メッセージ。 - diary

2007-03-02

# あーもう!

なんで、何回も何回も「グラドル"小林ユリ"動画」に引っ掛かってしまうんだ。もう何度も開いて、もう何度もガッカリしたぞ。名前がなんとなくそれっぽすぎる! プンプン!
2007-03-02 22:10:44 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# おいらのZaurus環境

何かの役に立つかもしれないので、ちょっと書いときます。いま電車の中なので、メモ程度に。

まず、「これにすごくお世話になっている」というソフトは、GNU Screen(以下screen)です。sceeenは、端末での作業状態を仮想化できるソフトウェアで、1つのTerminalの中で、複数のシェルを実行できます。また、いったんTerminalを閉じて、別のマシンからsshでつなぎなおしたときなども、直前に使っていた端末での作業状態を復元できます。

たとえばぼくの場合、通勤の電車の中ではTerminalを起動してscreenを起動、その中でWebブラウズしたりコーディングしたりしておいて、自宅などにたどり着いたらTerminalを終了、自宅ではノートパソコンからsshでZaurusつなぎ「screen -x」を起動します。これで、電車の中で行っていた作業の続きからまた始められます。

「screenは端末の作業状態を仮想化できる」と書きましたが、これは端末の作業状態、つまりシェルの起動状態を複数維持できます。Zaurusの場合、メモリが64MBと少ないのでアプリを多数起動するのが苦しいですが、端末の作業状態のシェル(以下ウィンドウ)なら、6枚ぐらい開いても実用に足ります。

ぼくはscreen上で、Emacsとw3mを常時起動しており(これらは結構メモリを食うアプリケーションです)、さらにGaucheで作ったWebアプリケーションサーバー(メモ用のWiki兼用)を起動しています。さすがに、これぐらいアプリを動かしているとギリギリ感がありますが、だいたいこれで、「普通のPCの使い方」に近いことができています。

Gaucheのプログラムを書くときはEmacs上で書いています。ぼくは結構Vimも好きなほうなんですが、Zaurus上でVimを起動すると、起ち上がりが遅くて少しイライラします。そこで、普段はできるだけVimを使わず、「emacsclient ファイル名」などとしてファイルを編集するようにしています。当たり前かもしれませんが、emacsclientの起動は非常に軽いです。

Gaucheでプログラムを書いていると、頻繁にリファレンスマニュアルを見たくなります。とくにGaucheのリファレンスマニュアルは、必要十分な記述がなされており、入門用の学習から普段使いのリファレンスまでを完璧にこなせるので、使わない手はありません。.emacsにちょっと設定を追加して、Emacsの中でマニュアルを読めるようにしてあるので、なお便利です。

Gaucheのリファレンスマニュアルを読むとき、ぼくはいつも、最初に「C-s index」と打ちます。「* Function and Syntax Index::」という章に、Gaucheに標準で組み込まれている関数名がほぼすべて索引されているからです。それっぽい名前の関数を探してマニュアルの本文を読み、探しているものかどうかを調べます。

以上を書くのに、40分ぐらいかかりました。Zaurusのキーボードは多少打ちにくく、また画面も小さいなどやりにくい部分はあります。でも、電車の中でこれだけアウトプットできるというのは、けっこううれしい感じです。
2007-03-02 10:38:44 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-03-01

# 失敗した結婚みたいな会社は、とくに多すぎるということはない

会社経営というのは、本質的に、結婚と同じ難しさがある。「これはうまくいく」とどれだけ確信できたとしても、多くの人が後でつまづく。しかし、それはそういうものだ。人と人とがともに生活するんだから、そんなに何でもかんでもうまくいくわけじゃない。合う部分があれば合わない部分もある。時間が問題を解決することがあれば、時間が問題を引き出すこともある。

会社経営も、本質的に同じ。それは本質的に難しい。うまくいかない会社が多すぎるって? ぼくは、そんなことないと思う。うまくいかない会社や職場の割合は、適正な範囲に収まっている。それは、うまくいかない結婚と同じぐらいの割合で発生する。

