メッセージ。 - diary
2007-09-15
# もうちょい追記。ほとんど妄想と言いがかり
この議論はもう収束に向かってるんだろうけど、自分の中でひっかかるのでメモ。
Shiro
http://practical-scheme.net/wiliki/wiliki.cgi?Shiro
「それぞれの抽象化には、たしかに違いがあって、個々の抽象化のあいだでその能力(壁の厚み)には差がある。また、プログラミングにおいてはデジタル回路の抽象化の壁が、その下層とへだてる能力は非常に高く、抽象化が漏れるリスクは相対的にとても小さく抑えられている」という知見は、とても重要だと思う。Joelさんによる「漏れのある抽象化の法則」がホップだとすれば、shiroさんによる指摘はステップに足りるかもしれない。
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ただ、shiroさんの考えは高度すぎる。「漏れのある抽象化の法則」をしっかり理解しているからこそ、これだけの飛躍ができているはず。一方で、「漏れのある抽象化の法則」は、まだ世の中に(業界の中にさえ)浸透していない。せいぜい多くてプログラマ人口のうち10%ぐらいしか、ちゃんと理解していないと想像する。Googleで検索しても552件しかない。→ 漏れのある抽象化の法則 - Google 検索
この状況で、今回のプレイヤーたちが、それだけ高度な理論を共有できているのかなぁ? ぼくは、shi3zさんの能力を非常に高いと思ってるけど、でもこれだけの理論の鐘楼を、暗黙のうちに共有できてるんだろうか。そうは思えない。あと、このレベルを要求するのなら、「プロ」と呼べる人は業界の中で1割もいないように思う。逆に、技術力は高くてもそのほかが付いていかない人とかはどうなんだろう? プロと呼べるんだろうか。
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shiroさんが言うように、たしかにデジタル回路はうまく電子の海や量子の世界を抽象化していて、厚い抽象化の壁は下位層である電子や量子の世界からの漏れを許さない。でも本当に、デジタル回路の抽象化能力はそんなに「高い」のだろうか。
ぼくは理想的な計算は数学に非常に似たものになるだろうと思っているけど、現代の計算機はほとんど数学に似ていない。計算機におけるマシン語というプリミティブは、優秀な抽象化レイヤとは言えないかもしれないと考えてみよう。
現代のデジタル回路やマシン語というものは、計算を行うにはあまりにも貧弱と言えないだろうか。電子回路では、8ビットなどにアラインメントされたワード単位でしか計算できず、マシン語の「設計」は、ハードウェアの制約との辻褄合わせがほとんどだ(たぶん。よく知らないけど)。
「計算」を行う機械としての電子回路は、抽象化が漏れまくっていて、プログラマはいつもハードウェアのことを意識しながら計算式を設計しなければいけない。これって間違ってないか?
