メッセージ。 - diary
2007-06-11
# 苦しいのう
最近は、会社関係でいろいろつまづいてる。とても不思議なことだけど、
なぜかぼくの顔を見ると、みんな突然怒り出したり、怪訝そうな顔をしたりするのだ。
ぼくのどこが悪いんだろう。全然悪気はないつもりなんだけど、うまくいかない。
書類を持っていけば、「こ、こ、こ、これは何ですかなんですか!?」って怒られるし、
会議になったらみんな喧喧囂囂大声をあげる。
まるで、不思議の国に来たみたいに訳が分からない。
ぼくは一応、みんなの言うことを聞いて、気分を悪くしないよう注意をしながら、
「これがいい」と思う方向に歩きたいと思ってる。
でもなんか、ぼくはどうも間違ってるようなのだ。たしかにぼくは、
書類の出し方を知らないし、社内の仕組みもなにも知らないので、悪いのだけど。
でも今まで、誰もとくにそういったことを教えてくれなかったし、
だからできるだけ、常識的なふるまいをすることで、被害を小さくしようとはしてる。
ぼくだけが特別、滅茶苦茶ひどい間違いをしているようにも、思えないんだけどなぁ。
みんなほうぼうに言うことが違って、あの人の言うことを聞けば、
この人が別のことを言うみたいなのが重なって、結局ぼくが、「どうしてこんな
風にしたの? こうしないと駄目じゃない」みたいなことを言われる。
でも、「こうしないと駄目」みたいなことは一面であって、それを優先することが
できなかったから今があったりして、それでも前に進まなきゃいけないんだけど、
よく考えたらもう時間が全然ない。たまに理解をしてくれる人もいるけど、
知らないところで迷惑をかけたり、がっかりさせてなかったらいいのになぁ。
本当に、不思議の国にいるみたいだ。
なぜかぼくの顔を見ると、みんな突然怒り出したり、怪訝そうな顔をしたりするのだ。
ぼくのどこが悪いんだろう。全然悪気はないつもりなんだけど、うまくいかない。
書類を持っていけば、「こ、こ、こ、これは何ですかなんですか!?」って怒られるし、
会議になったらみんな喧喧囂囂大声をあげる。
まるで、不思議の国に来たみたいに訳が分からない。
ぼくは一応、みんなの言うことを聞いて、気分を悪くしないよう注意をしながら、
「これがいい」と思う方向に歩きたいと思ってる。
でもなんか、ぼくはどうも間違ってるようなのだ。たしかにぼくは、
書類の出し方を知らないし、社内の仕組みもなにも知らないので、悪いのだけど。
でも今まで、誰もとくにそういったことを教えてくれなかったし、
だからできるだけ、常識的なふるまいをすることで、被害を小さくしようとはしてる。
ぼくだけが特別、滅茶苦茶ひどい間違いをしているようにも、思えないんだけどなぁ。
みんなほうぼうに言うことが違って、あの人の言うことを聞けば、
この人が別のことを言うみたいなのが重なって、結局ぼくが、「どうしてこんな
風にしたの? こうしないと駄目じゃない」みたいなことを言われる。
でも、「こうしないと駄目」みたいなことは一面であって、それを優先することが
できなかったから今があったりして、それでも前に進まなきゃいけないんだけど、
よく考えたらもう時間が全然ない。たまに理解をしてくれる人もいるけど、
知らないところで迷惑をかけたり、がっかりさせてなかったらいいのになぁ。
本当に、不思議の国にいるみたいだ。
2007-06-08
# 続続 0.999...は1か
0.999...は1か、続 の続きっていうか。
結局のところ、「0.999...は1か」ってのは、「そう考えればイロイロうまくいくよ」以上のものではないんだよ。
「0.999...=1」ってのは、証明できない。「証明できるよ」って意見もあるけど、その意見をよく精査すれば完全ではない。