失敗を低く見積もりすぎてはいけない。失敗を完全に回避しようと思ってもいけない。失敗は必ず起こる。待ち合わせに遅刻してしまう人がいるのと同じぐらいよく起こる。席替えをしたら隣に嫌いな子がきたってのと同じぐらいよくあることだ。

うまくいく結婚の秘訣が「変わらないこと」だって? そんなこと考えてるから失敗するんだ。でも、そういう間違いはよくあることで、実際誰も彼もが同じような間違いを犯している(ふじさわも含めて)。銀の弾丸は存在しない。
2007-03-01 10:35:19 / ふじさわ / Comment: 1 / Trackback: 0

# 「失敗しない○○」のパラドックス

ただの言葉遊びだけど、「失敗しない○○」を掲げたら失敗すると思う。「失敗しないこと」を目標にして、実際失敗を一度もしなかったとしても、それは「成功」ではない。「失敗しないように、失敗しないように」と思っていたら、視線が失敗を向いてしまって「成功」を見失う。ガードレールを見ながら運転したら、ガードレールのほうに寄っていってしまうのと同じ。「失敗しないこと」が目標なら、「チャレンジしない」という戦略が最も合理的だ。でもそのような行動を取ってしまうことが、最も大きな失敗だとぼくは考えている。失敗はゼロパーセントにならないことをちゃんと認めて、失敗しながら成功を目指すのが望ましい。文字どおり、失敗は成功のもと。失敗しない人は成功もしない。大きな失敗をしたということは、大きなチャレンジをし、大きな学びを得たということ。失敗をしたのなら、あなたは一歩成功に近付いている。次の一歩を踏み出すならば、それは大きな糧になる。
2007-03-01 00:55:07 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-02-26

# 日本の経済競争力についての印象

http://pikapika.to/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2142#Commentへのお返事です。書いていたら長くなっちゃったので独立した文章にします。あと、書いてたらちょっと反論っぽくなってしまったのだけど、ぼくが書いたもとの文章があまりに情報量不足なので、反論もなにも、議論の土台があやふやすぎる状態だったと考えています。それは、ぼくの元文章がいい加減だったからで、申し訳なかったです。

ということで、この文章は元のエントリのその補足的意味合いで捉えていただけると助かります。

さて、まずは「お米もお肉も、もっと自分ちの庭で作ればいいんだよ」と書いた件についてです。

これは……書き方がまずかったですね。あの文章でぼくが本当に書きたかったのは、「日本に住む個人は、自分の家の庭で米や肉を作れば良いのではないか」という文字通りの意味ではなくて、どちらかといえば「国としてもう少し食料自給率を上げるほうが良いのではないか」という意味でした。

データがないので印象論になってしまいますが、最近では中国や韓国が進出してきて、日本の技術が売れにくくなっていますよね。車はまだ利益を上げることができているけど、家電業界とか、造船業界とか、金属加工とか繊維業界などは、一時期にくらべてだいぶ苦しいんじゃないかと。日本は最近まで技術で食べていられたけれども、技術の(経済的)価値が下がってきているとぼくは考えています*1。

で、(この想像が事実だとすれば)どうすればいいか。ここを考えたい。

そこに対する提案の1つとして、食料自給率を上げることを考えています。要するに、工業製品を製造・販売することで収入される外貨が減っているわけだから、減ったものはしょうがないとして、支出を節約しようというのが主たる考え方です。

というのも、現在の日本は食料の多くを輸入に頼っていますよね。たとえばぼくが小学生のとき、加工貿易とセットになって「減反政策」というのを習いました。日本が現在のように食料を輸入に頼っているのは、貿易不均衡を是正するためのバーター取引としての意味合いが強かったはずなんじゃないでしょうか。

でも、実際には2007年の現在、加工貿易は20年前ほどうまくいっていません。貿易摩擦もほとんどないほど輸出が減っているのに、一方で食料の輸入は昔と変わらず続いている状態なんじゃないかなぁと(念のため、具体的なデータは何もなく想像で言ってるのでご注意を)。

