メッセージ。 - diary

2007-10-03

# 魔女狩りについて

魔女狩りについて、ふじさわが得ている感触は、次のとおり。

魔女狩りは過去に存在した奇妙で特殊な事件ではない。それは現代でも(いままさにこの瞬間も)行われている。

たとえば、「ホテルルワンダ」という映画で語られた同一民族どうしの大虐殺もそうだし、毎日テレビで放送されているワイドショーもそう。不二家やライブドアを叩いて知識人でございって顔しているニュース番組もそうだし、第二次世界大戦へと走った日本人たちもそう。いじめという現象もそう。

だから別に、はてなが特殊なわけではない。テレビが特殊なわけでもない。日本人や男や女が特殊で愚かなわけでもない。ガイジンさんやアメリカ人や、帝国主義者が特殊で愚かなわけでもない。人間というのが、弱いからこうなっている。

人間というのは、どこかに悪の根源があると考えてしまう。銀の弾丸が存在すると考えてしまう。暴れん坊将軍やスーパーマンを見て快感を刺激されてしまう。自分が正義だと考えてしまう。自分の罪から目をそらしてしまう。人間は動物とは違うと考えてしまう。人殺しは悪いことだと考えてしまう(「人殺しは悪い」という価値観は、裏を返せば「人でなければ殺していい」ということだ)。正義や真理がどこかに存在すると考えてしまう。我思う故に我ありと考えてしまう。それらは、人間というものが弱いからだ。

だから、魔女狩りという概念は、もっと普通に使われていいと思う。心と同じぐらい、空気と同じぐらい、友達と同じぐらい、ごはんと同じぐらい、イノベーションと同じぐらい、貧乏父さんと同じぐらい、コロンブスの卵と同じぐらい、青い鳥と同じぐらい、普遍的な概念ではないかと思っている。
2007-10-03 23:51:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 幻想世間

赤の女王とお茶を - 2007-09-28
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20070928#p1
 「村の掟」・「故郷の土」・「会社のため」・「市場*1」・「Web2.0」・「公」
 
 結局、幻想世間は田舎のみならず、日本に遍在しているのです。

ふむふむ。これはまったく同意なんだけど。同意するからこそ、

 「生活世間」は(中略)今後の日本で一層重要になってくる

え? 自己矛盾じゃね? 「今後の日本」って、まさしく「幻想世間」でしょ?

 「大いなるもの」を騙って人や世の中を動かそうとする田吾作さん達には早めに御退場願いましょう。それこそが真の集団知システムを作動させる大前提ですから。

「集団知システムを作動させる」ことが善だという考え(もしそういう考えがあるのなら)も「幻想世間」で「大いなるもの」のような気が。

 個人の心の中に「大いなるもの」を持つのは結構ですが、それを集団の原理にしてはならないのです。

これ(↑。「してはならない」という言説)自体が「大いなるもの」ですよね……。

や、まぁ語ろうとするもの(対象や目的など)によっては、そういう部分を捨象するやり方ももありだと思うし、また自己破壊的表現方法の可能性があるので、読み違えているかもしれません。
2007-10-03 09:02:08 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-10-02

# 日常と芸術についての補足

芸術ってなんだろうと一時期考えたことがあって、まだあまり煮詰まっていないような気がするけど、現時点で中間的に仮説のようなものを置いている。それが、「日常は芸術」っていう考えなんだけど。

ここで言ってる芸術って、なんだろなぁ。まぁ、スタート地点は全然難しい感じではなくって、たとえば映画とか、小説とか、昔話とか、まぁ漫画も含む「作品」的なもの。で、これらに共通するものって何かなぁとか考えていった。

その結果、1つそれらしきものを見つけたのは、「それらは非日常を描いている」というもの。映画も小説も漫画もそうだけど、物語的なものは、まぁおおむね起承転結がある。つまり思いもかけない事件が起こるのだ。逆にいうと、なにも事件が起こらないような作品は、ほとんどない。で、事件というのは非日常なんだな。

だから、1つの着地点として非日常と芸術はなにか関係がある気がする、と考えた。とりあえず、ここまでよしとする。

次に、音楽とか絵画には事件ってあるの?と考えてみる。必ずしもないような気はする。でも、「非日常か?」と考えたら、実は音楽や絵画は非日常そのものだ。道を歩いているときや、朝起きたとき、青空の下や川のそばの木陰、そういったところに音楽も絵画もない。それらは、日常ではないところに存在してる。