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バネでもランプでも論理回路は実現できるだろう。しかしそれで、現代の処理能力を持つ計算機を作ることはほとんど不可能だ。機械式の計算機でも論理回路を形成することはできる。でも、機械式ではロスが大きすぎて全然使いものにならなかった。その後、技術が発達して機械式から電子式に切り替わったことで、論理回路というのは抽象化の漏れをふさぎ、使いものになるレベルに達した。
つまり、論理回路の抽象化漏れをふさぎ、それを使いものにしたのはシリコン技術なのではないか。論理回路自体が抽象化の漏れをふさいだのではないという考え方。物性技術の進歩が抽象化の漏れをふさいだのだと。
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なんとなくだけど、高級言語は今後もしばらくは満足な抽象化を提供しないと思う。たぶん、それをなしとげるのもまた物性技術の進歩だ。現代のような非常に短いワード単位でしか計算できないプアな計算機では、数学のような計算にまでスケールしないように思われる。量子コンピュータが実現したら、またパラダイムが変わるのではないかと思うのだけど。
Shiro
http://practical-scheme.net/wiliki/wiliki.cgi?Shiro
私は高周波回路も量子力学も苦手だったし、数百MHzのバスクロックに乗るパルスの波形や数GHzのチップクロックの中を走る電子の雲がどうなってるかなんて考えたくも無いんだけれど、それらがデジタル回路の抽象化の壁を越えてくる確率と「高級言語」で書かれたプログラムのSEGVに出会う確率にはあまりに大きな差がある。
「それぞれの抽象化には、たしかに違いがあって、個々の抽象化のあいだでその能力(壁の厚み)には差がある。また、プログラミングにおいてはデジタル回路の抽象化の壁が、その下層とへだてる能力は非常に高く、抽象化が漏れるリスクは相対的にとても小さく抑えられている」という知見は、とても重要だと思う。Joelさんによる「漏れのある抽象化の法則」がホップだとすれば、shiroさんによる指摘はステップに足りるかもしれない。
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ただ、shiroさんの考えは高度すぎる。「漏れのある抽象化の法則」をしっかり理解しているからこそ、これだけの飛躍ができているはず。一方で、「漏れのある抽象化の法則」は、まだ世の中に(業界の中にさえ)浸透していない。せいぜい多くてプログラマ人口のうち10%ぐらいしか、ちゃんと理解していないと想像する。Googleで検索しても552件しかない。→ 漏れのある抽象化の法則 - Google 検索
この状況で、今回のプレイヤーたちが、それだけ高度な理論を共有できているのかなぁ? ぼくは、shi3zさんの能力を非常に高いと思ってるけど、でもこれだけの理論の鐘楼を、暗黙のうちに共有できてるんだろうか。そうは思えない。あと、このレベルを要求するのなら、「プロ」と呼べる人は業界の中で1割もいないように思う。逆に、技術力は高くてもそのほかが付いていかない人とかはどうなんだろう? プロと呼べるんだろうか。
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shiroさんが言うように、たしかにデジタル回路はうまく電子の海や量子の世界を抽象化していて、厚い抽象化の壁は下位層である電子や量子の世界からの漏れを許さない。でも本当に、デジタル回路の抽象化能力はそんなに「高い」のだろうか。
ぼくは理想的な計算は数学に非常に似たものになるだろうと思っているけど、現代の計算機はほとんど数学に似ていない。計算機におけるマシン語というプリミティブは、優秀な抽象化レイヤとは言えないかもしれないと考えてみよう。
現代のデジタル回路やマシン語というものは、計算を行うにはあまりにも貧弱と言えないだろうか。電子回路では、8ビットなどにアラインメントされたワード単位でしか計算できず、マシン語の「設計」は、ハードウェアの制約との辻褄合わせがほとんどだ(たぶん。よく知らないけど)。
「計算」を行う機械としての電子回路は、抽象化が漏れまくっていて、プログラマはいつもハードウェアのことを意識しながら計算式を設計しなければいけない。これって間違ってないか?
