メッセージ。 - diary

2007-06-20

# なんとなく、セクハラと社会について

 *minx* [macska dot org in exile] - セクシュアルハラスメントの動機は性的興味ではない、という話
http://d.hatena.ne.jp/macska/20070521/p1

よく理解できなかったんだけど、興味深い内容だと思った。というか、タイトルに同感。

で、なんとなく感じたこと。結局のところ、セクハラというのは、弱者探しなんじゃないか? だいたいセクハラをする人間のイメージとしては、「(性的に、ではなく)社会的に歪んだ欲望の持ち主」を想像してしまうけれども、この想像を是と仮定してもう一歩進めてみる。「なぜ、セクハラの加害者は、社会的に歪んだ欲望を持つのか、その結果どのように振る舞うのか?」

まったくの想像と言っていい範疇に踏み込むのだけど(ぶじさわの書くものはいつもそうだけど)、セクハラの加害者は、きっと、「社会的弱者」だ。彼らは自ら、自分達が社会的弱者であると感じており、そのことに不満を持っている。ぼくはいつも、サルの集団生活を映す動物ドキュメンタリーを見ると、ボスザル以外の大人のオスザル(あるいはメスザル)達が、どんな気持ちでいるか想像するのだけど、それに似たものを感じる。

つまり、社会的弱者の地位にいる者は、その境遇に不満を感じ、なんとか改善したいと考える。彼らの不満の対象は、直接的には上位のサルであるべきだが、現実的には、憎悪は社会に向けられる。「どうして『自分』が『社会』において『弱者』なのか」と。「この社会が悪い、こんな社会は潰してしまえ」と。

しかし現実には、社会を潰すのは難しく、それを実現するということは、上位のサルより上位に立つ能力が必要だ。そこで彼らは、社会と正面から対峙するのを避ける。ゲリラ的に、あるいは刹那的に、反社会的行動を(人目に触れない場所で)行う。彼らの目的は、社会への「仕返し」だ。

一方で、どうして彼ら、たとえばセクハラをする男や痴漢らは、「女らしい女」を標的にしないのか。もし彼らが、自らの社会的弱者的境遇に鬱屈を感じているのなら、「女らしくない女」は同様に社会的弱者であるか、どちらかと言えば社会的正義に反目する存在、「味方」だと言える。「女らしい女」はまさに社会的強者であり、彼女らこそが敵だ。なぜ彼らは、敵を攻撃せずに味方を攻撃するのか。

たぶんだけれど。たぶん彼らは、「女らしい女」たちが、自分より強いことを知っている。彼女らは、社会的強者であって、弱者である自分たちでは歯が立たない。「女らしい女」を、(とくにたくさんの人がいる場所で)攻めるというのは、社会に対して正面から立ち向かうことなので、彼らはそれを選ばない。要するに、彼らが求めているのは、はけ口なのではないか。

……セクハラというよりは、痴漢のイメージを頭の中に入れて書いちゃったっぽい。
2007-06-20 10:19:26 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# サポートとか

MovableTypeのラインセンスがGPL化されることが意外と知られてない/理解されてないらしい
http://neta.ywcafe.net/000749.html

あーそうかー。そういやMovableTypeのライセンスって、GPL化されるんだったなー。ライセンスのことって忘れがちだし、オープンソースライセンスの意味も、なんつーか「理解」するのはなかなか難しいよなー。

それにしても、いいことが書かれてるなぁ。サポートの意味とか、営業の実際とか。あと、MovableTypeがGPL化されるとして、どれくらいオープンなんだろうか?とか(機能限定版がオープンになるの?とか、コードがブランチしたらいやだなぁとか、URLの深いところでひっそりオープンになるんじゃないの?とか)。

個人的には、現実問題として「サポート」なんてまったくと言っていいほど「使えない」と思っているのだけど、世間の温度感とかそうじゃないし、実際にOSS陣営からも「オープンソースソフトウェアのビジネスモデルって『サポート』が本質じゃん?」みたいな意見さえあるわけで、とんでもない空中戦だよなぁ。どこから弾が飛んでくるか分からない。

「じゃあおまい、どんだけサポート頼りにするんか?」と。「サポートを売る・買うってことに、どれくらいコミットする(責任を取る)んか?」と。このへんの感覚は、言葉に出して表現するのも難しい。長島監督の野球談義を聞くように、要領の得ない説明になってしまう。結局のところ、サポートって「責任」ってことなのかなぁ。で、「責任」が曖昧だから、サポートやサポートビジネスも曖昧なのかなぁ。