もし上記が正しいとすれば、日本という国は今、収入が減っているのに支出は昔のままという状況だと思うんですよね。とすればとるべき道は2つ。収入を増やすか、それとも支出を抑えるか。

支出を抑える、つまり食料自給率を上げるというのは、理想論というほど難しくないんじゃないかなぁと思っているんですよね。というのも、江戸時代までは国内生産だけで食料を自給できていた実績があるわけですし、最近などは減反政策まで施して生産量を抑えていたわけですから*2。

それに、食料自給率を上げるというのは、地方の活性化につながると思うんです。これも印象論ですが、ぼくから見れば現在、地方というのが主立った生産をしていない。あるいは、地方での仕事(農業や漁業を含む)というものが、どうも軽んじられているように感じます。たとえば若者は、地方での仕事に誇りや希望を持てているのだろうかと。

もし国として「食料自給率を上げなければならない」という目標を立てるなら、地方での仕事に、もっと若い人が誇りや希望を持てると思うんですよね。「自分が必要とされている」という実感を持たせてあげることができる。それはまた、国全体として創造性を高めることにもつながると思うんです。

優秀な才能を持っている者が雑事に手を取られるのは好ましくない、という面は確かにあります。でも創造的な仕事って、机に向かってガリガリやっていれば生産性が上がるというわけでもないと思うんですよね。たとえば息抜きに料理をしてみたり、町を歩いてみたり、子供と話してみたりすることでふとアイデアが浮かぶことってあるでしょう。

本当に理想主義的なんですけど、日常とか暮らしというものは、創造に対してかなり良い影響を持っているとぼくは考えているんですね。たとえば、自然言語処理の研究者である新山さんという人は、「自分で食べるものを自分で料理しない人間を信用しない」と言っています。

そういう感覚って、研究とか創造的な仕事にとっては、けっこう重要じゃないかと思うんですよね。てなところで、ぼくは日常とか暮らしというものを、もっと身近に置くというのは、創造的な仕事にとって悪いアイデアではないと思っとります。

まーそんな感じっすかね。思い込みの強い意見ですし、間違ってるところも多いかとは思いますが、何かの参考になれば幸いです。また、ご意見など聞かせてもらえるとうれしいです。

 *1 ただし、中国などが追い上げてきたことが、すなわち日本の技術の経済的価値を落とすものであることにつながるかは、議論の余地があると最近は思っています。というのも、もともと「世界の工場」の役割を担う者としては、ドイツ、日本が圧倒的に強く、工業生産の得手不得手と国民性を切り離して考えないほうが良いかもしれないと思うからです。ということで、長期的なスパンに立つなら、日本の工業生産・技術というのは捨てたものでもないはずだろうと思います。

 *2 逆に、食料自給率を上げないのだとしたら、何か収入を増やす手段を考えないといけないはず。国は、漫画などのコンテンツを次代競争力として考えているようですが、なかなか難しいですよね……。
2007-02-26 01:41:01 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2007-02-24

# つらつらと

池田信夫 blog 日本のソフトウェアはなぜだめなのか
 私は、1980年代にゲームソフトの番組をつくったことがある。「スーパーマリオ」の宮本茂さんと「ゼビウス」の遠藤雅伸さんが登場し、「ポートピア殺人事件」の堀井雄二さん(のちの「ドラゴンクエスト」の作者)のインタビューを没にした、いま思えば贅沢な番組だった。
 
 彼らの印象は、日本社会の本流からはずれた人たちだということだった。有名大学出身の人はまずいないし、大学を中退した人や電機メーカーをやめた人など、どこか傷ついた人が多かった。遠藤さんは自分で「落ちこぼれ」だといっていたし、堀井さんは「ボクは大きくなったら何になるんでしょうね・・・」とつぶやいていた。彼らの話はとりとめなくて編集がむずかしかったが、三度の飯よりゲームが好きだということだけは強烈に感じられた。