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バネでもランプでも論理回路は実現できるだろう。しかしそれで、現代の処理能力を持つ計算機を作ることはほとんど不可能だ。機械式の計算機でも論理回路を形成することはできる。でも、機械式ではロスが大きすぎて全然使いものにならなかった。その後、技術が発達して機械式から電子式に切り替わったことで、論理回路というのは抽象化の漏れをふさぎ、使いものになるレベルに達した。
つまり、論理回路の抽象化漏れをふさぎ、それを使いものにしたのはシリコン技術なのではないか。論理回路自体が抽象化の漏れをふさいだのではないという考え方。物性技術の進歩が抽象化の漏れをふさいだのだと。
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なんとなくだけど、高級言語は今後もしばらくは満足な抽象化を提供しないと思う。たぶん、それをなしとげるのもまた物性技術の進歩だ。現代のような非常に短いワード単位でしか計算できないプアな計算機では、数学のような計算にまでスケールしないように思われる。量子コンピュータが実現したら、またパラダイムが変わるのではないかと思うのだけど。
2007-09-14
# 「漏れのある抽象化の法則」追記
ちょっと追記してしまう。
ぼくは、「漏れのある抽象化の法則」には一定の価値があると思ってる。でも、だからといって「○○を知らなければ△△を知ったことにはならない」という考え方が良いとは思わない。むしろ嫌いだ。
だって、「○○を知らなければ」という考え方は、キリがないんだもの。アセンプリ言語を知らなければと言いはじめると、いや電子回路が先だとか、量子論のほうがもっととか、数学を理解しないととか、どんどんどんどん深追いすることになって、しかも終わりがない。
俯瞰して見てみよう。それぞれ皆が、自分の得意なものを持ち上げて「○○を知らなければ△△を知ったことにはならない」と言っている。まるで水辺で、お腹を膨らませて競争をしているカエルだ。
だからもう、競争はコリゴリだ。コリゴリなんだ。やめてくれ。
ただ、「漏れのある抽象化の法則」には一定の価値があると思うのだ。それは、ある道具やある知識を使っているとき、それがどういう原理で動いていて、なぜなのかを考えたりするのは、役に立ったり、面白い発見があったりするよということだ※。それだけで十分だ。
※ あと、もう1つあった。下へ下へと原理を追いかけてもキリがないのと同様に、どれだけ高度な抽象化レイヤを作っても、下のレイヤの影響をゼロにすることはできないということだ。
ぼくは、「漏れのある抽象化の法則」には一定の価値があると思ってる。でも、だからといって「○○を知らなければ△△を知ったことにはならない」という考え方が良いとは思わない。むしろ嫌いだ。
だって、「○○を知らなければ」という考え方は、キリがないんだもの。アセンプリ言語を知らなければと言いはじめると、いや電子回路が先だとか、量子論のほうがもっととか、数学を理解しないととか、どんどんどんどん深追いすることになって、しかも終わりがない。
俯瞰して見てみよう。それぞれ皆が、自分の得意なものを持ち上げて「○○を知らなければ△△を知ったことにはならない」と言っている。まるで水辺で、お腹を膨らませて競争をしているカエルだ。
だからもう、競争はコリゴリだ。コリゴリなんだ。やめてくれ。
ただ、「漏れのある抽象化の法則」には一定の価値があると思うのだ。それは、ある道具やある知識を使っているとき、それがどういう原理で動いていて、なぜなのかを考えたりするのは、役に立ったり、面白い発見があったりするよということだ※。それだけで十分だ。
※ あと、もう1つあった。下へ下へと原理を追いかけてもキリがないのと同様に、どれだけ高度な抽象化レイヤを作っても、下のレイヤの影響をゼロにすることはできないということだ。
# 「漏れのある抽象化の法則」、嫌いなこと、好きなこと
「アルゴリズムを知らない子ども達」の補足(?) - val it : α → α = fun
http://www.jmuk.org/diary/2007/09/13/0
一連の話を見てて思うのだけど、結局は「漏れのある抽象化の法則」(参照:Joel on Software)なんだよなぁ。「漏れのある抽象化の法則」という概念は、もっと世の中に知られていてよいと思う。それも「たぶんそれは正しい考え方だ」として。漏れのある抽象化の法則は、「銀の弾丸」に近い正しさを持っていると思うんだけどなぁ。
ただ、「漏れのある抽象化の法則」は分かりにくいとも思う。まず名前が分かりにくいし、「Joel on Software」を引用しても、どうもうまく説明できている感じがしないときがある。「分かる人には分かる」という感じが強い。なんかもうちょっと、生活に近いレベルで「漏れのある抽象化の法則」と同じことを説明している言葉や例ってないですかね?
