メッセージ。 - diary
2007-07-21
# 「自分のもの」
深く考えないで捨てるように書く - ブックマークコメント、ブログコメント、トラックバック
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20070721/1184982353
ああ、まさしく最近、そういうことを考えているのだった。「SNSはメールの延長線上にある」と考えてdmf.scmを作っているのも、そういうこと。つまり、マイミクも、もらったプライベートメッセージも、コメントも、自分が書いた日記も、「自分のもの」だ。そして、自分のものが増えるからこそ、嬉しいのだと思う。それがSNSの「面白さ」。一時期、「You gatta mail!」というあのメッセージがインターネットの楽しさを示すものとして象徴的に使われたけど、SNSは結局あれの延長線上を歩いているのだと考えた。「自分のもの」をどう扱うか、そこをソフトウェア的に実装するのが1つの重要な観点だと最近は思っている。
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20070721/1184982353
私の書いたブックマークコメントは、私のもの。確かに他のブログやページとリンクしてはいるが、自分で管理編集するものである以上、リンク先ページの付属物ではなく、自分のもの。
ああ、まさしく最近、そういうことを考えているのだった。「SNSはメールの延長線上にある」と考えてdmf.scmを作っているのも、そういうこと。つまり、マイミクも、もらったプライベートメッセージも、コメントも、自分が書いた日記も、「自分のもの」だ。そして、自分のものが増えるからこそ、嬉しいのだと思う。それがSNSの「面白さ」。一時期、「You gatta mail!」というあのメッセージがインターネットの楽しさを示すものとして象徴的に使われたけど、SNSは結局あれの延長線上を歩いているのだと考えた。「自分のもの」をどう扱うか、そこをソフトウェア的に実装するのが1つの重要な観点だと最近は思っている。
2007-07-20
# ちょっとメモ
Say::So? - ノート関連の話をちらちらと読みながら思ったこと
http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070719/1184821114
この話を読みながら思ったのだけど。学生がノートを取らないのは、ノートを取る意義が分かってないからなんじゃないかなぁ。かくいうぼくも、学生時代はノートをうまく取れなかったし、あまりちゃんとノートを取っていなかったほうだから、ノートを取らない学生の気持ちは、分かるような気がする。
たとえば今、自分の身を振り返ったとき。仕事の最中に紙のノートこそ取らないものの、メモ用Wikiには膨大なテキストを残している。それはなぜかというと、「メモを取らなかったことで大変困った」という体験が多かったせいである。
たとえば使っているシステム(OSとか)がエラーになって、それを解決したいとき、エラーメッセージを残しておかなかったら、誰かに何かを尋くのもままならない。またプログラミングをしていて「あの情報どこのWebページにあったかな」と思うことは頻繁にあるし、仕事中に「一年前に提出した書類、また今年も出さなきゃいけないんだけど、去年のデータ残ってないかな?」と思うこともよくある。
そういったとき、データを残しておかなければ困ってしまってほとんど仕事が進まなくなる。今のぼくにとって、ノートというのは、取っておくことが仕事でも趣味でも死活問題に直結している。でも、学生のときには、そこまでこんを詰めて何か(勉強にせよ趣味にせよ)をやっているということがなかったんだな。あのころはとくに、データを残しておかなければいけないこと、というのがあまりなかったように思う。
だから、学生がノートを取らないというのも、ぼくから見ればまぁ当然というか、しょうがないことのようにも思われる。彼らはそのことで、困ったことがないのだ。ぼくも当時、ノートを取らなくても困らなかったし(だって同じようなことが、すでに参考書に書いてある!)、全然、本当に全然、うまく使いこなせていなかった。それと同じことを、今もみんなも感じているんじゃないのかなぁ。
