メッセージ。 - diary
2007-05-14
# 古本の流通は悪か
古本の流通問題について、ちょっと感じたことをメモ。
古本の販売が悪か善かという話を読んでいて、大根の流通の話に似ているなぁと思った。
たとえば、「新品の隣りに古本を置くのはどうなのか?」という指摘。たしかに新品の隣に中古品を陳列されたら、消費者としては混乱する。「この商品は新品か中古品か?」といちいち確認しなければいけないし、もしそれが中古品なら、「この商品は、どれくらいの価格で売買されるのが妥当か?」と目利きをしなければいけない。
それは確かに消費者にとって不便だし、俯瞰して見れば流通を阻害する。だからそれを「悪だ」と言ってしまいたくなる心象は理解できるし、ぼくは(少なくとも一面において)この心象を支持する。近代においては、本も大根も、トマトも洋服も、品質が保証されている状態でこそ商品として成立するのだ。
たとえば近代において、形の悪い大根は市場に流通しない(流通していることが誤差範囲だと無視できるほど規模的に小さい)。これはつまり、取りも直せば形の整った大根だけが(商品としての)「大根」として認定されるということだ。形の悪い大根を、消費者も生産者も流通者も、「大根」とは認めない。
大根が、マスプロダクトとして扱われているのだ。現代において、大根はマスプロダクトだからこそ、この低コストで生産でき、また流通できている。現代的な市場において、オートクチュール(注文により造られる一点物の服)は、存在しないのも同義だ。市場が存在するのは、プレタポルテ(高級既製服)からで、注文生産などは規模から言って豆つぶぐらいの大きさしかない。
つまり、近代というのは「マスプロダクト至上」をテーゼに掲げていて、マスプロダクトの範疇からはみ出すような商品(一点物や傷物、中古品、ブランド化できないもの)が市場において影響力を持つことが望まれない。「価格や品質や機能は線形に計測できる」という世界観こそが近代的市場にマッチするのであり、昨日500円だった本が、今日も500円であることが正義なのだと言える。
要は、生産者や流通業者によるマスプロダクティング(大量生産とブランディングによる販路確立)が、現行の法律や倫理において言語化されていないことが齟齬を引き起こしており、またメディア機能の拡大によって、マスプロダクティングが転換点を迎えていることのあらわれのように思われる。
古本の販売が悪か善かという話を読んでいて、大根の流通の話に似ているなぁと思った。
たとえば、「新品の隣りに古本を置くのはどうなのか?」という指摘。たしかに新品の隣に中古品を陳列されたら、消費者としては混乱する。「この商品は新品か中古品か?」といちいち確認しなければいけないし、もしそれが中古品なら、「この商品は、どれくらいの価格で売買されるのが妥当か?」と目利きをしなければいけない。
それは確かに消費者にとって不便だし、俯瞰して見れば流通を阻害する。だからそれを「悪だ」と言ってしまいたくなる心象は理解できるし、ぼくは(少なくとも一面において)この心象を支持する。近代においては、本も大根も、トマトも洋服も、品質が保証されている状態でこそ商品として成立するのだ。
たとえば近代において、形の悪い大根は市場に流通しない(流通していることが誤差範囲だと無視できるほど規模的に小さい)。これはつまり、取りも直せば形の整った大根だけが(商品としての)「大根」として認定されるということだ。形の悪い大根を、消費者も生産者も流通者も、「大根」とは認めない。
大根が、マスプロダクトとして扱われているのだ。現代において、大根はマスプロダクトだからこそ、この低コストで生産でき、また流通できている。現代的な市場において、オートクチュール(注文により造られる一点物の服)は、存在しないのも同義だ。市場が存在するのは、プレタポルテ(高級既製服)からで、注文生産などは規模から言って豆つぶぐらいの大きさしかない。
つまり、近代というのは「マスプロダクト至上」をテーゼに掲げていて、マスプロダクトの範疇からはみ出すような商品(一点物や傷物、中古品、ブランド化できないもの)が市場において影響力を持つことが望まれない。「価格や品質や機能は線形に計測できる」という世界観こそが近代的市場にマッチするのであり、昨日500円だった本が、今日も500円であることが正義なのだと言える。
要は、生産者や流通業者によるマスプロダクティング(大量生産とブランディングによる販路確立)が、現行の法律や倫理において言語化されていないことが齟齬を引き起こしており、またメディア機能の拡大によって、マスプロダクティングが転換点を迎えていることのあらわれのように思われる。
2007-05-12
# 発行部数が増えるというのはどういうことなのか
そもそもという話で、雑誌の発行部数は、増えたほうがいいのか?
出版社は、発行部数を増やしたほうがいいと思っているのか?
そこは考える余地があると思うんだよなぁ。
たとえば、テレビタレントでも、大きく取り上げられて有名になった直後、
急速に人気がなくなってしまったりすることがある。
そういう風になってしまうのは、あまり幸福でないような気がする。
つまり知名度であるとか、支持者というものには、適正な規模があるのではないか。
企業も国家も財産も、大きければ大きいほど良いということはないんじゃないか。
近代においては、「拡大=正義」だった。
でも、ポストモダンでは「拡大≠正義」のように思う。
ポストモダンという考え方が必ずしも正しいとは思わないけど、
でも、拡大することについてもう一度見直すのは、
現代における1つの知的態度なんじゃないかな。
とくに雑誌を発行している人なんかにとって、
それは興味のあるテーマのような気がする。
出版社は、発行部数を増やしたほうがいいと思っているのか?
