メッセージ。 - diary

2007-09-03

# 日記

ある人のことを、「いいなぁ」と思った。
憧れのような感情。それで、その人の書いたものを読んでみた。

すると、そこには自分が普段言っているのと同じことが書かれていた。
自分のほうが年嵩が行っているので、表現があざといけれども、
でもそこに書かれている意味はほとんど同じ。

いや、違うところもあるんだけどね。
その文章では同じことを書いていても、その後別の道を行くのかもしれないし。
でも、少なくともある地点では、同じ道を、同じように通っている。

なにかもう、自分は語る言葉を持たないなぁと思った。
ぼくが伝えたいことを、もうすでにその人は、自分の手で得ている。

その人はもう、ぼくの持っているのととほとんど同じものを持っている。
ぼくがその人にあげられるものはないように思うので、残念に感じた。

……なんて感じるのは、傲慢かな。もうちょっと考える。
2007-09-03 23:09:27 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-09-02

# 日記

なんかすっかり涼しいなぁ。

こういう風に涼しい夏の終わりの夜は好き。

肌寒さに、熱が過ぎさっていくのを実感する。

空を見上げたら、静かな風。

このまま風に吹かれていると、自分の熱もすべて
なくなってしまうような気がする。

なにもかもが綺麗。
2007-09-02 20:35:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日記

ある編集者の気になるノート : 他人に不幸をうつす前に、僕はもっと幸せになろう。(ヒトリゴト57)
http://aruhenshu.exblog.jp/6783494/

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はてブついでに覚書。 - 陰ブログ陽ブログ
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20070901/1188642558

たしかあろはさんから又聞きした、森博嗣さんの言葉を思い出した。「本当の理系は小説なんて読まない。彼らは小説より現実のほうを面白く感じるから」とかなんとか。

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あなたの日常が知りたい (宇彩ワークス)
http://usai.jp/2007-08/life-on-planet-groove

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Tech Mom from Silicon Valley - チャドルの問題じゃぁないだろうが・・・
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20070820/1187641547

そうなんだよなぁ。ぼくは、日本はもっと非・核家族化するほうがいいんじゃないかと思う。つまり、家庭内労働力として祖母や祖父を使うのが現実的なんじゃないか。そのためにも、産業の中心を東京に集めるのではなくて、ある程度地域に分散させることが必要だと考えている。この考えは、「日本は食料自給率を上げたほうがいいのではないか」という考えともリンクしている。

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artfoodandpolitics
http://artfoodandpolitics.blogspot.com/
2007-09-02 09:35:31 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-31

# 日々

えーっと。朝起きて、歯を磨きながら、昨夜の文章はちょっと恥ずかしかったかなと反省。
いい歳をしたキモオタが、あれはないだろうと。「大好きでござる☆」ぐらいにすべきでした。しゅいましぇん。

でだ。まぁそれはいいとして、明示的という言葉があるかというのは、次の文章からインスパイアされてます。

ホワット・ア・ワンダフル・ワールド auto 変数と明示的に書きたい (解決編)
http://alohakun.blog7.fc2.com/blog-entry-828.html

ここでのギロンはちょっと特殊というか、mixiなんかで有名なvoid Kusakabeさんの言葉に端を発してるんですよねー。

なので、モヒカンどうしの独特のたたかいというか、子供どうしが口げんかしてるような、素敵な感じになっているかなーと思います。「お母ちゃんが、明示的って言葉はあるって言ってたもん」、「いつ言ってたんだよ! 何時何分何秒!?」、「うえーん」みたいな。

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個人的には、今回のように、「ある言葉があるか、ないか」みたいな問題って、いろんなところで見られると思ってて。その原因は、モノゴトを「あるかないか」みたいに白黒付けようとする(白黒奪いあおうとする)ところに、本質があるんじゃないかなと思います。

たとえば、「おれはオタクじゃない。マニアだ」と言う人がいるなら、「そうなのかぁ。本人がそう言うならそうかもしれないね」って、認めてあげればいいんじゃないかな。だって、その本人が自分の中でそう思っているだけなら、ほかの人にとって害はないもの。「いや、お前は確かにオタクだ。オタクだオタクだオタクだ」って、言う必要ある?