よく分からんけど。困ったとき、最終的には自分の身を助けてくれるのは自分しかいない。でもまぁ、医者の手助けがなければ話にならないように、自分で自分を助けられない場面もあるだろうしなぁ。サポートってたとえば医者の仕事みたいなものなのかなぁ。よく分からない。モヤモヤー
2007-06-20 07:19:11 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-19

# 悪とは何か

要するに、悪というのは「敵」の言い換えにすぎない。
だが人は、「敵」と呼べばよい場面で、「悪」と呼ぶ。

「敵」では駄目だからだ。敵では大義がない。
大義が必要だから、わざわざ人はそれを「悪」と呼ぶ。
そこには根拠などない。彼らにとっては、根拠などなんでもいい。

より多くの人間を味方に付けたほうが「正義」だ。
だから彼らは、「敵」や「嫌い」といった言葉ではなく、
「正義」や「汚い」という言葉を使う。

そういうロジックでなければ、
彼らが「正義」や「悪」という言葉を使う必要はない。

彼らは、「あなたは私の敵か?」とは尋ねない。
「あなたは悪か?」と問う。

つまり、暗に「自分や、自分たが正義だ」と言っている。
そして暗に、「あなたが悪でないのなら証を示せ」
(そこにある悪を潰して正義の証を立てよ)とけしかける。
恐怖心をあおる。誰もがみな、恐怖心に駆られている。

現実に、多くのケースで、「敵」という言葉の代わりに
「悪」という言葉が使われる。
彼らは「敵」という言葉も、「嫌い」という言葉も使えない。
弱いからだ。
2007-06-19 23:50:49 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-15

# メモ

だからね。結局、目に見えてるのは氷山の一角なんですよ。
で、「見えているのは一角だ」というのを、どう意識するかが大事だと思う。
自分が今見ているものは、真実なんだろうか? 何なんだろうか? 全体からすれば、どういう意味があるだろうか?と。
で、真実とか、全体というのが原点だろうと。

ものごとを、内から見るだけではなくて、外からも見てみる。
善とか悪とか、勝ったとか負けたとか、正しいとか間違ってるとか、
そういうことを欲しがるというのは、ある意味内側から物事を見ているってこと。
2007-06-15 10:29:41 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# メモ

smallpineの日記 / 腐りかけの果実の自分語り
http://d.hatena.ne.jp/smallpine/20070614

 ・ 認識が違うのは何故だろう。これは単純な理由で「なんで女性がいるのかと思」うタイプの人はそれを言葉に出すが、はじめからそう思っていない人々はそんなこと言葉にしたりしない。その結果、印象は前者に占拠される。つまりアレだ、世の嫁姑は全ていがみ合っているという印象が形成されるのと同じメカニズムである*1。
 ・ ついでに余談だけど、これ世の中の殆どの事例に言えると思うんだよね。声の大きい1割とその他。なんかの風潮が支配的だと感じるとき、それを支持してる人は実は1割くらいなんだって。ちなみにそれが15%になれば世の中を大きく変えることが出来るんだって。

うを。smallpineさんは賢いなぁ。けっこう好きです☆
2007-06-15 10:15:23 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-14

# リンク

公正ってなんだろう
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20070611/1181527068

FPN-「いつかやりたいことリスト」に「今だからやりたいこと」を入れない
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=2391
2007-06-14 21:40:59 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 強いこと、数を集めること

んー。シンプルに、嫌いなやつがいるなら、殴ればいいんじゃないの? と思う。

嫌いなやつがいるなら殴ればいいし、もし逆に、自分が誰かに殴られたら、殴り返せばいい。

そしてどちらか、最後まで立っていられたやつのほうが、次へ行けばいいんじゃないかと思う。

「強いことが正義」では駄目なのかな?