だからたぶん、ノートを取りなさいとか言ってもしょうがない。放っとけばいいのだ。そのことで困るという体験をしなければ、どうせ彼らの身には付かない。自分だって、最近やっと身に付いてきたところだもの。教職の側からやらなければいけないのは、むしろノートを取らない学生たちをいかに困らせ、いかに問題に気付かせる(問題を手渡し、共有する)ことなんじゃないかという気がする。
追記:b_say_soさんの文章を最後まで読んでみたら、同じようなことが書いてあった。あにゃー。
http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070719/1184821114
この話を読みながら思ったのだけど。学生がノートを取らないのは、ノートを取る意義が分かってないからなんじゃないかなぁ。かくいうぼくも、学生時代はノートをうまく取れなかったし、あまりちゃんとノートを取っていなかったほうだから、ノートを取らない学生の気持ちは、分かるような気がする。
たとえば今、自分の身を振り返ったとき。仕事の最中に紙のノートこそ取らないものの、メモ用Wikiには膨大なテキストを残している。それはなぜかというと、「メモを取らなかったことで大変困った」という体験が多かったせいである。
たとえば使っているシステム(OSとか)がエラーになって、それを解決したいとき、エラーメッセージを残しておかなかったら、誰かに何かを尋くのもままならない。またプログラミングをしていて「あの情報どこのWebページにあったかな」と思うことは頻繁にあるし、仕事中に「一年前に提出した書類、また今年も出さなきゃいけないんだけど、去年のデータ残ってないかな?」と思うこともよくある。
そういったとき、データを残しておかなければ困ってしまってほとんど仕事が進まなくなる。今のぼくにとって、ノートというのは、取っておくことが仕事でも趣味でも死活問題に直結している。でも、学生のときには、そこまでこんを詰めて何か(勉強にせよ趣味にせよ)をやっているということがなかったんだな。あのころはとくに、データを残しておかなければいけないこと、というのがあまりなかったように思う。
だから、学生がノートを取らないというのも、ぼくから見ればまぁ当然というか、しょうがないことのようにも思われる。彼らはそのことで、困ったことがないのだ。ぼくも当時、ノートを取らなくても困らなかったし(だって同じようなことが、すでに参考書に書いてある!)、全然、本当に全然、うまく使いこなせていなかった。それと同じことを、今もみんなも感じているんじゃないのかなぁ。
だからたぶん、ノートを取りなさいとか言ってもしょうがない。放っとけばいいのだ。そのことで困るという体験をしなければ、どうせ彼らの身には付かない。自分だって、最近やっと身に付いてきたところだもの。教職の側からやらなければいけないのは、むしろノートを取らない学生たちをいかに困らせ、いかに問題に気付かせる(問題を手渡し、共有する)ことなんじゃないかという気がする。
追記:b_say_soさんの文章を最後まで読んでみたら、同じようなことが書いてあった。あにゃー。
2007-07-17
# 日記
# dmf-0.02
バカが征く
http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=20070716
バカ征くさんの言葉を受けて、ちょっとおいらもbaby steps
というのをやってみることにした。というか、単に現状の
コードをとにかくリリースしてみます、ってだけなんだけど。
http://pikapika.to/~yf/source/dmf-0.02.tar.gz
動いてるところは、http://pikapika.to/~yf/dmf/?cmd=readbox&usr=3 で見られます。
さぁて、これからどうしようかなぁ。
http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=20070716
