メッセージ。 - diary

2007-07-17

# 日記

今日は、Inemuri nezumi diary(2007-07-12)で紹介されてたエスニックジョーク - Wikipediaというのが面白かったです。まる。
2007-07-17 23:13:57 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# dmf-0.02

バカが征く
http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=20070716
 前に似たようなこと書いた覚えあんだけど。これも
 いわれたんだけどさ、やっぱその日のうちにいじった
 コードをその日のうちにコミットできないっていうのは
 間違ってるわけよ。だって、それってbaby stepsじゃ
 ないわけじゃん?
 
 だから、時間軸を持って設計とコーディングをしなきゃ
 いけないわけ。どういう筋道をたどったら日々コミット
 できるか考えなきゃいけない。
 
 よくいわれる『部品化』ってヤツ? まぁ、それはそれで
 大事なことなんだけど。でも、部品化っていうのは、
 作る手順を意味するわけじゃないからさ。部品化って
 いうのは結果に過ぎない。部品化を手順として捉え
 ちゃうと、『結合は最後にやる』みたいな間違った考えに
 陥っちゃう。

バカ征くさんの言葉を受けて、ちょっとおいらもbaby steps
というのをやってみることにした。というか、単に現状の
コードをとにかくリリースしてみます、ってだけなんだけど。
http://pikapika.to/~yf/source/dmf-0.02.tar.gz

動いてるところは、http://pikapika.to/~yf/dmf/?cmd=readbox&usr=3 で見られます。
さぁて、これからどうしようかなぁ。
2007-07-17 23:04:20 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 同じことを書くこと

はてなに学ぶ - 同じことを書くこと
http://d.hatena.ne.jp/katsumushi/20070716/p1

うーん、確かになぁ、そうだよなぁと思った。こんな大事なことを、ぼくもけっこう忘れてたりする。

たしかにぼくも、「自分は同じことばっかり書いてる」って自己嫌悪に陥ってたんだよなぁ……。

同じことを書いていても、その言葉を投げかけている相手が違うので、なにかの役に立てばいいなと一応思ってはいるのだけど。

 ----

でも、なんかこう、同じことばっかり書いたり言ったりする自分は、傲慢なような気にもなっちゃうんだよねぇ……。

自分だけ、どこか安全な場所に立って、一方的に言葉を投げつけているような気がして。

あと、そのときどきで、違う人に向かって同じことを言う自分は、いったいなんなんだとも思う。

あるいは、違う人は、自分にとっていったいなんなんだ、とか。

もっと卑近で悪いことには、「同じことばっかり言う自分は、みんなの目に格好悪く映ってるだろうな」とも。

難しい。
2007-07-17 22:12:43 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-07-16

# 日記

前から知ってたけど、いまさらメモしてみっか。えーと、ふじさわというのは、超自我が自我を圧迫して押さえつけようとするような傾向がある。

たぶんこれは、父親の影響だと思うのだけど。「○○しなければいけない」とよく言われて育ったから。そのくせ父親は、自分では規範的な生活などできなくて、よく母親に「なんで自分ができへんことを、子供にさせようとするのん?」なんてたしなめられていたりした。

そういうとき父親は、「自分ができないことを人にしろと言ったらあかんのか?」みたいな変な逆ギレをしていて面白かったのを覚えている。基本的に父親は大阪の商売人の子で、しかも長男なのでナヨナヨしている。だから怒っても暴力とかになったりするのではなくて、そういう怒り方になって面白い。論理としては、間違ってないしね。矛盾というか、自己に内在する解決不可能性の問題と肯定・外世界との関係というか、そういうのを考えるのに役立った。

とにかくまぁ、彼の心の中には「○○しなければいけない」という成分が若干過剰に在ったように、ぼくには思われる。いや、若干過剰にあっただけならいいのだけど、「○○しなければいけない」の後に「でも現実にはこれこれで」、「ということで△△してみたらどう?」みたいな折衷・提案型の思考があれば、あるいは「べき論」の手前にあるはず目的論があればよかったのになぁというように思っている。でもまぁ、ないものはないでしょうがないし、結局のところ根源は彼の人生の問題だし、すぐに解決する問題ではないので、気にしていないけど。

