メッセージ。 - diary

2007-06-14

# リンク

公正ってなんだろう
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20070611/1181527068

FPN-「いつかやりたいことリスト」に「今だからやりたいこと」を入れない
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=2391
2007-06-14 21:40:59 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 強いこと、数を集めること

んー。シンプルに、嫌いなやつがいるなら、殴ればいいんじゃないの? と思う。

嫌いなやつがいるなら殴ればいいし、もし逆に、自分が誰かに殴られたら、殴り返せばいい。

そしてどちらか、最後まで立っていられたやつのほうが、次へ行けばいいんじゃないかと思う。

「強いことが正義」では駄目なのかな?

「強くないことが正義」ってのは変だし、
「数を集めたほうが正義」ってのは、「強いことが正義」と同義だ。

ぼくは、「数を集めたほうが正義」という考え方は好きじゃない。
「数を集めたほうが正義」派はおうおうにして、「強いことが正義」派を「暴力だ」と表現する。

つまり、「強いことが正義」派による
「力の弱いものを捻じ伏せようとするやり方」を非難している。

でも結局、「数を集めたほうが正義」派だって
「数の少ないほうを捻じ伏せようとするやり方」を是としている。

どちらも結局、ねじ伏せようとしている。
だから、「数を集めたほうが正義」ってのは、「強いことが正義」と同義だ。

そのことを自覚して数を集めるのならいい。
「あいつは嫌いだからやっつけたい。みんな力を貸してくれ」と言うのならいい。
でも、大抵の場合「自分はあいつが嫌い」という表現は避けられる。

「みんなあの人のことどう思う?」(もちろん嫌いだよね?にっこり)と反語で表現される。

嫌いなものを嫌いと言えなくなっているというのは、重大な問題じゃないのかな。
誰かや何かを、「嫌い」と言うのは勇気がいるし、実質上、それは口にできない。なぜか?
たぶん、「自分は誰かや何かを嫌いだ」という言葉は、数を集めるのに適さないからだ。

そしてそのうち、「自分は誰かや何かを嫌いだ」とは誰も表現しなくなる。魔女狩りの日々。

でも、「嫌い」という感情は、人間にとって自然な感情なんじゃないのか。
「嫌い」という感情はなくせない。「嫌い」という感情はそこにある。
でもそれを、口に出せない、誰にも打ち明けられない。それは、どんな感じだろう?
2007-06-14 10:22:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# メモ

元気にしてるならそれはよいことです。……意味不明だなぁ。1つのニュアンスを表現しようとしたら、別のもう1つ表現したいニュアンスとコンフリクトする。難しい。

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ここ最近、2か月ぐらいの間、考えていること。

とりあえず世の中には2種類ぐらいの人間がいて、
一方は、自分の身に火の粉が振りかかるなら振り払えばいいと思う派。
もう一方は、火の粉が振りかからないようにしようと思う派。

前者の振り払えばいいと思う派は、合理的・自然主義的・実力主義的なような気がする。
「どれだけ努力しても火の粉をゼロにすることはできないのだし、
振り払えば大きな問題にならないんだから振り払えばいいよ」というのが彼らの根拠。

火の粉が振りかからないようにしようと思う派は、ルールや人為的装置などを駆使して、
自分(たち)に火の粉が振りかからないようにしようとする。「人が通るところで焚き火をするのはやめよう」。

振り払えばいいよ派の人にもいろいろいて、中には、振りかからないようにしようと思う派に賛同する人がいる。そういうのはフェミニストだなぁと思う。彼らは、自分では火の粉のことなんて大して問題視していない(問題視する必要がない)はずだ。彼らは、火の粉を気にしなくてよいほど強い体を持っている。

……どちらが善い・悪いではないけど、うまく書けない。
あと、暗喩とか皮肉とかではなくて書いてるつもりだけど。とりあえずここまで。
2007-06-14 07:45:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-13

# 日々

ズボンが擦り切れて、穴があいた。
「あーこりゃパンツが見えるなー」ってことで、下着に地味なパンツを選ぶ。
それで、会社に行こうと、こうして駅まで歩いてきたわけだけど。

やっぱり、パンツが見えてるってのは、よろしくないことかしら。
会社に行くわけだし、もういい年なわけだし、周りの人に、
「パンツ見せるなよ」と思わせてしまうかもしれない。

しっかしなぁ。
パンツは確かに、反則かもしれないけど。
けっきょくでも、私服自体が、パンツみたいなもんじゃん。
私的なことなわけだから。

私服にしても、企画書にしても、会議にしても、パンツの延長線上にあるじゃん。
パンツどうしの戦いじゃん。ただパンツは、「普通」より私的ってだけだ。
でも普通って、そもそも、よく分からない。

