メッセージ。 - diary

2007-08-22

# 日記

Inemuri nezumi diary(2007-08-03)
http://madscientist.jp/~ikegami/diary/20070803.html#p01

 僕らがやりたいこと:
 
    1. 楽しんでプログラムを書く
    2. 皆が欲しいプログラムを書く
    3. 皆で議論してプログラムを良くすればいい
    4. デルゴル君(注:「データ構造とアルゴリズム」の略語) の勉強をするのはキリがない、そんなこと勉強するより unknown tips を実地で知ることのほうが重要なのでは? 
 
 結語: LLでオープンソースが正解。 テストや「長く勉強しないと身に付かない複雑な某プログラミング言語」、デルゴル君を学習する必要は、必ずしも、ない。だって、苦痛だし、犠牲に見合う保証はないし、だいいち、今すぐに作りたい物を作りだすことができないではありませんか。

いけがみさんって、いいなぁ。

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はてブついでに覚書。 - 精神強者
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20070807/1186420893

 なんか。普通でいいのにね。
 
 普通に、適当にダメで、適当に優しい感じでいいのにね。
 
 世界は一つじゃないんだからさ。
 
 価値観も一つじゃないし。
 
 他人なんか否定しなくっても全然生きてけるんだけどな。
 
 風が吹いたらさ、揺れればいいじゃんね。
 
 揺れないのは不自然だし、すぐ折れちゃっても変じゃない??
 
 自然にしようよ。

好き。
2007-08-22 10:16:59 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# そういえば

会社に関西弁をしゃべる女の人がいるんだけど、なんかやっぱり憧れちゃうよなぁ……と、今日唐突に思った。

関西弁をしゃべる女の人の、なんというか距離感が好き。真面目すぎないというか、押したり引いたりというか。

最近、オセロ松嶋が鶴瓶と出てる深夜番組をちょっと目にするけど、すごく自然体なんだよねー。

彼女はかなり天然なんだけど、「天然でええねん。人間なんてそんなもんやし」という感じが、非常によく伝わってくる。

鶴瓶も彼女をそう扱ってる。その空気感というのを、どちらも心地良く感じているのが分かる。またこちらも、それを心地良く感じて、すごく楽。

通じあっているというのかな。楽しく楽に通じあっている。

でも結局のところ、ぼくの知り合いには、関西弁をしゃべる女の人が一人もいなかったような気がする。そしてこのまま、そういう知り合いもできずに終わりそうだ。
2007-08-22 07:47:32 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-21

# 日記

その後に続く詞はこうだ。「手を差し延べてお前を求めないさ、この街」。

この歌は嫌いじゃない。でも、こう問うとする。

じゃあ何か? この街が、手を差し延べてお前を求めるのなら、何のために生きてるのか分かると言うのか?

あなたはつまり、街との関係の中で人生を見付けていくのか?

その答は、Yesであってもいいと思う。人はおうおうにして、街の中に人生を求めていく。

それはたぶん、人が人である根拠と結びついている。

でも、街の中に人生を求めるというのは、口うるさい大人たちのルーズな生活に縛られていくことを、選ぶということだ。

そんな中で見る、「自分の夢」とはいったい何なのか。「自分の夢を忘れやしない」だって?

街の中に人生を求めるあなたの夢は、街の中にしかない。夢が夢をしばりつけ、街が街をしばりつけていく。

きっとあなたは分かってるだろうけど、なんのために生きてるのかは「分からなくなる」ものではなかった。
2007-08-21 10:05:47 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 1

# メモ

なんのために生きてるのか分からなくなるよ、か……。
2007-08-21 09:46:38 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-19

# Gauche 0.8.11のZaurus用ipkパッケージを作りました

Gauche 0.8.11がリリースされたので、Zaurus用のパッケージを作りました。
もしよければご利用ください。

http://pikapika.to/~yf/download/gauche_0.8.11-1_arm.ipk
2007-08-19 00:13:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-16

# プログラミング雑誌かぁ……

ちょっと思ったこと。
自分の記憶がなくならないうちに、当時考えたことを書いておく。

もう数年前の話だけど、プログラミング雑誌が売れないとか、作りにくいようには思っていた。そして、それはなぜなのかも考えていた。でも、最後まで明確な原因は分からなかった。

本当は、そもそも「売れない、作りにくい」という考えが、正しいのかどうかはよく分からない。作り方が悪いのかもしれないし、統計的・戦略的に市場調査をしたわけではないから。

ちなみに、ぼくがあの業界を実際目で見るまで、雑誌というのはそれなりに「ちゃんとした」作り方をしているのだと思っていた。出版社にはちゃんとしたマーケッタがいて、業界との太いコネクションがあって、ちゃんとした知識を持っている人が作っていて、属人性よりも組織性で作られているのだと思っていた。

でも実際にはそれは、マーケティングのマの字も知らない個人の、超人的な働きによって作られていた。たとえばコンピュータ雑誌の編集に携っている人間は、下は18から上は40ぐらいまでというケースがままある。個人的には、もっとたくさん、年寄りが噛んでいると思っていたが、全然そういうことはなかった。少人数の、若い人が作っていた。これって変じゃない?

