メッセージ。 - diary

2007-05-27

# メモ

さぬきうどん屋さんの話。一時期、香川のさぬきうどんがブームになったけど、有名になったところはお客さんが増えて美味しくなくなったという話も聞く。流行ってお客さんが増えるのは良いことだけど、でも美味しくなくなったのなら不幸なことだなぁ。結局のところ、「流行る」というのは、よいことばかりでもないのよ。流行って人も来るけど美味しくないうどん屋さんと、流行らない人も来ないでも美味しいうどん屋さんではどっちが幸福なのか。

一度でいいから本場のさぬきうどんを食べたいと思っていたけど、いまとなっては行く気がしない。それは失われてしまった。もちろんたぶん、今もこの世界のどこかには、おいしいさぬきうどんを出す店があるのだろう。でも、それを見付けるだけのコストを、ぼくは今払う気がない。(いつか時間が経ってからそうしたいとは思っている。語弊のコスト。本当は、「おいしいぬきうどん屋さんが失われてしまった」という事実は存在しない。問題がない。)
2007-05-27 14:34:43 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-05-25

# エネルギー不足

ここ何日か、心のエネルギーが低位で活動中。まわりを見渡すと、熱量の高い風吹く森があり、闇夜の海のように静かな砂浜があり、気の遠くなるような空気の薄い時間があり、またやかましく走りすぎる子供たちの群れがある。どんよりと湿った空気の中、汗をかき坂道をのぼる初夏の日。
2007-05-25 22:48:49 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-05-24

# 難しさの内面

そういえば、数学がチンプンカンプンだったころ、あるいはコンピュータがさっぱり理解できなかったころ、
たしかにそこには「数学やコンピュータが分からない」という現象も発生していたけれども、
もっと言えば「数学やコンピュータの現在の実装を、どう面白がればよいか分からない」、
「誰がなぜ、そういう実装にしたのか分からない」ことのほうが根源的な問題としてあったように思う。

そして実際、そういうことを説明できる人や状況は、現在レアになっているんじゃないだろうか。
つまり、師弟のあいだでラポール(信頼関係)があまり構築できていないし、
教えるほうもそれ(たとえば数学やコンピュータ)を面白がることができていない場合が
多いような気がする。

たとえば今、「近所に住んでいる人や子供、学校の同級生、会社の同僚に、
あなたの知的興奮を伝えてみてください」って言われたらどうだろうか?
(ここでの「伝える」というのは、自分の中にそういう現象があるよって説明するのではなく、
彼や彼女が同程度の知的興奮を、内から湧き出させることができるようにするという意味)

「そんなの難しいよ」とか、「そんなの恥ずかしいし、やりたくないよ」って
答えてしまうんじゃないかな。みんなが「難しい」と言っていることの本質は、
そこにあるんじゃないかと思ってる。
2007-05-24 10:05:29 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-05-23

# メモ

媒体の不自由さが文化を生み出す。

「媒体は不自由である」、「媒体にはこういった特性がある」と
複数の人が共通認識を持つことで、「だからこう活かそう」という方向に進む。
媒体が提供する(不自由な)APIを活用して抽象化レイヤが実装される。
文化とは、その抽象化レイヤのことを指す。

媒体の不自由さが隠されたり、不自由さが変動しやすかったり、
知覚しにくい状況では、共通認識にいたりにくい。

媒体の不自由さが隠される具体例は、人為的な抽象化レイヤの挿入がある。
社会構造は、衣食住を「商品」に抽象化した。
また、技術の発達速度が高まると、媒体の不自由さが変動する。

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モティベーティビティが活性である。

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今日はたしかに暑い。
2007-05-23 10:36:25 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-05-22

# 日記

おおーい、大丈夫かー。無理すんなよぅ。

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美尻カルテット、かぁ……。うまいな。

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あなたの好きなものを、あなたの好きな人に紹介してください。
私たちは、それをお手伝いしたいのです。
2007-05-22 10:21:55 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日記

http://pikapika.to/~yf/IMG_2051.jpg

可愛らしいなぁ。右側のやつ。ほにゃ〜☆
2007-05-22 01:17:19 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日記

たしかに、自分が考えたことを、ネットに書く必要はない。

自分が考えたことなど、誰かがすでに考えているに違いなく、知識としての価値はない。つまり、長い歴史の中で自分の考えた解など、いいとこ60点を取れるかどうかだろう。一言でいえばありふれている。だから、自分の文章には価値がないし、それをここに置くのも愚かなことだ。

でも、待ってよ。価値のない文章は、そこにあってはいけないのかな? そんなに価値がないのかな? この文章には価値がない、自分の考えにも価値はない。そうなんだろう。でも、それでも、この出合いだけはありふれていないんじゃないの? ここに自分が文章を置き、あなたがいまそれを読む。この出合いだけは、ありふれていないんじゃないかな?

先人の書いた1000年前の文章は、今日のあなたには届かないかもしれない。それだったら。今日、あなたに届くかもしれない文章を、ここに置きたい。それがあなたを、少しでも潤すかもしれないなら。どこかの誰かと、同じことしか言えなくても。
2007-05-22 00:00:55 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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