メッセージ。 - diary
2007-05-12
# 発行部数が増えるというのはどういうことなのか
そもそもという話で、雑誌の発行部数は、増えたほうがいいのか?
出版社は、発行部数を増やしたほうがいいと思っているのか?
そこは考える余地があると思うんだよなぁ。
たとえば、テレビタレントでも、大きく取り上げられて有名になった直後、
急速に人気がなくなってしまったりすることがある。
そういう風になってしまうのは、あまり幸福でないような気がする。
つまり知名度であるとか、支持者というものには、適正な規模があるのではないか。
企業も国家も財産も、大きければ大きいほど良いということはないんじゃないか。
近代においては、「拡大=正義」だった。
でも、ポストモダンでは「拡大≠正義」のように思う。
ポストモダンという考え方が必ずしも正しいとは思わないけど、
でも、拡大することについてもう一度見直すのは、
現代における1つの知的態度なんじゃないかな。
とくに雑誌を発行している人なんかにとって、
それは興味のあるテーマのような気がする。
出版社は、発行部数を増やしたほうがいいと思っているのか?
そこは考える余地があると思うんだよなぁ。
たとえば、テレビタレントでも、大きく取り上げられて有名になった直後、
急速に人気がなくなってしまったりすることがある。
そういう風になってしまうのは、あまり幸福でないような気がする。
つまり知名度であるとか、支持者というものには、適正な規模があるのではないか。
企業も国家も財産も、大きければ大きいほど良いということはないんじゃないか。
近代においては、「拡大=正義」だった。
でも、ポストモダンでは「拡大≠正義」のように思う。
ポストモダンという考え方が必ずしも正しいとは思わないけど、
でも、拡大することについてもう一度見直すのは、
現代における1つの知的態度なんじゃないかな。
とくに雑誌を発行している人なんかにとって、
それは興味のあるテーマのような気がする。
2007-05-11
# アリスとスターリング
実際、女の子から見れば、男の子の力は強く、行動は野蛮で、身近に置いておくことに危険を感じる。だから、そういう一面を見てしまったら、びっくりして怖くて泣いてしまうのも無理はない。
しかしその一方で、男の子の力が必要だと女の子は理解する。内に向かうと怖ろしい力も、外に向かって使うことができれば頼もしい。そして実際、「家」というものには外に抗する力と野蛮さが必要なのだ。
男の子の野蛮さを見てびっくりし、怖がり、それを克服するというのは、まさに女の子が、大人になろうとする瞬間の出来事なのだろう。
しかしその一方で、男の子の力が必要だと女の子は理解する。内に向かうと怖ろしい力も、外に向かって使うことができれば頼もしい。そして実際、「家」というものには外に抗する力と野蛮さが必要なのだ。
男の子の野蛮さを見てびっくりし、怖がり、それを克服するというのは、まさに女の子が、大人になろうとする瞬間の出来事なのだろう。
2007-05-10
# 手段が目的になる話、媒体主義
たとえば10年前の雑誌を開いてみる。「なんて簡単なことが書いてあるんだろう」とびっくりする。
雑誌が古くなると、どんどんどんどん難しいことばかり書くようになる。
読者も古くなると、もっともっとと難しいことを要求するようになる。
それが雑誌の、一般的な老化だ。
毎日、毎月、雑誌を読んでいる人は、その老化に気付かないし、雑誌を作っているほうも気付かない。
「この話題は以前扱った」という理由で、どんどんどんどん、マニアックな方向へ進む。
ある意味これは、「熱心な読者の期待に応えよう」という誠意なんだと思う。
編集者が老化に気付いたとしても、もう遅い。
「記事の質を保つ」という命題があるので彼らは方向転換できないし、
もし方向転換できたとしても、読者は彼らを見捨ててまっすぐ進み続ける。
雑誌だけでなく、いろんなメディア、いろんな文化で同じ現象が見られる。媒体主義だ。
人間というのは、昨日を重く見すぎる。「昨日は西から東へ向かって歩いた。今日も東へ向かおう」。
