メッセージ。 - diary

2007-06-15

# メモ

だからね。結局、目に見えてるのは氷山の一角なんですよ。
で、「見えているのは一角だ」というのを、どう意識するかが大事だと思う。
自分が今見ているものは、真実なんだろうか? 何なんだろうか? 全体からすれば、どういう意味があるだろうか?と。
で、真実とか、全体というのが原点だろうと。

ものごとを、内から見るだけではなくて、外からも見てみる。
善とか悪とか、勝ったとか負けたとか、正しいとか間違ってるとか、
そういうことを欲しがるというのは、ある意味内側から物事を見ているってこと。
2007-06-15 10:29:41 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# メモ

smallpineの日記 / 腐りかけの果実の自分語り
http://d.hatena.ne.jp/smallpine/20070614

 ・ 認識が違うのは何故だろう。これは単純な理由で「なんで女性がいるのかと思」うタイプの人はそれを言葉に出すが、はじめからそう思っていない人々はそんなこと言葉にしたりしない。その結果、印象は前者に占拠される。つまりアレだ、世の嫁姑は全ていがみ合っているという印象が形成されるのと同じメカニズムである*1。
 ・ ついでに余談だけど、これ世の中の殆どの事例に言えると思うんだよね。声の大きい1割とその他。なんかの風潮が支配的だと感じるとき、それを支持してる人は実は1割くらいなんだって。ちなみにそれが15%になれば世の中を大きく変えることが出来るんだって。

うを。smallpineさんは賢いなぁ。けっこう好きです☆
2007-06-15 10:15:23 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-14

# リンク

公正ってなんだろう
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20070611/1181527068

FPN-「いつかやりたいことリスト」に「今だからやりたいこと」を入れない
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=2391
2007-06-14 21:40:59 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 強いこと、数を集めること

んー。シンプルに、嫌いなやつがいるなら、殴ればいいんじゃないの? と思う。

嫌いなやつがいるなら殴ればいいし、もし逆に、自分が誰かに殴られたら、殴り返せばいい。

そしてどちらか、最後まで立っていられたやつのほうが、次へ行けばいいんじゃないかと思う。

「強いことが正義」では駄目なのかな?

「強くないことが正義」ってのは変だし、
「数を集めたほうが正義」ってのは、「強いことが正義」と同義だ。

ぼくは、「数を集めたほうが正義」という考え方は好きじゃない。
「数を集めたほうが正義」派はおうおうにして、「強いことが正義」派を「暴力だ」と表現する。

つまり、「強いことが正義」派による
「力の弱いものを捻じ伏せようとするやり方」を非難している。

でも結局、「数を集めたほうが正義」派だって
「数の少ないほうを捻じ伏せようとするやり方」を是としている。

どちらも結局、ねじ伏せようとしている。
だから、「数を集めたほうが正義」ってのは、「強いことが正義」と同義だ。

そのことを自覚して数を集めるのならいい。
「あいつは嫌いだからやっつけたい。みんな力を貸してくれ」と言うのならいい。
でも、大抵の場合「自分はあいつが嫌い」という表現は避けられる。

「みんなあの人のことどう思う?」(もちろん嫌いだよね?にっこり)と反語で表現される。

嫌いなものを嫌いと言えなくなっているというのは、重大な問題じゃないのかな。
誰かや何かを、「嫌い」と言うのは勇気がいるし、実質上、それは口にできない。なぜか?
たぶん、「自分は誰かや何かを嫌いだ」という言葉は、数を集めるのに適さないからだ。

そしてそのうち、「自分は誰かや何かを嫌いだ」とは誰も表現しなくなる。魔女狩りの日々。

でも、「嫌い」という感情は、人間にとって自然な感情なんじゃないのか。
「嫌い」という感情はなくせない。「嫌い」という感情はそこにある。
でもそれを、口に出せない、誰にも打ち明けられない。それは、どんな感じだろう?
2007-06-14 10:22:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# メモ

元気にしてるならそれはよいことです。……意味不明だなぁ。1つのニュアンスを表現しようとしたら、別のもう1つ表現したいニュアンスとコンフリクトする。難しい。

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ここ最近、2か月ぐらいの間、考えていること。

とりあえず世の中には2種類ぐらいの人間がいて、
一方は、自分の身に火の粉が振りかかるなら振り払えばいいと思う派。
もう一方は、火の粉が振りかからないようにしようと思う派。

前者の振り払えばいいと思う派は、合理的・自然主義的・実力主義的なような気がする。
「どれだけ努力しても火の粉をゼロにすることはできないのだし、
振り払えば大きな問題にならないんだから振り払えばいいよ」というのが彼らの根拠。