あと、今回のような議論で紛糾しているのは、結局のところはここだと思う。
ここは、次のように(解釈なり表現なり、表現されていると考えるなり)したほうがいいんでないかな(shiroさんの言葉だけでなく、shi3zさんの言葉についても同様に)。
自分が好きな人には、「こうなってほしい。こう考えたほうがよいと理解してほしい」というのなら分かる。でも、自分が好きでもなんでもない相手にまで、自分の理想を理解してもらったり使ってもらったりする必要はない。これ、皮肉でもなんでもなくて、素直に、「そう考えたほうが、言っているほうも言葉を受けるほうも幸せだ」と思ってる。
だって、好きでもなんでもない人が、どのようになろうが関係ないじゃん。好きでもなんでもない人に対して「このようにあるべき。こうしろ」なんていわなければいけない、言いあわなければいけない世界は不幸だ。それぞれの人間は、それぞれの生き方を十分自由に選んでいい。絶対普遍的に「○○すべき」なんていえるような、明確なアフォリズムは存在しないのだから。(ヒント:どんなに優れた「○○すべき」も、抽象化が漏れる。そのとき「○○すべき」と言った人は責任取れますか? 取りたいですか?)
あと、もう書いてるけど、このように解釈するテクニックは、読み手のほうも持っていてほしいなぁと思う。つまり、「○○すべき」という言葉をどこかで見つけたら、こう考えてはどうかな? 「ああこの人は、自分の好きな相手(恋人とか友達とか家族とか)に向けて言ってるんだな。でも自分は彼の恋人でも友達でも家族でもないし、彼のことをそれほど好きなわけではない。だからその言葉を、自分の中に採用する必要はない」。
いいかい? ぼくはこう思う。自分の好きでもなんでもない人や何かが、何を言ってようが何をしてようが、関係ない。本当に、それは自分には(あなたには)関係がない。だから、何か気に入らない言葉や事物を見つけたとき、それがあなたの好きな人によって発せられたのでないなら、それを受け容れる必要もないし、ましてやそれに反発する必要もない。なぜか。
時間の無駄だから。そして大事なのは(あなたの(ぼくの))時間だ。気に入らないものを見つけたとき、それをやっつけて掃除することが価値になるケースもあるだろう。でも、実は世の中には、あなたの気に入らないものや嫌なことはいっぱいあるんだ。世界を探検して、それを全部見つけだして、全部排除するなんてことはできない。やるとしたらそれは一生をかける仕事になるし、一生が終わるときにも、まだまだ全然仕事が進んでいないことに気付かされて途方に暮れるだろう。
だからあなたは(ぼくは)、そんなことに時間を費してはいけない。嫌なこと、気に入らないことに目を向けて生きるのではなく、好きなこと、気に入ることに目を向けて生きたほうがいい。なぜか。……
http://www.jmuk.org/diary/2007/09/13/0
> で、ブラック・ボックスを組み合わせてやるのも楽ですし、本もいっぱい出ていますけど、そういうのは一応、ブラック・ボックスの中が判っている人が便利だから使うっていうのが正しいやり方であって、なんかわかんないけどとりあえず組み合わせればいいや、というふうにはなって欲しくないかな、と思います
一連の話を見てて思うのだけど、結局は「漏れのある抽象化の法則」(参照:Joel on Software)なんだよなぁ。「漏れのある抽象化の法則」という概念は、もっと世の中に知られていてよいと思う。それも「たぶんそれは正しい考え方だ」として。漏れのある抽象化の法則は、「銀の弾丸」に近い正しさを持っていると思うんだけどなぁ。
ただ、「漏れのある抽象化の法則」は分かりにくいとも思う。まず名前が分かりにくいし、「Joel on Software」を引用しても、どうもうまく説明できている感じがしないときがある。「分かる人には分かる」という感じが強い。なんかもうちょっと、生活に近いレベルで「漏れのある抽象化の法則」と同じことを説明している言葉や例ってないですかね?