あ、駅。とりあえずここまで。


2007-10-02 22:39:28 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ヌーディストの追記

作家が書いた日記形式のエッセイがあって、それへのコメントという形で読んだ言葉が印象に残ってる。

その日記はあまりに赤裸々なことが書かれていたらしいのだけど、評者はそれを指してこう喝破した。「そこまで書いていいの!?ということを書いてこそ物書きである」と。

ぼくはこの意見に同意できるし、どうせなにかを書くなら、そこまで書いたほうがハッピーだと思う。

というのも、そういう領域のものが芸術・創作であり、物書きというのはシャーマンだと思うから。まわりの人とまぐわることが、シャーマニズムの本質であるような気がしている。シャーマニズムは、日常と日常をつなぐ非日常。そして日常はイコール芸術なんじゃないかなと。
2007-10-02 10:41:11 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-10-01

# 日記

日本語がへたすぎる。orz

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それにしても、世の中にはいい人がいるなぁ。
いい人すぎて泣けてくる。

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wHite_caKe - ブログが作るヌーディストビーチ
http://d.hatena.ne.jp/white_cake/20070927/1190866371

コメント欄も含めて興味深かった。

ちょっと思ったこと。個人的な感覚でいうと、シロイさんみたいに親に自分のブログを教えるほうが、よっぽど心の敷居があるんだよなぁ。なんつーか、コッパズカシイ。

ちなみに自分にかんしては、ネットの中と会社とは、一応地続きになっている。つまり、ぼくは会社でもふじさわだし、ネットでもそうだし、そのほかでもそう。(でも本当は、会社では漢字で名乗っているので、ちょっと緩衝地帯を作ってる)

ぼくの場合、会社の人に積極的にアドレスは教えないけど、わざわざ検索してくるなら見ることは拒まないという感じ。というか、ネットとそれ以外を分けようとしても、分けようがないんだよなぁ。なんというか、ぼくにとってネットというのは、世界と完全につながっているから。

ネットの中だけに何かを流そうという気にならないし、逆に非ネットの中だけに何かを流そうとも思わない。そしてまた、自分の中だけに、あるいは外だけに何かを流そうと思わない。まるでメビウスの輪のように、自分に働きかけることは世界に働きかけること。自分は世界で世界は自分。頑張ってもうまく隠せない感じ。

あ、えーと、どっちがいいとか悪いとかじゃなくてね。ただ、どうせなら女の子がいるほうが楽しいかなーとか。ヌーディストビーチ。うへへへへ。
2007-10-01 22:40:12 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ダイナミズム

なんと表現してよいか分からなくて、いつもは「ダイナミズム」と表現している感覚がある。直接的には、「動きが感じられる」とか、「大きさを実感させられる」とかそういう意味の言葉(で、あってると思う)。ただ、ぼくが感じる「ダイナミズム」は、ちょっと違う意味で使っているような、不安というか、なにかがあって。

ぼくがダイナミズムを感じるのは、たとえばいつもとちょっと違う電車に乗ったとき。横浜から東京に行くのに、少し路線が違うだけで、全然違う風景が目に飛び込んでくる。「いつもこのビルの前ってこんなに人が歩いてた?」とか、「いつも通ってる道ってこんなにたくさんの線路が這ってるんだ」とか。

ダイナミズムを感じる状況はいくつかあるんだけど、1つには建造物の大きさや古さを感じたときが挙げられる。「いつも下をくぐる橋脚は、こんなに大きかったんだなぁ」とか、「たくさんの人があのビルの入口を毎日通ってるんだなぁ」とか。

そういうときに、「ああ、ダイナミズムだなぁ」と思う。ただ、よく分からないのが、ダイナミズムってなに?ってことだ。どうしてぼくは、そういうものを見て、ダイナミズムを感じるのだろう。昔のことを思い出すと、自分はそういうものにダイナミズムを感じてはいなかったはずなんだけど。その昔、大きな橋脚も、人の流れも、空の青さも、自分にとってはただ風景だったような気がする。
2007-10-01 11:10:18 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-09-28

