メッセージ。 - diary

2007-08-19

# Gauche 0.8.11のZaurus用ipkパッケージを作りました

Gauche 0.8.11がリリースされたので、Zaurus用のパッケージを作りました。
もしよければご利用ください。

http://pikapika.to/~yf/download/gauche_0.8.11-1_arm.ipk
2007-08-19 00:13:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-16

# プログラミング雑誌かぁ……

ちょっと思ったこと。
自分の記憶がなくならないうちに、当時考えたことを書いておく。

もう数年前の話だけど、プログラミング雑誌が売れないとか、作りにくいようには思っていた。そして、それはなぜなのかも考えていた。でも、最後まで明確な原因は分からなかった。

本当は、そもそも「売れない、作りにくい」という考えが、正しいのかどうかはよく分からない。作り方が悪いのかもしれないし、統計的・戦略的に市場調査をしたわけではないから。

ちなみに、ぼくがあの業界を実際目で見るまで、雑誌というのはそれなりに「ちゃんとした」作り方をしているのだと思っていた。出版社にはちゃんとしたマーケッタがいて、業界との太いコネクションがあって、ちゃんとした知識を持っている人が作っていて、属人性よりも組織性で作られているのだと思っていた。

でも実際にはそれは、マーケティングのマの字も知らない個人の、超人的な働きによって作られていた。たとえばコンピュータ雑誌の編集に携っている人間は、下は18から上は40ぐらいまでというケースがままある。個人的には、もっとたくさん、年寄りが噛んでいると思っていたが、全然そういうことはなかった。少人数の、若い人が作っていた。これって変じゃない?

コンピュータ雑誌に限らず、「ちゃんと作っているはずだ」と思っていたいろいろなものが、実際には全然ちゃんと作られていないということが、東京で実際に働いてみてよく分かった。要するにぼくが子供だったのだけど、でも、東京みたいな場所で、実際に働いてみなければ、それを本当に理解することはなかっただろう。

だからぼくは言いたいのだけど、ネットとかで瑣末な(瑣末かもしれない)問題に悩んでいる人は、実際に働いてみてほしいと思う。東京で働くのは難しい場合もあるだろうから、東京でなくてもいいけど、アルバイトでもなんでもいいから、実地に社会の現場をいろいろ見ると、分かることがある。自分の悩みの原因が何なのか分かる。本当は、教育システムとして、東京的なものや仕事的なものに触れられる機会が、もっとたくさんあればいいのになぁと思うけど。

あー脱線した。なんの話だっけ? プログラミング雑誌が売れない理由だっけ。ちょっと時間がなくなったので(ぉ、本当に簡単なメモだけ。

・プログラミング雑誌が売れないのではなくて、コンピュータ雑誌全体が売れなくなっている
・というか、出版業界全体が冷えこんできていて、とくに男性向けの雑誌はダメ
・コンピュータが持っていた熱のようなものがなくなってきている
・何十年も前、マイコン少年やマイコン中年たちが持っていたスピリット(コンピュータへの憧れやその可能性への熱狂)が、コンピュータ雑誌のコアだと思うのだけど、熱はそもそもそこから発されていた
・組織やコミュニティ的なものを変えようと思ったら、カルロス・ゴーンさんが日産を立て直したときのように、現場の人に直接会って顔を見て話さなければいけない。でも、それをうまくできる主体やチャンスはけっこう少ない
・企画力や取材力はたしかに重要。でもどうかなぁ……。それってジャーナリズムで、ジャーナリズムというのは実は、ビジネスとの相性があまり良くない。普通の雑誌の作り方に、プラスアルファとしてジャーナリズムを盛り込めれば良いのだろうけど、なかなかコストが合わないような気がする
・ジャーナリズム的なものは、ある程度ネットの得意分野かもしれない
・それでも雑誌は、一定の価値があると思っている。たとえば、コンピュータ雑誌からインタビューを受けたある人から、「自分が載った雑誌を実家の父や母が喜んで親戚に配っている」という話を聞いたことがある。頑張っている人を、きちんと世に出していくというか、専門領域にある情報を、世間一般に露出していく情報や文化の流通路としての機能が雑誌にはあるし、これからもそういうモノは必要なんじゃないかとか
・結局のところ、メディアの機能の1つは「混ぜ合わせること」にあるような気がする
2007-08-16 08:15:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-15

# 救急車のトリアージの話

ちょっと前に、救急車でもトリアージを採用しようという試みがあると聞いた。

トリアージというのは、災害などでたくさんの傷病人が発生した場合に、「どの順番で治療をしていけば一番たくさんの人を助けられるか?」という問題へのアプローチ。トリアージでは、「怪我の程度が大きくて治療してももう助からない、という人のことを諦めて手当しない」という方針を採るらしい。神戸だったかで起きた電車脱線事故では、実際にトリアージが実践されたという。まだ生きている人間を見殺しにするようで心苦しい方策だが、こういう考え方があることは理解できる。

で、トリアージの是非についてはここで論じないのだけど、救急車でもトリアージを採用する試みがあると聞いて、なんとなくもやもやと考えたことがある。まず、救急車でのトリアージとは、何なのかを簡単に説明しておこう。誰でも聞いたことがあると思うけど、「最近では、日本全国で○分に一回は救急車(119番)が呼ばれている」というような話がよく聞かれる。つまり、「こんなに頻繁に119番が呼ばれているんだよ」という話だ。