コンピュータ雑誌に限らず、「ちゃんと作っているはずだ」と思っていたいろいろなものが、実際には全然ちゃんと作られていないということが、東京で実際に働いてみてよく分かった。要するにぼくが子供だったのだけど、でも、東京みたいな場所で、実際に働いてみなければ、それを本当に理解することはなかっただろう。

だからぼくは言いたいのだけど、ネットとかで瑣末な(瑣末かもしれない)問題に悩んでいる人は、実際に働いてみてほしいと思う。東京で働くのは難しい場合もあるだろうから、東京でなくてもいいけど、アルバイトでもなんでもいいから、実地に社会の現場をいろいろ見ると、分かることがある。自分の悩みの原因が何なのか分かる。本当は、教育システムとして、東京的なものや仕事的なものに触れられる機会が、もっとたくさんあればいいのになぁと思うけど。

あー脱線した。なんの話だっけ? プログラミング雑誌が売れない理由だっけ。ちょっと時間がなくなったので(ぉ、本当に簡単なメモだけ。

・プログラミング雑誌が売れないのではなくて、コンピュータ雑誌全体が売れなくなっている
・というか、出版業界全体が冷えこんできていて、とくに男性向けの雑誌はダメ
・コンピュータが持っていた熱のようなものがなくなってきている
・何十年も前、マイコン少年やマイコン中年たちが持っていたスピリット(コンピュータへの憧れやその可能性への熱狂)が、コンピュータ雑誌のコアだと思うのだけど、熱はそもそもそこから発されていた
・組織やコミュニティ的なものを変えようと思ったら、カルロス・ゴーンさんが日産を立て直したときのように、現場の人に直接会って顔を見て話さなければいけない。でも、それをうまくできる主体やチャンスはけっこう少ない
・企画力や取材力はたしかに重要。でもどうかなぁ……。それってジャーナリズムで、ジャーナリズムというのは実は、ビジネスとの相性があまり良くない。普通の雑誌の作り方に、プラスアルファとしてジャーナリズムを盛り込めれば良いのだろうけど、なかなかコストが合わないような気がする
・ジャーナリズム的なものは、ある程度ネットの得意分野かもしれない
・それでも雑誌は、一定の価値があると思っている。たとえば、コンピュータ雑誌からインタビューを受けたある人から、「自分が載った雑誌を実家の父や母が喜んで親戚に配っている」という話を聞いたことがある。頑張っている人を、きちんと世に出していくというか、専門領域にある情報を、世間一般に露出していく情報や文化の流通路としての機能が雑誌にはあるし、これからもそういうモノは必要なんじゃないかとか
・結局のところ、メディアの機能の1つは「混ぜ合わせること」にあるような気がする
2007-08-16 08:15:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-15

# 救急車のトリアージの話

ちょっと前に、救急車でもトリアージを採用しようという試みがあると聞いた。

トリアージというのは、災害などでたくさんの傷病人が発生した場合に、「どの順番で治療をしていけば一番たくさんの人を助けられるか?」という問題へのアプローチ。トリアージでは、「怪我の程度が大きくて治療してももう助からない、という人のことを諦めて手当しない」という方針を採るらしい。神戸だったかで起きた電車脱線事故では、実際にトリアージが実践されたという。まだ生きている人間を見殺しにするようで心苦しい方策だが、こういう考え方があることは理解できる。

で、トリアージの是非についてはここで論じないのだけど、救急車でもトリアージを採用する試みがあると聞いて、なんとなくもやもやと考えたことがある。まず、救急車でのトリアージとは、何なのかを簡単に説明しておこう。誰でも聞いたことがあると思うけど、「最近では、日本全国で○分に一回は救急車(119番)が呼ばれている」というような話がよく聞かれる。つまり、「こんなに頻繁に119番が呼ばれているんだよ」という話だ。

ぼく自身は、その○分というのが多いのか少ないのか、本当に増えているのか減っているのかは知らないけれども、でもとにかく、あるテレビ番組の言うところによると、増えているらしい(番組名などは覚えてません。すみません)。その番組では、軽微な事故や病気で119番をコールする人が増えて救急車の数が足りなくなり、本当に救急車を必要としている人のもとに着くまでの時間が伸びているという。たしか、到着までの平均時間を計算すると、心臓病の救急に間に合わなくなる程度には数字が伸びているらしい。

そこで検討されているのがトリアージだ。救急車が現場に到着したとき、傷病人の程度が比較的軽微だと現場で判断できれば(つまり、救急隊員が判断して)、場合によっては病院まで運ぶことなしに、次の現場に向かうという処置だ。

これ自体はまぁ、アリだろうとぼくは思うけど、なんとなく、成功しないだろうなという気がした。というのも、そうやって傷病の程度を判別した結果が誤っていたときは、訴訟問題につながるケースが想定されるからだ。助かるかもしれなかった状況で、助からなかったならまぁ普通は腹が立つ。腹が立って、その判断をした救急隊員や、救急システムを攻撃する人は、ある程度以上いるだろう。そういった訴訟や攻撃のコストを、救急システムなりが払うことはできるのか?、できないような気がする。

一方で、もしトリアージなんてものがなければどうだろう? どこかの知らない誰かが119番をかけるせいで、今日も間に合わず悪い結果を迎える人たちがいる。しかし、その人たちの憤りや悲しみは、どこかへ行きようがない。明確に誰かを訴訟できるわけではないのだから、訴訟によるコストが国や救急システムといった主体に対してかかってこない。実際にはそのコストは全体で支払っていて、トリアージを採用したときに比べてそれを採用しないケースのほうが有意にコスト高であってもだ。

結局のところ、ある程度使いこなすのが難しい道具は、ある程度以上に賢いというか、理性的な人間でなければ使いこなせない。そして、人間というのはそれほど理性的なわけではないし、理性的でなくても良いのだろうと思う。救急車でのトリアージを成功させようとすれば、「救急隊員による判断ミスもしょうがない」と考えられる理性的な市民が必要だ。でも実際には、日本人は「市民を理性的にしよう」とはあまり考えない気がする。どちらかといえば、日本人は「理性的でない市民でも使える道具を作ろう」と考えがちだ。ここではそれの是非は論じない。
2007-08-15 00:02:48 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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