メッセージ。 - diary

2007-09-13

# 日記

マクドナルドでダブルチーズバーガーをかじっていると、若い女子高生とサラリーマンが席を探してやってきた。

男のほうは、そう若く見えない。20台の中ごろかなぁ……。テレビ局の近くなので、女子高生と打ち合わせをする局関係者かなぁとも思ったけど、どうもそうじゃないみたい。

まさかとは思ったけど、つきあってるみたいでさ。かじりかけのハンバーガーを食べあいっこしたりしている。わーと思った。わー。だって、そういうの、初めて見たんだもん。

大人の男の人が、あんなにスカートの短い高校生と、付き合ったりするんだなー。オトナじゃーんって感じ。(ぼくの周りには、あまり大人っぽい人がいなくて、自分もあまり大人っぽくないので、新鮮なのです)

それでその後は、あまり気にせずにダブルチーズバーガーにむしゃぶりついてたんだけど。視線の端に、彼と彼女の後ろ姿を映しているうちに、「大人の男がそういうことをしてる」というのではなくて、若いあの女の人が、大人なんだなぁと思ってきた。

女子高生といえば、こないだまでオムツをしていたとでもいうような、実際にはそんなことはないんだけど、でもぼくから見れば若い若い存在。でも、そうやって若いと思っていた子供が、いつのまにかハイハイをするようになって、自分の足で歩くようになって。自分だけの世界を持って、自分の生き方を獲得していく。

高校生のころって、まだ自分にとっては右も左も分からないような時代だったけど。そんなころにも、ああやって生きていく若い女の人が、そしてその相手を務めるスーツ姿の男がいるんだなぁ……。当たり前のことだけど、なんかそういうことを強く感じた。空を燃やすような、秋の夕焼けが降った日。
2007-09-13 18:58:06 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日々

おかしいなぁ。(この世界では、)ないということはないはずなのに……。
2007-09-13 10:47:18 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「死なないために」

2007-09-13 10:43:24 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-09-12

# 絶対性・特別性への希求

深く考えないで捨てるように書く - アンパンマンのもつ聖性
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20070911/1189481411

 書き上げた直後に追記。
 
 アンパンマンの単純化図式は、子ども向きの民話や昔話(花咲爺さんやカチカチ山、桃太郎などの広く流布されているタイプの話)にみられる善悪の単純化とも共通するように思う。よい爺さんと欲張り(悪い)爺さんの対比や、鬼=悪役(有無を言わせず悪い)という図式化とか。

同感なんだけど、加えて書けることがあってね。この図式は、子供向けの話だけに限らないと思うんです。たとえば『暴れん坊将軍』や『水戸黄門』もこの図式ですよね。同様に、アメリカ映画の『007』とかもそうだし、もっと言えばスーパーマンとかもそう。もっともっと言えば、映画などある種の典型的物語における「主人公」という概念が、もうすでにそうだと思うんです。

ソフトウェア開発の世界では「狼男を撃つ銀の弾丸は存在しない」という言葉があるんですけど。これは、「すべての問題を一発逆転で解決できるような、必殺の方法というものは存在しない」という意味の警句なんですね。逆に言えば、「必殺の方法」、「絶対の解決策や原因」を求める人が多いということなんです。

ぼくはこれは、子供や大人や、男や女に限らないことだと思っています。多くの人が、一発逆転できる必殺の方法や、救いの道がどこかにあると探し回っています。このことを警告した物語は、昔話などでは比較的多く見付けることができるのではないかと、最近は考えています。『青い鳥』、『裸の王様』、『コロンブスの卵』、『春望』、『不思議の国のアリス』など。
2007-09-12 09:58:58 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-09-11

# どうでもいいけど、褒める難しさについて

「褒めるのが難しい」という考えは、分からなくもないけど。

でも、こうしたらどうかなぁ? 「褒める」という方向で考えないようにするの。

誰かを○×したくなったとき、素直に○×したら、結果的に相手を「褒める」ことになるかもしれない。

でもそれは一面としての結果であって、あなたの(ぼくらの)行為のすべてじゃない。「褒めよう」と思って褒めたわけじゃない。結果として、(外から観測したら)褒めてしまった、という感じではダメなのかな?

「褒めざるを得なかったのだ」。ぼくは、褒めるという行為はそうあるように感じる。

褒めたくて褒めたわけじゃない。○×したかったんだ。○×せずにはいられなかったし、○×してしまった。その結果として、表象的には「褒めた」と観測される事象が起こった。自分にとって、行為とはそういうもののように感じるし、そうであってほしい。

だから個人的には、褒めるという行為について自分は責任を取るつもりもないし、それによって何かを得るつもりもない。かろうじて。○×した、○×したいと思ったということについてなら、自分は責任を取れるし、「たしかに自分がそれをやった」と言うことができる気がする※。

※ なお、○×という概念は、2007年現在、科学的には発見されるのを待っている状態です。

ジョジョはこう言ってる。「誰かの命を助けるのに、理由なんているのか?」と。褒めるのだって同じだ。誰かを褒めるのに理由なんかいらない。その行為による帰結もいらない。理由や帰結が頭をよぎる前に、引き金を引け。○×するんだ。それしかない。
2007-09-11 10:40:07 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-09-07

# 多摩川すごいよ! 多摩川!

もう、水びたし! 土手のうえに、たくさん人が上がって見てるんですよ。

多摩川って、けっこう河原が広くって、いつもみんなの憩いの場になっているんですよね。

川崎(神奈川県)と東京に挟まれた川。北の岸には山手の家並が、南の岸には野球場と散歩道、それに物言わぬ無数の家があります。

ずっとずっと向こうまで続いてるような、広い河原。そこが全部、水に飲み込まれてました。

たくさんの木や、草野球場のネット、それに普段は存在にさえ気付かなかったようなたくさんの器具。
それらが水から頭を覗かせていて、もう本当に、ぼくらの生活が飲み込まれているように感じます。

鉄橋の上を通りすぎる電車も、心なしかゆっくり通過してました。
車内の乗客も、水に目を向けざるを得ない空気でした。
2007-09-07 10:56:20 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-09-06

# ええと……

最近忙しくて、電話代払うのを忘れてますた。orz
2007-09-06 20:52:19 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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