問題は自分、つまりぼくだ。ぼく自身がどのように人格形成すればいいか。父親のような圧迫過剰は良くないなぁと中学生ぐらいのときには思ってて、でもまぁそういう影響は避けられないし、厳然たる事実として自分の中には彼の性格傾向がコピーされていて、その事実から発生した結果たる現実を、正面から覆そうとしたり抗おうとしてもしょうがないなと考えていた。

それで、現実的にはどういう方針を採ったんだっけかなぁ。実際には目に見えるような何らかの行動をしたというわけではなかったはず。でもこう、なんというか、自分の中にコピーされている流れはたくさん在るわけで、その中から好ましいものを伸ばしていこうという方針を採ったのだったかな。で、たぶんそれを認めたことが、多義的な自己という現在の方針につながっている。

結局のところ、一人の人間は、自分でも肯定できず好きになれないような一面をはらんでいる。でもまぁ、そういった一面もあっていいじゃないかというか。自分の中に、嫌いな面もあるけど、好きな面もある。嫌いな面を全部隔離して廃棄することはできないし、それをすることに意味はない(という考え方がありうる)。1つの理由としては、好きな面と嫌いな面は渾然一体となって切り離せない状態で存在し、欲しいものだけを「欲しい」と言ったところで手に入るものでは到底なく、もし仮にそれが手に入ったとしても、どうせ「新しい」問題が発生して結局「問題」は解決しないから。またもう1つの理由として、過去の人たちもそのようなまだら色の面を背負って生きてきたという事実があるから。

ここではとくに後者。過去の人たちもまた、自分の中に嫌いな面をたくさん抱えながら生きてきた。彼らの中に、彼らが嫌い怖れる面があったからこそ、結果として彼らは彼らとして生きた。ならば、自分もまたそういう体験をしたいと思う。彼らと同じような体験をすることで、自分は彼らのことを理解できるだろうし、そうしたいと思う。だからぼくは、自分の中の嫌いな面も、なかなかそれなりに面白く感じている。それは彼らとぼくをつなぐ何かだし、ぼくをこの先へ運ぶ何かでもある。

それでなんだっけ。超自我が自我を圧迫して押さえつけようとする傾向か。まぁだから、あまり気にしていない。ひとことで言えば、そういうところも嫌いじゃないって感じか。論理として結構緩いかなぁ。まぁとりあえず。
2007-07-16 01:34:38 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日記

http://pikapika.to/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2376で話題にしたdmf.scm、まぁ引き続きコーディングを進めてるわけだけど。行き詰まってきて苦しい。現在コードは750行。思ったより長くって、これ以上になると自分の興味を維持できなくなるような気がする。SNS的なものを作ってみたことで、あれこれ分かったこともあるし、解決した問題もあるようには思うけど。

でも、結局自分は何をしたいのかが、分からなくなってくる。行数が長くなってきて、苦しくなってきて、その苦しさに見合う何かを、自分は手に入れられるんだろうかと考える。750行も書いているのに、この延長線上でブレイクスルーしそうな感じがない。今度のコードもまた、このへんでお蔵にすることになるのかなぁ……。

言い訳になるけど、750という数字が絶対的な数値として大きすぎるというわけじゃなくて、自分の関心の範囲に、750行分もの名前空間を保持できないという感じ。750行を分割統治して、大部分をブラックボックスにしてしまえばいいのかもしれないけど。でもいずれにせよ、それらをする情熱が湧き上がってこないというか、擦り切れてしまったというか、とにかく苦しい。

そもそも、どうしてこんなものを作ろうと思ったんだっけなぁというのも、長い話になってしまうけど。ずっとずっと、next momokaになる何かを作りたいとは思っていて、何度もコードの断片を書いてはいる。でもずっと、モノにならない。コードを書いていると、投げやりな気分になるし、逆に投げやりなものこそが、next momokaであってほしいような気がする。だから、750行というのは、自分にとっては大きすぎる。コードをこねくりまわして、捨てる日々。

いや、そもそもという話をするのなら、next momokaなんてものは、必要なんだろうか。momokaそのものが、自分にとってどういう存在なのかも考える。正直なところ、よく分からないんだよね、momokaとか、この場所がどういうものなのか。自分がここで何をしたいのか。分からないというような気もするし、分かってるけどそれを言いたくないというような気もする。自分がやりたいことを、「やってやるもんか」と言おうとしているもう一人の自分もいる。またもう一人の自分は、「そんなことをここに書くってのは結局……」とか言ってたりする。