「我思う、故に我あり」って言ってる人に対して、追い掛けていって、肩をつかんで振り向かせて、「そんなことない。お前は存在しないかもしれない」なんて言う必要ある? 放っておいてあげようよ。(まぁデカルトの場合は、そのことをギロンしようという道を自ら選んだ人だろうから、「それでも」とギロンをしかける余地はあるのだけど)

誰かが「ある」と言うなら、「そっか。そこからは、それが見えるんだ。あると感じられるんだ」と認めてあげる。そのことについては、云々しない。でね、問題はその後。それが「ある」ということを、「ほかのすべての人が受け容れる必要はない」。つまり、「彼の世界にはそれはある(あるのかもしれない、あるのだろう)」ということと、「でも自分にはそれは見えない。ないように思う。自分の世界にはそれはない」というのは、両立しうる。

自分のいる場所から見えるものが、違う場所にいるほかの人からは、見えないかもしれない。そのとき、それは「ある」のか、「ない」のか。

それを、大真面目に議論するというのも、1つの人生の楽しみだ。余暇として楽しむ分にはいい。でもまぁ、「どっちでもいい」という態度もありだ。言葉が「成立」しているかどうかなんて、どうでもいいじゃない。目くじら立てて、それが成立しているかどうか決めなくてもいいと思う。

結局のところ、ある言葉や観念が、あるのかないのかは検証できないんだし、あってもなくても、明日はたぶんやってくる。もうさ、明日がやってくるんだから、いいじゃん。それが、それこそが大事じゃん。彼や彼女のいる場所からは、自分には見えないものが見える。あるいはその逆で、ほかの人には見えないものが、自分には見える。それって、けっこう、切なくて素敵なものだと思います。

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そういうようなことを分かってくれる人がたまにいて、楽しいなって思います。そういう人と遊ぶのが好き。

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昨日の朝書いて、送信しきれなくて、一日ごちゃごちゃ書き直してたら、わけが分からなくなってしまった。まただいぶ変なことを書いてる気がするなぁ。
2007-08-31 11:01:00 / ふじさわ / Comment: 4 / Trackback: 0

2007-08-30

# うれしい報せ

言葉の誕生と成立 (宇彩ワークス)
http://usai.jp/2007-08/spread-the-word

わー!!! 戻ってきてくれたんですね!
……きてくれたってのは変だけど、でもなんかうれしくて。
うれしいな。大好き☆

えーと。トラックバックをいただいているのだけど、
眠いので本題については明日考えてみようっと思います。まる。
おやすみなさい。
2007-08-30 00:43:16 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-29

# 静的型付けか動的型付けか

自分は、プログラミング言語の中ではSchemeが好きです。で、Schemeというのは動的型付けの言語なわけですけど。

でも、Schemeというのは、決して型をおろそかにするような言語ではありません。むしろぼくの場合は、Schemeでプログラムを組むようになってからのほうが、C言語でプログラムを組んでいたときより型を意識するようになりました。

型というのは、うまく使うことでプログラムを組む助けになるものです。プログラムというのは、同じような処理をまとめてブロックにしていくことが重要ですが、そのための助けとして型の役割は大きいからです。(どんな言語を使っていたとしても型の役割は大きいといえます)

Schemeは、関数型の言語ということもあって、関数(処理のまとまりのブロック)の、入力と出力がなんであるかが、非常に重要視します。「なんであるか」を表現する指標が、型なわけです。一方でC言語などは、同じように処理をまとめるブロックである「関数」という概念が、関数型言語よりもずっと自由です。

たとえばC言語の関数は、返り値としてintを返すと宣言している場合でも、必ずしもintを返さなければいけないわけではありません(大域ジャンプが可能なので、「その関数を終了しない」ということさえ許されています)。また、C言語ではポインタに値をセットすることで実質的になんらかのメッセージを、プログラムの別の個所などに伝えることが標準的に行われています。

しかし、メッセージを伝えるならば、そのメッセージが何を表現するものなのか、致命的なエラーが発生したときは何を伝えるべきなのか、そういったプロトコルのようなもの(つまり型)を、ブロック間で明確に定義したほうが良いです。そしてC言語には、そういったプロトコルのようなものを定義するよい方法がありません(マクロや構造体を使えばそれは可能ですが、すぐ使える状態ではなく、非常にプリミティブな部品だけがある状態です)。

動的型付けの言語であっても、(静的型付けの言語と同じぐらい)型を重視するプログラムはあります。逆に、C言語のように、いちいち型を明示しなければいけない言語でも、型変換を暗黙に行ってしまうような言語は、型というものを使いこなすのが困難になります(実際には、現代のC言語のコンパイラは暗黙の型変換をあまり行いませんが、出自としてのC言語は、つまりC言語は本質的には、そのあたりがかなり大らかです)。

だからどうとか、なにかが悪でなにかが善というわけではありませんが、なんとなく思ったことを書いてみました。いまどきC言語を引き合いにだすのはダメダメかもしれませんが、ぼくがC言語しか分からないダメダメ人間なのでご容赦ください。
2007-08-29 23:11:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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