メッセージ。 - diary
2007-09-07
# 多摩川すごいよ! 多摩川!
もう、水びたし! 土手のうえに、たくさん人が上がって見てるんですよ。
多摩川って、けっこう河原が広くって、いつもみんなの憩いの場になっているんですよね。
川崎(神奈川県)と東京に挟まれた川。北の岸には山手の家並が、南の岸には野球場と散歩道、それに物言わぬ無数の家があります。
ずっとずっと向こうまで続いてるような、広い河原。そこが全部、水に飲み込まれてました。
たくさんの木や、草野球場のネット、それに普段は存在にさえ気付かなかったようなたくさんの器具。
それらが水から頭を覗かせていて、もう本当に、ぼくらの生活が飲み込まれているように感じます。
鉄橋の上を通りすぎる電車も、心なしかゆっくり通過してました。
車内の乗客も、水に目を向けざるを得ない空気でした。
多摩川って、けっこう河原が広くって、いつもみんなの憩いの場になっているんですよね。
川崎(神奈川県)と東京に挟まれた川。北の岸には山手の家並が、南の岸には野球場と散歩道、それに物言わぬ無数の家があります。
ずっとずっと向こうまで続いてるような、広い河原。そこが全部、水に飲み込まれてました。
たくさんの木や、草野球場のネット、それに普段は存在にさえ気付かなかったようなたくさんの器具。
それらが水から頭を覗かせていて、もう本当に、ぼくらの生活が飲み込まれているように感じます。
鉄橋の上を通りすぎる電車も、心なしかゆっくり通過してました。
車内の乗客も、水に目を向けざるを得ない空気でした。
2007-09-03
# 日記
ある人のことを、「いいなぁ」と思った。
憧れのような感情。それで、その人の書いたものを読んでみた。
すると、そこには自分が普段言っているのと同じことが書かれていた。
自分のほうが年嵩が行っているので、表現があざといけれども、
でもそこに書かれている意味はほとんど同じ。
いや、違うところもあるんだけどね。
その文章では同じことを書いていても、その後別の道を行くのかもしれないし。
でも、少なくともある地点では、同じ道を、同じように通っている。
なにかもう、自分は語る言葉を持たないなぁと思った。
ぼくが伝えたいことを、もうすでにその人は、自分の手で得ている。
その人はもう、ぼくの持っているのととほとんど同じものを持っている。
ぼくがその人にあげられるものはないように思うので、残念に感じた。
……なんて感じるのは、傲慢かな。もうちょっと考える。
憧れのような感情。それで、その人の書いたものを読んでみた。
すると、そこには自分が普段言っているのと同じことが書かれていた。
自分のほうが年嵩が行っているので、表現があざといけれども、
でもそこに書かれている意味はほとんど同じ。
いや、違うところもあるんだけどね。
その文章では同じことを書いていても、その後別の道を行くのかもしれないし。
でも、少なくともある地点では、同じ道を、同じように通っている。
なにかもう、自分は語る言葉を持たないなぁと思った。
ぼくが伝えたいことを、もうすでにその人は、自分の手で得ている。
その人はもう、ぼくの持っているのととほとんど同じものを持っている。
ぼくがその人にあげられるものはないように思うので、残念に感じた。
……なんて感じるのは、傲慢かな。もうちょっと考える。
2007-09-02
# 日記
ある編集者の気になるノート : 他人に不幸をうつす前に、僕はもっと幸せになろう。(ヒトリゴト57)
http://aruhenshu.exblog.jp/6783494/
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はてブついでに覚書。 - 陰ブログ陽ブログ
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20070901/1188642558
たしかあろはさんから又聞きした、森博嗣さんの言葉を思い出した。「本当の理系は小説なんて読まない。彼らは小説より現実のほうを面白く感じるから」とかなんとか。
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あなたの日常が知りたい (宇彩ワークス)
http://usai.jp/2007-08/life-on-planet-groove
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Tech Mom from Silicon Valley - チャドルの問題じゃぁないだろうが・・・
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20070820/1187641547
そうなんだよなぁ。ぼくは、日本はもっと非・核家族化するほうがいいんじゃないかと思う。つまり、家庭内労働力として祖母や祖父を使うのが現実的なんじゃないか。そのためにも、産業の中心を東京に集めるのではなくて、ある程度地域に分散させることが必要だと考えている。この考えは、「日本は食料自給率を上げたほうがいいのではないか」という考えともリンクしている。