もう自分には分からないので、煮るなり焼くなり好きにしてくれー。……って、一瞬言いたくなる。でもその言葉に被せるように、もう一人、またもう一人と自分が言葉を重ねる。結局ただの甘えなんだねとか、その程度のスケールでしか物事を見ていないということだとか、そこから先へ行くためには?とか。自分は結局、たいしたことをしたい人間ではないのだろう。そのことを認めるのは勝手だけど、それをここで表明する必要はないか……、まぁそれはいいとしても、いったいどうすればいいのかと途方に暮れる。

告白。結局ぼくは、告白をしたいと思っている。でもその告白が、行き場を失って、黒く塗り潰そうとしている一人の人間がいて、追い掛けっこをしている。追い掛けっこをしているうちに、時間が過ぎればいいなと考えてしまっている。愚か者だ。すべてを投げ捨てても、受け容れられる場所。あるいはそんなに大層なものでなくとも、何らかの外世界。なんらかの助けを求めるような気持ち。

まぁ、精神的には普通で、心がなんたらとかそういうのではないので、大丈夫ではあります。ただ、コードを書いていると、自然に「これは何をなすためのコードなのか」と考えてしまうし、その答を考えると、おのずと上記のような論理の空間に入り込むものだということで。でもまぁ確かに、書かなくてもいいことではあるか。でも、書いてもいいことだろうし、自分にとってはこれが日記というか、「書こう」という気持ちにさせるネタがこれだったというか。まぁ適当です。
2007-07-16 00:26:52 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-07-12

# 日記

生きてればいろんなことが起こるけど、どんな出来事も面白いものです。
生きてるって、そういう感じです。

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バカが征く
http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=20070712

 プログラマの仕事っていうのは、単にプログラムを書く
 ことじゃないのね。問題を解決するためにプログラムを
 書くことなのね。
 
 だから、問題を解決しないプログラムを書くのは、プロ
 グラマの仕事じゃない。だから、プログラマは、自分が
 書いてるプログラムが本当に問題を解決できるか気に
 しないといけない。

バカ征くさんは、いつもいいことを書いてらっしゃるなぁと
思ってて、いつもここで紹介したくなるのだけど、それを
やってるとキリがないのでそういうことはしない、と決めて
いるのだけど、そう決めて絶対にルールを守るのもなぁと
いうことで、たまにはする。紹介? んにゃ、リンク。

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山に登る。一面美しい景色が広がる。
カメラを構えるも、フレームには、その美しさが全然収まらない。
どうやってその美しさを切り取るか、美しさに迫るか。

目に見えているのに、それをつかまえられないジレンマ。
フレームというこの四角い箱は、人間の手が届く場所は、あまりにも小さい。
そのフレームで、どこまで美に近付くか、どうやってそこに迫るか。

それはある意味、冒険だ。フレームで視界を冒険することだ。
フレーム、視線、自分の発想との戦い。発想で世界を探検する。

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打ち合わせについて。
知的な人と話をするのは、面白いものだ。
でも、面白い話を一方的にしないよう気をつけたい。
こちらが向こうを振動させるだけでは、意味がないから。
向こうに、こちらを振動させたい。
また振動が、全体に伝わらないのも問題がある。
そういうわけで、打ち合わせというのは難しい。

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そこにないものを、さもあるかのように表現するのが好きじゃない
ってこと、か。
2007-07-12 10:49:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-07-10

# メモ

もうすっかり、出展がどこだったか忘れてしまったのだけど、
昔のヨーロッパの諺だか、偉い人の言葉だかに、こういうのがあるらしい。

「生きるというのは、恥ずかしいことだ」

これを読んだとき、どう思ったんだっけ。本当にそうだなぁと
思ったように思うのだけど。

生きるというのは、本当に恥ずかしいことで、
書くというのもまた恥ずかしいことだなぁと思う。
自分の書いた文章が、たったほんの5分前に書いたものであっても、
自分に対して襲いかかってくる。
2007-07-10 23:31:30 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日記

言葉なんて、役に立たなければ虚しいだけだ。

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新山さん、悪い冗談を言うんだからなぁ、もう。心配しちゃったよ。