パンツが見えるほど擦り切れるズボンってのは、たぶんファッションではない。
だってそれは、「粋がる」ことではないから。

「粋がる」ってのは、「粋」とは違う。「粋だと言い張る」ってことなんだと思う。
ファッションってのは、それぞれが粋だと言い張ることなんじゃないかな。
あ、えーと、とくに、それが資本主義経済と結びついたときには。

ぼくは、パンツが見えるズボンを粋だとは思わないし、粋がろうとも思わない。
ただ1つの生き方であると思う。それは他人に理解されないだろうし、
理解を求めてはいけない。ただ、言わせてもらえば、生き方というのは
「そうするしかない、なかった」ものであるだろうと思っている。

正直なところ、パンツが見えるというのは、恰好が悪いし、恥ずかしい。
でも恥ずかしがっていては生きられないというか。

……早くズボン買いに行こう。
2007-06-13 10:22:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-12

# 日々

他人にどれだけ評価してもらってもしょうがないんだよ。
いいかい? 一番難しいのは、自分に褒めてもらうことなんだよ。
いくら世界中の人に評価されても、褒められても、
たった一人、自分が自分を褒めてくれないのなら、意味がない。
2007-06-12 09:58:27 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-11

# 苦しいのう

最近は、会社関係でいろいろつまづいてる。とても不思議なことだけど、
なぜかぼくの顔を見ると、みんな突然怒り出したり、怪訝そうな顔をしたりするのだ。

ぼくのどこが悪いんだろう。全然悪気はないつもりなんだけど、うまくいかない。
書類を持っていけば、「こ、こ、こ、これは何ですかなんですか!?」って怒られるし、
会議になったらみんな喧喧囂囂大声をあげる。

まるで、不思議の国に来たみたいに訳が分からない。
ぼくは一応、みんなの言うことを聞いて、気分を悪くしないよう注意をしながら、
「これがいい」と思う方向に歩きたいと思ってる。

でもなんか、ぼくはどうも間違ってるようなのだ。たしかにぼくは、
書類の出し方を知らないし、社内の仕組みもなにも知らないので、悪いのだけど。

でも今まで、誰もとくにそういったことを教えてくれなかったし、
だからできるだけ、常識的なふるまいをすることで、被害を小さくしようとはしてる。
ぼくだけが特別、滅茶苦茶ひどい間違いをしているようにも、思えないんだけどなぁ。

みんなほうぼうに言うことが違って、あの人の言うことを聞けば、
この人が別のことを言うみたいなのが重なって、結局ぼくが、「どうしてこんな
風にしたの? こうしないと駄目じゃない」みたいなことを言われる。

でも、「こうしないと駄目」みたいなことは一面であって、それを優先することが
できなかったから今があったりして、それでも前に進まなきゃいけないんだけど、
よく考えたらもう時間が全然ない。たまに理解をしてくれる人もいるけど、
知らないところで迷惑をかけたり、がっかりさせてなかったらいいのになぁ。
本当に、不思議の国にいるみたいだ。
2007-06-11 23:45:47 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-06-08

# 続続 0.999...は1か

0.999...は1か の続きっていうか。

結局のところ、「0.999...は1か」ってのは、「そう考えればイロイロうまくいくよ」以上のものではないんだよ。

「0.999...=1」ってのは、証明できない。「証明できるよ」って意見もあるけど、その意見をよく精査すれば完全ではない。

「0.999...=1」を証明しようとすれば、「Aの定理により証明できる」という結論が得られ、「Aの定理は正しいの?」という疑問が残る。Aの定理を証明しようとすれば、「Bの定理によりAの定理が証明できる」みたいになって、収束しない。ゲーデルの不完全性定理だ。

だから本当は、数学者も教育者も、「0.999...は1なの?」って尋かれたら、「すばらしい質問だね!! その疑問は妥当で、結局のとろは先生にもその答は分からない。0.999...=1と考えればイロイロうまくいくってだけだ。ゲーデルって人がね……」と言わなければいけない。ところが、それを言うのはすごく難しいんだ。

簡単な問題だけど、なかなかそれができない。コロンブスの卵。その原因はいくつか考えられるけど、問題の1つは身体性にあって、多くの人にとって「0.999...=1」というのが身体性を伴って理解されている。「そう考えればうまくいく」という経験則に過ぎないことを、ついつい「証明できる」(世界の果てに到達している)と思ってしまったり、あいまいな答を言ってしまう。

質問者は、「じゃあ証明って何?」って話を尋きたいのに、そこに至らない。「正しいから正しいんだよ」の向こうに辿り着けない。それが悪いって言うんじゃなくて、人間には限界があるってことで、ある程度はしょうがない。それが我々の弱みであって、強みでもある。問題はつねに在るんだ。でも問題が存在することは問題じゃない。
2007-06-08 09:45:08 / ふじさわ / Comment: 6 / Trackback: 0
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