ぼく自身は、その○分というのが多いのか少ないのか、本当に増えているのか減っているのかは知らないけれども、でもとにかく、あるテレビ番組の言うところによると、増えているらしい(番組名などは覚えてません。すみません)。その番組では、軽微な事故や病気で119番をコールする人が増えて救急車の数が足りなくなり、本当に救急車を必要としている人のもとに着くまでの時間が伸びているという。たしか、到着までの平均時間を計算すると、心臓病の救急に間に合わなくなる程度には数字が伸びているらしい。

そこで検討されているのがトリアージだ。救急車が現場に到着したとき、傷病人の程度が比較的軽微だと現場で判断できれば(つまり、救急隊員が判断して)、場合によっては病院まで運ぶことなしに、次の現場に向かうという処置だ。

これ自体はまぁ、アリだろうとぼくは思うけど、なんとなく、成功しないだろうなという気がした。というのも、そうやって傷病の程度を判別した結果が誤っていたときは、訴訟問題につながるケースが想定されるからだ。助かるかもしれなかった状況で、助からなかったならまぁ普通は腹が立つ。腹が立って、その判断をした救急隊員や、救急システムを攻撃する人は、ある程度以上いるだろう。そういった訴訟や攻撃のコストを、救急システムなりが払うことはできるのか?、できないような気がする。

一方で、もしトリアージなんてものがなければどうだろう? どこかの知らない誰かが119番をかけるせいで、今日も間に合わず悪い結果を迎える人たちがいる。しかし、その人たちの憤りや悲しみは、どこかへ行きようがない。明確に誰かを訴訟できるわけではないのだから、訴訟によるコストが国や救急システムといった主体に対してかかってこない。実際にはそのコストは全体で支払っていて、トリアージを採用したときに比べてそれを採用しないケースのほうが有意にコスト高であってもだ。

結局のところ、ある程度使いこなすのが難しい道具は、ある程度以上に賢いというか、理性的な人間でなければ使いこなせない。そして、人間というのはそれほど理性的なわけではないし、理性的でなくても良いのだろうと思う。救急車でのトリアージを成功させようとすれば、「救急隊員による判断ミスもしょうがない」と考えられる理性的な市民が必要だ。でも実際には、日本人は「市民を理性的にしよう」とはあまり考えない気がする。どちらかといえば、日本人は「理性的でない市民でも使える道具を作ろう」と考えがちだ。ここではそれの是非は論じない。
2007-08-15 00:02:48 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-13

# 日記

「誰かを殺す能力があるからといって、実際に殺していいわけではない」っていうのには、反対だな……。
 
誰かを殺す能力があるのなら、実際に殺してもいいと、ぼくは思う。
 
少なくとも、ぼくを殺せる能力のある人は、ぼくを殺してもいい。

だって、ぼくは、これまで多くの植物や動物や、人だって殺してきたのだから。

それは、「殺していいから」殺したわけでは、全然ない。

たまたまぼくが、彼らを殺せる位置にいて、そうすることを選んだから、そうなっただけだ。

誰かから、「それをしてよい」と許されたことなど一度もないし、これからもないだろう。

ぼくは、赦されたことなどない。許されたことなどない。だけど、やっている。生きている。

だからあなたも、やっていい。殺してくれていい。

少なくともぼくにかんしては、何も問題はない。
2007-08-13 22:43:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日記

うーん。男も女も、別に特別なものではないと思うっすよ。

ぼくが見るかぎり、男のほうが惚れやすいとか、女のほうが惚れやすいとか、
そういうことは別にない。

母性とか父性とかも、対称になっているだけで、母性があって父性があると
いう以上のものではない。反対の立場で考えてみれば、それらの現象は
同じぐらいの量が観測され、同じような論理で解釈されている。

自分自身が渇いているとき、「男は渇いている」とか、「女は渇いている」とか、
そういう風に解釈する流派があるけれども、その解釈が正しいかどうかは
疑うに値すると思っている。

あと、男も女も別に違いはないけど、でも実際に違う部分も確かにあって、
そういうものに両性は惹かれあうものなんだろうと思う。
つまり、性というのをマクロに見ればエキゾチズムなんじゃないかなと。
エキゾチズムとは、変化の可能性であって、「自分」ではないもの。
2007-08-13 10:41:17 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-08-10

# ……

エイをいっぱい殺して、産業廃棄物として捨てるんだって。可哀想に。
2007-08-10 09:29:34 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# マークアップエンジニアというか

そういえば、最近仕事でデザイナーさんにWebサイトのデザインを発注したのだった。

発注の仕方とかがよく分からなくて、とりあえずWebデザイナー年鑑みたいなのに
載っている会社で、良さそうなところを選んで頼んでみたのだ。

初めて一緒に仕事をする人たちとは、どんな場合でも文化の違いとかローカルルールの壁とかで
戸惑うことがあると思うのだけど、このとき1つ知らなかったのは、「デザインとコーディングは別料金」ということだ。

デザインをお願いすると、フォトショップで描いた絵をもらえるらしい。それで100万円から。
で、それをHTML+CSSぐらいに落とすので、20〜30万円らしい。

へーそうなんだーって感じ。会社とかそのときの状況によって違うとは思うけどね。
HTML+CSSだって、そんなに簡単な仕事じゃないと思うけど、デザインに比べるとだいぶ金額が安いなと思った。
2007-08-10 08:42:57 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
recent days<< | >>old days