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artfoodandpolitics
http://artfoodandpolitics.blogspot.com/
http://aruhenshu.exblog.jp/6783494/
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はてブついでに覚書。 - 陰ブログ陽ブログ
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20070901/1188642558
たしかあろはさんから又聞きした、森博嗣さんの言葉を思い出した。「本当の理系は小説なんて読まない。彼らは小説より現実のほうを面白く感じるから」とかなんとか。
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あなたの日常が知りたい (宇彩ワークス)
http://usai.jp/2007-08/life-on-planet-groove
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Tech Mom from Silicon Valley - チャドルの問題じゃぁないだろうが・・・
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20070820/1187641547
そうなんだよなぁ。ぼくは、日本はもっと非・核家族化するほうがいいんじゃないかと思う。つまり、家庭内労働力として祖母や祖父を使うのが現実的なんじゃないか。そのためにも、産業の中心を東京に集めるのではなくて、ある程度地域に分散させることが必要だと考えている。この考えは、「日本は食料自給率を上げたほうがいいのではないか」という考えともリンクしている。
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artfoodandpolitics
http://artfoodandpolitics.blogspot.com/
2007-08-31
# 日々
えーっと。朝起きて、歯を磨きながら、昨夜の文章はちょっと恥ずかしかったかなと反省。
いい歳をしたキモオタが、あれはないだろうと。「大好きでござる☆」ぐらいにすべきでした。しゅいましぇん。
でだ。まぁそれはいいとして、明示的という言葉があるかというのは、次の文章からインスパイアされてます。
ホワット・ア・ワンダフル・ワールド auto 変数と明示的に書きたい (解決編)
http://alohakun.blog7.fc2.com/blog-entry-828.html
ここでのギロンはちょっと特殊というか、mixiなんかで有名なvoid Kusakabeさんの言葉に端を発してるんですよねー。
なので、モヒカンどうしの独特のたたかいというか、子供どうしが口げんかしてるような、素敵な感じになっているかなーと思います。「お母ちゃんが、明示的って言葉はあるって言ってたもん」、「いつ言ってたんだよ! 何時何分何秒!?」、「うえーん」みたいな。
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個人的には、今回のように、「ある言葉があるか、ないか」みたいな問題って、いろんなところで見られると思ってて。その原因は、モノゴトを「あるかないか」みたいに白黒付けようとする(白黒奪いあおうとする)ところに、本質があるんじゃないかなと思います。
たとえば、「おれはオタクじゃない。マニアだ」と言う人がいるなら、「そうなのかぁ。本人がそう言うならそうかもしれないね」って、認めてあげればいいんじゃないかな。だって、その本人が自分の中でそう思っているだけなら、ほかの人にとって害はないもの。「いや、お前は確かにオタクだ。オタクだオタクだオタクだ」って、言う必要ある?
「我思う、故に我あり」って言ってる人に対して、追い掛けていって、肩をつかんで振り向かせて、「そんなことない。お前は存在しないかもしれない」なんて言う必要ある? 放っておいてあげようよ。(まぁデカルトの場合は、そのことをギロンしようという道を自ら選んだ人だろうから、「それでも」とギロンをしかける余地はあるのだけど)
誰かが「ある」と言うなら、「そっか。そこからは、それが見えるんだ。あると感じられるんだ」と認めてあげる。そのことについては、云々しない。でね、問題はその後。それが「ある」ということを、「ほかのすべての人が受け容れる必要はない」。つまり、「彼の世界にはそれはある(あるのかもしれない、あるのだろう)」ということと、「でも自分にはそれは見えない。ないように思う。自分の世界にはそれはない」というのは、両立しうる。
自分のいる場所から見えるものが、違う場所にいるほかの人からは、見えないかもしれない。そのとき、それは「ある」のか、「ない」のか。