「0.999...=1」を証明しようとすれば、「Aの定理により証明できる」という結論が得られ、「Aの定理は正しいの?」という疑問が残る。Aの定理を証明しようとすれば、「Bの定理によりAの定理が証明できる」みたいになって、収束しない。ゲーデルの不完全性定理だ。
だから本当は、数学者も教育者も、「0.999...は1なの?」って尋かれたら、「すばらしい質問だね!! その疑問は妥当で、結局のとろは先生にもその答は分からない。0.999...=1と考えればイロイロうまくいくってだけだ。ゲーデルって人がね……」と言わなければいけない。ところが、それを言うのはすごく難しいんだ。
簡単な問題だけど、なかなかそれができない。コロンブスの卵。その原因はいくつか考えられるけど、問題の1つは身体性にあって、多くの人にとって「0.999...=1」というのが身体性を伴って理解されている。「そう考えればうまくいく」という経験則に過ぎないことを、ついつい「証明できる」(世界の果てに到達している)と思ってしまったり、あいまいな答を言ってしまう。
質問者は、「じゃあ証明って何?」って話を尋きたいのに、そこに至らない。「正しいから正しいんだよ」の向こうに辿り着けない。それが悪いって言うんじゃなくて、人間には限界があるってことで、ある程度はしょうがない。それが我々の弱みであって、強みでもある。問題はつねに在るんだ。でも問題が存在することは問題じゃない。
結局のところ、「0.999...は1か」ってのは、「そう考えればイロイロうまくいくよ」以上のものではないんだよ。
「0.999...=1」ってのは、証明できない。「証明できるよ」って意見もあるけど、その意見をよく精査すれば完全ではない。
「0.999...=1」を証明しようとすれば、「Aの定理により証明できる」という結論が得られ、「Aの定理は正しいの?」という疑問が残る。Aの定理を証明しようとすれば、「Bの定理によりAの定理が証明できる」みたいになって、収束しない。ゲーデルの不完全性定理だ。
だから本当は、数学者も教育者も、「0.999...は1なの?」って尋かれたら、「すばらしい質問だね!! その疑問は妥当で、結局のとろは先生にもその答は分からない。0.999...=1と考えればイロイロうまくいくってだけだ。ゲーデルって人がね……」と言わなければいけない。ところが、それを言うのはすごく難しいんだ。
簡単な問題だけど、なかなかそれができない。コロンブスの卵。その原因はいくつか考えられるけど、問題の1つは身体性にあって、多くの人にとって「0.999...=1」というのが身体性を伴って理解されている。「そう考えればうまくいく」という経験則に過ぎないことを、ついつい「証明できる」(世界の果てに到達している)と思ってしまったり、あいまいな答を言ってしまう。
質問者は、「じゃあ証明って何?」って話を尋きたいのに、そこに至らない。「正しいから正しいんだよ」の向こうに辿り着けない。それが悪いって言うんじゃなくて、人間には限界があるってことで、ある程度はしょうがない。それが我々の弱みであって、強みでもある。問題はつねに在るんだ。でも問題が存在することは問題じゃない。
2007-06-07
# 日々
通りを歩いていたら、突然自分が裸であることに気付く。
そういう夢を、昔はよく見た。
でもあるとき、もうその夢を見るのが本当に嫌になって、
「もうこの夢見るの、やめる!」と決めた。
それでだいたい、その夢を見ることは、なくなった。
……ちょっと違うか。
「その夢を見るのが本当に嫌になって」ってのは本当は、
「その夢を見るときに感じる気持ちが本当に嫌になって」のほうが正しい。
「もうこんな気持ちを感じるのは、やめる!」と決めたのだった。
もうぼくは、通りを歩いていて自分が裸であることに気付いても、
嫌な気持ちを感じない。そういう気持ちにならない。
「そうなったらそうなったでしょうがない」。そう決めた。
もしぼくが、街中を裸で歩いてしまったとしても。