前に似たようなこと書いた覚えあんだけど。これもいわれたんだけどさ、やっぱその日のうちにいじったコードをその日のうちにコミットできないっていうのは間違ってるわけよ。だって、それってbaby stepsじゃないわけじゃん?だから、時間軸を持って設計とコーディングをしなきゃいけないわけ。どういう筋道をたどったら日々コミットできるか考えなきゃいけない。よくいわれる『部品化』ってヤツ? まぁ、それはそれで大事なことなんだけど。でも、部品化っていうのは、作る手順を意味するわけじゃないからさ。部品化っていうのは結果に過ぎない。部品化を手順として捉えちゃうと、『結合は最後にやる』みたいな間違った考えに陥っちゃう。
バカ征くさんの言葉を受けて、ちょっとおいらもbaby steps
というのをやってみることにした。というか、単に現状の
コードをとにかくリリースしてみます、ってだけなんだけど。
http://pikapika.to/~yf/source/dmf-0.02.tar.gz
動いてるところは、http://pikapika.to/~yf/dmf/?cmd=readbox&usr=3 で見られます。
さぁて、これからどうしようかなぁ。
# 同じことを書くこと
はてなに学ぶ - 同じことを書くこと
http://d.hatena.ne.jp/katsumushi/20070716/p1
うーん、確かになぁ、そうだよなぁと思った。こんな大事なことを、ぼくもけっこう忘れてたりする。
たしかにぼくも、「自分は同じことばっかり書いてる」って自己嫌悪に陥ってたんだよなぁ……。
同じことを書いていても、その言葉を投げかけている相手が違うので、なにかの役に立てばいいなと一応思ってはいるのだけど。
----
でも、なんかこう、同じことばっかり書いたり言ったりする自分は、傲慢なような気にもなっちゃうんだよねぇ……。
自分だけ、どこか安全な場所に立って、一方的に言葉を投げつけているような気がして。
あと、そのときどきで、違う人に向かって同じことを言う自分は、いったいなんなんだとも思う。
あるいは、違う人は、自分にとっていったいなんなんだ、とか。
もっと卑近で悪いことには、「同じことばっかり言う自分は、みんなの目に格好悪く映ってるだろうな」とも。
難しい。
http://d.hatena.ne.jp/katsumushi/20070716/p1
うーん、確かになぁ、そうだよなぁと思った。こんな大事なことを、ぼくもけっこう忘れてたりする。
たしかにぼくも、「自分は同じことばっかり書いてる」って自己嫌悪に陥ってたんだよなぁ……。
同じことを書いていても、その言葉を投げかけている相手が違うので、なにかの役に立てばいいなと一応思ってはいるのだけど。
----
でも、なんかこう、同じことばっかり書いたり言ったりする自分は、傲慢なような気にもなっちゃうんだよねぇ……。
自分だけ、どこか安全な場所に立って、一方的に言葉を投げつけているような気がして。
あと、そのときどきで、違う人に向かって同じことを言う自分は、いったいなんなんだとも思う。
あるいは、違う人は、自分にとっていったいなんなんだ、とか。
もっと卑近で悪いことには、「同じことばっかり言う自分は、みんなの目に格好悪く映ってるだろうな」とも。
難しい。
2007-07-16
# 日記
前から知ってたけど、いまさらメモしてみっか。えーと、ふじさわというのは、超自我が自我を圧迫して押さえつけようとするような傾向がある。
たぶんこれは、父親の影響だと思うのだけど。「○○しなければいけない」とよく言われて育ったから。そのくせ父親は、自分では規範的な生活などできなくて、よく母親に「なんで自分ができへんことを、子供にさせようとするのん?」なんてたしなめられていたりした。
そういうとき父親は、「自分ができないことを人にしろと言ったらあかんのか?」みたいな変な逆ギレをしていて面白かったのを覚えている。基本的に父親は大阪の商売人の子で、しかも長男なのでナヨナヨしている。だから怒っても暴力とかになったりするのではなくて、そういう怒り方になって面白い。論理としては、間違ってないしね。矛盾というか、自己に内在する解決不可能性の問題と肯定・外世界との関係というか、そういうのを考えるのに役立った。
とにかくまぁ、彼の心の中には「○○しなければいけない」という成分が若干過剰に在ったように、ぼくには思われる。いや、若干過剰にあっただけならいいのだけど、「○○しなければいけない」の後に「でも現実にはこれこれで」、「ということで△△してみたらどう?」みたいな折衷・提案型の思考があれば、あるいは「べき論」の手前にあるはず目的論があればよかったのになぁというように思っている。でもまぁ、ないものはないでしょうがないし、結局のところ根源は彼の人生の問題だし、すぐに解決する問題ではないので、気にしていないけど。
