メッセージ。 - diary

2007-03-20

# 差別は存在するか?

差別ってさ、「偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。」とあるけどさ、偏見とか先入観って、ありとあらゆる知覚に付随して存在するんだよね。

だってたとえば、「男とは」とか「女とは」って考えたとしても、ぼくもあなたも、すべての男やすべての女を見たわけじゃない。ぼくらが持ってる「男」や「女」という観念は、いままで見た「男」や「女」の傾向でしかない。世界中の男と女すべてを見て解析したわけじゃないから、そこには必ず偏りがある。

しかもこれは、男や女に限らない話で。サラリーマンとは、鳥とは、哺乳類とは、数とは、時間とは、犬とは、空とは、海とは、空気とは、定規とは、定理とは、青とは、光とは、神とは、生とは、うどんとは、モヒカン族とは、iとは、えもんかけとは、ガタンゴトンとは、礼儀とは、ピノ子とは、父とは、地面とは、経済とは、バーバパパとは、金属とは、恐怖とは、目標とは、☆とは、とはとは、とは、は、と。すべてが観測する座標の数だけ存在する。

偏見だけじゃなくて先入観も同じ。「お寿司はうまい」(寿司嫌いの人は?)、「ドーナツには穴が空いている」(食べかけのドーナツは?)、「空は青い」(曇りの日も?)、「ふじさわはこういう人間だ」(100年後も同じと言える?)、「1を0で割ることはできない」(どうして?)、「数学的帰納法で証明できる」(数学的帰納法はどうやって証明するの?)。

この世界はアナログなので、座標の数は無限にあると言える(もちろん、同時にこの世界はアナログじゃないし、座標の数は夢幻にあるかもしれないし、1つかもしれないし、座標というものが定義できるかどうかは分からないし、分からないとはどういう意味かも分かるかどうか分からないかもしれない)。

でもとにかく、偏りがないということはない(あるいはある)。だから言葉(座標)に基づくすべての知覚は区別であり差別であって、それによってしかニンゲンは、あるいは生命は、世界の扱いを変えざるを得ない。それは当然別の座標系から観測したとき、不当でありまた同時に正当でもある(もしくはない)。
2007-03-20 21:25:00 / ふじさわ / Comment: 4 / Trackback: 0

2007-03-19

# 倫理と差別は光と影という話

世の中には「これはいいこと」、「これは悪いこと」と評価されていることがある。たとえば人殺しは悪いけど牛殺しは悪くないとか。でも、よく考えてみると(哲学的なレベルまでちゃんと考えてみると)、その言説に合理的な(科学的な意味での)根拠はない。それが倫理なのだと思う。倫理というのは、科学では説明できないけれども「こうしよう、こうあってほしい」と決められた規範だと解釈できる。

一方で、「差別」を辞書で調べると、「偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。」のように書かれている。「偏見や先入観をもとに」というのは「合理的な根拠がない」ということであって、「倫理」と出自を同じくしている。偏見と先入観は、倫理の裏の面そのものである。

そしてまた、世の中にあるほとんどすべての情報・言説は、合理的根拠がないか、もしあったとしても薄弱だ。コレステロールを取りすぎると体に悪いとか、テレビを見ると頭が悪くなるとか(頭の良し悪しの定義ってなんだ?)、私はいま幸せだとか、私は傷付いたとか、罪とか罰とか栄誉とか、差別をしてはいけないとか。それらにはすべて根拠がないか、もしあったとしても、土台となった根拠に根拠がない。

しかしそれでも人間は生きている。薄弱な根拠を信じて。チームで生きることしかできぬ人間には、科学的根拠などなくても規範が必要なのだろう。だから人間は、「倫理」を生み出し、それを守る。そしてそれは同時に「差別」をも生む。差別を完全になくしたいのなら「倫理」を捨てる必要があるし、それはチームで生きるのをやめるということだ。
2007-03-19 08:37:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-03-18

# 組織機能の自律調和と人間について

asahi.com:キレる客対策、業界本腰 クラシック演奏会でトラブル急増 - 音楽 - 文化芸能
http://www.asahi.com/culture/music/TKY200703160235.html
  「携帯電話のアクセサリーがうるさい」。昨年、都内の大ホールで、30代とおぼしき男性が若い女性の服をひっぱり、ロビーに引きずり出した。仲裁に入った主催者がその携帯を見せてもらうと、ちいさな鈴がひとつついていただけ——。
 
  演奏会の主催者によるとこうしたトラブルが目立ってきたのは半年ほど前から。きっかけになるのは演奏会のチラシの束やパンフレットをめくる音、せきばらいや呼吸音、体臭などなど。休憩時間に「迷惑だから退場させろ」と主催者に詰め寄ったり、終演後に口論を始めたりする人が増えたという。激高している客は、落ち着かせるためまず別室へ、との原則は、今や多くの主催者にとって常識になった。 