あと、今回のような議論で紛糾しているのは、結局のところはここだと思う。
> なんかわかんないけどとりあえず組み合わせればいいや、というふうにはなって欲しくないかな、と思います
ここは、次のように(解釈なり表現なり、表現されていると考えるなり)したほうがいいんでないかな(shiroさんの言葉だけでなく、shi3zさんの言葉についても同様に)。
> なんかわかんないけどとりあえず組み合わせればいいや、というふうには(自分が好きな相手には)なって欲しくないかな、と思います
自分が好きな人には、「こうなってほしい。こう考えたほうがよいと理解してほしい」というのなら分かる。でも、自分が好きでもなんでもない相手にまで、自分の理想を理解してもらったり使ってもらったりする必要はない。これ、皮肉でもなんでもなくて、素直に、「そう考えたほうが、言っているほうも言葉を受けるほうも幸せだ」と思ってる。
だって、好きでもなんでもない人が、どのようになろうが関係ないじゃん。好きでもなんでもない人に対して「このようにあるべき。こうしろ」なんていわなければいけない、言いあわなければいけない世界は不幸だ。それぞれの人間は、それぞれの生き方を十分自由に選んでいい。絶対普遍的に「○○すべき」なんていえるような、明確なアフォリズムは存在しないのだから。(ヒント:どんなに優れた「○○すべき」も、抽象化が漏れる。そのとき「○○すべき」と言った人は責任取れますか? 取りたいですか?)
あと、もう書いてるけど、このように解釈するテクニックは、読み手のほうも持っていてほしいなぁと思う。つまり、「○○すべき」という言葉をどこかで見つけたら、こう考えてはどうかな? 「ああこの人は、自分の好きな相手(恋人とか友達とか家族とか)に向けて言ってるんだな。でも自分は彼の恋人でも友達でも家族でもないし、彼のことをそれほど好きなわけではない。だからその言葉を、自分の中に採用する必要はない」。
いいかい? ぼくはこう思う。自分の好きでもなんでもない人や何かが、何を言ってようが何をしてようが、関係ない。本当に、それは自分には(あなたには)関係がない。だから、何か気に入らない言葉や事物を見つけたとき、それがあなたの好きな人によって発せられたのでないなら、それを受け容れる必要もないし、ましてやそれに反発する必要もない。なぜか。
時間の無駄だから。そして大事なのは(あなたの(ぼくの))時間だ。気に入らないものを見つけたとき、それをやっつけて掃除することが価値になるケースもあるだろう。でも、実は世の中には、あなたの気に入らないものや嫌なことはいっぱいあるんだ。世界を探検して、それを全部見つけだして、全部排除するなんてことはできない。やるとしたらそれは一生をかける仕事になるし、一生が終わるときにも、まだまだ全然仕事が進んでいないことに気付かされて途方に暮れるだろう。
だからあなたは(ぼくは)、そんなことに時間を費してはいけない。嫌なこと、気に入らないことに目を向けて生きるのではなく、好きなこと、気に入ることに目を向けて生きたほうがいい。なぜか。……
2007-09-13
# 日記
マクドナルドでダブルチーズバーガーをかじっていると、若い女子高生とサラリーマンが席を探してやってきた。
男のほうは、そう若く見えない。20台の中ごろかなぁ……。テレビ局の近くなので、女子高生と打ち合わせをする局関係者かなぁとも思ったけど、どうもそうじゃないみたい。
まさかとは思ったけど、つきあってるみたいでさ。かじりかけのハンバーガーを食べあいっこしたりしている。わーと思った。わー。だって、そういうの、初めて見たんだもん。
大人の男の人が、あんなにスカートの短い高校生と、付き合ったりするんだなー。オトナじゃーんって感じ。(ぼくの周りには、あまり大人っぽい人がいなくて、自分もあまり大人っぽくないので、新鮮なのです)
それでその後は、あまり気にせずにダブルチーズバーガーにむしゃぶりついてたんだけど。視線の端に、彼と彼女の後ろ姿を映しているうちに、「大人の男がそういうことをしてる」というのではなくて、若いあの女の人が、大人なんだなぁと思ってきた。