問題は自分、つまりぼくだ。ぼく自身がどのように人格形成すればいいか。父親のような圧迫過剰は良くないなぁと中学生ぐらいのときには思ってて、でもまぁそういう影響は避けられないし、厳然たる事実として自分の中には彼の性格傾向がコピーされていて、その事実から発生した結果たる現実を、正面から覆そうとしたり抗おうとしてもしょうがないなと考えていた。
それで、現実的にはどういう方針を採ったんだっけかなぁ。実際には目に見えるような何らかの行動をしたというわけではなかったはず。でもこう、なんというか、自分の中にコピーされている流れはたくさん在るわけで、その中から好ましいものを伸ばしていこうという方針を採ったのだったかな。で、たぶんそれを認めたことが、多義的な自己という現在の方針につながっている。
結局のところ、一人の人間は、自分でも肯定できず好きになれないような一面をはらんでいる。でもまぁ、そういった一面もあっていいじゃないかというか。自分の中に、嫌いな面もあるけど、好きな面もある。嫌いな面を全部隔離して廃棄することはできないし、それをすることに意味はない(という考え方がありうる)。1つの理由としては、好きな面と嫌いな面は渾然一体となって切り離せない状態で存在し、欲しいものだけを「欲しい」と言ったところで手に入るものでは到底なく、もし仮にそれが手に入ったとしても、どうせ「新しい」問題が発生して結局「問題」は解決しないから。またもう1つの理由として、過去の人たちもそのようなまだら色の面を背負って生きてきたという事実があるから。
ここではとくに後者。過去の人たちもまた、自分の中に嫌いな面をたくさん抱えながら生きてきた。彼らの中に、彼らが嫌い怖れる面があったからこそ、結果として彼らは彼らとして生きた。ならば、自分もまたそういう体験をしたいと思う。彼らと同じような体験をすることで、自分は彼らのことを理解できるだろうし、そうしたいと思う。だからぼくは、自分の中の嫌いな面も、なかなかそれなりに面白く感じている。それは彼らとぼくをつなぐ何かだし、ぼくをこの先へ運ぶ何かでもある。
それでなんだっけ。超自我が自我を圧迫して押さえつけようとする傾向か。まぁだから、あまり気にしていない。ひとことで言えば、そういうところも嫌いじゃないって感じか。論理として結構緩いかなぁ。まぁとりあえず。
たぶんこれは、父親の影響だと思うのだけど。「○○しなければいけない」とよく言われて育ったから。そのくせ父親は、自分では規範的な生活などできなくて、よく母親に「なんで自分ができへんことを、子供にさせようとするのん?」なんてたしなめられていたりした。
そういうとき父親は、「自分ができないことを人にしろと言ったらあかんのか?」みたいな変な逆ギレをしていて面白かったのを覚えている。基本的に父親は大阪の商売人の子で、しかも長男なのでナヨナヨしている。だから怒っても暴力とかになったりするのではなくて、そういう怒り方になって面白い。論理としては、間違ってないしね。矛盾というか、自己に内在する解決不可能性の問題と肯定・外世界との関係というか、そういうのを考えるのに役立った。
とにかくまぁ、彼の心の中には「○○しなければいけない」という成分が若干過剰に在ったように、ぼくには思われる。いや、若干過剰にあっただけならいいのだけど、「○○しなければいけない」の後に「でも現実にはこれこれで」、「ということで△△してみたらどう?」みたいな折衷・提案型の思考があれば、あるいは「べき論」の手前にあるはず目的論があればよかったのになぁというように思っている。でもまぁ、ないものはないでしょうがないし、結局のところ根源は彼の人生の問題だし、すぐに解決する問題ではないので、気にしていないけど。
問題は自分、つまりぼくだ。ぼく自身がどのように人格形成すればいいか。父親のような圧迫過剰は良くないなぁと中学生ぐらいのときには思ってて、でもまぁそういう影響は避けられないし、厳然たる事実として自分の中には彼の性格傾向がコピーされていて、その事実から発生した結果たる現実を、正面から覆そうとしたり抗おうとしてもしょうがないなと考えていた。