それがぼくの運命と能力の限界であり、ぼくの本当の姿だ。
裸で歩くぼくを見て、
逮捕したいのならすればいいし、蔑みたいならそうすればいい。
ぼくを殺したいのなら殺せばいいし、ぼくの一番大事なものを
滅茶苦茶にしたいのならそうすればいい。
ぼくが裸で歩くのが罪なら、そうすればいい。
夢の中でも現実でも。ぼくはいっこうに構わない。
そういう夢を、昔はよく見た。
でもあるとき、もうその夢を見るのが本当に嫌になって、
「もうこの夢見るの、やめる!」と決めた。
それでだいたい、その夢を見ることは、なくなった。
……ちょっと違うか。
「その夢を見るのが本当に嫌になって」ってのは本当は、
「その夢を見るときに感じる気持ちが本当に嫌になって」のほうが正しい。
「もうこんな気持ちを感じるのは、やめる!」と決めたのだった。
もうぼくは、通りを歩いていて自分が裸であることに気付いても、
嫌な気持ちを感じない。そういう気持ちにならない。
「そうなったらそうなったでしょうがない」。そう決めた。
もしぼくが、街中を裸で歩いてしまったとしても。
それがぼくの運命と能力の限界であり、ぼくの本当の姿だ。
裸で歩くぼくを見て、
逮捕したいのならすればいいし、蔑みたいならそうすればいい。
ぼくを殺したいのなら殺せばいいし、ぼくの一番大事なものを
滅茶苦茶にしたいのならそうすればいい。
ぼくが裸で歩くのが罪なら、そうすればいい。
夢の中でも現実でも。ぼくはいっこうに構わない。
2007-06-06
# 日々
もしかして、おいら、嫌われてる?
って思ったりもするけど、あまり気にしない。
気にしないというか、「嫌われててもしょうがない」というか。
「嫌われてるんだったらどうしよう、どうしよう」なんて慌てるほうが、
(もし本当に嫌われてるんだとすれば、)余計に相手に迷惑な気がする。
嫌われてて、相手に迷惑なことをしてしまっていたのなら、
「ごめん」と心の中で謝る。
「ごめんよごめんよ。おいらちょっと、ただ、キミのことが気になっちゃって。
思わず声をかけてしまっただよ」。
心の中で、大声で叫ぶ。それでまぁ、矛を収めるしかしょうがない。
別に、嫌われてたって構わないもーんだ。
どれだけ嫌われてたって、自分の気持ちは変わらない。
あなたがぼくを嫌いでも、ぼくはあなたを嫌わない。だから、それでいい。
あなたには望まない。正確には、「あなたとの関係には望まない」。
ぼくはもう、あなたから十分、本当に十分、もらっているのだ。
だからもう、これ以上を望まないし、迷惑をかけるつもりも必要もない。
あなたはあなたの好きなようにやればいい。
「ありがとう」だけがふさわしい。
嫌われてたって、「ありがとう」と言ってやるのだ。
って思ったりもするけど、あまり気にしない。
気にしないというか、「嫌われててもしょうがない」というか。
「嫌われてるんだったらどうしよう、どうしよう」なんて慌てるほうが、
(もし本当に嫌われてるんだとすれば、)余計に相手に迷惑な気がする。
嫌われてて、相手に迷惑なことをしてしまっていたのなら、
「ごめん」と心の中で謝る。
「ごめんよごめんよ。おいらちょっと、ただ、キミのことが気になっちゃって。
思わず声をかけてしまっただよ」。
心の中で、大声で叫ぶ。それでまぁ、矛を収めるしかしょうがない。
別に、嫌われてたって構わないもーんだ。
どれだけ嫌われてたって、自分の気持ちは変わらない。
あなたがぼくを嫌いでも、ぼくはあなたを嫌わない。だから、それでいい。
あなたには望まない。正確には、「あなたとの関係には望まない」。
ぼくはもう、あなたから十分、本当に十分、もらっているのだ。
だからもう、これ以上を望まないし、迷惑をかけるつもりも必要もない。
あなたはあなたの好きなようにやればいい。
「ありがとう」だけがふさわしい。
嫌われてたって、「ありがとう」と言ってやるのだ。