そこは考える余地があると思うんだよなぁ。
たとえば、テレビタレントでも、大きく取り上げられて有名になった直後、
急速に人気がなくなってしまったりすることがある。
そういう風になってしまうのは、あまり幸福でないような気がする。
つまり知名度であるとか、支持者というものには、適正な規模があるのではないか。
企業も国家も財産も、大きければ大きいほど良いということはないんじゃないか。
近代においては、「拡大=正義」だった。
でも、ポストモダンでは「拡大≠正義」のように思う。
ポストモダンという考え方が必ずしも正しいとは思わないけど、
でも、拡大することについてもう一度見直すのは、
現代における1つの知的態度なんじゃないかな。
とくに雑誌を発行している人なんかにとって、
それは興味のあるテーマのような気がする。
2007-05-11
# アリスとスターリング
実際、女の子から見れば、男の子の力は強く、行動は野蛮で、身近に置いておくことに危険を感じる。だから、そういう一面を見てしまったら、びっくりして怖くて泣いてしまうのも無理はない。
しかしその一方で、男の子の力が必要だと女の子は理解する。内に向かうと怖ろしい力も、外に向かって使うことができれば頼もしい。そして実際、「家」というものには外に抗する力と野蛮さが必要なのだ。
男の子の野蛮さを見てびっくりし、怖がり、それを克服するというのは、まさに女の子が、大人になろうとする瞬間の出来事なのだろう。
しかしその一方で、男の子の力が必要だと女の子は理解する。内に向かうと怖ろしい力も、外に向かって使うことができれば頼もしい。そして実際、「家」というものには外に抗する力と野蛮さが必要なのだ。
男の子の野蛮さを見てびっくりし、怖がり、それを克服するというのは、まさに女の子が、大人になろうとする瞬間の出来事なのだろう。
2007-05-10
# 手段が目的になる話、媒体主義
たとえば10年前の雑誌を開いてみる。「なんて簡単なことが書いてあるんだろう」とびっくりする。
雑誌が古くなると、どんどんどんどん難しいことばかり書くようになる。
読者も古くなると、もっともっとと難しいことを要求するようになる。
それが雑誌の、一般的な老化だ。
毎日、毎月、雑誌を読んでいる人は、その老化に気付かないし、雑誌を作っているほうも気付かない。
「この話題は以前扱った」という理由で、どんどんどんどん、マニアックな方向へ進む。
ある意味これは、「熱心な読者の期待に応えよう」という誠意なんだと思う。
編集者が老化に気付いたとしても、もう遅い。
「記事の質を保つ」という命題があるので彼らは方向転換できないし、
もし方向転換できたとしても、読者は彼らを見捨ててまっすぐ進み続ける。
雑誌だけでなく、いろんなメディア、いろんな文化で同じ現象が見られる。媒体主義だ。
人間というのは、昨日を重く見すぎる。「昨日は西から東へ向かって歩いた。今日も東へ向かおう」。
そうやって人間は、砂漠を東へ東へ横切っていく。当初行きたかったオアシスのことを忘れて。
人間は、「東へ向かう」という媒体を愛してしまう。それを止めるのは、不可能に近い。
ネズミの群れがこぞって川へ飛び込むのを「馬鹿なやつらだ」と吐き捨てるのは簡単で、
「どうやったら止められるだろう?」と考えるのは難しい。チャレンジングな問題だ。
媒体から目をそらすというのは、真に難しい。生き物であり、主体であるがゆえの問題。
それはすばらしくもあり、愚かしくもある。
雑誌が古くなると、どんどんどんどん難しいことばかり書くようになる。
読者も古くなると、もっともっとと難しいことを要求するようになる。
それが雑誌の、一般的な老化だ。
毎日、毎月、雑誌を読んでいる人は、その老化に気付かないし、雑誌を作っているほうも気付かない。
「この話題は以前扱った」という理由で、どんどんどんどん、マニアックな方向へ進む。
ある意味これは、「熱心な読者の期待に応えよう」という誠意なんだと思う。
編集者が老化に気付いたとしても、もう遅い。
「記事の質を保つ」という命題があるので彼らは方向転換できないし、
もし方向転換できたとしても、読者は彼らを見捨ててまっすぐ進み続ける。
雑誌だけでなく、いろんなメディア、いろんな文化で同じ現象が見られる。媒体主義だ。
人間というのは、昨日を重く見すぎる。「昨日は西から東へ向かって歩いた。今日も東へ向かおう」。
そうやって人間は、砂漠を東へ東へ横切っていく。当初行きたかったオアシスのことを忘れて。
人間は、「東へ向かう」という媒体を愛してしまう。それを止めるのは、不可能に近い。
ネズミの群れがこぞって川へ飛び込むのを「馬鹿なやつらだ」と吐き捨てるのは簡単で、
「どうやったら止められるだろう?」と考えるのは難しい。チャレンジングな問題だ。
媒体から目をそらすというのは、真に難しい。生き物であり、主体であるがゆえの問題。
それはすばらしくもあり、愚かしくもある。