これを読んでちょっと思ったこと。前から考えてて、うまく表現できないこともからめて。

東京の人は、こういう風に市民同士でトラブルになったとき、第三者(自分たち以外)に裁定を求めがちなように思う。しかも、このとき「第三者」になる権利があるのは、「その会の主催者」といったように「明確にその役割を与えられた者」になっている。市民どうしの諍いを、市民が仲裁することは求められていない。

たとえば電車の中では、車内で不信物を見つけた人は、車掌に知らせる以上の手段を持たないし、犯罪が起こったとき、事件の調査と犯人の逮捕を行うのはあくまで警察だ。ここまでは普通なんだけど、極端な例をあげると関東の人は、道端で苦しがっている人がいても「救急車に任せよう」と素通りする。

ここに挙げたどの例も、東京に限った話ではない。だけど、なんとなく関西やほかの地域はもっと緩い気がする。電車の車内に変なものを置いていく人がいたら、「おっちゃんなんか忘れ物やで」と声をかけるし、事件の被害にあった関西人は「犯人を自分で捕まえたい」と思う。道端で苦しがっている人を見つけたら喜んで助ける。通勤なんてそっちのけだ。(アメリカや外国にもこの傾向はあると思う)

東京の人々は、機能性に特化した組織をいくつも作り、そこが大量かつ迅速に仕事をするよう求める。組織どうしがそれぞれ歯車となり、全体としてうまく機能することを期待している。1つの歯車が動かないと全体に支障をきたすので、人々は動きの悪い歯車があるとピリピリ怒り出す。そして逆に、個々人としても高度な機能を提供するよう努力し、逆に自分に求められる機能以外の雑事には興味を持たない。問題が明確であったり、使えるリソースが潤沢であったり、組織が拡大基調であるようなよい状況では、これはうまく機能する。

歯車派の人たちは全体最適化を考えない。目の前にある歯車がきちんと動くことが重要なのであって、「状況が変わったからこの歯車はいらない」とか、「我々は目的地にちゃんと向かっているだろうか」とかは、また別の専門機関が考えるよう要求する。また、歯車は転用しにくい。歯車としてある問題を解くことに特化し、ほかの問題について考えてこなかったため、個々の歯車は別の問題に適用できない。逆に歯車自身もそのことを理解していて、「個々の問題」がなくなったり変わったりすると(自分が必要とされなくなって)困ると思っている。
2007-03-18 10:34:23 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-03-17

# 「あの日」だったんじゃね?

ぐらいにゆるく解釈しておくってのはどう?>http://zeromemory.sblo.jp/article/3537502.html
2007-03-17 06:44:51 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# GPLが好きです☆ でも、BSDライセンスはもーっと好きです☆

だって文面が短いんだもん。実際読んでみれば分かるけど、「これだけ?」と思う。「ライセンスってこんなに短くてもいいものなの?」って。笑っちゃうぐらい短くて、子供でも理解できるし理解して使おうという気にさせる。すがすがしい。
2007-03-17 06:27:02 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2007-03-16

# ぼくは最近、Windowsを使ってますけどね

ずっと長い間、PCを買ったらすぐLinuxに入れ替えて使ってたんだけど、2〜3年前からはWindowsにcoLinuxを入れて、WindowsとLinuxを適宜使い分けている。Linuxオンリー環境をやめた最も大きな理由は、「コンピュータは機会を増やすための道具だ」という風に認識しはじめたこと。

それまでは、正しい道具、美しい道具、小回りの利く道具が自分の能力を活かし高めると思って、Linuxでいろいろ頑張っていた。でもインターネットがかように普及してきて、ただコンピュータのことを学び、コンピュータを使いこなす以上に大事なことが増えてきたように感じていた。

たとえば、UNIX用のアプリケーションなんて、最近では目新しいものがほとんどないような気さえする。その一方で、GoogleデスクトップやPicasa、GyaO、Skypeのほか、多くの商用サービスなどは、まずWindowsに対応して発表される。そうした幾多のアプリケーションを、MacやLinuxだけを使っていては、すぐに十分に体験できない。それがどうにももったいなく感じたのだ。

問題は、システム系のアプリケーションだけじゃない。Googleを始めとした、WebサービスやWeb APIといったWeb系アプリケーションも充実してきてるし、ソーシャルネットワークやブログ、ネット界隈の情報など、コミュニティ/人文的な知識も重要度を増している。そういったものに触れることの価値がとても高まっているし、ユーザーのニーズも変わってきている。相対的に、綺麗なシステムの価値は下がっているんじゃないだろうか。

優れた技術や優雅な道具はたしかに大事だけれども、でもそれだけでは問題を解決できない。「水清くして魚住まず」というように、Macのように優美なコンピュータだけしか使わないのでは、Macを使うことが目的になってしまう気がする。日頃Windowsを使っていてつまらない問題にくじけているユーザーに、「Macを使えば問題は解決するよ」と言っても、きっと問題は解決しないよね。

……うーん、いまいちまとまらないけど、やっぱり決め手は、「機会を増やすのが重要」ってことかなぁ。正直Macは欲しいんだけど。実際問題、まだやっぱりちょっとね、という感じがあるあるっすよ。
2007-03-16 21:44:39 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0
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