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ここ数日? 数週間? は安定ぎみ。書くべきことがない。
退屈なような、おだやかなような。

こういうときは、いろいろ細かいプログラムを書いていることが多いです。

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ああ、そうだ。あと、ここに書くべきことではないかもしれないけど、
最近さくらさんにアクセスできないので心配。どうしたんだろう。
なんとなく苦しい。
2007-07-10 23:07:29 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-07-07

# 「私」の存在

ちょっと引用が長いけど、すばらしく重要な理解だと思うので抜粋。

はてブついでに覚書。 - 繋がりたい私の選択
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20070707/1183799300
 社会が昨日の私と今日の私とをおんなじ人間だと見てくれてること、
 そういう、周りの人の、私の同定性への信頼と安心によって私は支えられている。
 誰かが明日の私に今日の私の延長としての「場」を与えてくれることで、
 私はその人の中に明日存在出来る。
 そうやって認識されていることが私が存在しているということなので、
 その整合性が崩れそうになると身体のどこかでアラームが鳴って
 おっといけないいけないとどこかがバランスを取るようになっている。
 別に相手は社会や友人じゃなくて、神や主義でもいいけど、、。
 
 という感じで私は私を毎日”選択”してるような気がする。
 一つ言葉を発すれば、一つ行動をすれば、それによって次の私の選択肢が現れる。
 で、必ずその選択肢の中から次の”私”を選ぶようにしてる。
 選択肢外から次の私を持ってくるようなことは、基本的にはしない。
 
 アラームっていうのは、イメージが近い感覚は「恐怖」かなあ。
 
 で、アラームが壊れているような人がたまにいて、
 そういう恐怖みたいなのがないのかなあ強いなあうらやましいなあ何でもできるじゃんと思うけど、
 やっぱうらやましくないかな。
 そういう人は怖いし。
 なんでも出来たって、周りの人や、過去や未来との繋がりがなきゃ意味ないし。
 
 アラームっていうか恐怖というかこれは、弱い人間のための免疫機能なのかね。
 その人間が”社会的に”死亡しないための。

既存のメディアの人の中に、ネットの匿名性を攻撃する人がいるけど、そういう人はまさにこういう「弱さ」を自分の核にしているのかなぁと思った。たいていの人はこの文章で指摘されている意味で弱いので、匿名性というのは今後も大勢としては攻撃され続けるのかなぁとか。

あと、この人はすごく鋭いのだけど、そこまでの鋭さがあるなら、たまには自分を捨てられる軽やかさとか、勇気とか、出せばいいんじゃないかなぁと思う(よくこの人のことを知らないで書いてますけど)。少し前から書いているような、「外から自分を見る」ってのは、過去や未来との繋がりを、あえて切断することにあたると思うんだよね。

優れた科学者や芸術家ってのは、過去や未来の自分との繋がりを、あえて切断できる人間だとぼくは思ってる。ただ、彼らはつながる術も持ちつつ、切断することもできる。内側から見ることができる一方で、外側からも物事を見ることができる。そしてそれは、すべての人間が内部に神を宿しているかのように、そこに在ることができるし、在ってほしいものだと思う。

「周りの人や、過去や未来との繋がりがなきゃ意味ない」ってことは、ないんじゃないかな。それを認めてしまうなら、あなたやぼくの個そのものが、社会性を依りどころにしか存在を許されなくなってしまう。でも、人間って社会的な存在である前に、根源としては非社会的な存在なんじゃないかなぁ。そしてその、非社会的な部分でつながりあえなければ、面白くないような気がする。

たとえば明日、あなたやぼくが記憶喪失になったとして、自分が誰かも分からなくなってしまったとしたらどうだろう? 「自分はもう死ぬしかない」と思うほど、記憶という社会への参加証は重いだろうか。記憶喪失になった友達を見て、「お前なんか知らない」と言ってしまえるようなものだろうか。親はきっと、自分の子供が記憶喪失になったって、自分の子供を愛してしまうものなんじゃないだろうか。ぼくは、社会性など記号にすぎないように思う。記号ぐらい失っても、人間にはたいして関係ないんじゃないかな。だって人間は、ちゃんとたくさんのものを持っていると思うもの。
2007-07-07 22:24:17 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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