ふぅん。そうなのか……。この段については知らなかったなぁ。

あとやっぱり、ゼネコン構造は駄目だよね。ここでもずっと書いてるけど。
その程度のことが、日本の偉い人には分からんのですよ。
日本では、優秀でやりたいことを持っている人が、傍流になってしまう。

それが問題といえば問題。
だけどまぁ、ゲームも漫画もちゃんと世界では評価され広まってるから
ええんちゃう?と思う。どうせ、偉い人にはそれをうまく扱えない。

あと、日本は加工貿易に替わる新しい産業を探しているみたいだけど、
それは必要ないと、ぼくは考えてる。

加工貿易というのは、要するにテレビを売って得たお金で、お米やお肉を買うということ。
それが最近は、テレビが売れなくなってきたので困ってる。
「お米やお肉を買うお金がないよー」って。

でも、お米もお肉も、もっと自分ちの庭で作ればいいんだよ。
昔はそうやって暮らしてたんだから。

確かに、お米やお肉を自分ちの庭で作るようになったら、
いまよりは多少質素な暮らしにはなるかもしれない。
けど、不幸ということはないと思うんだ。
自分が食べるものを自分で作るというのは、けっこういいもんだよ。

日本の悪いところの1つは、分業が進みすぎてしまうことだ。
自分が食べる野菜や肉を、自分で育てて自分で捌くということをしない。
家の中で料理する人が決まってしまって、ほかの人は食べるだけになってしまう。
でも、そんなことをしていると、食べることの意味を忘れてしまう。
みんながみんな、「料理する機械」や「食べる機械」になってしまう。

そんなのはつまらないよね。
たとえば、家のお母さんに聞いてみれば分かる。
「たまにお父さんや子供がご飯を作ってくれたらどう感じますか?」って。
あるいは、お父さんや子供にも聞いてみればいい。
「奥さんやお母さんが病気のときとか、ご飯を作ってあげるのはどんな感じですか?」って。

「ご飯を作るのってこういう気持ちなのか」とか、
「ご飯を食べさせてもらうってこんな感じなんだ」って、
みんなが理解しているほうがきっと楽しいと思うな。
2007-02-24 20:09:00 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2007-02-23

# つらつらと

苦しい。ちょっとフォーマットを変えてつらつらと書いてみる。毒を吐きますので、ここから先よい子は見ちゃだめ。

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キャバクラねぇ……。あまり好きじゃないな。「お金を払わない自分は、女の子に喋ってさえ貰う資格がない」という身分に自分が落ちるみたいに感じてしまうから。

ぼくは夜の街のことをよく知らないけど、たまに街で呼び込みしている人たちを見ると、男も女も若くて、着ている服の造作が大きくて、まるで子供のように見える。その彼らが、粋がってお酒を酌み交わしたり、独自のマナーや美学の世界で暮らしていることを思うと、どうも自分がそこに入っていく気は起きない。

彼らを否定するつもりはなくて、(……いや、本当のことを言えば彼らを否定したい気持ちが自分の中にはあるような気がするけど、ただ、うまく言うならば)自分はそこに快楽を見出せないだろうなと感じる。

だからキャバクラから何か学ぶべきことがあるとしても、なかなかそうする気にはなれない。

認めたくないことだれども、この感じを一言で告白するならば、「嫌悪感」になる。そして、嫌悪の感情が自分の中にあることを見るのはつらい。夜の世界に何が存在するかを、自分は本当には知らないからだ。知らないことを否定し嫌うというのは、自分の心に対して禁じてきたはずのことでもあるし、ドロドロした感情に自分が支配されるのも不快だ。

んー。なんか不快な感じでごめんなさい。消すかも。でもそんな風に、キャバクラとか、夜のお酒の世界というのは好きじゃないのです。ああいうのが「おもてなし」だという価値観を、あまり見たくない。いや、自分だってもてなしとは何かなんて分かっていないんだけど。しんどく感じちゃったのです。
2007-02-23 12:51:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 格言

女の敵は女だ。

自分が馬鹿だと分かっている馬鹿は馬鹿じゃない。
2007-02-23 10:31:54 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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