# ノッポさんと「小さい人」

だいぶ前だと思うけど、テレビを見ていたらノッポさんがインタビューに答えていた。
そのインタビューの中でノッポさんが話された「小さい人」という言葉が、強く印象に残ってる。

ノッポさんはね。子供のことを「小さい人」って呼ぶんだって。子供って、小さいけど、ちゃんと考えることができるし、ちゃんと世界を見てる。ちゃんと感じる心を持ってる、大人と同じ人なんだって。ちょっと背丈が小さいだけで、ぼくらとなにも違わない同じ人なんだって話してた。

だからね。ノッポさんは小さい人にたいして、敬意を持って接してるんだって。話しかけるときも、「お名前をお聞かせくださいますか?」って。そうやって、丁寧に敬意をもって話しかければ、小さい人はちゃんと敬意をもって返してくれるって。

放浪カモメはどこへ行く - 2006-06-21
http://d.hatena.ne.jp/miyu28/20060621
 ノッポさんはお父様に強い影響を受けたそうで。ノッポさんのことをおまえとかあんたとか呼び捨てとかで呼んだことないお父様なんですって。
 
 いつもよしあきちゃん(だったかな〜?本名)とかあなたとかと呼んでくれていて、今はまだ迷っているだけ、その時が来てないだけ、この子は大きくなる子だっていつもノッポさんのことを信じてくれていたんだって。
2007-09-28 10:18:55 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-09-27

# ルールというのは守るべきものなのかどうか

ある人が、自分の子供を育てるときには、「ルールは守るべきものだよ」と基本的に教えるつもりだと書いていた。

それを読んでいろいろ思ったのだけど、ここでは1つだけメモ。

ルールって、守るべきものなのかなぁ。個人的には、ぼくだったら子供にはこう教えたい。

「ルールを守るのも1つの手だよ」。

何が違うかというと、後者は自分の意思でルールを守るってこと。

「ルールは、守らなくてもいい。でも守ってもいい。選択はあなたの手に委ねられていて、その結果はあなたに返ってくる。自分が、良いと思ったことをやってごらん?」。そう言われたほうが、面白くない?

「ルールは守るべき」って言われたら、「なんで?」って思っちゃうじゃん。で、言うほうも「守るべきだから守るべき」って言い張るしかないじゃん。

それはさぁ、とんちとしてなら面白いと思うんだけどさ。「守るべき」って言われた子供が、何年も「なんで!?」って考えつづけて悩んで、ついにそのとんちの答を見つけるなら楽しい。

でも、そのとんちの答について、実際には分かってない大人も子供も多いじゃん。「守るべき」って言われたらさぁ、答を探す必要もないんだよね。守ってさえいれば何がしかが担保されるわけだから。

守るべきっていう考え方は、ネガティブな思考の温床になりやすい気がするの。自分はルールを守ってるのに、あれが手に入らない、これが気に食わないって。

つまり、「ルールは守るべき」思考って、目的が「ルールを守ること」以上になりにくいんじゃないかな。人から言われてルールを守る生き方と、自分の意思で「ルールを守るときもある」という生き方。後者のほうが楽しいと思うんだよなぁ。

ちょっと追記:大事なのは、「ルールを守ること」じゃなくて「なんのためにルールを守るのか、その『なんのため』って何?」ってことだと思うんだよね。「なんのために」ってことが大事で、ルールはその大事なことを守るための手段に過ぎない。

だから、最後に守るべきものや守りたいもののためなら、ルールなんて破ったっていいとぼくは思ってる。ただし。誤解のないように言っておくと、たとえばぼくが好きな友達の一人で、上記にも同意してくれる人がいるのだけど、彼は実際に社会生活の中でルールを守ることが多い。

でも彼は、「ルールを守るべき」だから守っているわけじゃない。むしろ、「ルールを守りたい」から守っている。結果的には、そう行動している。「守るべき」だからルールを守っている人と、「守りたい」からルールを守っている人なら、どっちの人と友達になりたいか。自分はどっちの人のようになりたいか。そういう感じなんだよなー。
2007-09-27 11:07:06 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 哲学を理解していない人は、考えているとはいえない

言ってみたかっただけです。すみませんすみません。
2007-09-27 10:43:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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