でも、そのときからpublic domainであることは謳ってた
 わけで。だから、何かあったら引用するなり、丸ごと
 引っぱるなりしてくださいっていう方針だったのね。

うおーそうだったのか! バカ往くさんすごい!
たしかに、コピーライトが「Copyright (c) 1905 tko at jitu.org」って
なってて変だなって思ってたんだけど、パブリックドメインだったとは。
すばらしい。さすがだ。面白い。

ちなみにうちは(笑)、コピーライトを掲示してないんだけど
なぜかというと「そんなものを掲示する文化ではありません」というスタンスだから。

ここの文章を切り貼りするなり改変するなり引用するなりは「完全に」自由。
そちらが「そうしよう」と思ったすべての事象について(そうしようと思っていないすべての事象についても)、こちらは何も干渉しません(あるいはすべて任せます)。

いまの時点では。つーか何も考えてない。未来は予測不能で情報の価値も測定不能。
情報が引用されたり改変されたりすることが、どれだけどのような価値を
生み出すか(破壊するか)も予測不能だと考えてる。まったくコントローラブルで
ないものをコントロールしようとするなんて、おいらには馬鹿げて見える。
そんな無駄なことには時間は使わない。面白ければそれでいい。

まぁ、コメントをいただいたり、引用している部分はどうだっていう話はあるんだけどね。
でも、知らん。ここがそういう場所だってことは、コメント書く人は予想できるだろうし、
ここにコピーライトがないことは見れば分かる。

まぁ滅茶苦茶ではありますわな。はい。滅茶苦茶ですとも。
2007-10-29 07:51:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-10-27

# 日々

承認2.0 - はてブついでに覚書。
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20071026/1193417274

この人の感性は鋭いなぁ。でも鋭いだけじゃなくて、丸くて優しい。好きだ。

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まあ基本的なとこはココなんだけどね、って話。 - S嬢 はてな
http://d.hatena.ne.jp/satomies/20071027/p1#c
 > 自分が進む道を歩む。
 > 自分を信頼してくれる人を支えにする。
 > っつ〜ことに行き着くのね、結局は。 

そう! そうなんよ。
おいらが口を酸っぱくして言ってるのもこれなんだよなぁ。
外野からいろいろ言ってくる人の言葉は、
ポジティブなものであれネガティブなものであれ重く捉えない。
(逆に自分も軽々しくそっちにくちばしをはさまさない)
それよりも、身近にいる本当に大事な人を本当に大事にしなさいよと。

それにしても、satomieさんの書かれていることは
ほかにも共感できるのがいっぱいだ。

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2007-10-04 - みやきち日記
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20071004#1191464553
 『13歳からの論理ノート』(小野田博一、PHP研究所)という本を最近読みました。論理的に考えるためのポイントが明快に書かれており、たいへん役に立つ本だったのですが、特に印象深かったのは以下の部分。「日常的に見られる変な論理は、多くの場合、隠されている前提が変なのだ」という趣旨の話の一部分です。
 
 > 【例】
 > 「歩きタバコは不快である。歩きながらタバコを吸うことを禁止すべきだ」
 > 
 > これを省略なしの形にすると、次のようになります。
 > 
 > 「歩きながらタバコを吸っている人がいるのは、私には不快だ。私に不快なことは、すべて禁止すべきだ。したがって、歩きながらタバコを吸うことを禁止すべきだ」
 > 
 > このように省略なしにすると、ムチャクチャなことを述べていることが歴然となりますね。ところが、
 > 
 > 「歩きタバコは不快である。歩きながらタバコを吸うことを禁止すべきだ」
 > 
 > では必ずしも歴然ではありません。省略なし版のほうをムチャクチャと思い、省略版の方をムチャクチャと思わない人は、「省略」にごまかされているわけなのです。

ふぅむ、たしかに。これ、実際にやるのは難しいんだけど、そのへんはどうやって説明してるんだろう。ちょっと読んでみたいなぁ……。

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「やりたいこと」と「売れること」は対立しない。どちらかではなくどちらもやることにこそ頭を使ってほしい - ラノ漫—ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記—
http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20071026/1193403354
 「LEON」の創刊編集長として知られる岸田一郎氏は、著書「LEONの秘密と舞台裏」で次のように語っています。
 
 > 「オタク」なものになればなるほど、読者はどんどん減っていきます。もし、一部のマニアックな人たちから
 > 「今までこんな凄いものはなかった!」
 > といわれるほどの雑誌ができたとしても、それを理解して賛同してくれる読者の絶対数というのは、思った以上に少ないという場合がほとんどです。
 > 私の感覚では、作り手の「自己表現度」といったものが高いほど、読者はかえって少なくなる。雑誌とはおしなべて、そういうものなのです。

そうなんだよね。雑誌に限らずブログにも言えることだと思う。一時期、「アクセス数の多いブログが、面白くて価値があって偉いの?」という話題が盛り上がったけど、結局のところそれらの間には直接的な相関関係はないか、むしろ若干負の相関があるのだろう。