それを、大真面目に議論するというのも、1つの人生の楽しみだ。余暇として楽しむ分にはいい。でもまぁ、「どっちでもいい」という態度もありだ。言葉が「成立」しているかどうかなんて、どうでもいいじゃない。目くじら立てて、それが成立しているかどうか決めなくてもいいと思う。
結局のところ、ある言葉や観念が、あるのかないのかは検証できないんだし、あってもなくても、明日はたぶんやってくる。もうさ、明日がやってくるんだから、いいじゃん。それが、それこそが大事じゃん。彼や彼女のいる場所からは、自分には見えないものが見える。あるいはその逆で、ほかの人には見えないものが、自分には見える。それって、けっこう、切なくて素敵なものだと思います。
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そういうようなことを分かってくれる人がたまにいて、楽しいなって思います。そういう人と遊ぶのが好き。
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昨日の朝書いて、送信しきれなくて、一日ごちゃごちゃ書き直してたら、わけが分からなくなってしまった。まただいぶ変なことを書いてる気がするなぁ。
いい歳をしたキモオタが、あれはないだろうと。「大好きでござる☆」ぐらいにすべきでした。しゅいましぇん。
でだ。まぁそれはいいとして、明示的という言葉があるかというのは、次の文章からインスパイアされてます。
ホワット・ア・ワンダフル・ワールド auto 変数と明示的に書きたい (解決編)
http://alohakun.blog7.fc2.com/blog-entry-828.html
ここでのギロンはちょっと特殊というか、mixiなんかで有名なvoid Kusakabeさんの言葉に端を発してるんですよねー。
なので、モヒカンどうしの独特のたたかいというか、子供どうしが口げんかしてるような、素敵な感じになっているかなーと思います。「お母ちゃんが、明示的って言葉はあるって言ってたもん」、「いつ言ってたんだよ! 何時何分何秒!?」、「うえーん」みたいな。
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個人的には、今回のように、「ある言葉があるか、ないか」みたいな問題って、いろんなところで見られると思ってて。その原因は、モノゴトを「あるかないか」みたいに白黒付けようとする(白黒奪いあおうとする)ところに、本質があるんじゃないかなと思います。
たとえば、「おれはオタクじゃない。マニアだ」と言う人がいるなら、「そうなのかぁ。本人がそう言うならそうかもしれないね」って、認めてあげればいいんじゃないかな。だって、その本人が自分の中でそう思っているだけなら、ほかの人にとって害はないもの。「いや、お前は確かにオタクだ。オタクだオタクだオタクだ」って、言う必要ある?
「我思う、故に我あり」って言ってる人に対して、追い掛けていって、肩をつかんで振り向かせて、「そんなことない。お前は存在しないかもしれない」なんて言う必要ある? 放っておいてあげようよ。(まぁデカルトの場合は、そのことをギロンしようという道を自ら選んだ人だろうから、「それでも」とギロンをしかける余地はあるのだけど)
誰かが「ある」と言うなら、「そっか。そこからは、それが見えるんだ。あると感じられるんだ」と認めてあげる。そのことについては、云々しない。でね、問題はその後。それが「ある」ということを、「ほかのすべての人が受け容れる必要はない」。つまり、「彼の世界にはそれはある(あるのかもしれない、あるのだろう)」ということと、「でも自分にはそれは見えない。ないように思う。自分の世界にはそれはない」というのは、両立しうる。
自分のいる場所から見えるものが、違う場所にいるほかの人からは、見えないかもしれない。そのとき、それは「ある」のか、「ない」のか。
それを、大真面目に議論するというのも、1つの人生の楽しみだ。余暇として楽しむ分にはいい。でもまぁ、「どっちでもいい」という態度もありだ。言葉が「成立」しているかどうかなんて、どうでもいいじゃない。目くじら立てて、それが成立しているかどうか決めなくてもいいと思う。
結局のところ、ある言葉や観念が、あるのかないのかは検証できないんだし、あってもなくても、明日はたぶんやってくる。もうさ、明日がやってくるんだから、いいじゃん。それが、それこそが大事じゃん。彼や彼女のいる場所からは、自分には見えないものが見える。あるいはその逆で、ほかの人には見えないものが、自分には見える。それって、けっこう、切なくて素敵なものだと思います。
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そういうようなことを分かってくれる人がたまにいて、楽しいなって思います。そういう人と遊ぶのが好き。
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昨日の朝書いて、送信しきれなくて、一日ごちゃごちゃ書き直してたら、わけが分からなくなってしまった。まただいぶ変なことを書いてる気がするなぁ。