女子高生といえば、こないだまでオムツをしていたとでもいうような、実際にはそんなことはないんだけど、でもぼくから見れば若い若い存在。でも、そうやって若いと思っていた子供が、いつのまにかハイハイをするようになって、自分の足で歩くようになって。自分だけの世界を持って、自分の生き方を獲得していく。
高校生のころって、まだ自分にとっては右も左も分からないような時代だったけど。そんなころにも、ああやって生きていく若い女の人が、そしてその相手を務めるスーツ姿の男がいるんだなぁ……。当たり前のことだけど、なんかそういうことを強く感じた。空を燃やすような、秋の夕焼けが降った日。
男のほうは、そう若く見えない。20台の中ごろかなぁ……。テレビ局の近くなので、女子高生と打ち合わせをする局関係者かなぁとも思ったけど、どうもそうじゃないみたい。
まさかとは思ったけど、つきあってるみたいでさ。かじりかけのハンバーガーを食べあいっこしたりしている。わーと思った。わー。だって、そういうの、初めて見たんだもん。
大人の男の人が、あんなにスカートの短い高校生と、付き合ったりするんだなー。オトナじゃーんって感じ。(ぼくの周りには、あまり大人っぽい人がいなくて、自分もあまり大人っぽくないので、新鮮なのです)
それでその後は、あまり気にせずにダブルチーズバーガーにむしゃぶりついてたんだけど。視線の端に、彼と彼女の後ろ姿を映しているうちに、「大人の男がそういうことをしてる」というのではなくて、若いあの女の人が、大人なんだなぁと思ってきた。
女子高生といえば、こないだまでオムツをしていたとでもいうような、実際にはそんなことはないんだけど、でもぼくから見れば若い若い存在。でも、そうやって若いと思っていた子供が、いつのまにかハイハイをするようになって、自分の足で歩くようになって。自分だけの世界を持って、自分の生き方を獲得していく。
高校生のころって、まだ自分にとっては右も左も分からないような時代だったけど。そんなころにも、ああやって生きていく若い女の人が、そしてその相手を務めるスーツ姿の男がいるんだなぁ……。当たり前のことだけど、なんかそういうことを強く感じた。空を燃やすような、秋の夕焼けが降った日。
# 「死なないために」
2007-09-12
# 絶対性・特別性への希求
深く考えないで捨てるように書く - アンパンマンのもつ聖性
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20070911/1189481411
同感なんだけど、加えて書けることがあってね。この図式は、子供向けの話だけに限らないと思うんです。たとえば『暴れん坊将軍』や『水戸黄門』もこの図式ですよね。同様に、アメリカ映画の『007』とかもそうだし、もっと言えばスーパーマンとかもそう。もっともっと言えば、映画などある種の典型的物語における「主人公」という概念が、もうすでにそうだと思うんです。
ソフトウェア開発の世界では「狼男を撃つ銀の弾丸は存在しない」という言葉があるんですけど。これは、「すべての問題を一発逆転で解決できるような、必殺の方法というものは存在しない」という意味の警句なんですね。逆に言えば、「必殺の方法」、「絶対の解決策や原因」を求める人が多いということなんです。
ぼくはこれは、子供や大人や、男や女に限らないことだと思っています。多くの人が、一発逆転できる必殺の方法や、救いの道がどこかにあると探し回っています。このことを警告した物語は、昔話などでは比較的多く見付けることができるのではないかと、最近は考えています。『青い鳥』、『裸の王様』、『コロンブスの卵』、『春望』、『不思議の国のアリス』など。
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20070911/1189481411
書き上げた直後に追記。アンパンマンの単純化図式は、子ども向きの民話や昔話(花咲爺さんやカチカチ山、桃太郎などの広く流布されているタイプの話)にみられる善悪の単純化とも共通するように思う。よい爺さんと欲張り(悪い)爺さんの対比や、鬼=悪役(有無を言わせず悪い)という図式化とか。