もうちょっと一般化して、科学的価値や芸術性などが高ければ高いほど、それを好んで理解・共感する人の数は少なくなるのだろうとぼくは考えている。でも、ちょっと待てよ。「科学的価値や芸術性が高い」というのはたぶん「普遍性が高い」ということで、多くの人に受け容れられるのが自然なような気がするか……。や、でもだからこそ、かな。多くの人は普遍性を身近には置かないで暮らしていたりする。普遍性よりもっと身近なものとして、国籍であるとか人間であるとか、男であるとか、モテであるとかなんとか職であるとかいうことにアイデンティファイされることを好む。だから、普遍性の高いものはそれほどニンゲンと相性が良いわけではない(とくに短いタイムスケールでは)という仮説。は言えそう、という感じだったか。

 最後に、福島正実氏が「未踏の時代」で語っている、「SFマガジン」創刊時の考えかたを引用して今回の締めに代えたいと思います。
 
 > もしSF雑誌を曲がりなりにも成功させようとおもうなら、まず第一に、SFファンを無視してかからなければならない。SFファンを読者対象としてあてにしてはならない。SFファンのための雑誌しかできないようなら、最初から出さない方がいい——ぼくは、こう考えた。

うーん。鋭いなぁ……。なんとなくは、おいらもこういう意見を持っていたけど、ここまで端的に、しかも公の文章として意見を述べられるというのはものすごい切れ味だ。あと、実際にこれを実践してビジネス的にも文芸的にも成り立たせたんだろうからすごい。

ええとまぁ結局は、これも雑誌に限らないんだよね。我々は、ユーザーが望むものを与えてはいけないというか。ユーザーが(作者ですら)望みさえしなかった望外のものを提供してこそだという気がする。アウトプットしたものが独り歩きしていくような、そういう作品・製品を作れたら最高だ。

もっと言えば、ぼくはこれは作品や製品やアウトプットに限らないかもしれないと考えている。つまり、自分というものが、自分の望みどおりに生きたり自分の考えたとおりの道を進んでいるのなら、それは自分にとって最も幸せな生き方ではないということ。自分らしく生きようとするなら、いずれ自分を捨てなければならないときがくるのではないか。不射の射というか。そういう生き方ができたらうれしい。
2007-10-27 22:54:24 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-10-26

# モラルをめぐって

http://www.unixuser.org/~euske/offline/memo/2007/a0.html#211156

ちょっと前に新山さんの文章を引用した。共感できるとかすごい発見だとか感じたからなんだけど、その後よく考えてみたら、RMSさん側にも言い分があるような気がした。

つまり、RMSさんは確かにモラルをルールで規定しようという方法論を採ってはいるものの、それを受け容れるかどうかは(ほぼ)完全に利用者に委ねられている。

だから、RMSさんはモラルを押し付けるというところまではいってない。ように思った。彼はたぶん、「これがいいと思う」と言っているにすぎなくて、「こうしろ」とまでは言っていない。

もちろん、ルール(だけ)で人を導けるのかとか、「これがモラルだ」とでも言うような強い主張があって、少なからず軋轢は感じるけど。

あと、これはあれだね。ジラールさんであったりガンジーさんだったりの問題かもしれない。RMSさんのやり方は、著作権というげんこつを振り上げた相手に対して、同じ著作権のげんこつで立ち向かうやり方だろう。そして、世の中には別のやり方があって。

たとえばガンジーさんなら著作権というげんこつ(暴力)に対して、暴力では立ち向かわなかっただろう。ジラールさんは、暴力をやめさせようとして暴力で抗するなら暴力はなくならないというようなことを言っている。
2007-10-26 22:47:16 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# なんとなく思い出したこと

昔、『ドラえもん』を読んでいて、なんともいえない引っかかりを感じた1コマがあった。

その回でドラえもんは、水を半固形化して粘土細工をできるようにする道具を出していた。

その道具を持って彼らは、公園に遊びに出かける。

のび太やしずかちゃん、スネ夫にジャイアン。いつもの面々は、公園の池の水を使って、めいめい舟を作った。

さぁできたぞ。進水だ。そのときのこと。

水のうえを順調に進むスネ夫は、前からしずかちゃんの舟がやってくるのを見つけた。

「やぁ、しずかちゃんの舟、かっこいいねぇ」(しずかちゃんの舟はスワンの形をしている)

「スネ夫さんの舟もすてきよ」

言葉を交わしあう子供たち。


このシーンにぼくは引っかかった。どうして彼らは、そのような言葉を口にしたのか。本来なら彼らは、逆の言葉を口にすべきじゃなかったか。

「やぁ、しずかちゃんの舟、すてきだねぇ」、「スネ夫さんの舟もかっこいいわ」

彼らのパーソナリティなら、当然こう言うはずだ。ところが作者は、ここを逆にした。

「なぜ逆にしたのだろうか?」という問題はぼくも解けていないのだけど、どうしてここの言葉に違和感を感じたのかは、その後十数年考えて分かってきた。

要するに彼らは、自分の価値観の外にまったく出ていない。

スネ夫にとっては「かっこいい」というのが価値なのだ。そしてその「かっこいい」という評価を、しずかちゃんという女性に投げて褒めたつもりになっている。

また、これを受けてしずかちゃんも「すてき」という評価をスネ夫に投げ返す。しかしわざとではない。意識下での思考をほとんど発生させずに、さらっと「すてきよ」と言い放つ。

そして舟はすれ違い、ゆき過ぎていく。
2007-10-26 10:42:23 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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