それで、現実的にはどういう方針を採ったんだっけかなぁ。実際には目に見えるような何らかの行動をしたというわけではなかったはず。でもこう、なんというか、自分の中にコピーされている流れはたくさん在るわけで、その中から好ましいものを伸ばしていこうという方針を採ったのだったかな。で、たぶんそれを認めたことが、多義的な自己という現在の方針につながっている。
結局のところ、一人の人間は、自分でも肯定できず好きになれないような一面をはらんでいる。でもまぁ、そういった一面もあっていいじゃないかというか。自分の中に、嫌いな面もあるけど、好きな面もある。嫌いな面を全部隔離して廃棄することはできないし、それをすることに意味はない(という考え方がありうる)。1つの理由としては、好きな面と嫌いな面は渾然一体となって切り離せない状態で存在し、欲しいものだけを「欲しい」と言ったところで手に入るものでは到底なく、もし仮にそれが手に入ったとしても、どうせ「新しい」問題が発生して結局「問題」は解決しないから。またもう1つの理由として、過去の人たちもそのようなまだら色の面を背負って生きてきたという事実があるから。
ここではとくに後者。過去の人たちもまた、自分の中に嫌いな面をたくさん抱えながら生きてきた。彼らの中に、彼らが嫌い怖れる面があったからこそ、結果として彼らは彼らとして生きた。ならば、自分もまたそういう体験をしたいと思う。彼らと同じような体験をすることで、自分は彼らのことを理解できるだろうし、そうしたいと思う。だからぼくは、自分の中の嫌いな面も、なかなかそれなりに面白く感じている。それは彼らとぼくをつなぐ何かだし、ぼくをこの先へ運ぶ何かでもある。
それでなんだっけ。超自我が自我を圧迫して押さえつけようとする傾向か。まぁだから、あまり気にしていない。ひとことで言えば、そういうところも嫌いじゃないって感じか。論理として結構緩いかなぁ。まぁとりあえず。
# 日記
http://pikapika.to/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2376で話題にしたdmf.scm、まぁ引き続きコーディングを進めてるわけだけど。行き詰まってきて苦しい。現在コードは750行。思ったより長くって、これ以上になると自分の興味を維持できなくなるような気がする。SNS的なものを作ってみたことで、あれこれ分かったこともあるし、解決した問題もあるようには思うけど。
でも、結局自分は何をしたいのかが、分からなくなってくる。行数が長くなってきて、苦しくなってきて、その苦しさに見合う何かを、自分は手に入れられるんだろうかと考える。750行も書いているのに、この延長線上でブレイクスルーしそうな感じがない。今度のコードもまた、このへんでお蔵にすることになるのかなぁ……。
言い訳になるけど、750という数字が絶対的な数値として大きすぎるというわけじゃなくて、自分の関心の範囲に、750行分もの名前空間を保持できないという感じ。750行を分割統治して、大部分をブラックボックスにしてしまえばいいのかもしれないけど。でもいずれにせよ、それらをする情熱が湧き上がってこないというか、擦り切れてしまったというか、とにかく苦しい。
そもそも、どうしてこんなものを作ろうと思ったんだっけなぁというのも、長い話になってしまうけど。ずっとずっと、next momokaになる何かを作りたいとは思っていて、何度もコードの断片を書いてはいる。でもずっと、モノにならない。コードを書いていると、投げやりな気分になるし、逆に投げやりなものこそが、next momokaであってほしいような気がする。だから、750行というのは、自分にとっては大きすぎる。コードをこねくりまわして、捨てる日々。
いや、そもそもという話をするのなら、next momokaなんてものは、必要なんだろうか。momokaそのものが、自分にとってどういう存在なのかも考える。正直なところ、よく分からないんだよね、momokaとか、この場所がどういうものなのか。自分がここで何をしたいのか。分からないというような気もするし、分かってるけどそれを言いたくないというような気もする。自分がやりたいことを、「やってやるもんか」と言おうとしているもう一人の自分もいる。またもう一人の自分は、「そんなことをここに書くってのは結局……」とか言ってたりする。