そうやって人間は、砂漠を東へ東へ横切っていく。当初行きたかったオアシスのことを忘れて。
人間は、「東へ向かう」という媒体を愛してしまう。それを止めるのは、不可能に近い。
ネズミの群れがこぞって川へ飛び込むのを「馬鹿なやつらだ」と吐き捨てるのは簡単で、
「どうやったら止められるだろう?」と考えるのは難しい。チャレンジングな問題だ。
媒体から目をそらすというのは、真に難しい。生き物であり、主体であるがゆえの問題。
それはすばらしくもあり、愚かしくもある。
雑誌が古くなると、どんどんどんどん難しいことばかり書くようになる。
読者も古くなると、もっともっとと難しいことを要求するようになる。
それが雑誌の、一般的な老化だ。
毎日、毎月、雑誌を読んでいる人は、その老化に気付かないし、雑誌を作っているほうも気付かない。
「この話題は以前扱った」という理由で、どんどんどんどん、マニアックな方向へ進む。
ある意味これは、「熱心な読者の期待に応えよう」という誠意なんだと思う。
編集者が老化に気付いたとしても、もう遅い。
「記事の質を保つ」という命題があるので彼らは方向転換できないし、
もし方向転換できたとしても、読者は彼らを見捨ててまっすぐ進み続ける。
雑誌だけでなく、いろんなメディア、いろんな文化で同じ現象が見られる。媒体主義だ。
人間というのは、昨日を重く見すぎる。「昨日は西から東へ向かって歩いた。今日も東へ向かおう」。
そうやって人間は、砂漠を東へ東へ横切っていく。当初行きたかったオアシスのことを忘れて。
人間は、「東へ向かう」という媒体を愛してしまう。それを止めるのは、不可能に近い。
ネズミの群れがこぞって川へ飛び込むのを「馬鹿なやつらだ」と吐き捨てるのは簡単で、
「どうやったら止められるだろう?」と考えるのは難しい。チャレンジングな問題だ。
媒体から目をそらすというのは、真に難しい。生き物であり、主体であるがゆえの問題。
それはすばらしくもあり、愚かしくもある。
2007-04-23
# メモ
表現は媒体を生かす方向に働く。
媒体の機能が貧弱であっても、表現は媒体をそれなりに使いこなす。
また、媒体機能の貧弱さは、文化を生み出す。
媒体は、よっぽど機能差があるときにミッションクリティカルになるのであって、
重要なのは、どちらかといえば媒体の機能よりも全体としての使い勝手だ。
----
SI屋にかんして思うのは、確固たる商材を持っているところが強いってこと。
持っている商材の強さがSI屋の強さ。
だから、電話やネットワークという強い商材を持っているNTT系は、
まだまともな仕事にありついているように見える。
逆に、いまどきメインフレームが商材というのでは、商売にならないし、
かといって別の新しい商材を持てているところは圧倒的に少ない。
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それと、抽象的なものは商材になりにくいのかなぁ、と思う。
啓発系と情報系では、情報系のほうが圧倒的に規模が大きい。
媒体の機能が貧弱であっても、表現は媒体をそれなりに使いこなす。
また、媒体機能の貧弱さは、文化を生み出す。
媒体は、よっぽど機能差があるときにミッションクリティカルになるのであって、
重要なのは、どちらかといえば媒体の機能よりも全体としての使い勝手だ。
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SI屋にかんして思うのは、確固たる商材を持っているところが強いってこと。
持っている商材の強さがSI屋の強さ。
だから、電話やネットワークという強い商材を持っているNTT系は、
まだまともな仕事にありついているように見える。
逆に、いまどきメインフレームが商材というのでは、商売にならないし、
かといって別の新しい商材を持てているところは圧倒的に少ない。
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それと、抽象的なものは商材になりにくいのかなぁ、と思う。
啓発系と情報系では、情報系のほうが圧倒的に規模が大きい。