「強くないことが正義」ってのは変だし、
「数を集めたほうが正義」ってのは、「強いことが正義」と同義だ。

ぼくは、「数を集めたほうが正義」という考え方は好きじゃない。
「数を集めたほうが正義」派はおうおうにして、「強いことが正義」派を「暴力だ」と表現する。

つまり、「強いことが正義」派による
「力の弱いものを捻じ伏せようとするやり方」を非難している。

でも結局、「数を集めたほうが正義」派だって
「数の少ないほうを捻じ伏せようとするやり方」を是としている。

どちらも結局、ねじ伏せようとしている。
だから、「数を集めたほうが正義」ってのは、「強いことが正義」と同義だ。

そのことを自覚して数を集めるのならいい。
「あいつは嫌いだからやっつけたい。みんな力を貸してくれ」と言うのならいい。
でも、大抵の場合「自分はあいつが嫌い」という表現は避けられる。

「みんなあの人のことどう思う?」(もちろん嫌いだよね?にっこり)と反語で表現される。

嫌いなものを嫌いと言えなくなっているというのは、重大な問題じゃないのかな。
誰かや何かを、「嫌い」と言うのは勇気がいるし、実質上、それは口にできない。なぜか?
たぶん、「自分は誰かや何かを嫌いだ」という言葉は、数を集めるのに適さないからだ。

そしてそのうち、「自分は誰かや何かを嫌いだ」とは誰も表現しなくなる。魔女狩りの日々。

でも、「嫌い」という感情は、人間にとって自然な感情なんじゃないのか。
「嫌い」という感情はなくせない。「嫌い」という感情はそこにある。
でもそれを、口に出せない、誰にも打ち明けられない。それは、どんな感じだろう?
2007-06-14 10:22:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# メモ

元気にしてるならそれはよいことです。……意味不明だなぁ。1つのニュアンスを表現しようとしたら、別のもう1つ表現したいニュアンスとコンフリクトする。難しい。

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ここ最近、2か月ぐらいの間、考えていること。

とりあえず世の中には2種類ぐらいの人間がいて、
一方は、自分の身に火の粉が振りかかるなら振り払えばいいと思う派。
もう一方は、火の粉が振りかからないようにしようと思う派。

前者の振り払えばいいと思う派は、合理的・自然主義的・実力主義的なような気がする。
「どれだけ努力しても火の粉をゼロにすることはできないのだし、
振り払えば大きな問題にならないんだから振り払えばいいよ」というのが彼らの根拠。

火の粉が振りかからないようにしようと思う派は、ルールや人為的装置などを駆使して、
自分(たち)に火の粉が振りかからないようにしようとする。「人が通るところで焚き火をするのはやめよう」。

振り払えばいいよ派の人にもいろいろいて、中には、振りかからないようにしようと思う派に賛同する人がいる。そういうのはフェミニストだなぁと思う。彼らは、自分では火の粉のことなんて大して問題視していない(問題視する必要がない)はずだ。彼らは、火の粉を気にしなくてよいほど強い体を持っている。

……どちらが善い・悪いではないけど、うまく書けない。
あと、暗喩とか皮肉とかではなくて書いてるつもりだけど。とりあえずここまで。
2007-06-14 07:45:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-13

# 日々

ズボンが擦り切れて、穴があいた。
「あーこりゃパンツが見えるなー」ってことで、下着に地味なパンツを選ぶ。
それで、会社に行こうと、こうして駅まで歩いてきたわけだけど。

やっぱり、パンツが見えてるってのは、よろしくないことかしら。
会社に行くわけだし、もういい年なわけだし、周りの人に、
「パンツ見せるなよ」と思わせてしまうかもしれない。

しっかしなぁ。
パンツは確かに、反則かもしれないけど。
けっきょくでも、私服自体が、パンツみたいなもんじゃん。
私的なことなわけだから。

私服にしても、企画書にしても、会議にしても、パンツの延長線上にあるじゃん。
パンツどうしの戦いじゃん。ただパンツは、「普通」より私的ってだけだ。
でも普通って、そもそも、よく分からない。

パンツが見えるほど擦り切れるズボンってのは、たぶんファッションではない。
だってそれは、「粋がる」ことではないから。

「粋がる」ってのは、「粋」とは違う。「粋だと言い張る」ってことなんだと思う。
ファッションってのは、それぞれが粋だと言い張ることなんじゃないかな。
あ、えーと、とくに、それが資本主義経済と結びついたときには。

ぼくは、パンツが見えるズボンを粋だとは思わないし、粋がろうとも思わない。
ただ1つの生き方であると思う。それは他人に理解されないだろうし、
理解を求めてはいけない。ただ、言わせてもらえば、生き方というのは
「そうするしかない、なかった」ものであるだろうと思っている。

正直なところ、パンツが見えるというのは、恰好が悪いし、恥ずかしい。
でも恥ずかしがっていては生きられないというか。

……早くズボン買いに行こう。
2007-06-13 10:22:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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