もう自分には分からないので、煮るなり焼くなり好きにしてくれー。……って、一瞬言いたくなる。でもその言葉に被せるように、もう一人、またもう一人と自分が言葉を重ねる。結局ただの甘えなんだねとか、その程度のスケールでしか物事を見ていないということだとか、そこから先へ行くためには?とか。自分は結局、たいしたことをしたい人間ではないのだろう。そのことを認めるのは勝手だけど、それをここで表明する必要はないか……、まぁそれはいいとしても、いったいどうすればいいのかと途方に暮れる。
告白。結局ぼくは、告白をしたいと思っている。でもその告白が、行き場を失って、黒く塗り潰そうとしている一人の人間がいて、追い掛けっこをしている。追い掛けっこをしているうちに、時間が過ぎればいいなと考えてしまっている。愚か者だ。すべてを投げ捨てても、受け容れられる場所。あるいはそんなに大層なものでなくとも、何らかの外世界。なんらかの助けを求めるような気持ち。
まぁ、精神的には普通で、心がなんたらとかそういうのではないので、大丈夫ではあります。ただ、コードを書いていると、自然に「これは何をなすためのコードなのか」と考えてしまうし、その答を考えると、おのずと上記のような論理の空間に入り込むものだということで。でもまぁ確かに、書かなくてもいいことではあるか。でも、書いてもいいことだろうし、自分にとってはこれが日記というか、「書こう」という気持ちにさせるネタがこれだったというか。まぁ適当です。
でも、結局自分は何をしたいのかが、分からなくなってくる。行数が長くなってきて、苦しくなってきて、その苦しさに見合う何かを、自分は手に入れられるんだろうかと考える。750行も書いているのに、この延長線上でブレイクスルーしそうな感じがない。今度のコードもまた、このへんでお蔵にすることになるのかなぁ……。
言い訳になるけど、750という数字が絶対的な数値として大きすぎるというわけじゃなくて、自分の関心の範囲に、750行分もの名前空間を保持できないという感じ。750行を分割統治して、大部分をブラックボックスにしてしまえばいいのかもしれないけど。でもいずれにせよ、それらをする情熱が湧き上がってこないというか、擦り切れてしまったというか、とにかく苦しい。
そもそも、どうしてこんなものを作ろうと思ったんだっけなぁというのも、長い話になってしまうけど。ずっとずっと、next momokaになる何かを作りたいとは思っていて、何度もコードの断片を書いてはいる。でもずっと、モノにならない。コードを書いていると、投げやりな気分になるし、逆に投げやりなものこそが、next momokaであってほしいような気がする。だから、750行というのは、自分にとっては大きすぎる。コードをこねくりまわして、捨てる日々。
いや、そもそもという話をするのなら、next momokaなんてものは、必要なんだろうか。momokaそのものが、自分にとってどういう存在なのかも考える。正直なところ、よく分からないんだよね、momokaとか、この場所がどういうものなのか。自分がここで何をしたいのか。分からないというような気もするし、分かってるけどそれを言いたくないというような気もする。自分がやりたいことを、「やってやるもんか」と言おうとしているもう一人の自分もいる。またもう一人の自分は、「そんなことをここに書くってのは結局……」とか言ってたりする。
もう自分には分からないので、煮るなり焼くなり好きにしてくれー。……って、一瞬言いたくなる。でもその言葉に被せるように、もう一人、またもう一人と自分が言葉を重ねる。結局ただの甘えなんだねとか、その程度のスケールでしか物事を見ていないということだとか、そこから先へ行くためには?とか。自分は結局、たいしたことをしたい人間ではないのだろう。そのことを認めるのは勝手だけど、それをここで表明する必要はないか……、まぁそれはいいとしても、いったいどうすればいいのかと途方に暮れる。
告白。結局ぼくは、告白をしたいと思っている。でもその告白が、行き場を失って、黒く塗り潰そうとしている一人の人間がいて、追い掛けっこをしている。追い掛けっこをしているうちに、時間が過ぎればいいなと考えてしまっている。愚か者だ。すべてを投げ捨てても、受け容れられる場所。あるいはそんなに大層なものでなくとも、何らかの外世界。なんらかの助けを求めるような気持ち。