火の粉が振りかからないようにしようと思う派は、ルールや人為的装置などを駆使して、
自分(たち)に火の粉が振りかからないようにしようとする。「人が通るところで焚き火をするのはやめよう」。

振り払えばいいよ派の人にもいろいろいて、中には、振りかからないようにしようと思う派に賛同する人がいる。そういうのはフェミニストだなぁと思う。彼らは、自分では火の粉のことなんて大して問題視していない(問題視する必要がない)はずだ。彼らは、火の粉を気にしなくてよいほど強い体を持っている。

……どちらが善い・悪いではないけど、うまく書けない。
あと、暗喩とか皮肉とかではなくて書いてるつもりだけど。とりあえずここまで。
2007-06-14 07:45:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-13

# 日々

ズボンが擦り切れて、穴があいた。
「あーこりゃパンツが見えるなー」ってことで、下着に地味なパンツを選ぶ。
それで、会社に行こうと、こうして駅まで歩いてきたわけだけど。

やっぱり、パンツが見えてるってのは、よろしくないことかしら。
会社に行くわけだし、もういい年なわけだし、周りの人に、
「パンツ見せるなよ」と思わせてしまうかもしれない。

しっかしなぁ。
パンツは確かに、反則かもしれないけど。
けっきょくでも、私服自体が、パンツみたいなもんじゃん。
私的なことなわけだから。

私服にしても、企画書にしても、会議にしても、パンツの延長線上にあるじゃん。
パンツどうしの戦いじゃん。ただパンツは、「普通」より私的ってだけだ。
でも普通って、そもそも、よく分からない。

パンツが見えるほど擦り切れるズボンってのは、たぶんファッションではない。
だってそれは、「粋がる」ことではないから。

「粋がる」ってのは、「粋」とは違う。「粋だと言い張る」ってことなんだと思う。
ファッションってのは、それぞれが粋だと言い張ることなんじゃないかな。
あ、えーと、とくに、それが資本主義経済と結びついたときには。

ぼくは、パンツが見えるズボンを粋だとは思わないし、粋がろうとも思わない。
ただ1つの生き方であると思う。それは他人に理解されないだろうし、
理解を求めてはいけない。ただ、言わせてもらえば、生き方というのは
「そうするしかない、なかった」ものであるだろうと思っている。

正直なところ、パンツが見えるというのは、恰好が悪いし、恥ずかしい。
でも恥ずかしがっていては生きられないというか。

……早くズボン買いに行こう。
2007-06-13 10:22:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-12

# 日々

他人にどれだけ評価してもらってもしょうがないんだよ。
いいかい? 一番難しいのは、自分に褒めてもらうことなんだよ。
いくら世界中の人に評価されても、褒められても、
たった一人、自分が自分を褒めてくれないのなら、意味がない。
2007-06-12 09:58:27 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-11

# 苦しいのう

最近は、会社関係でいろいろつまづいてる。とても不思議なことだけど、
なぜかぼくの顔を見ると、みんな突然怒り出したり、怪訝そうな顔をしたりするのだ。

ぼくのどこが悪いんだろう。全然悪気はないつもりなんだけど、うまくいかない。
書類を持っていけば、「こ、こ、こ、これは何ですかなんですか!?」って怒られるし、
会議になったらみんな喧喧囂囂大声をあげる。

まるで、不思議の国に来たみたいに訳が分からない。
ぼくは一応、みんなの言うことを聞いて、気分を悪くしないよう注意をしながら、
「これがいい」と思う方向に歩きたいと思ってる。

でもなんか、ぼくはどうも間違ってるようなのだ。たしかにぼくは、
書類の出し方を知らないし、社内の仕組みもなにも知らないので、悪いのだけど。

でも今まで、誰もとくにそういったことを教えてくれなかったし、
だからできるだけ、常識的なふるまいをすることで、被害を小さくしようとはしてる。
ぼくだけが特別、滅茶苦茶ひどい間違いをしているようにも、思えないんだけどなぁ。

みんなほうぼうに言うことが違って、あの人の言うことを聞けば、
この人が別のことを言うみたいなのが重なって、結局ぼくが、「どうしてこんな
風にしたの? こうしないと駄目じゃない」みたいなことを言われる。

でも、「こうしないと駄目」みたいなことは一面であって、それを優先することが
できなかったから今があったりして、それでも前に進まなきゃいけないんだけど、
よく考えたらもう時間が全然ない。たまに理解をしてくれる人もいるけど、
知らないところで迷惑をかけたり、がっかりさせてなかったらいいのになぁ。
本当に、不思議の国にいるみたいだ。
2007-06-11 23:45:47 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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