同感なんだけど、加えて書けることがあってね。この図式は、子供向けの話だけに限らないと思うんです。たとえば『暴れん坊将軍』や『水戸黄門』もこの図式ですよね。同様に、アメリカ映画の『007』とかもそうだし、もっと言えばスーパーマンとかもそう。もっともっと言えば、映画などある種の典型的物語における「主人公」という概念が、もうすでにそうだと思うんです。
ソフトウェア開発の世界では「狼男を撃つ銀の弾丸は存在しない」という言葉があるんですけど。これは、「すべての問題を一発逆転で解決できるような、必殺の方法というものは存在しない」という意味の警句なんですね。逆に言えば、「必殺の方法」、「絶対の解決策や原因」を求める人が多いということなんです。
ぼくはこれは、子供や大人や、男や女に限らないことだと思っています。多くの人が、一発逆転できる必殺の方法や、救いの道がどこかにあると探し回っています。このことを警告した物語は、昔話などでは比較的多く見付けることができるのではないかと、最近は考えています。『青い鳥』、『裸の王様』、『コロンブスの卵』、『春望』、『不思議の国のアリス』など。
2007-09-11
# どうでもいいけど、褒める難しさについて
「褒めるのが難しい」という考えは、分からなくもないけど。
でも、こうしたらどうかなぁ? 「褒める」という方向で考えないようにするの。
誰かを○×したくなったとき、素直に○×したら、結果的に相手を「褒める」ことになるかもしれない。
でもそれは一面としての結果であって、あなたの(ぼくらの)行為のすべてじゃない。「褒めよう」と思って褒めたわけじゃない。結果として、(外から観測したら)褒めてしまった、という感じではダメなのかな?
「褒めざるを得なかったのだ」。ぼくは、褒めるという行為はそうあるように感じる。
褒めたくて褒めたわけじゃない。○×したかったんだ。○×せずにはいられなかったし、○×してしまった。その結果として、表象的には「褒めた」と観測される事象が起こった。自分にとって、行為とはそういうもののように感じるし、そうであってほしい。
だから個人的には、褒めるという行為について自分は責任を取るつもりもないし、それによって何かを得るつもりもない。かろうじて。○×した、○×したいと思ったということについてなら、自分は責任を取れるし、「たしかに自分がそれをやった」と言うことができる気がする※。
※ なお、○×という概念は、2007年現在、科学的には発見されるのを待っている状態です。
ジョジョはこう言ってる。「誰かの命を助けるのに、理由なんているのか?」と。褒めるのだって同じだ。誰かを褒めるのに理由なんかいらない。その行為による帰結もいらない。理由や帰結が頭をよぎる前に、引き金を引け。○×するんだ。それしかない。
でも、こうしたらどうかなぁ? 「褒める」という方向で考えないようにするの。
誰かを○×したくなったとき、素直に○×したら、結果的に相手を「褒める」ことになるかもしれない。
でもそれは一面としての結果であって、あなたの(ぼくらの)行為のすべてじゃない。「褒めよう」と思って褒めたわけじゃない。結果として、(外から観測したら)褒めてしまった、という感じではダメなのかな?
「褒めざるを得なかったのだ」。ぼくは、褒めるという行為はそうあるように感じる。
褒めたくて褒めたわけじゃない。○×したかったんだ。○×せずにはいられなかったし、○×してしまった。その結果として、表象的には「褒めた」と観測される事象が起こった。自分にとって、行為とはそういうもののように感じるし、そうであってほしい。
だから個人的には、褒めるという行為について自分は責任を取るつもりもないし、それによって何かを得るつもりもない。かろうじて。○×した、○×したいと思ったということについてなら、自分は責任を取れるし、「たしかに自分がそれをやった」と言うことができる気がする※。
※ なお、○×という概念は、2007年現在、科学的には発見されるのを待っている状態です。
ジョジョはこう言ってる。「誰かの命を助けるのに、理由なんているのか?」と。褒めるのだって同じだ。誰かを褒めるのに理由なんかいらない。その行為による帰結もいらない。理由や帰結が頭をよぎる前に、引き金を引け。○×するんだ。それしかない。