まぁ、精神的には普通で、心がなんたらとかそういうのではないので、大丈夫ではあります。ただ、コードを書いていると、自然に「これは何をなすためのコードなのか」と考えてしまうし、その答を考えると、おのずと上記のような論理の空間に入り込むものだということで。でもまぁ確かに、書かなくてもいいことではあるか。でも、書いてもいいことだろうし、自分にとってはこれが日記というか、「書こう」という気持ちにさせるネタがこれだったというか。まぁ適当です。
2007-07-12
# 日記
生きてればいろんなことが起こるけど、どんな出来事も面白いものです。
生きてるって、そういう感じです。
----
バカが征く
http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=20070712
バカ征くさんは、いつもいいことを書いてらっしゃるなぁと
思ってて、いつもここで紹介したくなるのだけど、それを
やってるとキリがないのでそういうことはしない、と決めて
いるのだけど、そう決めて絶対にルールを守るのもなぁと
いうことで、たまにはする。紹介? んにゃ、リンク。
----
山に登る。一面美しい景色が広がる。
カメラを構えるも、フレームには、その美しさが全然収まらない。
どうやってその美しさを切り取るか、美しさに迫るか。
目に見えているのに、それをつかまえられないジレンマ。
フレームというこの四角い箱は、人間の手が届く場所は、あまりにも小さい。
そのフレームで、どこまで美に近付くか、どうやってそこに迫るか。
それはある意味、冒険だ。フレームで視界を冒険することだ。
フレーム、視線、自分の発想との戦い。発想で世界を探検する。
----
打ち合わせについて。
知的な人と話をするのは、面白いものだ。
でも、面白い話を一方的にしないよう気をつけたい。
こちらが向こうを振動させるだけでは、意味がないから。
向こうに、こちらを振動させたい。
また振動が、全体に伝わらないのも問題がある。
そういうわけで、打ち合わせというのは難しい。
----
そこにないものを、さもあるかのように表現するのが好きじゃない
ってこと、か。
生きてるって、そういう感じです。
----
バカが征く
http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=20070712
プログラマの仕事っていうのは、単にプログラムを書くことじゃないのね。問題を解決するためにプログラムを書くことなのね。だから、問題を解決しないプログラムを書くのは、プログラマの仕事じゃない。だから、プログラマは、自分が書いてるプログラムが本当に問題を解決できるか気にしないといけない。
バカ征くさんは、いつもいいことを書いてらっしゃるなぁと
思ってて、いつもここで紹介したくなるのだけど、それを
やってるとキリがないのでそういうことはしない、と決めて
いるのだけど、そう決めて絶対にルールを守るのもなぁと
いうことで、たまにはする。紹介? んにゃ、リンク。
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山に登る。一面美しい景色が広がる。
カメラを構えるも、フレームには、その美しさが全然収まらない。
どうやってその美しさを切り取るか、美しさに迫るか。
目に見えているのに、それをつかまえられないジレンマ。
フレームというこの四角い箱は、人間の手が届く場所は、あまりにも小さい。
そのフレームで、どこまで美に近付くか、どうやってそこに迫るか。
それはある意味、冒険だ。フレームで視界を冒険することだ。
フレーム、視線、自分の発想との戦い。発想で世界を探検する。
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打ち合わせについて。
知的な人と話をするのは、面白いものだ。
でも、面白い話を一方的にしないよう気をつけたい。
こちらが向こうを振動させるだけでは、意味がないから。
向こうに、こちらを振動させたい。
また振動が、全体に伝わらないのも問題がある。
そういうわけで、打ち合わせというのは難しい。
----
そこにないものを、さもあるかのように表現するのが好きじゃない
ってこと、か。